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江郷を好きな女の子はたくさんいたって話したでしょう? ある将校の娘さんで、お辰さんという方がいらしてね。江郷にお熱だったのよ。熱烈なお手紙をたびたびくれてね、筆まめな江郷はきちんとそれに返していた。そこまでは良かったのだけれど、このお辰さんが家出をしてね。アトリエに匿ったの。
江郷は当初、お辰さんを誘拐した疑いをかけられていた。でも実際は絵のことで有罪になったわ。
お辰さんの騒動で、警察がアトリエに入ってね。アトリエには、そのう、劣情を煽っていると受け取られかねないような絵があったの。それで、罪に問われたの。警察に連れて行かれたっきり、江郷は合わせて二十日あまり、刑務所で過ごすハメになった。
江郷が牢に繋がれてしまったから、家に届く手紙はあたしがまとめて差し入れていたの。たくさんの芸術家から、励ましの手紙が届いた。画商や資産家、ある華族の方からも手紙が届いてね。それを見て、江郷は本当に偉大な芸術家になったのだと思ったわ。
面会に行くたびに江郷はやつれていった。頬がこけて、髪が乱れ、彼自身の自画像みたいだった。
「ねえ、江郷のおじさま、また川に素描をしにいきましょうよ。川の絵なら誰も文句を言わないわ。あたしの好きなお蜜柑でもいいわ。今度差し入れるから」
あたしがそう言ったら、江郷はわずかに口角をあげたわ。もちろん、あたしだって、そこが本質でないことはわかっていた。文句を言われない絵が、彼にとっての芸術ではないことも。
だけどね、貴方らしい絵を描いてくれ、また個展を開いてくれ、そういう手紙はたくさん届いたけれど、それは今まで描いた絵を否定された江郷には、酷なお願いだと思ったのよ。だから、あたしくらいは、無邪気でわがままな小娘でいようって、決めたの。くだらないお喋りをたくさんして、何食わぬ顔で蜜柑と画材を差し入れた。
悪いことをしていなくても、謝らなければいけなかったことってある? 妹が壊したお茶碗をあたしのせいにされて、母にお説教をされたことがあるわ。母とは険悪な仲というほどではないけれど、こんなに大きくなるまで覚えているんだもの。裁判にかけられて、叱責された江郷の心中は、想像するだけで苦しくなる。
アトリエにあった絵は全て没収され、裁判官の一人は、江郷の目の前で絵を燃やしてみせたわ。大きな瞳から光が消えていくのを、あたしは傍聴席から見ていた。
あたしは今でも江郷が悪いことをしたとは思っていない。江郷の芸術は、いつの間にかあたしの夢になっていた。この人がこれからも芸術に打ち込むために、あたしにできることは何? 答えは出なかったけれど、そばにいることはできるから。誰が見捨てても、あたしだけは彼の隣にいようと誓ったわ。
釈放されてからも、江郷は元気がなかった。当たり前のことよね。絵筆をとっても、ため息を吐いて、描かないこともあった。それまでと同じように、彼にはたくさんの手紙が届いたけれど、返事を書いている時の表情は、これまでのように楽しそうではなくなった。
逮捕されていた間の収入はないし、絵も没収されてしまって、あたしたちは生活もたちいかなくなってしまったわ。アトリエを借りることはおろか、食事にも困る有様で、顔が写るほど薄いお粥を食べたこともある。あたしは貧乏には慣れているけれど、お坊ちゃん育ちの江郷には初めての経験だったんじゃないかしら。あたし達は東京に戻ることになった。
夏の間は海辺に小旅行に出かけたわ。江郷の気が向いた時には、ポーズをとったこともある。楽しい旅行だった。あたし旅行って初めてだったの。
その旅行中に、あたしを描いたデッサンを見せてもらったわ。その時は胸から上の顔を描いたもので、背景はなかった。
「帰ったら、わ里さんの背景には蜜柑を描こうか」
そう絵を見せられて、驚いた。彼の軽口のことじゃないわ。そこに描かれているのが、紛れもなくあたしであることに驚いたのよ。題材ではなく、表象としての女でもなく、蜜柑が好きだと言った、ただのあたしがそこにいた。
絵の中のあたしは幸せそうだったわ。切れ長の瞳も、厚い唇も、鏡の中より美しかった。
「江郷のおじさま、確かに蜜柑は好きだけど、絵の背景としてもっとふさわしいものがあるなら、あたし、こだわらないわ」
なんでもないフリして言ったけど、声が震えてしまったわ。嬉しかったの。あたしの心の中に彼がいるように、彼の心の中に、あたしがいること、わかって嬉しかったの。江郷はたぶん気がついていたけれど、
「おじさまはやめてほしいなぁ」
「あら、そう呼んでくれって、あなたが言ったのよ。玲士郎さん」
「そうは言ってないと思うんだけどな」
江郷は頭を掻いて、目尻を下げたわ。
そのすぐ後、ご崩御があって、乃木大将の事件があった。一つの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしていたわ。喪章をつけて、神妙な顔をしながら、誰も彼もが浮き足だっていた。
傷心旅行には行ったけれど、江郷の復帰はうまくいったわ。N町での事件は鮮烈だったけれど、それ以上に世の中が騒がしかったから。
それからね、食うにも事欠くあたしたちの暮らしを、立ち直らせてくださったのは、栗本のおじさまだったのよ。変わらず江郷のことを気にかけてくださっていたおじさまの取り計らいで、江郷はさらに人脈を広げたの。
江郷は旅行の時に見せてくれたような、あたしの絵をよく描いたわ。江郷の自画像と対になるように、あたしの肖像も描いた。資産家でもその妻でもないのに、肖像画を描かれた女って、そう多くはないんじゃないかしら。背景には鬼灯が描かれていたわ。絵はすぐに評判になった。必ずしもあたしの絵だと名言されてはいなかったけれど、たくさんの切れ長の瞳と厚い唇がもれはやされている光景は、なんだかむずがゆい思いをしたわ。
江郷は押しも押されもせぬ芸術家に、名実ともに返り咲いた。元号が大正になってすぐの十月、江郷は東京にアトリエを構えた。しかも栗本のおじさまのアトリエから、歩いて五分もしない場所よ。一等地ね。世間でも大変な一年だったけれど、江郷の一年も壮絶なものだったわ。
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