第16話
夕食。クレイグ辺境伯領には新鮮な肉が豊富にあり、野菜も山菜も、それは見事だった。
「どうです?お口に合いますかな?」
とニコニコと私に尋ねるのは、顔は厳ついが笑顔の可愛い男性……クレイグ辺境伯だ。
「どのお料理もとても美味しくて……つい食べ過ぎてしまいそうです」
これ以上食べるとドレスが入らなくなるのでは?と不安になる。到着して少しゆっくりしていると、トルソーに飾られたドレスが運び込まれた。
その白のドレスは、所謂マーメードラインと呼ばれる、体にフィットした形だった。試着した私にはまさしく『ピッタリ』で、これ以上腹を膨らす訳にはいかないと、私は腹八分で夕食を我慢する事にした。
クレイグ辺境伯は、
「それは良かった!」
とますます笑顔になる。
正直、辺境伯は武人なので物凄く逞しくて厳つく怖い人物であろうと想像していたのだが、確かに体躯は良いし、顔も厳ついが私の想像より遥かに優しそうな男性だ。父と学友だったと言うのなら、歳は既に四十を超えていると思うのだが、かなり若々しい。顔はレナード様に似ているみたい……レナード様の笑顔は見た事ないけど。
そしてレナード様に並んで座る、少し線の細い男性が肉を細かく切っているのが見えた。
その手元を見た辺境伯は、
「ハリソン……またお前はそんな風に……」
と顔を顰める。
ハリソン様……彼がレナード様の兄上。この辺境伯のご長男だ。
「申し訳ない。やはり食べられそうにない」
とナプキンで口を拭うと、席を立った。
「少し気分が優れないのでね。申し訳ないが失礼するよ」
と食堂を出て行こうとするハリソン様に、
「お前!お客様の前で失礼だろう!」
と辺境伯が声を掛ける。しかし、それを丸っと無視したハリソン様は少し会釈すると、部屋を出て行った。
「……申し訳ない。あいつは少し難しいんだ」
と辺境伯は謝罪を口にした。
母は、
「体調が悪い時など誰にでもございます。食べ物の匂いが鼻につく事も。お気になさらず」
と微笑んで辺境伯へとそう言った。
ハリソン様が退席した後、残された皿の上には細かく切られた肉が一口も手を付けられる事なくそこにあった。
肉が嫌いなのか……それとも私達と食事をするのが嫌なのか……。そのどちらでもないかもしれないが、ほんの少しその場の空気が重くなるのを感じた。
「とても美味しかったわね」
食堂を後にした私達は母に用意された客間でお茶を飲んでいた。
母のその言葉に
「ええ……。でもハリソン様の様子が気になって」
と私は少しため息をついた。
「そうね。何だか……微妙な空気だったわ」
と母も同調する。
「ご気分が優れないだけなら良いのだけれど……何だか拒絶されているようで」
「確かにそう感じたわね。でも、貴女は別にロナルド様と暮らす訳ではないのだし、そう気にしなくても良いのではない?此処とクラーク子爵領は近いと言っても……」
と言いかけた母はハッと思い出した様に口を閉じた。
「お母様思い出した?私、このお屋敷で暮らすのよ?ハリソン様とは……ずっと顔を合わせる事になるわ」
「そうだったわね……。でもおかしな話だわ。領地が隣接しているからと、同じ屋敷に住むなんて」
「私もそう思うわ。……そう言えばハリソン様はまだご結婚されていないのよね?婚約者の方はいらっしゃると聞いたけど」
「……そうね。でも結婚すればそのご令嬢とも同居なのかしら?」
と母は首を捻る。
夕食の時にそんな事を訊ける雰囲気ではなかったしレナード様は何にも喋らないし……。
明日が結婚式だと言うのに、何となく気の晴れない夜を私は迎えたのだった。
「お嬢様……本当にお美しい……」
「エリン……良く似合うわ。凄く綺麗よ」
とバーバラと母にドレス姿を褒められ、私は少し恥ずかしくなって俯いた。
確かにこのドレスは少し背の高い私にはピッタリで、自分で言うのも何だが、三割増しぐらいに見える。
複雑に編まれた髪の毛にベールを被せて完成だ。
「私じゃないみたい……」
いつもはポニーテールの私も今日だけはお姫様の様。つい自分の姿を見た私の口からは、そう漏れ出ていた。
マーメードラインの白いドレスはそれは見事な刺繍が施されており、王都でも見た事がないぐらいだ。
「物凄く綺麗な刺繍ね」
と母もバーバラも目を見張っていた。この領のお針子達はとても腕が良いようだ。
『コンコンコン』
と控室をノックする音にバーバラが反応して扉を開ける。
そこには今日の挙式を執り行ってくれる司祭が立っていた。
「用意は出来ましたかな?先程行った予行練習通りにすれば良いですからね」
と笑顔の司祭に私は「はい」と返事をした。
父は不在なので、教会の入口からレナード様にエスコートをして貰う事になっている。
司祭の後ろから私は教会の入口を目指す。扉の前には既にレナード様の姿があった。
「では私は中でお待ちしていますよ」
と司祭が私の前から離れると、レナード様と目が合った。
「お待たせいたしました」
と言う私に、
「…………女神」
と呟いたレナード様は顔を真っ赤にして俯いた。
……クレイグ辺境伯領は女神信仰でもあるのかしら?
レナード様は物凄く背が高い。少し背が高い私がヒールを履いていても、下から覗き込めてしまう。
「どうかなさいましたか?」
と尋ねる私に、
「………どうもしない」
とレナード様は顔を逸らした。……熱がある……とかでは無いわよね?
すると、扉が開く。私は急いでレナード様のタキシードの裾をツンツンと引っ張った。
レナード様はハッとして腕を私に差し出す。
私は微笑んでその腕にそっと手をかけた。
結婚式は厳かに行われた。しかし何故かレナード様は私と目を合わせてくれない。その上何かブツブツ言っているのだが聞き取れないし、私も緊張でそれどころではない。
そして何とか宣誓を終え、さぁ結婚誓約書に署名を……という段になって私はふと手が止まる。
レナード様の署名が……『レナード・クレイグ』となっているのだ。あれ?まだ子爵を賜っていないのかしら?そう疑問が湧き上がるが、ここで私が尋ねる事は出来ない。私は不思議に思いながらも自分の名前をその下へと書いた。
「エリン!!おめでとう」
教会を出た瞬間、笑顔の友人が私に駆け寄る。
「ミネルバ!!来てくれたの?!」
「親友の結婚式だもの!当たり前じゃない。結婚式ギリギリになっちゃったけど、間に合って良かったわ」
確かに卒業式の日、ミネルバには一週間後に挙式になるかもしれないと話はしていたが、あまりに急な話で私も誰かを招待するなど考える余裕もなかった。
「エリン、おめでとう。お前が花嫁なんて……感慨深いな」
とミネルバの後ろから現れたのはアンソニーだ。
アンソニーは眼鏡を指であげながら、
「ジュードの馬鹿は殴っておいた。……僕の手の方が痛かったけど」
と笑う。丸顔のアンソニーは笑うととても幼く見えたが、私より三つも歳上だ。
すると、スッとレナード様が私の前に立った。
あれ?ちょっとアンソニーの顔が見えなくなっちゃったんだけど?
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