第6話 悪魔
翌日。
西島と葉月は、新堂兄弟の母、奈々未の実家へと向かった。
奈々未の実家は、高知市の中でも西に位置する高知大の近くにある古い生花店だった。
昔は真っ白だったのであろうタイル張りの外観で、入り口の上には『フラワー・せら』とクリーム色の地にグリーンで書かれた看板が掛かっている。
店内は少し薄暗く、青い花の匂いが充満しているものの、品ぞろえは悪い。陳列棚は隙間だらけだった。
西島が東京の警察だと名乗ると、奈々未の兄だと言う、七十前と思しき店主は少し嫌な顔をしたが、直ぐに店の奥にある茶の間へと二人を上げてくれた。
「東京の警察が何の用やか?」
世良真一と名乗った奈々未の実兄は、妻に茶を用意するように言うと、首のまわりを赤いタオルで拭った。
顔には深いシワが刻まれ、痩せた体にヨレヨレのステテコと肌着。その上にエプロンと言う姿からも、もう既に商売への意気込みは消え失せていることが窺える。
通された茶の間は店内と同じくらいに薄暗く、ほんのりと煙草の匂いがした。
部屋の真ん中には古い卓袱台と、その周りに普段夫婦が使っている物であろう、薄っぺらいく、少し湿気た座布団が二つ置かれている。
真一はその二つを客人に差し出すと、自分は畳の上にどっかと胡坐をかいた。
「東京で起きた事件で、奈々未さんと拓哉さんが、現在重要参考人となっています」
西島の言葉に、真一は、「ハァ?」と言うと眉間に皺を寄せる。何を言っているんだと言わんばかりだ。
「二人とも、ずっと昔に死んじゅう。関係ない」
西島はじろりと睨まれたが怯まず言った。
「存じ上げてます。しかし、彼らの人生が大きく事件に関わっている可能性があるんです」
「もうやめてくれ!」
真一は卓袱台を平手で打った。
「なんじゃ、いつまでもいつまでも……。奈々未と拓哉が可哀想やき!」
部屋の中がしんとし、葉月は肩を丸め小さくなった。
真一の後で妻は茶を盆にのせたまま立ち尽くしていたが、小さく「お父さん」と言うと、腕を組んでそっぽを向く真一に代わり、「なんでしたかね」と愛想笑いを浮かべながら茶を置いた。
西島は静かに頭を下げると、彼らの人生について聞かせて欲しいと伝えた。
「別に、なんも特別な事なんかなかった。奈々未は普通の娘やったんや。東京であんな事件に遭うまでは──」
真一が言う事件とは、新堂の父、雅哉が横井儀一に話した事件だった。
しかし、横井儀一もその詳細を知らなかった為、西島も初めて聞く話だ。
「どうか、聞かせて下さい」
西島は深く頭を下げ、その隣で葉月もそれに倣った。
真一は重い溜息をつくと、二人に頭を上げるように言い、そして妻の淹れた茶で喉を潤した。
「奈々未は大人しい娘やったが、とにかく洋服が好きでな」
そう前置くと、年老いた兄は、妹の悲しい過去を話し始めた。
「その道の有名な専門学校がある言うて、ワシらの反対を押し切って東京に行った。デザイナーを夢見てな。
ほんで、そのまま東京で就職したがじゃ」
* * *
一九八八年──。
それは、奈々未と新堂雅哉が八か月ほど前の事だ。
ある晩、奈々未は残業で遅くなり、急ぎ自宅へ向かっていた。
特別用事があったわけではないが、ここ最近誰かにつけられているような、酷く落ち着かない日々を送っていたせいだった。
その日も電車を降りて自宅へと向かう道すがら、奈々未は次第に距離を縮めて来る足音が恐ろしくなり、角を曲がったところで全力で走った。
追ってくる影から逃れようと、はぁはぁと息を切らし、全力疾走で痛む胸を押さえ、暗がりを必死に走って横道へ逃げ込む。
だが、それがいけなかった。
そこは袋小路となっていたのだ。
逃げ場を失ったと気づいた奈々未は愕然とし、慌てて引き返そうと振り返った瞬間──。
奈々未は黒い影に喉元を押さえられた。
壁に押し付けられ、何度も激しく顔を殴られ、声を出すこともままならなかった。
遂に意識が遠のいていく奈々未の身体は、ズルズルと闇の中へと引き摺られて行った。
* * *
真一は肩を震わせると目元を拭い、掠れた声で絞る様に言った。
「奈々未は……悪魔に襲われて孕んだ。それが拓哉と──」
「文哉さんですね」
真一は盛大に鼻を啜ったが、直ぐに葉月が差し出したティッシュに手を伸ばし、くもぐった声で礼を言いながら今度はかんだ。
「犯人は野放しのままじゃ。奈々未が……、奈々未がどれだけ苦しんだか──」
しかしそこまで言ったものの、喉が引くつくような嗚咽が漏れ、言葉にならない。
妻は夫の背中をさすりながら、前掛けで目元を押さえた。
葉月は西島の隣で、気まずそうに視線を落としている。
西島は、真一が落ち着くのを待って聞いた。
「奈々未さんはその後、神父の新堂雅哉さんとご結婚されましたね」
「うん。でもあんたら、二人が分かれたん、知っちゅうがやろ」
西島は頷いた。だが、それは書類上の理解でしかない。
「私は、とても強い絆で結ばれていたと伺っています。そんな二人がなぜ──」
「拓哉や。──いや、違う」
真一は自らの言葉を打ち消し、そして続けた。
「拓哉じゃない。あの男の──悪魔の血がいけんがじゃ。だから拓哉は怪物になったがよ」
真一は拓哉を『怪物』と称した。つまり、彼も拓哉の異常性を知っていたと言う事だ。
「雅哉君は神父やったき。そがなとこに悪魔の子を置いちょけん。奈々未はそう言うて拓哉を連れて出たがじゃ。
丁度おんちゃんの家が空いたから、そこに住むき言うて。
ここにおったらワシらにも迷惑が掛かるき言うて」
なるほど。
西島は合点がいった。
拓哉は東京にいる時点でその片鱗を見せていた。その為、奈々未は拓哉を連れて東京を出たのだ。
しかし──。奈々未はひとりで全てを抱えてしまったのだろうか。
そう思った瞬間、西島の口からするりと「雅哉さんとの交流は途絶えたんですか?」と出ていた。
真一は静かに首を振った。
「嫌いになって別れた訳やない。二人はずっと交流を続けちょった。奈々未の携帯にも、そがなメールが残っちょったと、警察も言うてたぜよ」
遺書らしきものが残っていたと言う携帯電話だ。
その時、葉月が膝を詰めた。
「あの! その携帯電話は、残ってるんですか?」
「ある」
答えながら首にかけていた赤いタオルで顔を拭う。真一の鼻は、タオルと同じくらいに真っ赤だった。
「大事なものだとは思いますが──」
葉月は真一の顔を真っすぐに見ると、深く頭を下げながら言った。
「預からせてください!」
「ええよ」
「えっ?」
存外にあっさりと承諾が下り、葉月はきょとんとしている。
真一は立ち上がると、茶の間の片隅にある古びた茶箪笥からピンクベージュの折り畳み携帯電話を取り出し、葉月に差し出した。
「……ワシらも年やき、いずれ処分するしかないと思っとった。好きに使ったらええよ」
* * *
西島と葉月は、世良夫婦に丁寧に礼を言うとその場を辞した。
妻は店先まで出て見送ってくれたが、真一は出て来なかった。
「大丈夫か?」
店を出てから何も言わない葉月に、西島は歩みを止めると声を掛ける。
葉月は頷き、小さく「奈々未さん、辛かったでしょうね」と言った。
「そうだな」
恐ろしい目に遭い、苦しみ、やっと掴んだ新堂との幸せな生活に、再び悪魔はやって来た。
彼女の絶望は如何程だったか──。
葉月はきっと同じ女性として、西島以上に彼女の苦しみに共感しているのだろう。
西島は戸惑ったが、そっと手を伸ばすと、ぎこちなく葉月の頭を撫でた。
「お前は──、俺が護るから」
「え……」
途端、葉月が西島を見上げる。
西島は目が合った途端、恥ずかしくなって視線を逸らした。
「ほら、行くぞ」
歩き出す西島の手に、葉月の手が触れた。
そしてそのまま指を絡めて来る。
「おっ、おい──」
「離さないで」
葉月は西島の手を握る指に力を込めた。
「ここに、私たちの事を知ってる人なんかいません」
そう言うと、葉月は動揺する西島に体を寄せて来る。
ふわりと、葉月の髪からシャンプーの匂いがした。
「お願い。ちょっとだけ……。
西島と葉月は、手を繋いだまま、町の中を歩いた。
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