第3話 桜の下で

「起立!」

 号令に合わせ、会議室に集まった捜査員たちが一斉に立ち上がった。

 礼の合図で、皆軍人の如く腰を折り、そして着席する。

 正面には、警視総監・水野敬一、副警視総監・安藤修一郎、捜査一課長の因幡史郎警視が並び、演台では因幡警視の取り巻きの一人である、森永警部がマイクを片手に帳場立ち上げを宣言していた。

「──という事で、昨夜起こったセンセーショナル、且つセンシティブな事件の性質から、早々に捜査本部を立ち上げ捜査するべきと判断し、皆さんにお集まり頂いた次第です」

 森永は神妙な面持ちでそう言うと、遅れて入って来た西島をちらりと見、直ぐに目を伏せた。

「西島刑事。時間は守るように。早く着席してください」

 資料に目を落としたまま注意をする森永に、西島は片手を上げて応じると、会議室の末席に腰を下ろす。

 捜査員が何人かちらちらと振り返り、西島を見てにやにやと薄笑いを浮かべている。

 

 ──ふざけやがって。

 

 西島は小さく舌打ちをした。

 時間を守ろうにも、誰一人として捜査会議の開始時間も、帳場が立ったことすら教えてくれなかったのだ。

 竹山が西島にメールを飛ばさなかったら、遅刻すら・・・・出来なかっただろう。

 葉月の心配そうな視線に気付くと、西島はふいと顔を背けた。

 初動捜査で分かったことを発表するように森永が促し、捜査員が立ち上がった。

「ガイシャは山中涼子、三三歳。ショッピングセンターにパートで勤務。サラリーマンの夫と、都内のマンションで二人暮らし。一週間前から行方が分からなくなり、夫から所轄署へ捜索願が出ておりました。現在のところは以上です」

 その後もちらほらと報告が上がったが、大した情報は無かった。

「では、鑑識からお願いします」

 森永がそう言うと、会議室の真ん中に、銀髪の、ひょろりとした背中が生えた。竹山である。

 竹山はひとつ咳ばらいをすると、使い込んで擦り切れた手帳を広げた。

「え~。被疑者はかなり用意周到で慎重な人物らしく、現場には被害者の物以外、指紋は残っておりませんでした。

 足跡は二種類あり、ひとつは被害者のものと思われるパンプスと一致。もうひとつはどうも不自然で。どうやらメーカーが分からないように靴底を削ったようですな。

 しかし、サイズが二七・五センチであったこと、五五キロあるガイシャを吊り上げたあたりからも、被疑者は成人男性であると推測されます。

 死因については、現在T大法医学教室に解剖を依頼しております。本日解剖がされますので、追ってご報告となります。

 遺留品に関しては資料を──」

 つまり、被疑者が神経質で変質的であること以外、まだ何もわかっちゃいないと言う事か。

 西島は、会議終了の声を聞くや否や立ち上がった。他の捜査員たちも三々五々退室していく。

 その時だった。


「西島、今度は誤認逮捕で殺すなよ」


 通りすがりに、誰かが言った。

 笑いを含んだ嫌な声だった。

 石で胸を叩かれたような痛みが西島を襲った。


 ──被疑者自殺!

 ──誘導尋問で自白強要か?

 ──真犯人逮捕! 自殺した被疑者の誤認逮捕が明らかに!

 ──警視庁、遺族に謝罪。


 頭の中で、当時の新聞の見出しが躍る。

 西島を責め、嘲笑る声が響く。

 ぐらりと視界が揺れた。


「西島さん? 大丈夫ですか?」

 ワイシャツの袖を引かれ、我に返る。

 そこにいたのは葉月だった。

「大丈夫ですか? 真っ青ですよ?」

 そう言うと、視線の定まらない西島の顔を不安気に覗き込んでくる。

「……問題ない」

「でも──」

「煩い」

 西島は葉月の手を振り払うと会議室を出た。

 惨めだった。

 酷く、胸が痛かった。


 この痛みは、一体いつまで付き纏うんだろうか──。

 

 *   *   *

 

 西島の足は、自然といつもの教会へと向いていた。

 五年前からずっと、西島はそこで自分の中の膿を吐き出し、蓋をするように痛みを閉じ込めてきた。

 解決出来なくてもいい。そこで心の痛みを鎮め、自分の中にそっと隠しておければそれでいい。

 クリスチャンではないが、友人もおらず、誰にも自分の心を曝け出すことが出来ない不器用な西島にとって、いつの間にかそこが唯一無二の場所になっていた。


 中目黒の駅を出て、目黒区役所方面へと向かう。

 すると、西島のアパートとの間にそれはあった。

 小さな森に囲まれた古い木造の教会。聞けば、昭和初期からここにあるのだと言う。

 森の中にひっそりと隠れるように存在しているため、西島も五年前までその存在に気付かなかった。

 西島は、錆びた教会の門扉の直ぐ脇にある大きな桜の木を見上げた。

 すると蝉の声が次第に遠のき、とっくに葉桜になっているその桜の木に、次々と花が開いて満開となっていく。

 そこから降り注ぐ幻の桜吹雪の中で、西島の意識は五年前へと飛んだ──。


 *   *   *


 五年前──。

 捜査一課の刑事として、自信に満ち溢れ、勢いに乗っていた頃だ。

 西島はひとりの被疑者を殺人犯として追い込んでいた。

 状況証拠は揃っている。犯人は目の前のこの男でしかないと信じていた。

 しかし物的証拠がなく、別件逮捕での勾留期限も迫り、焦った西島は、自白を取ろうと執拗に男を追い詰めた。

 次第に男が病んでいくのが見えたが、それでも男を追い込むのを止めなかった。

 男と同じく、自分自身も病んでいる事に西島は気付かなかった。

 そしてとうとう男の自白を取ったのだ。

 西島は興奮し、得意げに同僚刑事に聴取の様子を語ってみせた。

 だがその翌日、男は留置所で冷たくなり、更に数日後、真犯人が逮捕された。


 それから地獄の日々が西島を襲った。

 マスコミは毎日のように警察を糾弾し、西島は、上からも、横からも、下からも叩かれ続けた。

 

 ──調子に乗るな。

 ──捜一のお荷物。

 ──恥を知れ。

 ──責任取って死ねよ。


 他に何だっただろう。よくこんなに思いつくものだと感心するくらいの悪口雑言と冷たい視線を、何度も繰り返し浴びせられた。

 仲間を失い、居場所を失い、西島の心は粉々に壊れていった。

 そんなある日。

 非番であった西島は、近所のカレー屋で遅い昼食をとり、ふらふらと歩いてアパートへ向かっていた。

 そこへ突然、森の中からひょっこりと小さな女の子が出て来た。しかし、西島の顔を見るなり来た道を引き返す。

 怖い顔をしたオッサンと鉢合わせて驚いたのだろう。西島は舌打ちをすると、再び歩き始めた。


「あの──」


 ふいに呼び止められ、振り返る。

 桜吹雪の中、西島はひとりの男と出会った。

 春の風に靡く黒い服。胸には十字架が掛かっている。西島は生まれて初めて『神父』という人間を目の当たりにした。

 改めてまじまじと顔を見る。刑事を何年もやっていると、そう言った不躾な観察が平気になってしまう。

 背が高く、整った、そして優しげな顔に銀縁のメガネ。西島と年のころはそう変わらないようだが……、西島と違って随分と品があり、落ち着いて見えるのは服装のせいだけではないだろう。

 女の子が神父の手をぎゅっと握り、その後ろに隠れるようにして西島を見ている。変質者にでも間違われたかもしれない。

「いや、俺は──」

 怪しいもんじゃありませんと言いかけて、それも変だと頭を掻く。

 はて、なんと言ったものか──。

 西島が極まりの悪い様子でいると、神父はにっこりとほほ笑んで言った。

「良い天気ですね」

 唐突であったが、思わず西島は「そうですね」と答えていた。

「今日は日曜日の礼拝とちょっとしたバザーがありまして、今、丁度片づけをしているんですが……。実は男手が足りなくて」

 神父はそう言うと姿勢を正した。

「すみません! 手を貸して下さい!」

 勢いよく、額が膝につくかと思うほどに腰を折る。

 その様子に、西島は久しぶりに笑った。


 これが、中目黒マリア教会の神父、新堂文哉との出会いである。

 西島は快く手伝いを承知し、新堂と共にバザーで使ったテントやテーブルなどの備品をたたんで、それらを教会の裏手にある小さな地下倉庫へと仕舞った。

 以来、西島は何度となくこの教会へ足を運び、罪を告白し、新堂と話すことで自身の膿を出し、傷に蓋をしてきたのだった。


 *   *   *


「西島さん」

 自分を呼ぶ声に、はっと我に返る。

 教会から続く小道を、箒を片手に新堂が歩いてきた。どうやら教会まわりの掃除をしていて西島に気付いたようだ。

「お久しぶりです」

 新堂は、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。不思議なもので、西島はそれを見ただけでスッと心が軽くなるのを感じた。

「すみません、仕事が忙しくて。また帳場が立ったんで、暫く来れなくなると思って挨拶に……」

「そうなんですね。西島さんが忙しいという事は、それだけ世の中が大変な時だという事です。気になさらないで下さい。神はいつでもあなたと一緒なのですから」

 そう言いながらも、新堂は「琴音ちゃんは寂しがっていますけどね」と言ってウインクをした。

 琴音とは、あの日新堂の後ろから西島を見ていた、小さな少女である。両親が熱心なクリスチャンで、それもあって琴音も毎週教会に通っていた。

 あれから五年。琴音は今年小学六年生になった。

 最近の子供にしては控えめな性格だが、西島には随分と懐いてくれている。そのせいもあり、西島も琴音を可愛がっていた。

「また時間を作って来ます。琴音にもそう言っておいてください」

 琴音のふくれっ面が目に浮かんだが、西島はそう言うと新堂と別れた。


 このままアパートに向かおうかと思ったが、現金なもので、心が軽くなると腹が減って来た。

 残念ながら、冷蔵庫の中には今日も・・・何も入っていないことは分かっている。

「……しょうがねぇな。ラーメン屋でも行くか」

 ひもじいと訴える腹をひと撫ですると、西島は行きつけのラーメン屋へと向かう事にした。

 流れる汗を拭きながら住宅街を歩く。

 夕方とは言え、夏の日は長い。まだ十分に陽が高く、蝉の声もうるさい。

 そんな中、西島の行く手に、黒いマスクに白いパーカー姿で歩く男が目に入った。

 フードを目深に被っており、マスクをしているせいもあって顔はよく分からないが、通り沿いの古い倉庫を眺めているようだ。

 

 ──変な野郎だな。暑くねぇのかよ。

 

 この季節に、男が長袖のプルオーバータイプの長袖パーカーなど、そうあるものではない。

 西島は足を止め、電柱の陰からそっと様子を伺った。

 男はバッグから大きなカメラを取り出すと、立て続けに倉庫を撮り始める。

 廃墟マニアなる者がいるとは聞いたことがあるが、その類だろうか。

 すると、ふいに男と目が合った。

 男はバッグにカメラをしまうと、国道の方へと、その場を足早に立ち去った。

 

 ──気持ちの悪い野郎だ。あんな野郎には関わらないに限る。


 それよりも腹が減ったと、西島はラーメン屋へと急いだ。

 その三日後に、その倉庫で殺人事件が起きるなど、その時の西島には知る由もなかった。

 


 

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