第2話
チャイムを押しても反応がない時は合鍵を使って良いことになっていた。
合鍵……。
僕は鈍色のそれをまじまじと見つめる。
知り合ったばかりの男子高校生にあっさりと鍵を貸し与えるなんてどうかしている。
まあ、今更か……。
僕はため息をつき、玄関の扉を開けた。
「葉香さーん! いますよねー!」
僕は少し大きな声で呼びかける。やはり反応はない。しかたなくそのままリビングまで上がり込むと、パソコンの画面を真剣な顔で睨みつける葉香さんの横顔が目に入った。整った鼻筋が明かりに照らされ煌めいている。僕は一瞬、呆然と息を呑んだ。すぐ我に返ったのは、ボサボサの髪が目に映ったからだ。
「葉香さん! 葉香さんってば!」
「……ん? あれ、じゅーご君。どしたの?」
「どしたの? じゃないですよ。バイトです、バイト」
「え、あーもう六時!? 全然気づかなかったや」
「ていうか葉香さん、風呂入ってます?」
「あー……」
呟いて葉香さんは中空を見つめた。
「入った。入ったよ。入った入った。たしか。たぶん。きっと」
「今すぐ入ってきなさい」
僕は浴室を指さす。葉香さんは渋い顔で、
「は~い……」
力なく返事をして、木目のタンスに手を伸ばした。開けられたその中身を、僕はうっかり目にしてしまう。
「今日は何にするかにゃあ……かわいいのがいいにゃあ……」
ぶつぶつ言いながら、淡い色の下着やらパジャマやらを引っ張り出す葉香さん。
「ちょっとあの」
「んー?」
「僕がいるんですよ、僕が」
「それがどーかした?」
「僕、一応男なんですけど」
「それがどーかした?」
「……どーもしてないです」
僕は諦めて下を向いた。葉香さんは抜き取った下着類をピンク色のバスタオルでくるみ、小脇に抱えて浴室へ消えていった。
何なんだ、あの人は……。
何度か横に首を振り、僕は大きくため息をついた。
「今日は一緒に映画を見ます」
僕が適当に作った四川風麻婆豆腐丼をかき込みながら、葉香さんがそう言った。
「は? 映画?」
「うん。じゅーご君を魔法にかけなきゃならないからね」
ニヤリと笑う彼女の表情を見て、僕は首をひねる。
「映画と魔法に何の関係が?」
「知らないのー? 男女が二人で映画を鑑賞するというシチュエーションには魔力を増幅させる力があるのさ。だからこそ無数のカップルがこぞって映画館に行くってわけ」
「無数のカップルは魔法使えないんじゃないですかね」
「使えなくても、見えない魔力が働くの! じゃなかったらどーしてせっかくのデートの二時間を一人でもできるよーなことで無駄に浪費するってのさ。馬鹿みたいじゃん」
「口が悪い……」
肯定も否定も、当然僕にはできない。
「あ、もちろんバイトの範囲内だから給料出すよー、安心してね」
「いいんですか?」
「いーのいーの。先行投資ってやつさぁ」
葉香さんはにこにこ笑っている。僕も気が引けないわけではないが、パソコンのためだ。ここは好意に甘えておこう。
「ところでこの麻婆豆腐、すんごい美味しーね!」
「あ、それは嬉しいです」
「まー私にはちょっと辛すぎるけどねー。舌焼けちゃうよぉ」
「そうですか? マイルドにしたつもりですが」
「嘘だあ。私に意地悪してるんでしょー」
「してませんって」
「むぅー」
頬を膨らまして僕を睨む葉香さん。
うーむ。僕は何も言わず、豆腐と米をかき込んだc。
彼女が選んだ映画は僕の知らないタイトルだった。少し前の時代に流行ったものらしい。
「前から見たかったんだよね。赤面しちゃうくらい甘ったるい恋愛映画らしーよ」
「そういうの興味あるんですね」
「うん。爆笑できそうだから」
「性格が悪い……」
巨大なテレビの前に二人並んで座る。その間には山盛りのポップコーン・キャラメル味。
「何飲むー? 私はコーラにするけど」
「同じのでいいですよ」
「あー、何かそれカップルっぽいな。憎いねぇ、このこのぉ」
「はあ……」
呆れる僕の前で彼女はくすくす笑っている。
「はい、コップ。倒さないようにね」
「どうも」
受け取って、黒い液体を一口飲んだ。
「ぶほっ!」
に、苦あああっ!
「あっははは、引っかかったー!」
「なんだこれ……コーヒー……?」
「そーだよ。ペットボトルの安物」
「理科の劇物じゃなくて?」
「大げさだなあ。間違いなく飲み物です」
「なら良かったです……おえぇ」
えずく僕を見る葉香さんは少しだけ申し訳なさそうにしている……といいなあ。
「あはは、ごめんごめん。そんなに苦しむとは思わなかったや。お口直しに、これどーぞ」
すっと差し出されたコップには泡立つ黒い液体が入っている。
「……今度は何ですか?」
「コーラだって。ほんとのほんと!」
「どうだか……」
と言いつつも、僕は素直にコップを受け取った。甘い香りが鼻をつく。目をつむり、ぐいと一口飲むと、甘味とともに炭酸の粒が舌と喉を叩いた。
「ね? ちゃんとコーラでしょ」
「そうみたいですね……葉香さんにも人の心が残されていて良かったです」
「そこまで言うー?」
「言っても許されるでしょう……まあ、普通の美味しいコーラですよ」
「うんうん、それは良かった。美味しーよねー、私が口つけたコーラ」
「は!?」
思わずコップを落としかけた。
「口を、つけた?」
「うん。つまり間接キスってこと!」
「……言ってて恥ずかしくならないですか」
「ちょっとね!」
葉香さんは苦笑している。
「やっぱり何歳になってもドキドキしちゃうよね、間接キスって」
「何歳なんですか?」
「……」
急に無言になり、葉香さんは上目遣いで僕をじろりと睨みつけた。
映画は僕には退屈な内容だった。
話の筋自体は理解できるのだが、とにかく登場人物に感情移入できないのだ。
……まあ、恋愛経験の欠片もない僕に、フィクションの恋愛感情に共感しろというほうが無理な話なのかもしれない。
薄暗い部屋の中、ぼんやりテレビに目をやったままポップコーンに手を伸ばすと、さらりとした温かなものに手が触れた。ん? これは……手だ。
気づいた瞬間、反射的に手を引いた。でも出来なかった。彼女の手が僕の手をギュッと掴んでいたからだ。
「ちょ、葉香さん」
「ダメだよー悪戯なんかしちゃあ」
葉香さんはニヤリと口角を上げて僕を見た。
「偶然ですって」
「どーだかねぃ」
楽しそうに弾んだ声で言う。
「ま、いいや。映画に集中しなよ、じゅーご君。いーところなんだからさ」
「誰のせいで……」
僕が文句を言おうとしたところで彼女は視線を外し、テレビに向き直った。表情からは笑みが消え、真剣な目つきに変わっている。
彼女の言うとおり、物語は山場を迎えていた。僕は目をこらし、何とか映画に入り込もうと試みた。
くそ、葉香さんめ……。
僕は心の中で舌打ちをして、ポップコーンを闇雲に口に詰め込んだ。
「あー、つまんなかった!」
「えぇ……」
明かりをつけて開口一番、彼女のディスりに僕は思わず困惑の声を漏らした。
「あんなに真剣に見てたのに……」
「そりゃーちゃんと見ないと、物語に申し訳ないでしょー。まずは全力で物語を受け止めて、その上でつまらねーものはつまらねーって言うのが知識人の嗜みってものだよ。わかる?」
「わからないです……」
「まだまだだねぃ。で、どーだったの? じゅーご君的にはさ」
彼女は笑顔で僕の目を覗き込む。
「いやあ……正直、よくわからなかったです。惚れた腫れたとか、別世界すぎて」
「えー?」
葉香さんは不思議そうに首を傾げる。
「だって高校生でしょー? 男子と女子の学園生活パラダイスでしょ。色恋沙汰なんてそこらにゴロゴロ転がってないの?」
「もちろん転がってますよ。僕の足下に来ないだけで」
「あー、そう……」
そう呟いて、困ったような表情になった。
「なんか、ごめんね」
「謝られるほうがつらいんですが」
「悪かったってぇ」
僕の目の前で両手を合わせる葉香さん。まあ、悪気がないのはわかる。
話題を変えるべく、僕は「あ、ところで」と幾分作った声を出した。
「魔法はどうなったんですか? 映画中にかけるとか言ってましたが」
「おっ、よくぞ訊いてくれました! んっふっふ……」
葉香さんは奇妙な笑い声を出した。
「じゅーご君、ポップコーンどのくらい食べた?」
「え? ポップコーン?」
僕は思わず首を傾げた。
「覚えてないですけど、まあ一袋分くらいは」
「ふっふっふ。あれには全て私の魔法がかけられていたんだよ。食べてしまったきみはもう私の虜ってわけ。どう? 私見てドキドキしない? 胸が高鳴ったりしない?」
葉香さんは得意げな表情で、バレリーナみたいにくるりと一回転した。
「出直してきてください」
「えー、そんなあ」
露骨に肩を落とす葉香さん。
「がっかりだぁ、およよ」
「動きがわざとらしいんですよ」
「あはは」
あっさりと葉香さんは明るく笑った。
「まーこれくらいですぐ効くとは思ってないしねー。また次の機会に期待するよ」
「次の機会……」
呟く僕を葉香さんはじっと見て、微笑んだ。
「ふふ、次は何をしようかなあ」
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