K町はたしかに風光明媚な町だったわ。江郷の素描に付き合って、あたしも様々な場所を訪れたけど、特に高台から見る景色は素晴らしいものだったわ。


 高台からは、大きな川が見えてね、その周りに昔ながらの建物が並んでいるの。江郷は建物が好きだった。そして江郷が鉛筆で絵を描いている間、それをぼんやりと眺めている時間が、あたしは好きだった。


 夏のK町はたいそう蒸し暑くて、鉛筆を動かしている江郷も、見ているあたしも、だんだん意識が朦朧としてきて、慌てて冷たい水を飲んで、また外へ繰り出して。汗で襦袢が肌に張り付いて気持ち悪かったけれど、あの時間は何にも代え難い幸福だったわね。


 そうやって描いたものも、作品に仕上がってしまうと、やっぱり見たままではなくて、あたしには綺麗な浅葱色に見えた川が真っ黒になっていたり、楽しげに見えたものが悲しげになっていたり。


 江郷は風景画ばかり描いていたわけではないのよ。裸婦……ええ、そうよ、裸の女。そんな顔しないでよ、西洋画ではよく描くのよ……をはじめ、刺激的なモティーフを好んでいたの。浅葱色の川が黒くなるように、どこか胸が苦しくなるような、独自の美しさを探究していたのよ。しつこいようだけど、西洋画はもともと裸婦をよく描くし、描いている題材そのものが猥褻ということは、必ずしもなかったけど、彼の絵は見たものの心をざわつかせずにはいられないところがあったわ。


 K町は美しい町だったけれど、田舎町だから、住んでいる人は少なからず排他的だったの。あたしという若い娘、それも親戚でも妻でもない女、を連れているところからして、江郷は町では異物として扱われていたわ。江郷とあたしが恋人であることは、特に隠していなかったのだけど、だからこそいぶかしがられていたのかもしれないわね。そりゃあ、あたしは若かったけど、江郷だってまだ二十一だったのに。


 一見して順風満帆で、自信に満ちていた江郷だけど、彼はずっともがいていたわ。栗本のおじさまを超える。新時代の栗本になる。口にするのは簡単なことだけど、並大抵のことではないわ。江郷もそのことはよく理解していて、それでもなお自身を鼓舞するために、ああいうことを口にしていたのだと思う。


 江郷を、傲慢で野心家と評する人間は多くいたし、彼自身そのように見られたがっている節が、少なからずあったけれど、芸術家の常として、彼は繊細で傷つきやすい面も持っていたわ。


 そうやって悩んでいた頃、彼はよく芸者を家に招いていたの。芸者遊びをしなかったわけじゃないけど、だいたいは裸婦画のモデルにするためよ。江郷はあたしだけじゃなく、若い芸者をよく描いたの。


 あたしからすれば、江郷が年端もゆかない少女に対して、際立って猥褻で、変態的な興味があったようには思わない。喜びや快楽を象徴する存在として裸婦を描くことは許されて、死や苦悩の象徴として裸を描くと忌避される。よく考えなくてもおかしな話よ。でも、世間の人々からすれば、気味が悪いことこの上ない関心の持ち方だったことは、想像に難くないわね。


 奇妙な芸者遊びを、町の人々が知るところになったから大変でね。おまけに庭先で裸婦を描いていたことがバレてしまったから、江郷とあたしは、とうとうK町にいられなくなって、縁のある町を、追い出されるようにして去ったわ。


 それであたしたち、一度は東京に戻ったのだけれど、結局K町より東京に近い、N町に引っ越したの。N町はK町に比べれば都会で、人の行き来も多くて、賑やかなところだったわ。


 栗本のおじさまをはじめ、時代を代表する画家に認められていた江郷は、のめり込むように芸術に没頭した。芸術家仲間は、彼のことを褒めたわ。でも評論家からはずいぶんと批判されたわね。


 過激だ、性的だ、倫理に反する、なんて評論家から揶揄されても、彼は自分を信じていた。名声は、ますます高まっていったの。


 その年は目まぐるしく過ぎていった。春に東京へ出掛けていって個展を開催したかと思えば、秋には有名な画商らしい人と知り合って、冬には芸術家協会の会員になっていたわ。本当に忙しそうだった。N町にわざわざ訪ねてくる人も多くて、応対に追われることもあったわ。もうその頃には、新時代の栗本とは江郷のことだ、と宣っても、否定する人はいなかったんじゃないかしら。


「わ里さん、僕は新時代の栗本になったよ。僕のこと、江郷のおじさまと呼ぶかい?」


 そんな冗談をよく言っていたわ。


 名声を手にはしたけれど、過激だなんだとこき下ろされた、挑発的な美の探究を、やめたわけではなかった。彼の芸術を評価する人は、いつの時代も、けして少なくない数存在したし、心ない言葉がその栄光を傷つける可能性なんて、これっぽっちもないことは、江郷も分かっていたはずよ。


 そして遂に、事件が起きたわ。江郷が、告発されたのよ。あたしに対する罪じゃないわ。別の子よ。


 白状してしまうとね、この事件が起きるまで、あたしは江郷にとって、モデルの一人にすぎなかったと思うわ。恋人とはいえね。あたしは、彼の一言で住み慣れた東京を離れるくらい、彼のことが好きだったし、江郷は、そこまでしてついてくる娘を、無下に扱うほど冷淡じゃなかった。だけど、彼のことを好きな女の子は、本当にたくさんいたの。


 明治四十五年、江郷は逮捕された。

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