第7話 トラックをインサルトするな

9月5日


「ねぇ、アシーナさんさぁ、勝負しようよ」


甘利美知留あまりみちるが部活前、シューズを履いているときにそう声をかけてきた。


「先生には私から言っとくからさ、明日、タイムトライアルで」

「なんのためにでしょうか?勝負する必要があるとも思えませんし、大会前ですよ?どうしてもと言うなら支部大会でもいいのでは?」

「いやいや、大会前に白黒つけたくてさ、はっきり言って、あんたうざいし、みんなの士気下げてるの気づかない?このまま支部大会とか、都大会行くの嫌なんだけど。都からはマイルリレーもあるしさ、チームワーク、大事でしょ?」


アシーナは立って見下ろしてくる美知留の顔を見上げた。

___特待生。

一般部員はその地位を過剰なまでに意識していて、ほとんど言いなりに近い。特に短距離女子は2年生の400メートル特待生である斑先輩がほとんど幽霊部員状態。あとは100メートルの特待組である、短距離ブロック長で2年生の森先輩、1年生の久住くすみさんがいるが、練習メニューは別であることが多い。


「ねぇ、瀬島せじま先輩も、朝比奈ちゃんもさ、はっきり言いなよ、迷惑してるって」


美知留は同じ400の選手たちに声をかける。

2人はどきりとした顔をして、曖昧に、


「う、、、うん、、、そうかな、、、」

「は、はい、、、」


と、答えた。


「ほらね。だから、はっきりさせようよ。どっちが正しいかって」

「正しいも何もないです。きちんと練習しましょうって言ってるだけじゃないですか。来道先生が他ブロックに行ってるときとか、森先輩の目がないときにサボるのやめてくださいって」

「そんなこと言ったらさ、うちで一番速い斑先輩が一番サボってるじゃん、それと何が違う訳?あんたは遅いんだから一人でがむしゃらにやるのは勝手だけど、それに私たちも巻き込まないでくれる?」

「それで言ったら、瀬島先輩や朝比奈さんを巻き込んでるのは甘利さんの方ではないですか?」

「あんたね、、、いい加減に、、、」


議論がそうして膠着したとき、


「へぇ~~~、なんかおもろいことしてんじゃん、甘利ぃ」


短距離ブロック長の森詩乃もりしの先輩が美知留の肩を後ろから抱く形で登場した。ポニーテールを高い位置で、これでもかと大きく赤いリボンで括っている。さらに180センチはあろうかという長身の2年生だから、飄々としているもののどこか威圧感があった。


「森先輩、別に私は、、、。アシーナさんがチームの雰囲気を乱すので、だったら、、、」

「あぁ??御託はいいんだよ御託はさ、めんどくせぇ。気に入らないから勝負で片付けるってことだろ?それなら大いに賛成だね、ブロック長として許可するよ」


途端に弱腰になった美知留に対し、森先輩はばんばんと肩を2回叩いて、この話は終わりだと言わんばかりだった。

それから、森先輩はアシーナの方に近づいてきて、顔を近づけろ、とちょうちょいと手招きした。


「森先輩、すみません、ご迷惑をおかけして」

「いやぁ?別に、あいつらが3年引退した後サボってることも、お前がいつも1人で練習してることも知ってる、同じトラックにいて気づかない訳ねぇだろ、馬鹿なのかお前」

「でも、私が周りとうまくやれなくて、、、昔からなんです、1人で突っ走って」

「はぁ、、、。お前さ、この状態をなんでせっちゃんも、ブロック長である私も、それから鹿もほっといてるか分かんねェの?」

「まったく分かりません。正直不信感しかないです。絶対気づいてるはずなのになんで何も言わないのかって。それに今週の土日に支部大会があるのに、今タイムトライアルを許可するなんておかしいです」

「ははっ、やっぱお前おもろいな、謝るのか喧嘩売るのかどっちかにしろよ」

「すみません、、、」


謝るアシーナを横目に、森先輩はその赤いリボンを再度くくり直して、それからゆっくりと背伸びした。


「お前はまだ、トラックに立つ資格がねェ」

「資格、、、ですか?」

「ああ、全然ない。だからまぁ、荒療治ってやつかね?」

「それは、何ですか?」

「お前はやっぱり馬鹿だな。それを自分で知って欲しいから、斑もほっといてんだろ」


そうして、森詩乃はアシーナの頭をぐちゃぐちゃと撫でまわした。


「トラックに立つ資格、、、」


それが何なのか、アシーナには全く検討がつかなかった。


===================================


「大丈夫、大丈夫、私ならやれる。絶対やれる。金城くんもどこかで見てるんだから」


トラックに、誰かが温めたような湿り気を帯びた風がゆるく流れている。

己の心臓の音が一拍ごとに大きくなっていくよう。あたかも踏切前、まだ見えぬ電車の走行音のように、段々と。

これは何でもない、練習の一貫。

そう自分に言い聞かせてみても、どこか一抹の不安が頭から離れない。

__そうだ。

まだ、私は埃まみれの牢屋にいるのだ。

これから、私は醜く、このトラック一周400メートル分、藻掻く。

埃が立って、私はどんどん汚れていく。

その哀れな姿を、弱い自分を、何も成しえない無価値な自分を露呈する。金城くんにも。


軽くジャンプして、手足を震わせる。体を軽くしようとしているのに、どんどん気圧がかかるような重みを感じる。

左足、右足、左足、右足。

自分の足が辿る位置を、右手と左手を交互に出してイメージする。金城くんがやっていたルーティーン。最初はなんで両手を動かしているのか分からなかった。

スタート後の10歩分、そのリズム、距離を手で幻視する。


「オン・ユア・マークス」


森先輩が位置につけと言う。

スタブロを足裏で軽く押して、その反発を確かめる。

いつもと違うスパイクで、若干の違和を感じるが、そんなことは気にしていられない。前傾姿勢になると、学校指定の体育着のハーフパンツも重く感じる。


「金城くんみたいに、走るんだ、私も。前に、前に、前に。負けるな、こんな嫌がらせになんて」


でも、もし誰よりも速く、このふざけているほど真っ青なトラックを一周したところで、私にいったい何が残るのだろうか、何の証明になるだろうか。


「セット」


分からない。

でも、とにかく走るしかない。私にはもう、それしかないんだ。このいつまでもまとわりつく埃を払うためには。


パンっと、号砲が鳴る。

その音は、どこかアシーナにとって叱責のように聞こえた。


=====================================


「、、、、、、、、、、、、、、、、、!!!!」


連坊春子が息を飲むのを、京太郎は隣で感じた。


「あの子、なんて一次加速なのよ、、、!」


美影アナも驚愕を隠せない。

スタート後、体を前傾姿勢に倒したまま加速する30メートル。

運動エネルギーが0の状態から、トップスピードまで持っていく技術。

そこから徐々に体を起こし、リズムよく滑らかに脚を回転させ、速度を維持する。


アシーナはその長い脚を綺麗に折りたたみながら、低く地を這うように加速していく。


「あいつ、体力測定でハンドボール投げ学年1位だったんすよ、多分平均の倍以上は投げてる」

「それ何か関係あるの?肩が良いってことでしょ?」


美影アナの言葉を、春子が受け取る。


「違うわ。全身の柔軟性と、それから何より、地面からの反発をうまく使えるということ。もともとの素養と、それから何か、体操とかそういうのをやっていたんでしょう」

「バレエをやってたみたいですよ」

「ただ、カーブの処理が甘いわ」


確かに、アシーナは4人の中だと一番内側、カーブがきついレーン。

どんなにスタートダッシュが上手くても、400メートルは最初カーブから始まる。

どうにもアシーナは遠心力に負けないようにと、体を不自然に内側に傾けている。が、それに反して全身は外に流れて行ってしまっており、脚もバタついている。


「ねぇ、ゴールド京太郎選手、あの子、なんで100や200じゃなくて400なのかしら。明らかに適正はそっちだわ」


言葉とは裏腹に、春子の声音に疑問の色は薄かった。

まるで、アシーナが400に打ち込むのは当然というように。


バックストレートに入ったアシーナは、カーブから体制を立て直し、ぐんぐんと速度を上げているように見えた。

腕の振りはやはりバタついているが、それでもストライドを大きくとって、まるで氷の上を舐めるかのような推進。


「春子さん、200のタイム、ざっくりですけど26秒代ですよ、、、ありえない、、、これ50秒台、ヘタしたら50秒代中盤ペースですよ」


美影アナの興奮した声と対象的に、春子と京太郎は冷静にアシーナの空気を裂く走りを見下ろしていた。


=====================================


スタートの号砲に叩き出され、アシーナはスタブロを蹴った。

タッタッタッタッという足音と、後方に流れていく青い地面。

それが水面でないことは、硬い感触と膝、骨盤に感じる反発が証明している。


悪くない。

きっと悪くないスタートだ。


そう直観的に思った時、視線が徐々に高くなる。

それは自然と、まるで「さぁ、前を見てみよう」と体が導くように。

一瞬、景色が全て真っ白になった後、他走者の背中が見える。

隣のレーンの甘利美知留は、やはり想定していたよりも大きく見えた。


いける。

このスタートなら、多少前半を抑えて後半に余力を残せるかもしれない。

絶対に勝たないといけないんだ。

金城くんに毎日教わってるんだから。

期待はしていないだろう。でも失望はするかもしれない。

だって、金城くんは、本当は私に興味なんてないんだから。

だから顔だって見せてくれないし、怒ったり、厳しくすることもない。

それは期待していないから、興味がないから。


すでに呼吸が苦しくなって、軽くなっていく頭で思う。

私はわがままだ。

母に厳しく管理されることは嫌で、金城くんにはもっと真剣に接して欲しいと思う。


バックストレートに入る。

大事なのはリズムと、腕の力を抜いて、スピードに乗ること。

ただ、そこまで近づいていたはずの甘利さんとの距離が縮まらない。

いや、それでいいのだ、私は第3レーンで向こうは4レーン。

この後のカーブで追いつけばいい、、、。

でも、私のタイムと、彼女のタイム差は?

私は明らかに前半型で、甘利さんは前後半に差がないイーブン型。

このバックストレートを彼女より速いタイムで抜けないと勝ち目がない。

もっと上げないと、もっとリズムに乗って、あの日の金城くんのように、、、!


そう思った時、目の前にはすでにカーブが近づいてきていた。


====================================


アシーナがバックストレートを抜け、第3コーナーに入る。

ただ、その時点で勝負は決していた。

200のタイムに驚愕を示した美影アナが、その直後すとんと腰を下ろして、


「脚が、止まってる、、、なによ、、、ただ脚の速いシロートってこと?」


400には、いわゆる前半型、イーブン型、後半型がある。

前半の200メートルと後半の200メートルで分け、前半が得意なタイプと、後半が得意なタイプ、それから前後半で差があまりないイーブンタイプ。


「あの子は明らかに前半型、だけどはっきり言ってその区分はあまり意味がない。結局は前後半であまり差がないように走ることが大事なんだから」


春子の呟きに、京太郎も頷く。

そう、どんなにスタートが速くても、前半と後半であまりにも大きな差があったら意味がない。ここで言うその区分は、せいぜい後半より前半の方が1秒~3秒速いという程度だ。

だが、今回のアシーナの場合、おそらく10秒以上差が出るだろう。

はっきり言えばレースにすらなっていない、お粗末な配分だ。


アシーナの脚が泳ぎ、腕が宙を掻く。

苦しそうに、まるで底の無い海中に溺れていくように。


「あれ、オールアウトなんじゃ、、、」


美影アナが心配そうな声を出す。

確かに、アシーナはもうほとんど歩くようなスピードになりつつあった。

なんとか第4コーナーを抜けるとき、異変は突如として起こった。


「アシーナっっっ!!!!!!!!!!!!」


アシーナの体が、ラストストレートに入るか否かのとき、急にガクっと地面に落ちた。まるで海中から蛸の脚が伸びてその体を引きずり込んだかのようだった。


オールアウト?

違う、今のはもっと、ぬかるみに足が嵌ったような危険な転び方だ。


後で振り返ってみても何でそんなことをしたのか分からなかった。

傾斜のある観客席の中段ほどにいた京太郎は、転げ落ちるように階段を下りて、


「!!!!!!!!!!京太郎選手!!!!!!!!!!!!」


春子の叫びに、なんだよ、こういうときはゴールド付けないのかよ、と脳内で突っ込みながら、空に浮く自分の体を冷静に受け入れていた。

観客席からトラックのある地上までは、3メートルもなかっただろう。

ただ、着地するまでの時間は無限のように感じられ、トラックのコース上で蹲っているアシーナがいつまでも動かない北極星のようにそこにあった。


====================================


第3コーナーに入った瞬間、急に脚が軽くなって、軽いのに動かなくなっていた。

それ自体は不思議なことではない。

人間が全力で走れるのは、せいぜい10数秒。多少スタートを抑えて走ったとはいえ、30秒が限界だろう。脚がなくなってからどう走るか、その技術や能力が400メートルの才能なのだから。


ただ、もう本当に動かない。

どうやって自分が走っているのかも分からない。

空転する感覚。

他の3選手は、さっきまであんなに近くだったのに、もう遠く、どんなに手を伸ばしても届かない。

いつもはもうちょっと足が残っているのに、、、抑えたつもりだったのに、、、。


また、私はうまくできなかった。

もっと前半を抑えて走ればよかった。

もっと走り込んでいれば、後半もこんな体たらくにはならなかった。

もっと頑張っていれば、、、。

もっと普通に、やっていれば、、、。


そんなことを思いながら、気づけばもうすぐコーナーを曲がり切ることに気づいた。

自分がどんなフォームで走っているのか分からない。

きっとすごく不格好だ。

理想とする金城君の走りとは似ても似つかない。

どこにも行けない、閉じ込められたままの私。

ああ、こんな姿、金城くんに見られたくなかったな。

いや、昨日の今日だから来てないかもしれないな。

そんな淡い期待をしたとき、右目の端に金髪の男が映った。


「、、、なんで、、、あいつがいるのよ、、、」


そんな言葉が口からポロリと出た時、体から骨がなくなったように、右脚から崩れていくのを感じた。そうして無防備に地面に叩きつけられるとき、なぜか昔のことを思い出した。

おぼろになっていく視界の中で、その青年が宙に浮くのを見ながら。


あれは、中学3年生のときの合唱コンクールだった。

女子校の中高一貫校に通っていたアシーナは、例のごとく、クラスのまとめ役として指揮者に選ばれた。


「最優秀賞を目指しましょう」


そう意気込んで臨んだが、すでにアシーナは孤立していた。

朝練には、結局最後まで誰も来なかった。


「なんで練習に来ないんですか?」


と、リーダー格のクラスメイトに詰め寄ったが、


「え、アシーナさんが集合場所間違えたんじゃない?みんなちゃんと集まってたけど?ちゃんとしてよね、指揮者なんだから」

「私が集合場所を決めたんだからそんなことあるはずないでしょ!?ふざけるのも大概にしてよ」

「そうやっていつも自分が正しいみたいに言うのやめてよね」

「そういうわけじゃ、、、」

「点数稼ぎかなんか知らないけどさ、こんなこと頑張ってなんになるわけ?」

「なんにって、、、頑張るのが普通でしょう?学校の行事なんだから」

「普通ってなに?、あなたの普通を押し付けないでよ」


結局、まともな練習は音楽の授業中にしかできなかった。

本番当日、私はそのリーダー格のクラスメイトに頭を下げた。


「私に至らないところがあったこと、謝ります。だから、今日はみんなで頑張りましょう」


そう言った時、そのクラスメイトは笑って、


「もちろん、私こそごめんね。アシーナさん、なんかいつも距離がある感じで、馬鹿にされているような気がしたから、意地になっちゃって」


ああ、最初からこうしていれば良かった。

これからはそうしよう、きちんと、自分の非を認めて、話せばいいんだ。

そうしてクラスのみんなと眩しすぎる照明の膝下しっかに出て、私は指揮台に立つ。

大丈夫。

私は、こうして周りと折り合いをつけてやっていける。

母のように周囲を威圧して従えることもなく、きちんと互いを理解し合って。

普通に。


そうして指揮棒を振り下ろして、ピアノの伴奏が流れる。

旋律が、煌びやかな光に実体を伴ってホールに満ちていく。

ただ、その旋律はホールの壁にぶつかってあっけなく崩れた。

クラスメイト達の口は一向に開くことも無く、ただピアノの音だけが流れ、アシーナの手から指揮棒が落ちた。


「えげつなぁ」


という、観客席の声だけが、アシーナの耳に擦過傷のように残った。

徐々にピアノの音も小さくなっていって、静寂がこんなに鋭利なものだということを、アシーナはその時、初めて知ったのだった。


今も同じだ。

__静寂。

何も聞こえない、自分の荒い呼吸すら。

痛い、痛い、、痛い、、、!

もう1歩も動きたくない。

進みたく、、、ない。

進んでも進んでも、私は何の証明もできないのだから。


振り返れば、置いてきぼりになっていた過去の自分がいる。

小さい、小さい自分が問いかけてくる。

まるで母のように。


「なんでそんなに一生懸命に走っているの?」

「どういう気持ちなの?」

「その行動に意味はあるの?」

「それはどんな結果を生んだの?」

「あなたはそれによって何を示したいの?」


分からない。

何も、分からない。

自分の立つべき大地がどこにもない。

賞賛が欲しいのかも、何か誇れるものが欲しいのかも、確固としてゆるがない自分が欲しいのかも、何も分からない。


「普通に___生きなさい」


ああ、そうだ、、、もう、私は、、、《どこにも行きたくない》。


=====================================


たけしっ!!手を貸せ!保健室に運ぶぞ」


京太郎はじんじんと痛む足の裏など意に介さず、近くでレースを見ていた桃原武ももはらたけしに声をかける。


「おう」


と、武と呼ばれた肩幅の広く、体格の良い青年が驚きもせず駆け寄る。


「これ、、、、、まじか、、、」


京太郎はアシーナの右足、いつもと違うスパイクに目を移す。

___紐が、切れてる。

おそらくサブのシューズだろうが、あまり古そうにも見えない。

一番負担がかかる、足首にもっとも近いところの紐が綺麗に切れていた。

もちろんオールアウトに近い疲労もあっただろうが、これでバランスを崩して倒れたに違いない

普通こんな切れ方はしないんだ。

それに切れていない他の部分の紐にも何か所かハサミで入れたような切れ込みがあった。

紐が交差する、その陰になる部分だけに。


「あれぇ、大丈夫?アシーナさん。私が保健室まで付き添おうか?」


ゴール付近から戻ってきたのか、汗を肩で拭いながら甘利美知留が甘ったるい声を出す。

その声が、京太郎の張り詰めていた神経に触れた。


「てめぇ_______________」

「甘利、お前はレース後だ、最後流していたとはいえ、クールダウンした方がいい。俺と三橋で対処する」


桃原武が、その大きな体躯で京太郎と美知留の間に入った。


「そう?ま、それならいいんだけど、アシーナさんにはお大事にって伝えておいて」


そう言って、一仕事終えたかのようにうんと背伸びして、美知留はその場を去って行った。


「京太郎、とりあえず来道先生と保健室の先生呼んでくるぞ、頭を打ってるなら動かさない方がいい。話は後だ、まずは落ち着け」

「、、、あ、、、ああ、分かった」

「分かってないだろ、新城さんの手、握り潰す気か」

「お、、、おお、すまんアシーナ、、、」


京太郎はパッと手を離す。

そういえばプールの時も同じように手を握ってしまっていた。


「頼む、たけし。どの口がって感じだが」

「お前のためじゃない、同じ部活の新城さんのためだ」


そう言って武はだっと走っていった。


「さすがに速ぇな、あいつは」


京太郎はそうして、アシーナの苦しそうな顔を見つめる。

流れる汗が涙のように見えて、ポケットから出したハンカチで拭ってやった。


=====================================


「あの子、大丈夫でしょうか」


猿石美影は担架で運ばれていくアシーナを見ながら言う。


「頭を打ったかもしれないわね、それから足、捻挫程度ならまだ御の字だけど」


連坊春子が汗の噴き出る額をそのままに答えた。京太郎が観客席から飛び降りた後、すぐに校舎に向かって走り、保健教諭を呼んで来たのだ。

そして、スカーフの端を弄りながら、どこか思案げにトラックを眺める。まるで先ほどのレースを再生するかのように、スタート地点から。

美影は長年の付き合いから、そのスカーフを弄る癖が、何か面白いものを見つけたときのものだということを知っていた。


「春子さん______」


と、美影が春子に声をかけた時、


「おぉ、春子のおばさんじゃん、おひさー」


短距離女子ブロック長の森詩乃が、ポニーテールを揺らしてスキップするように2人のところに近づいてきた。


頽馬たいばの森、あなたの監督不行き届きですよ。まぁ来道も含めて」

「春子のおばちゃん、その渾名まじでやめてください。女子高生スプリンターになんで妖怪の名前つけるんすか。てかなんで分かるんすか」

「雰囲気がただのタイムトライアルじゃないことくらい分かるわよ、何年大学の監督やってると思ってるの」

「ま、でもどうすか?ムカついたでしょ?」


森詩乃の発言に、美影は首を傾げるしかなかった。

ムカつく?

なんでそんな感想が出るのだろう。


「まぁ、、、そうね。あの子は、トラックに立つ資格がない」

「うぇーい、私と同じこと言ってるぅ。さっきあんなに自分の経歴誇示したのに、しょっぱい女子高生と同じこと言ってるぅ」

「うるさいわね」


美影はそこでもう我慢ならないといった感じで、


「ちょっとちょっと、2人だけで分かり合わないでくださいよ。森選手、何でトラックに立つ資格がないんですか?レースは稚拙でしたけど、光るものはちょっとだけあったというか、、、」


そこで、森詩乃は自分のポニーテールを梳きながら、


「そこですよ。稚拙なレース。本当に稚拙なら全く問題ないんですよ。あいつの前半200、何秒でしたか?」

「えっと、26秒台、まぁ手元のストップウォッチだったから、27秒前後かもしれないけど、、、」

「あいつなら、24秒、少なくとも25秒台でまわれる」

「いやいやいや、それ、インターハイ200決勝出れますが?」

「いやいやいや、どう考えても抑えて走ってたの分かるでしょ、美影アナ」


詩乃の眼光の鋭さに、美影は唾を飲み込んだ。


「それって、本当は200で勝負するべきなのに、400に拘ってるから、資格がないってこと?」

「違いますよ。から、ダメなんですよ」


美影はもう訳が分からなかった。

すがるように春子の顔を伺うと、仕方ない、という風に肩を落として、


「まぁ、これはわがままみたいなものなのよ。頽馬たいばの森がもし、あの子の立場ならどうする?」


春子の問いに、間髪入れず詩乃は答えた。


「そんなの200メートルぶっぱで飛ばすに決まってる、脚が千切れてもね。その後は意地だよ意地。そもそも互いの自己ベスト比較すれば勝負なんて見えてる。だったら自分の持てる限界を出して、相手のペースを乱すことが唯一の活路だろ?まぁ、400なんてやったことないから知らんけど」

「そう、それしかないのよ。なのに、あの子は少しだけ入りを抑えた。正気だった。スタートから立ち上がって、いいスタートだ、相手が近い、このままのペースで、あるいは余力を残してと思った。バックストレートでいくらペースを上げたところで、その一瞬の弛緩は致命的。体はその甘い思考にどうしても従って動くから」


美影はその答えに、それでも納得ができなかった。


「でも、ペース配分は大事なんじゃないですか?」

「それが勝つために、いや、1秒でも速く走りたいという思いから来る、ある種本能的な計算なら良いんだよ。でも、おそらくあの子は、違うものを見ているんだろうね」


春子はもう保健室に運ばれてそこにいないアシーナの残像を見るように言った。


「走ることに狂わないといけないよ。そこから何かを得たいとか、何かを証明したいとか、それじゃだめなんだ」


最後の最後まで、美影には理解できない話だったが、きっとそこに惹かれる何かがあることだけは確かに分かった。


































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