ある恋人の肖像
刻露清秀
起
あたしの話?
そう。そうね、少しばかり良い思いも、したかもしれないわね。そんな、とびきりの贅沢はしなかったけど。いいわ。同じ学校で学んだよしみで、あんたには特別に、教えてあげる。
まずね、資産家の愛人だったわけじゃないわ。あたしの恋人は、画家よ。そう、絵描き。西洋画家でね、
江郷玲士郎に出会ったのは、あたしが十六、江郷が二十一の時。翌年にご崩御があったから、そうね、明治四十四年の春のことだったわ。
その頃のあたしは、江郷とは別の画家のもとで、モデルをしていたの。その画家のことは『栗本のおじさま』と呼んでいたから、そう呼ばせてもらうわね。絵画の題材になっていたのよ。
画家が春の喜びを表現したいとするとしてね、それには女が踊っている姿がふさわしい、と思ったとするでしょう。そしたら、踊っている女を用意して、それを描く必要があるわけ。その女があたし。だから、あたしがモデルになった絵でも、あたしを描いた絵ってわかるものはそう多くはないわ。モデルはあくまで題材だもの。
父を八歳で亡くしてからというもの、色々な仕事をしてきたけど、西洋画のモデルは、なかなかに面白い仕事だった。
「わ
母はあたしに、そう言った。自惚れているようで嫌だけど、このぱっちりした切れ長の瞳と、ぽってり厚い唇が、あたしの運命を変えたことは確かね。栗本のおじさまは、たくさんの女をモデルにしていたけど、あたしを気に入ってくださって、個人的なお付き合いもあったから、若い画家をよく紹介してくださったの。江郷もその一人だったのよ。
栗本のおじさまといったら、西洋画を根付かせた立役者で、そんな立派な方なのに、威張り散らすようなことはけしてなさらず、愛情深くて、仲間思いの一面もある御方だったわ。
あたし、おじさまの絵は家族を描いたものが好き。どう表現したらいいかわからないけど、おじさまの絵から愛情が漏れ出ているような、そんな温かな気持ちになるの。モデルを描いた華やかな絵の方が有名だけど、おじさまの人柄は、そこには表れていないと思うわ。でも世間での評価は『金色の栗本』なのよね。艶やかで妖しげな女、でも誰でもない女を描いた、華やかな絵。
金色を好んで使うおじさまとは対照的に、江郷は黒を好んだわ。当時の画家たちは多かれ少なかれ、おじさまに影響を受けているけれど、江郷は最初から、いかにおじさまの影響を脱するか考えているような男だった。それでも、おじさまは江郷を高く評価していらっしゃったし、江郷もおじさまを尊敬していたわ。
あたしと知り合ったばかりの頃の江郷は、新進気鋭の若手として、美術界に名乗りをあげたばかりだった。
「江郷といいます」
少し掠れた低い声。黒い羽織りを着て、ざんぎり頭はボサボサで、大きな瞳が輝いて見えた。そうね、役者でいうと誰に似ているかしら。思いつかないけれど、陰のある美青年だったわ。
江郷はよく自画像を描いたのだけど、写真のように見たままを描くところは、見たことがないの。彼の自画像は、そのほとんどが、病的に痩せて、頬がこけて、瞳だけが野獣みたいに爛々と光っていた。本当に美形だったのかって? そりゃあもう。さっきも言ったけれど、江郷の絵は見たままとは違っていたもの。彼の精神世界を表現しているのだって、評論家が記事にしているのを読んだわ。それが真実なのか、あたしの知るところではないけれど。
それでね、あたし、初めて会った時、目の前の美青年に面食らってしまったの。美術学校を辞め、それまで支援を受けていた叔父に、愛想を尽かされて勘当されたと聞いていたから、もっとやつれた男を想像していたのよ。栗本のおじさまから、江郷の描いた自画像も見せられていたしね。
江郷はどちらかと言えば痩せていたし、瞳も大きいのだけど、背筋がスッと伸びていて、大股で歩いているところは、自画像とはまったく異なった印象を受けたわ。鼻筋が通った彫りの深い顔立ちで、あたしはおじさまのアトリエで見た、ギリシア彫刻を思い浮かべたの。
出会ったその時から、あたしはすぐに江郷に惹かれた。言うまでもなかったかしら。
江郷の方でもあたしのことを気に入ったみたいで、よく上野で待ち合わせをして、カフェに連れていってくれたわ。気の合うあたしたちは間も無く一緒に住むようになって、恋人になったの。お上品な方々には眉を
「わ里さん、僕は思うんだけど……」
江郷がそう言って、滔々と話しだす内容は、あたしには難しいものも多かったのだけど、彼の壮大な野望と、それを語る時の瞳の輝きは、とっても素敵だったわ。
「僕は栗本のおじさまを超えてみせるよ」
あたしの前では、江郷もおじさまを、『栗本のおじさま』と呼んだわ。あたしのそれは、単なる愛称だけど、江郷にとっては違った。
「栗本のおじさまは旧時代の大御所様だ。僕は新時代の栗本になる」
江郷の語る新時代。彼の志す芸術の時代。あたしと住んでそういくらも経たないうちに、江郷は引越しの提案をしてきたわ。彼は母方の縁のあるK町にアトリエを構えて、絵に没頭しようとしていたの。
「わ里さんもこないか。K町はいいところだよ。緑が豊かでね、東京のようにどこもかしこも人だらけの町とは大した違いさ」
東京近郊で育った江郷は、田舎というものに強い憧れがあったように思うわ。あたしは下町の生まれで、さほど住み慣れた東京を離れたいと思ってなかったのだけれど、彼と二人、知り合いのいない場所に移り住むという提案は、素敵な響きを持っていたわ。
あたしは栗本のおじさまにお
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