好きになんてならないぞ、魔女め

水池亘

第1話

 郊外の駅から五分ほど歩いてたどり着いたのは、まるで天を突き破るかのような高層タワーマンションだった。

「本当に住んでる人いるんだな、これ……」

 あたりまえのことなのだが、一般庶民たる僕には別世界すぎて上手く想像ができない。

 入り口で番号を入力し、名を告げるとくぐもった音で「どうぞー」と女性の声がした。同時にすーっと自動ドアが開く。全く音のしないエレベーターに乗り、瞬きする間もなく十二階。

 彼女が住むのは日の当たる角部屋だった。玄関の脇に、可愛らしい青色のチャイムボタンが取り付けられている。僕はゆっくりとそれを押した。

 ピンポーン。

 甲高い音が扉の向こうで鳴り響き、直後、ガタンと大きな物音。そして足音がドタドタ鳴り、こちらに近づいてくる……ことはなく、十秒ほど一定音量で動き回ったかと思うと、不意に止まった。

 静寂――。

「えぇ……」

 困惑し、僕はチャイムを何回も鳴らす。ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。だが中からはもはや足音一つ聞こえてこない。間違いなく、彼女はそこに居るはずなのに。

 しかたない。僕は大きく息を吸った。

「すみません、鏑木かぶらき葉香ようかさん! 僕、七時に約束している名取なとり重吾じゅうごです! 母から話、聞いてますよね。開けてください!」

 言葉に合わせ、扉を叩く。これでも足音はしない。まさか……失神? 冷たい汗が背中を流れる。僕はよりいっそう拳に力を込め、扉を強く叩きつけ――


 ガチャ。

 扉は何の足音もなく、唐突に開かれた。


「うわっ!」

 思わず叫び、僕は後ろに跳んだ。その様子はバッチリ彼女に見られていた。ジャージ服のまま仁王立ちする彼女は、僕の顔をひとしきり眺め、満足そうにニヤッと口角を上げた。

「どう? 驚いた?」

「そりゃそうですよ……って」気づいた僕は、眉をひそめた。「まさか、ワザと?」

「にゃっはっは、まーねー」

 楽しそうにくすくすと笑っている。

 つまり彼女は、意図的にドタドタ足音を鳴らし、僕に聞かせることで「扉を開けに来るときは足音が鳴る」という先入観を植え付けた。その後、すり足等で音を出さずに玄関まで行って扉を開けたというわけだ。単純なイタズラだ。単純すぎてタチが悪い。

 もちろん、腹を立てるべきだっただろう。だが……僕はただ、呆然と彼女の容姿を見つめていた。

 すらりと伸びた背。

 美しく伸びた黒髪。

 細い身体、大きく膨らんだ胸。

 カールした長いまつげ。

 何より、ぱっちりと眩しく澄んだ茶色の瞳。

 ――端的に言って、彼女はとんでもない美人なのだった。

「ん? どした?」

「……いや、何でも」

「そんなにこのお姉さんが美しいかね」

 その台詞に僕は言葉が詰まってしまった。これでは図星と言っているようなものだ。ニヤニヤしている彼女の顔がちょっと憎らしい。

「まーとにかく上がってよ。話は中でしよう。熱いコーヒーでも飲みながらさ」

「いや、コーヒーは……」

「いい豆を買ったんだ。美味しいから、ね?」

 有無を言わさぬ口調に、僕は察した。きっと母さんから聞いて知っているのだろう、僕がコーヒーを飲めないことを。

 くそっ。

 こんな人だと知っていたら、初めから引き受けなかったのに。


   *


「ねえ、ちょっといいバイトがあるんだけど」

 そんなことを母さんが言い出したのは夕方過ぎ、僕が適当に作った回鍋肉を二人で食べ終えた後のことだった。

「バイト? うちの高校、禁止なの知ってるでしょ」

「別にどこかの企業で働こうって話じゃないのよ。あたしの友達の手伝いをして、お礼にお小づかいを少しもらうだけ。問題なんてありゃしないわ」

「詭弁だよ、それ」

 渋い顔の僕をよそに母さんは話を続ける。

「友達ね、葉香ちゃんっていうんだけど、仕事がすごく忙しいらしいの。あんまり忙しいから身の回りのこと全然できない、家政婦が欲しい、って言うからさ。うちにちょうどいいのがいるよって紹介したのよ」

「勝手なことしやがる……」

「あんた部活もやってないし、時間あるでしょう。それに、パソコン買う金が欲しいって言ってたじゃない」

「それはまあ、そうだけどさあ」

 新しいPCが欲しいのは事実だ。最先端のゲームを遊ぶには、何年も前に買った安物では心許ない。とはいえ、どうしてもすぐに欲しいというほどでもない。

「絶対やれって言ってるわけじゃないわ。一回直接話でも聞いてみて、それでやるかどうか考えてみてってだけ」

「えー、面倒だなあ……聞いたところでどうせやらないし」

「じゃあ会わないのね」

「うん」

「葉香ちゃん、めっちゃ若くて美人だよ」

「……」

 僕はしばし考え込んでしまった。


 ――結局、母さんの言葉に嘘はなかったわけだが。

 僕はテーブルを挟んで対面する彼女の顔を、今一度見つめる。

 予想していたよりずっと若い。たぶん二十歳前後だろう。そういえば母さんの交友関係はやたら広かった。あの人なら、二回りくらい年下とも簡単に仲良くなれるに違いない。そんな人物からどうして僕みたいな日陰者が生まれたのか。遺伝子学に疑問は尽きない。

 ぼんやりとそんな無体なことを考える。差し出されたばかりの黒い液体からは、半透明の湯気がゆらゆらと立ち上っている。

「あれ、飲まないの?」

「……知ってるくせに」

「何のことかな、へへへ」

 そう笑って首をかしげる。

 もういい、さっさと話を済ませよう。

「あの、バイトって具体的には何を……」

「私の身の回りのこと全般だね。例えば部屋の整理とか」

 その言葉に僕は辺りを見回す。

 入ったときから気づいていたが、とにかくこの部屋は乱雑だった。特に大量の本が山のように積まれ、散乱している。紙くずやペットボトルなんかも辺りに散らばっている。ゴミ屋敷ほど酷くはないものの、お世辞にも綺麗な部屋とは言いがたい。薄ピンク色の女性らしい壁紙が泣いている。

「あとは、夜ご飯作ってもらったりとかね。できる? 料理」

「まあ人並みには」

「おー、いいねいいね」

「本当にたいした腕じゃないですよ」

「またまたぁ。そんなこと言う人ほど実は上手いって、私知ってるんだからね」

「いや本当に……」

「えへへ、楽しみだなあ」

 葉香さんは屈託なく笑っている。

 そもそも僕は一言も引き受けるとは言っていないのだが……。

「他には、ちょっと書類整理してもらったり、調べ物してもらったり、くらいかな。あ、たまに肩を揉んでもらおう」

「か、肩!?」

 僕は思わずうろたえる。

「いやー仕事してると肩凝るんだよねえ。集中しすぎて生活も適当になっちゃうし」

「いやでも、僕は男ですよ?」

「それがどーかした?」

「どーかした、って……」

 僕は困惑して眉をひそめる。あまりそういうことに頓着ない人なのだろうか。それはそれで困る。

「と、ところで」僕は話を逸らすことにした。「仕事って、何ですか?」

「え、奈々さんから聞いてないの?」

「全く。何も知らないです」

「えぇ……」

 彼女は呆れたようにひとつため息をついた。

「まったくもう、適当なんだから奈々さんは」

「それは完全同意ですが……で、何なんですか?」

「それはねぇ、ふっふっふ」

 彼女は妖しく笑う。そして僕のほうにぐいと顔を近づけ、囁いた。


「魔女、だよ」


「……は?」

 思わずぽかんと口を開けてしまった。

「何の冗談です?」

「あれ見てごらん」

 彼女は唐突に部屋の隅を指さした。そこには丸められた紙くずが一つ転がっている。

「えいっ」

 声を上げ、彼女は伸ばした人差し指をヒュッと小さく振り下ろした。その瞬間――


 ボンッ!

 弾けて燃えた。紙くずが、音を立てて。


「……え?」

 そう呟く僕の顔はきっと恐ろしく間抜けだっただろう。

「ふふー、驚いた?」

 彼女は心底楽しそうに言う。

「あまり知られてないけど、結構いるんだよねー魔女って。私のママも魔女でさ、子供の頃からいろいろ教えてもらってたんだよ。で、もったいないから仕事にしちゃった」

「は、はあ」

 僕の口から気の抜けた声が流れる。

「魔女の、仕事……って、何なんですか?」

「まあ人によるかな。悪の存在を討ち滅ぼす正義の魔法使いなりぃ、って人もいるらしいよ。ま、私はそういうの御免被りたいからリモート専門。魔術書書いたり、魔法陣作って提供したり、そんなとこかな」

「はは、なるほど……」

 僕は乾いた笑みを浮かべる。それを葉香さんはじとっと見つめた。

「あー、信じてないな。せっかく魔法見せてあげたのに。しかたないなあ」

 おもむろに、彼女は床にぺたんと座り込んだ。そして積まれた本の山をかき分ける。

「あれ、どこだっけ。これじゃない、これでもない……あっ、あった!」

 一冊を引き抜いて、僕に向けて掲げてみせる。それは赤いハードカバーの本で、表紙には知らない言葉がアルファベットで印字されていた。

「じゃーん! これ、私が書いた魔術書だよ。特別に見せたげる」

「いや、僕は別に……」

「いーからいーから、ちょっと読んでみてよ。って言っても読めないと思うけどね。あはは」

 笑顔の彼女は押しつけるように僕に本を渡した。勢いに押され、僕は開いて中を見る。

「これは……英語?」

「っぽいけど違うんだ。魔女がよく使う言語で、表向きはどっかの国の古語ってことになってるはず」

「はず?」

「よく知らないんだよー。別に知らなくても書けるし」

 本は小さな横文字でびっしりと埋め尽くされていた。ところどころに挿絵が挟まれていて、ローブ姿の男が何かしていたり、謎の幾何学模様が並べられていたり。眺める分には楽しくなくもないが、内容はもちろんさっぱりわからない。

「……これを、葉香さんが?」

「まーね。結構大変な仕事だったけど、これがわりと売れてねえ。今でも印税入ってくるよ」

「そうですか、はは……」

「どう? 信じてくれた?」

 彼女は少し首を傾げ、僕を下から覗き込むように見つめた。

「いやー、まあ、そうですね」

 正直、よくわからない。

 わからないが、どうせ僕には関係ない。

「じゃあ僕はこれで……」

 僕はすばやく立ち上がる。

「ねえ、バイトの話なんだけどさ」

「すみませんが、お断りで」

「週二回、夕方六時から夜の九時くらいまででどう?」

「だからやりませんって」

「一日一万出すよ」

 僕はピタリと動きを止めた。

「い……一万?」

「そう。悪くない条件だと思うけどな」

 彼女は愉快そうに僕を見ている。

「……逆に怪しいですよ、それ。高校生の短時間バイトに一万も出すなんてどうかしてる」

「大丈夫だよ。どーせすぐ払わなくても良くなるからねぃ」

 当然のように言って微笑んだ。

「……どういうことですか?」

「きみが望んでタダ働きしてくれるようになるってことだよ」

「はあ?」

 僕の声は思わず裏返った。

「そんなわけないでしょうが」

「あるんだにゃあ、これが」

 そして彼女は自信満々に言い放った。


「だってきみは私のこと好きになるんだから」


「はい?」

「恋しちゃうんだよ、きみが、私に」

「……ははは、面白い冗談ですね」

 僕は真顔で言った。葉香さんはいたずらっ子のような笑みで僕を見つめている。

「ふっふっふ。忘れたの? 私の職業」

「職業?」言ってすぐ気づく。「まさか……」

「そう。私は『自分を好きになってもらう魔法』を使えるんだよ。いわゆる魅了、チャームってやつだね」

「卑怯ですよ!」

「まーまー、そんなに簡単じゃないんだよこれが」

 葉香さんは右手をふりふり振った。

「人の心を操る魔法ってのはすごく難しいし、時間もかかるのさ。だから今すぐここでかけてハイ終わりってわけにはいかない。何度も同じ時間を共有して、じっくりと魔法を重ねがけしなきゃいけないんだよ。しかも相手の心の強さによっては、いくらやってもかからないこともある。だから普通はそもそもやろうと思わないんだけど、今回はね、ちょっと試してみたくなっちゃった」

「……僕は実験台ってことですか」

「お互い仲良くなりましょう、ってことだよ」

 ニヤリと笑って、彼女は今いちど僕に顔を近づけた。鼻をかすめる、柑橘系の良い匂い。

「詭弁だ……」

「まあ詭弁でもいいじゃない。きみが心を強く持てば、お金をいっぱい稼げるよ。どう? いい話でしょ」

 至近距離の彼女がにっこりと微笑む。

 ……言いたいことはたくさんあった。

 訊くべきことも山ほどあったと思う。

 だが、目の前にある彼女の整った顔立ちと、脳裏をよぎる最新パソコンの影が、自然と僕の口を閉じさせた。

 はあ、まったく……僕はどうしてこう餌に釣られてしまうのか。

 ため息をつき、僕は自らへの戒めとして、冷めたコーヒーを一気にあおった。

「うわ美味っ!」

「でしょー!」

 葉香さんは満面の笑みで、どうだと言わんばかりに胸を張った。

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