第3話
「さて、ここでクイズです」
僕が適当に作った酢豚を食べ終え、食後のコーヒーを飲み干した葉香さんは、そう言ってニヤッと笑った。
「これはいったい何でしょーか?」
台詞と同時に、右手の指でつまんだ物体を僕に掲げて見せる。細長い棒だ。平べったく、厚みは一ミリ程度。先が匙のようにくぼんでいる。
「耳かきですね」
「ピンポーン!」
「帰ります」
鞄を掴み立ち上がる僕を葉香さんが「ちょちょ、待たれよ」と引っ張った。
「頼むよぅ。絶対気持ちいいからさぁ」
「嫌ですよ。命の危険がある」
「大げさだってぇ! これでも私、テクニシャンなんだぞー」
「証拠はありますか?」
「だって自分で耳かきするとすっごい気持ちいいから!」
「他人にしたことは?」
「ないです……」
「さようなら」
立ち去ろうとする僕に、急にやわらかい重みが巻き付いた。葉香さんに抱きかかえられているのだと理解するのに少しだけ時間がかかった。
「ちょ、やめてください!」
「慎重にやるから! 絶対安全にするから! ね!」
抱きしめられた両腕にギュッと力がかかる。鼻をかすめる、柑橘系の良い匂い。
「わ、わかった、わかりましたから!」
「えっ、ほんと!?」
葉香さんはパッと僕の体を離した。ふんわりした感触の余韻がまだ残っている。僕は何度か首を振って、正常な思考を取り戻そうとした。
「はあ……痛かったら怒りますからね」
「うわーい、ありがとう!」
僕の手を取ってぶんぶんと振った。満面の笑みだ。
「そんなに耳かきしたかったんですか」
「うん。じゅーご君に耳かきしてあげたかったんだー」
そんな彼女の言葉に、僕はただ「それはどうも……」と曖昧に笑うしかなかった。
湯気を立てる42℃の湯船を眺めながら、僕は大きくため息をつく。
体を温めるべく、このお湯に入らなければならないのだが、体が上手く動かない。
こうなるから、先に入ると言ったのに……。
先頃、いざ耳かきを始めようという段になって、葉香さんは唐突に、「あ、その前にお風呂入らなきゃね」と言い出したのだった。
「え、何で?」
「まー後でわかるよ。じゃ、私先に入っちゃうから」
そう言って例のタンスに手を伸ばす。
「ちょちょ、下着なら後で出してください。僕が先に入りますから」
「だーめ。それはダメだよじゅーご君」
「何でですか」
「一番風呂は家主の特権なんだよ。学校で習わなかった?」
「学校を何だと思ってるんですか……」
「とにかく、最初は私ねっ!」
言うが早いか、バババッと下着類を集めて浴室へ去っていってしまった。
……その結果、今こうして僕は真っ裸で固まっている。
「実はシャワーだけで上がったって可能性は……?」
いや、葉香さんは風呂上がりの牛乳を飲みながら「やっぱり日本人には湯船だよねぃ……」とか言っていた。今思うと、あれは僕に聞かせるためにあえて言っていたのだ。
くそっ。
彼女の思い通りになってたまるか。
僕は意を決して、湯船に足を差し入れた。
それから一分後、僕は肩まで湯につかって溶けている。
「ふええ……気持ちいぃ……」
思わず声が漏れる。
入ってみれば何のことはない。ただのあったかいお湯だ。どことなく柑橘系の良い匂いがするような気もするが、気のせいだろう。気のせいであってくれ。
「上がりました……」
「いいお湯だったでしょー」
笑顔の葉香さんを僕は恨めしく睨んだ。
「……わかっててやってますよね?」
「何のことかにゃ? 私はあの湯船に魔法をかけておいただけだよ」
「魔法?」
「そう。入ると私のことを思ってドキドキしちゃう魔法!」
葉香さんは堂々と胸を張る。
「……魔法、なんですか。本当に? 比喩ではなく?」
「正真正銘の魔法です。これでも私、魔女ですから」
「そうですか……」
僕は思わずホッと息を吐いた。そんな様子を見たのか、葉香さんはニヤリと笑って、
「ま、それにきみが先に入ると、私のほうがドキドキしちゃうからねえ」
「はあ?」
僕の声は裏返ってしまった。
「またそんな冗談を……」
「えー、ほんとのことなのにぃ」
口を尖らせる葉香さん。
駄目だ、こんなからかいに付き合い続けていたら身が持たない。
「もういいですから、さっさとやってください、耳かき」
「おっ、乗り気だねぇ。良きかな良きかな」
「今すぐ帰ったっていいんですよ僕は」
「素直じゃないなあ」
「ずっと素直ですよ」
真顔で僕は言った。
「ま、そういうことにしとくよ」
そう言って葉香さんはくすくす笑った。
このリビング兼仕事部屋には、何故かベッドがある。
「え、寝室は別にあるんですよね?」
「そだよー」
「じゃあ何でベッドが?」
「これね、仮眠用。仕事中は寝室行くのも面倒だからさー。ま、結局椅子で寝落ちしちゃうんだけどね」
「はあ……」
自分用のベッドが二つある生活というものが僕にはいまいちピンと来ない。少なくとも彼女がかなり裕福であることだけはわかる。
そのベッドに、葉香さんはちょこんと腰掛けた。そして薄着に包まれた自分の太ももを、両手でぽんぽんと叩く。
「はい、どーぞ」
「……は?」
「は? じゃないよ。ほら早く寝っ転がりな」
「………………………………………………………………………………………まさか、膝枕?」
「そーだよ。耳かきと言ったら膝枕。それが世界の理じゃないか」
「ははは、ご冗談を」
「これが冗談に見える?」
彼女は少し拗ねたように僕の瞳をじっと見る。
「……マジですかぁ」
僕はこれ以上ないくらい大きなため息をついた。
「これも魔法の一環ですか……」
「いや、私の趣味ですが?」
「趣味が悪いよぉ」
「魔法はこの竹製極細耳かき『匠』にたっぷりかけてあるからね。耳かきすればするほど、あなたの心と体にじわりと浸透します」
「そんな、湿布みたいな」
「ま、似たようなものだよ」
「似てるのかよ……」
「いーからほら、早く横になりなさい」
葉香さんはおいでおいでと掌を振る。
僕はレモンを噛み潰したかのように顔を大きく歪め、右手で覆った。その様子を葉香さんはにこにこ見ている。
「ああもう、わかりましたよ。やりますやります、やればいいんでしょ!」
僕はベッドの、彼女から少し離れた位置に腰掛ける。そしてぱたんと横に倒れた。僕の頭が、彼女の太ももに触れる。
「ひゃうっ!」
「あのさぁ……」
「だってくすぐったかったんだもん! しかたないでしょー!」
「わざとじゃないなら、まあいいんですけど。いや良くないですけど」
「もー、おとなしく横になってなさい。脳に突き刺さっても知らんぞー」
「知らんで済まないんですよそれは」
「いいからほら、目でもつぶってなー」
「わかりましたよ……」
会話を止め、僕は静かにまぶたを閉じる。
いま僕の体の中で最も熱を持っているのは左頬だ。彼女のなめらかな肌の弾力と体温が絶え間なく僕の心臓を揺さぶっている。
「じゃ、入れるよー」
彼女の声が聞こえた直後、ぞわっ、とする感触が右耳で弾けた。
「あ、動かないでね。ほんとに危ないから」
その言葉に、僕は黙って息を深く吐く。
ぞわぞわがだんだんと奥へ潜っていく。そして不意に、強い快感が全身を襲った。
「おー、結構汚れてるねえ。さてはあんまり耳掃除してないなー? ダメだよ、清潔にしてないと。とは言っても本当は耳かきってしなくてもいいらしいんだけどね。でもしちゃうよねえ、気持ちいいもんねえ」
彼女はいつもより小さめの声でこしょこしょ話している。返事を返せない僕はただ「あ、う、お」と声を漏らすだけの人形と化している。
これが魔法の力か……。
やがて思考は圧倒的な快楽に押し流されていった……。
「……くん、じゅーご君」
「ふえ?」
僕はぼんやりと目を開ける。
「ここは……天国……?」
「殺した覚えはないんだけどな、私」
「え、あ、葉香さん!?」
僕はガバリと飛び起きる。無意識のうちに袖で口元を拭い、自分がよだれを垂らしていたことに気づく。
「あっ、いや、すみません!」
「いーよー別に。全然汚くないしね。むしろ私の耳かきでじゅーご君を眠らせてやったぞ、やったー、って感じ」
「そ、それならいいですけど……」
どうやら僕は気づかぬうちに寝入ってしまったらしい。それは、葉香さんの耳かきが気持ちよすぎたことの照明でもある。
不覚だ……。
「それにしても、寝てるきみの顔、かわいかったなあ」
「からかわないでくださいよ……」
「だってほんとのことだもの。写真もあるよ。見る?」
「ちょ、消してください!」
「はっはっは、嘘だよ。耳かきしてるのに撮れるわけないじゃんねー」
「こいつ……」
「よし、じゃー次行こーか」
「次?」
きょとんとする僕に葉香さんは微笑みかけた。
「そーだよ。右耳は終わったから、今度は左耳。とーぜんでしょ?」
「そ……」反論しようとして、言葉が見つからなかった。「それは、そうですね……」
「ふふふ。わかったら、ほら横になる!」
「はいはい……」
諦めたように呟いてから、はっと気づいた。
今まで僕は、彼女の体と反対方向を向いていた。
それが逆になるということは……。
「んー? どうかした?」
葉香さんはニマニマと笑っている。
「嫌だぁ。あんまりだぁそんなの」
「文句言わないの。男でしょー」
「だからなんですよ……ああ」
僕は嘆いて、思わず天を仰いだ。
――そうして僕は、目の前に女性の体があるというシチュエーションを初めて体験することになったのだった。しかも、ただの女性じゃない、とびきりの美人の体だ。
「無だ。無になれ重吾。自らの存在をこの世に溶かすんだ」
「何ごちゃごちゃ言ってるのー。ほら、じっとして」
葉香さんの掌が、優しく僕の頭に当てられる。
南無……。
「いやー、取った取った」
たっぷり時間をかけて耳かきし終えた葉香さんの顔はどこかツヤツヤしていた。
「楽しかったねぃ。ね、じゅーご君」
その言葉に、僕は無言で彼女を恨めしそうに見る。
「僕は大変疲れました」
「何でさ。気持ちよかったでしょー」
「……それは、そうですけど……」
認めたくないが、嘘をつくのも癪だ。
「ふふー。私、耳かきの才能あるかも」
「どうせ魔法の力でしょ」
「なーに言ってるの。気持ちよかったのと魔法は関係ないんだからね」
「そうなんですか?」
「もちろんだよ。魔法の力は無色透明無味無臭で今もじわじわきみの体に浸透中だよ」
「最悪の気分だ……」
「ま、効果が出るのはいつだかわかんないけどねー。にゃっはっは」
葉香さんは声に出して笑った。
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