第3話 悪魔との同居

 どさり、と玄関口にて、天使は顔面から落とされた。


「勝手にかついでおいてもっと丁寧ていねいにしろよ……」


 悪魔は天使のうらごとは聞こえていないふりをして部屋に上がっていく。

 まるで悪魔が住んでいるとは思えないあまりに清潔せいけつすぎる空間。天使は床に伏せたまま呆然ぼうぜんとして見上げる。白い壁に白い家具。黒に満ちた全身からは想像もつかないほど明るい部屋だ。

 廊下にバスタオルを敷くと悪魔は軽く手招きをした。


「廊下れると困るのでバスタオルの上踏んでください」


 仕方なく誘導ゆうどうされるがままたどり着いたのは、これまた清潔な洗面所だ。天使は指さされた扉の先の意味が分からず首をかしげた。


「天界は大衆たいしゅう浴場よくじょうでしたっけ」


 悪魔にうながされるまま扉を開くとそこはコンパクトな浴室だった。


「おおー……って、風呂なんか入ったことないんだけど」

「天界では風呂は娯楽ごらくらしいですね。でも地上じゃそんなこと言ってられません。必須ひっすです」


 濡れた一枚布と一緒にぐいぐいと押し込められると、悪魔はたなに並んだポンプを指さした。


「右からシャンプー、コンディショナー、ボディーソープです。プッシュ回数に制限をつけるわけじゃないですが、使い過ぎないようにしてください」

「布は」

「布は水で一回流したら絞って、その辺りに放っておいてください。後で回収します」


 それでは、と悪魔が扉を閉めることによって、浴室と洗面所が断絶される。


 天使はくもり一つない鏡の中の自分と目を合わせてため息をついた。初めて見た自身は想像以上に幼くて、人間でいうところの十二歳程度に見える。もちろん、水面みなもに映った自分を見ることは少なくなかったが、はっきりと映し出されるとなんだか複雑な気分になった。

 悪魔が意地でも保護すると言ってきた心情が分かる。


 とにかく天使は手探てさぐりで蛇口じゃぐちをひねるとシャワーの水を出すことに成功した。


「つっめた!」


 ただ、出てくるそれが冷水だということには気づけなかった。




「あくまー? 出てきたけど……」


 布で水気はふき取って、よくわからない形状の服を何とか着込み、やっと洗面所を脱出した。

 天使の正装は裸に一枚の布と言っても過言ではないので、貫頭衣かんとうい以上の服を着たことがなかったのだ。これで合っているのかわからないが、ひとまず家主やぬしの姿を室内に探す。


「あ、服は着れたんですね。よかった」


 悪魔は奥の部屋から出てくると、天使の頭の先からつま先までをながめてうなずいた。


「ズボンのひもゆるいですか。すそまくりましょう」


 天使はズボンの腰に通された紐を掴んだままでいた。悪魔は天使から二本を受け取ると手際てぎわよく蝶々ちょうちょう結びにする。


「裾は自分でできますよね」

「それくらいできるわ!」


 蝶々結びができないのは機会がなかったからだ。捲るという単純作業くらいできる。悪魔の視線が痛いが、天使はなんとか転びそうになりながらも両足とも裾を踏まないようにすることができた。

 座ってもいいのに、という一言は言わないでくれるらしく、悪魔は黙ってキッチンの方に姿を消した。

 作業音がしばらく続いたのちに悪魔の声が天使を呼ぶ。


「天使って食べ物とか食べるんですか」

「食ったことないな。無理ではないだろうけど」


 天使にもちゃんと消化器官はある。


「地上にとされたのに暴飲暴食は働いてなかったんですか?」

「食べ物自体がないんだよ」


 悪魔は何か言いたげに視線を向けてくるが、天使がにらみ返すと一言「そうですか」としか言わなかった。もしや天使たちが知らないだけで食べ物はあったのかもしれない、と今更いまさら思う。


「一応誓約せいやくを聞いてもいいですか?」


 誓約、と聞いて天使は何のことか分からなかった。しかし少し考えて、落ちる直前神様が何か言っていたのを思い出す。


「……『七つの大罪を犯さず、真っ当に過ごすこと』」

「じゃあ、激しい飲み食いがダメってだけですね」


 悪魔がキッチンから持って来たのは。いい匂いのする何かが盛り付けられた皿がいくつかと、色のついている水が注がれたグラスを二つ分だった。片方は泡の立つ黄色い飲み物と、もう片方は淡い色の飲み物。


「なんだこれ」

「ビールとリンゴジュースです。子供にはこっち」

「三百だって言ってんだろ」


 リンゴジュースを渡されて天使はしぶしぶ受け取りながら口をつける。

 甘い。美味おいしい。

 その二文字が頭の中から離れなくなった。


「……今日堕天するかも」

「ジュースは一日一杯だけにしましょうね。それからこっちはチンジャオロースとチャーハンです」


 取り皿とはしを差し出されて、天使は知らずうちに両手を合わせる。


「いただきます」


 悪魔が何か変な顔をしたので箸を持つ手を止めると、悪魔はどうぞ食べてくださいとだけ言った。

 チンジャオロースと言われた緑と茶色はピーマンと牛肉らしい。チャーハンは米だと言った。米と卵とその他たくさん。渡されたレンゲで食を進めていると、悪魔が何も手をつけずに見つめてくるのに気が付く。


「ん、食わねえの?」

「……。いえ、よく食べるなぁと思って」


 悪魔は気を取り直すと両手を合わせていただきますと言った。

 よくよく聞けばチンジャオロースもチャーハンも中華料理の仲間らしい。日本にいるのに初めての食事が他国の料理だろうとは思っていなかった。




「いくつか決めておきましょう」


 悪魔が持って来たのは大きな白紙を何枚かと、黒の油性ペンだった。


「何を?」

「この家のルールです」

「別に住むなんて言って……」

「『衣食』、借りてるのにですか?」


 天使が閉口するのを確認した悪魔はペンのキャップを外して、紙を目の前に寄せる。


「じゃあ、まず。天使さんには働いてもらいます」

「人間には見えないのにどうやって……まさか、悪魔の巣窟そうくつに?」

「そんなわけないでしょう。ちゃんと人間がやってるファミリーレストランです。知り合いに融通ゆうづうの利く店長さんがいるので、手っ取り早く皿洗いの方法を学んでください」


 箇条かじょう書きの一番上の点に『働くこと』と書き加えられる。


「それから不用意に外出しないこと」


『一人で外に出ない』


「ぼく、やっぱり子供だと思われてるよな?」

「もちろん、誰かが訪問してきても応答しない。居留守いるす決め込んでください」


『チャイムに返事しない』


 天使のぼやきに応えられることはなく、もうすでに三つ目が書き加えられていた。


「あと家事手伝いは積極的にお願いします」

「わかった」

「あとは……暮らすうちに決めていきましょう」


 悪魔がペンのキャップを閉めるの見届けて、天使は口を開く。


「なんでこんな良くしてくれんの?」


 悪魔は「なんででしょう」とつぶやくとななめ上を見上げてあごに手を添えた。


 お人好しもお人好し、見ず知らずの天使に衣食住を分け与えて、こいつは本当に悪魔なのかと尋ねたくなる。

 天使は心を許しつつも勘ぐっていた。それも、天使は初めて悪魔という物に出会ったからだ。悪魔の獲物えものは人間だが、気まぐれに天使も標的にされては困る。


「悪魔としての義務、でしょうか」


 だからか、この回答は天使を困惑させるのに十分だった。


「ぎむ?」

「はい。そのようなものと思っていただければ」


 天使は『義務』という言葉の意味がよく分からなかった。

 しかし、悪魔はこれ以上答えたくないのか紙を持って立ち上がると、テレビの上のスペースにテープで貼り付けた。その手で奥の部屋を指さされて天使は首をかしげる。


「寝ましょうか」


 天使が素直に頷くと、なぜか悪魔はほっとした顔をしていた。

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