第4話 癒しの場所

 その日の晩、中目黒の自宅へ向かっていた西島は、中目黒マリア教会の前で足を止めた。

 ここは24時間聖堂に入ることが出来る。

 暫く迷ったが、少し瞑想して、ささくれた心を静めてから帰ることにし、西島は門扉に手を掛けた。

 森の中に作られた、石畳の細い小径を通り、木製の大きな扉を開く。

 幾つものベンチ様の椅子に挟まれた身廊を歩いて、西島は祭壇に一番近い席に腰を下ろした。

 静かに深く息を吸うと、仄かに香の匂いがした。

 以前、この香について、神父の新堂に聞いた事がある。

 この香は『フランキンセンス』と言って、樹脂から抽出される香料なのだそうだ。

 ウッディーで甘く、少しスパイシーな香りが特徴のこの香は、鎮静作用があるとされ、祈りや瞑想の際に心を落ち着かせる効果あると言う。

 不思議なもので、何度か深呼吸を繰り返すうちに、少し落ち着いてきたように感じた。

「はあぁぁぁ……」

 椅子に背を持たれさせ、天井を仰ぐと、なんとも情けない声が出た。

「おや? 西島さん?」

 聞き覚えのある声に振り返る。そこには私服姿の新堂が立っていた。

 私服のせいで、随分と雰囲気が違って見える。

「新堂さん……」

「随分お疲れのように見えます。……お辛いんですね?」

 言いながら、新堂は身廊を挟んで向かい側の椅子に腰掛けた。

 ここで「大丈夫か」と聞かれたら、西島は間違いなく大丈夫だと答えてしまっていただろう。こう言う細やかなところが、新堂の凄いところでもある。

「お恥ずかしながら、今日は酷く打ちのめされまして」

 なかなか人に対して素直になれない西島であるが、不思議と新堂には本心を打ち明けることが出来る。

 神父には守秘義務という物があるが、それでも西島は、公にされない情報や捜査の進行に関わる事項については触れずに、自分が5年前と同じ状況に陥っていることを話した。

「そうでしたか……。それはお辛いですね」

 新堂は眉尻を下げると、そっと西島の肩に手を伸ばした。

 人の手の感触が心地良い。

 怪我をした時の処置を『手当』とはよく言ったものだ。心の傷が放つ痛みが楽になっていく。

 5年前、教会の桜の木の下で出会ってからずっと、新堂はいつでも西島の傷に寄り添ってくれる。

 孤独な西島は、それだけでも充分に癒された。

 

 *   *   *

 

「有難うございました」

 そう礼を言って、教会の門を出た途端、西島はうわっと声を上げた。

 葉月が門柱に寄りかかって立っていたせいだ。

「くっ、久住……。なんでここに……」

「竹さんが……、今日はきっとここだろうって」

 西島は思わず舌打ちした。

 以前、酷く心配する竹山に、何度かこの教会が自分の精神安定剤なのだと話したことがある。それを葉月に話したのだろう。

「彼女さんですか?」

 新堂が門から出て来て、人好きのする笑顔で葉月に会釈をする。

 西島は慌てて否定した。

「違います! 同僚です!」

「そんな全力で否定しなくてもいいじゃないですか! 心配したのに。ねぇ?」

「うるさいな。つか、新堂さんに馴れ馴れしくするな!」

「あ、シンドウさんと仰るんですね! 警視庁の久住です!」

「新堂です」

 2人はにこにこと挨拶を交わしている。

 西島は何故だか気恥ずかしくなった。

「それじゃあ、新堂さん、また! ほら、行くぞ久住!」

 そう言って葉月の腕を引く。葉月は新堂に手を振ると、西島の横についた。

「優しそうな神父さんですね」

「まあな」

 西島は自宅に向かって歩いていたが、ふと足を止めると葉月を振り返った。

「久住。お前、飯食ったのか?」

 

 *   *   *


「美味しい!」

 葉月はレンゲを口にした途端目を丸くした。

「だろ」

 自分の店でもないのに、思わず頬が緩む。

 西島が葉月を連れて来たのは、目黒川を渡ったところにあるラーメン屋だった。

 中国人の料理人が作るラーメンは日本の物と少し違うが、クセになる。西島のアパートから少々離れているが、この味が忘れられず、幾度となく足を運んでしまうのだ。

「メニューも豊富ですし。迷っちゃいましたもん」

 そう言うと、葉月はメニューを眺めた。

 ラーメンは種類が多く、他にもチャーハン、餃子だけではなく、点心や炒め物、デザートまである。

「で、迷った割に醤油かよ。色々あるのに。冒険しねぇな」

「西島さんだって塩じゃないですか」

「俺は色々試した上で行き着いたんだよ。チャーハンもあるし」

 向かい合い、顔を突き合わせ、くだらない事を話しながらズルズルと麺を啜る。

 そんな些細な事が、西島はなんだか楽しかった。


 ラーメン屋を出ると、2人は近くの目黒川田道街かど公園の花壇の縁に並んで座り、缶コーヒーで乾杯した。

 何の乾杯だよと西島は顔を顰めたが、葉月は何でもないことに乾杯したのだと言う。

「意味が分からん」

 そう言って笑いながら、西島は冷えたコーヒーを流し込む。

 葉月もくすくすと笑った。

「……お前も物好きな奴だな」

「です」

 短いその返事に、西島は苦笑した。物好きだと肯定すると同時に、あなたこそ変な人ですよと言われた気がしたからだ。

「そうか」

 そう言ってふと隣を見遣ると、葉月が手の平で缶コーヒーを転がしながら、自分のつま先をじっと見ている。

「どうした?」

「……竹さんに聞きました。5年前の事」

 突然の事に思わず舌打ちをした。新米に恥部を知られたと言う事が、西島の中で苛立ちに変わっていく──筈だった。

 いつもの西島なら間違いなくそうだっただろう。しかし、口から出たのは自分でも意外な程、弱い言葉だった。

「失望したろ」

「全然──。あ、やっぱりがっかりしました」

「どっちだよ」

 急に答えをひっくり返す葉月に、西島は思わず突っ込んだ。

「だって」

 葉月は不服そうに続ける。

「だって……竹さんから聞いて、どうして西島さんがあんなに慎重だったのかやっと分かったんですもん。

 言ってくれれば良かったのに。相棒でしょ?」

「……すまん」

 西島が謝った途端、葉月は妙な声を出した。

「うへっ! て、なんだよそれ」

「だって、今日の西島さん、素直なんだもの~! 可愛い!」

「何が可愛いだ。38のオッサン捕まえ──」

 西島の手から空き缶が落ち、コロコロと夜の公園を転がった。

 葉月のシャンプーの匂いが、西島の鼻をくすぐる。

「く……ずみ……」

 自分の首にしがみ付く相棒に、西島は言葉を失い、しかし反射的に両手を上げ、葉月の身体に触れぬようにした。

「ひとりで抱え込まないで下さい。私にも言って下さい。辛い時も、嬉しい時も、何でもない時も」

 葉月の腕に力がこもる。

 西島は小さく息をついた。

「久住……。セクハラなんて言わないでくれよ?」

 西島は囁くように言うと、上げていた手を葉月の細い腰に回した。

 

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