第54話
「え?どういう事?」
たっぷりの沈黙の後に、何とか私は問い返した。
「うちの弟が商会の経理部門で働いているのは知ってますよね?」
「え……えぇ。とても優秀な弟さんだもの。王都でも五本の指に入る程の商会よね。知っているわ」
「パトリック伯爵家もご贔屓さんなんですよ。ハロルド様から聞いたそうです。『伯爵夫人としての務めが果たせないから離縁する事にした』と。前パトリック伯爵夫人が失踪してからというもの、なかなかあの家も厳しいようです。急にパトリック伯爵を継いだハロルド様は大忙し。領地と王都を行ったり来たりの毎日。しかしナタリー様はあの時のまま……へそを曲げたまま、家政も全く手付かずだった様で」
「ナタリー……。それで離縁されてしまっては自分にとって都合が悪くなるだけなのに」
そう言った私の言葉にバーバラも頷いた。
「だが……君のご実家から連絡がないのはおかしいな」
黙って話を聞いていたレナード様がポツリとそう言った。
「そうですね……。兄に手紙を書いてみようと思います」
せっかくの幸せな気分がパチンと弾けて消えていく。
私はまたもやナタリーの事で頭を悩ます事になるのだった。
翌日、早速私は兄に手紙を書いた。
レナード様には『あまり気に病む事はない』と言われたが、ナタリーの事より母や兄の事が気になって仕方ない。
じっとしていると悶々と考えてしまうので、気分転換に街へ買い物に行く事にした。
やっと、領地での買い物にも慣れて来た。
レナード様の為人のお陰で、街の人にも受け入れて貰えて嬉しい。
「伯爵夫人!どうですこの林檎!凄く美味しいですよ」
「夫人!焼き立てのパンはいかがです?」
少し歩いただけで、皆から声を掛けられる。ありがたい事だ。
「奥様、そろそろ少し休みませんか?」
バーバラにそう言われて、
「そうね。あそこにカフェがあるわ。少し休憩して行きましょう」
と答える。護衛にも声を掛け、そのカフェへ向かう途中、後ろから声を掛けられた。
「エリン……いえ、グレイグ辺境伯夫人」
静かなその声に聞き覚えがある。私が振り返るとそこには微笑んだ前パトリック伯爵夫人……ハロルドのお母様が居た。
私の目の前で優雅にお茶を飲む女性。前パトリック伯爵夫人である、カミラ様だ。
「どうしてこちらへ?」
私の質問にカミラ様はにっこりと微笑んだ。
今まで彼女の心からの笑みを見たことが無かった私は、こんな時なのに、美しいと思ってしまった。
「どうして……。そうねぇ、此処に来たのは貴女に会いたかったから」
「私に?」
「ええ。私も貴女の様に幸せになりたかったの。そして、今、幸せだと……その姿を貴女に見て欲しかった」
カミラ様の言葉に私は首を傾げた。どうにも抽象的過ぎて、理解が追いつかない。
「私の言っている事が分からないって顔ね。いいのよ、それで。私の気持ちは私にしかわからないもの」
そう言ってカミラ様は一口お茶を飲んだ。そして続ける。
「もし……貴女がハロルドに嫁いでくれていたら、私は逃げ出さなかったかもしれない。あ!勘違いしないでね、貴女の責任だなんて言っている訳ではないの。
私ね、貴女には何となく仲間意識みたいなものを持っていたのよ。真面目にコツコツ。私も不器用だったから、パトリック伯爵家に嫁ぐ為に物凄く努力したの。
実は……あの人……ラッセルは私と婚約している時に、他の女性と……。私はこんなに努力しているのに……そう思うと泣きたくなったわ。その女性は男爵令嬢で、パトリック伯爵家には相応しくないと、婚約解消には至らなかったけど。その頃から、私の心はずっと軋んでいたの」
驚いた。カミラ様が居なくなって、前伯爵は塞ぎ込み、ハロルドに譲位したぐらいだ。二人の仲は私達には分からなくとも良好なのだと思っていた。
「でも……それでもずっと我慢したのはパトリック伯爵家の為だったのでは?」
私の言葉にカミラ様は少し首を横に振った。
「意地よ。『やはりあの男爵令嬢の方が良かった』なんて言われたくないもの。ただそれだけ。ハロルドの婚約者が貴女に決まって、貴女の努力を見ていると、昔の自分を思い出す様だった。貴女がお嫁に来てくれるのは楽しみだったのよ。……でもハロルドが馬鹿な事をして……」
「私の事をその様に思って下さっているなんて……思っていませんでした。ハロルドの婚約者をナタリーに替える事も反対してはいないと聞いていたので……」
「ハロルドもあの人と同じでね。私の言う事なんて聞いてくれなかった。もう随分前から諦めてたの。ナタリーと上手くやっていければ……そう気持ちを切り替え様と思ってたのに……ナタリーは……」
「真面目に努力しなかった……そういう事ですね」
「その通りよ。後は貴女も知っているでしょう?ラッセルはナタリーを嫌っていたけど、私の事も責めたの。もうやってられないって思ったわ。ナタリーが怪我をさせた侍女はね、私が実家から連れてきた侍女の娘でね。私、とても可愛がっていたのよ」
私はあの時の騒動を思い出していた。
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