第4話
雨がしとしと降っている。僕は傘を閉じ、雨露を払ってからマンションの自動ドアを潜った。
……その日は、どうも世界がおかしかった。
目に見えているものが時々ブレたり、ぼやけたりする。
「あーそれ、魔法のせいだよ」
縦セーターを着た葉香さんがあたりまえのように言う。
「……適当言ってるでしょう、葉香さん」
「にゃはは、バレたか」
彼女は笑顔で舌を出す。
「まー、疲れてるんじゃない? 今日はもう帰りなよ」
「え? まだ一時間も経ってないですよ」
「そーだけどさ。結局のところ体が一番大事なんだよ、人間ってやつぁさぁ」
「自分のことを棚に上げて……」
僕は机に並んだエナジードリンクの空き缶を眺める。
「自分より他人の心配をするなんて、立派な心がけですね」
「何言ってんの。じゅーご君だから心配してるんじゃんかー」
平気な顔でさらりと言った。僕は思わず固まってしまう。
「ん? どしたの」
「いえ……何でもないです。そうだ、米を炊かないと」
僕は慌てて椅子から立ち上がり、次の瞬間、世界が傾いた。
「え?」
「うわっ、じゅーご君!」
葉香さんの叫びが遠くなっていく……。
「ん……?」
まぶたを刺す目映い光に、僕は目を覚ました。ゆっくりと体を起こし、辺りを確認する。
「ここは……?」
花畑だ。
あらゆる種類の、あらゆる色の花がところ狭しと咲き誇っている。その中央に僕は横たわっていたのだった。
しばらくの間、僕は呆然と口を開けていた。
「……天国? いや、まさか」
「そのまさかなんだよにゃーこれが」
背後から軽い言葉が放たれる。馴染みのある声色。僕は素早く後ろを向いた。
純白のドレスに身を包んだ葉香さんが、笑顔で僕を見つめていた。
「……え?」
「こんにちは、じゅーご君」
にっこりと微笑む葉香さん。
「ええと、あの……どういうことですか?」
「察しが悪いなあ。これ見ればわかるかにゃ」
言うが早いか、葉香さんはくるりと後ろを向く。その背中には両手を広げても足りないくらい大きな、真っ白い翼が生えていた。
「じゃーん! 天使の翼!」
「て、天使?」
「そう! 実は私、魔女じゃなくて天使だったのです!」
得意げな顔で胸を張った。
「………………………………………………………………………………………ああ、やっぱり」
「やっぱり?」
「薄々そうじゃないかって思ってたんですよ。だってこんなにかわいらしい人、人間とは思えない」
「かっ!?」
葉香さんはビクンと体を震わせて、そしてカチンと固まった。
「かっ、かわいい? 私が?」
「何をあたりまえのことを。顔も、体も、匂いも動きも言葉も、全部かわいくってどうにかなりそうなんですから。ちょっとは自重してください。いいですね」
「え? は、はい……」
小さな声で答える彼女の顔が赤く染まっている。
「で、葉香さんは天使で、ここは天国だと」
「あの、まーそうですねはい」
「てことは僕は死んだんですね」
「そうなりますね」
「はあ……」
大きくため息をついて、空を見上げた。
「死にたくなかったなあ。ずっと葉香さんと一緒に、料理作ったり映画見たり耳かきしたり、怒ったり泣いたり笑ったりしたかったなあ」
瞳からつうっと雫がこぼれ落ちるのがわかった。
「……あの、じゅーご君」
「何ですか?」
「言いにくいんだけど、その……」
葉香さんは見たことのない表情でもじもじしている。
「大丈夫ですよ。何言われても平気です。だって死んでるんですから、はは」
「いや、死んでないんだよねほんとは」
「は?」
僕は思わず眉をひそめた。
「天国とか天使とか、ほんの冗談のつもりでさ。ほんとはここ、きみの夢の中なんだ。きみ、熱を出して倒れたんだよ。今は私の家で寝かせてる。でも高熱の時は悪夢見るって言うでしょ? だから、せめていい夢見させてあげたいなーって、それで魔法を使ったんだ」
「……ちょっと、何を言ってるのか」
「つまり、魔法で夢を作り替えたんだよ。悪い夢から、良い夢にね。そのためには私も夢の中に入らなきゃいけなくてさ。で、ついでだから、ちょっときみのこと、からかっちゃおうかなーなんて。えへへ。……反省してます。本当にごめんなさい」
葉香さんはぺこりと頭を下げた。同時にいくつもの純白の羽がさあっと宙に舞って、それはそれは幻想的な光景だった。
「……つまり、あなたは現実の葉香さんと正真正銘、全く同じ人なんですね?」
「うん、そーだよ」
「一つ訊きたいんですが」
「何かな」
「ここでの会話って、お互い目が覚めたら綺麗さっぱり忘れてますよね?」
「……」
葉香さんは露骨に目を逸らした。
「うわー!」
思わず頭を抱える。
大惨事だ。
もう、表で顔を上げて生きていけない……。
「まーでも今私が話したこと含めて全部まるきり夢でしたーって可能性もあるから!」
「あるんですか?」
「あるある! 希望を失わずに生きよー!」
「はあ……誰のせいだと思ってるんですか……」
「今回に関してはきみのせいもあるでしょ」
「それは、まあ、はい……」
声が小さくなる僕を見て、葉香さんは「ふふっ」と笑った。
「ま、現実のことなんてどーにでもなるから。だから、まずは体を治して、ね」
そう言って、僕の頭をぽんぽんと叩く。
「じゃー最後に、よく眠れる魔法をかけてあげよう。私がパチンと指を鳴らしたら、きみはスッと深い眠りに落ちる。夢も見ないくらい深い深い眠りだよ。そして十分に快復できたら目が覚める。その間のことは認知できない。つまり、きみの体感としては、指が鳴った直後に目が覚めることになる」
「そんな都合良くいきますかね」
「いくんだよ。私の魔法を甘く見ないでちょーだい!」
「どうだか……」
怪訝そうな顔の僕に、葉香さんは優しく微笑んだ。
「じゃ、また現実でね! ばいばーい!」
パチン。
「はっ!」
目を開けると、薄ピンク色の天井。
「はあ……はあ……ここは……」
息を整えつつ、体を起こす。どうやら僕は、葉香さんのリビングのベッドに寝ていた。柑橘系の良い匂いがして横を見ると葉香さんがベッドにもたれるように眠っていた。
「うわっ!」
「……ん、あや……」
「おはようございます、葉香さん」
「んー? あ、じゅーご君!」
葉香さんはパッと顔を明るくして、僕の額にひょいと掌を当てた。
「ちょっ!?」
「おー、だいぶ熱下がったねえ。これならご飯も食べられるかな」
そう言っておもむろに立ち上がる。
「おかゆ作ったんだ。今よそったげるね」
「え、いや、おかまいなく……」
「こんな時くらいかまわせてよー」
そう言って、キッチンまで早足で行く。少しして、茶碗とスプーンを手に戻ってきた。
「はい、あーん」
「え、いや自分で食べますから……」
「あーん!」
スプーンをぐいと僕の前に差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
僕は口を開け、それをぱくりと口にした。
「あ、美味しい……」
「ほんと? 嬉しいにゃあ」
えへへと葉香さんは笑う。
いつもの葉香さんの笑みだ。
「あの、葉香さん」
「んー?」
「覚えてます?」
「え、何の話?」
「……いえ、何でもないです」
僕はそう言って、ふっと微笑んだ。
「んー? 変なじゅーご君」
そう言って首をかしげる葉香さんの両耳は真っ赤に染まっていた。
翼の生えた葉香さんが夢でも本物でも。
魔法の存在が嘘でも本当でも。
どっちだってかまわない。
僕と葉香さんのアルバイトは、明日も来週もその先もずっと続いていくのだから。
やがて僕の体も全快し、夏も近いある日に僕たちは適当に作ったエビチリを食べている。
「ねね、じゅーご君。もうそろそろじゃない?」
「何がですか?」
「チャームの魔法にかかるのがだよ。どう? 葉香様の魅力にぞっこんですお金なんか要りませんタダ働きさせてくださーいって言いたくならない?」
「パソコン、最近値上がりしたんですよね」
「そんなぁー」
しゅんとして下を向く葉香さんを見て、僕はつい笑ってしまった。
好きになんてならないぞ、魔女め 水池亘 @mizuikewataru
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