第4話

着替えを済ませて、父の寝室へ向かう。

脇には今日の学園の課題。


部屋へ入るとメイド長のマージが、


「エリンお嬢様、おかえりなさいませ」

と頭を下げた。


「マージ、お父様の事ありがとう。変わりはない?」


「はい。よく眠っておられます」


眠っている……か。眠っているだけなら、いつか目覚めてくれる……そう信じたい。


私はマージと場所を交代し、近くにあったテーブルを寝台の横に置いた。


「さて……と」

私は課題を開くと教科書を片手にペンを走らせた。


ナタリーなら、ズル休みも許される……そんな得な一面を持っている。結局、課題はアーサーに手伝って貰ったと言うから、私はますます呆れてしまった。アーサーも父が倒れて以降、ずっと忙しく働いている。それこそ、休む間も惜しんで。そんなアーサーに余分な仕事をさせるなど……と叱責しようかとも考えたがナタリーに言った所で、きっと気にもしないか、また泣いて私を逆に責めるだけだと思い、やめた。


「ファ~」

誰も見てない事を良い事に私は欠伸を一つする。……ずっと心がモヤモヤしているが、私はそれを誤魔化す様に、また課題に向き合う事にした。



「……リン、エリン」

私を呼ぶ声が聞こえ、同時に肩を揺らす手の温もりに気付く。


目を開けて顔を上げると、母が私を見ていた。


「あ、お母……様」


「エリン、もうお夕食の時間よ。貴女も疲れていたのね」

と、教科書の跡が付いた私の頬にそっと母は手を添えた。


「あ…、私!眠ってしまったのね。ごめんなさい。お父様は……?!」

私が慌てると、


「大丈夫よ。何も変わりないわ。エリン……貴女に負担を掛けてばかりね。ごめんなさい」


「いいえ。お母様だってずっと働き詰めだわ」


「貴女はまだ私達の子どもなのに……急いで大人にさせてしまったみたいで、申し訳ないわ。母親失格ね」

と言う母に、私は急いで顔を横に振った。


「パトリック伯爵家に嫁げば、もっと厳しい教育が待っていると聞いたわ。こんな事で根を上げていたら、ハロルドのお嫁さんにはなれないもの」


「確かに、あの家は格式高くて。だから貴女が選ばれたのだと思うわ。貴女は私達の自慢の娘よ。自信を持って幸せになってね」

と言う母の言葉が心に響く。自分のやってきた事は間違いなかったのだと、そう言って貰えた気がした。


しかし……私の心のモヤモヤが晴れる事はない。ハロルドとナタリーが二人で出掛けていた事が事実なのかを確認する事も出来ず、ずっと悶々とした毎日を過ごしていた。



そして、その日は突然訪れた。



「僕と結婚してくれないか?」

風に乗って聞こえたその言葉に、私は咄嗟に木の陰に隠れた。


ここはパトリック伯爵邸の庭園。

うちより倍はあろうかという庭には数多くの花々と、青々と生い茂った樹木により、緑色の風が吹いている様だった。


私は急にハロルドに呼び出された。理由は会って話すからと言われていたが、ハロルドに会うのは久しぶりだ。私は逸る気持ちからか、早めに屋敷に到着してしまった。浮かれる自分につい苦笑してしまう。

約束の時間までにはまだ三十分程あったのだが、玄関先で少し躊躇っている私に、顔見知りのメイドが声を掛けてくれた。


あのメイドには何の悪意もない。ハロルドを庭で見かけたと教えてくれただけだ。きっと、この状況を彼女も知らなかったのだろう。玄関から庭に周って辿り着いた先には信じられない光景があったが、それはあのメイドのせいじゃない。


私は木の陰に隠れながら、胸の痛みを抑えきれずにしゃがみ込んだ。

あの声、あの姿は間違いなくハロルドだ。そして、ハロルドがプロポーズしている相手……それは……


「私はハロルド様と結婚したいわ。だってずっと大好きだったんですもの。でも……良いの?お姉様の事は?」


口ではそう言いながらも、喜びの色を隠せない……妹のナタリーだ。


「今の状況じゃ、エリンはストーン伯爵家を離れられないだろ?もうあと二ヶ月程で卒業だって言うのに、これじゃあ結婚どころじゃない」


「でも……その間にお父様が目を覚ましたら?お兄様が戻って来たら?そしたら、やはりハロルド様はお姉様を選んじゃうんじゃないの?そんな事を言われたら私……」

ナタリーの甘えた声が耳障りだ。

このまま耳を塞いでしまいたいのに、ハロルドの答えに期待してしまう自分が居る。

『そうなったら、もちろんエリンと結婚するよ』と。


「エリンを選んだのは僕じゃない。父だ。家柄も丁度良かったしね。だが、彼女は何ていうか…、真面目過ぎてつまらない。それに……歳のわりに地味だしね。僕の好みはもっと華やかで可愛らしい女性さ。そう、君みたいな……僕の気持ちは君だってもう分かっているじゃないか」


「ウフフ、本当?……嬉しい。お姉様より私を選んでくれて」


私は今にも気を失うのではないかと思う程に、胸が苦しくなった。息をするのを忘れてしまいそうだ。

もうここには一秒だって居られない。

私は直ぐ様、立ち上がって走り出した。嫌だ!嫌だ!もう二人の話を聞きたくない。二人に見つかったって構うもんか。

草を蹴る私の足音が緑の風にかき消される。


「!!エリン!!」

私に気づいたハロルドの声が聞こえるが、私は振り返る事も立ち止まる事も出来なかった。


何故だか振り返ってもいないのに、ナタリーの勝ち誇った様な顔が見えた気がして、私は走りながら振り払う様に頭を振った。



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