47.水面下の画策

 浮遊バイクの訓練初日はえんえんと乱気流対応がメインで、ハンドル操作にけっこう力を使い続けて腕と太ももがプルプルする。背中もじんわり痛い。

 昼食を摂りに行く前にトウマが医務室に隣接した薬局に湿布剤を買いに行くぞと言ってくれて、こうなることを予想していたようだ。

 チビはセイの指導の下、雑草駆除が面白くなってきたらしく、まだ菜園にいたいというので、山小屋に戻るときに声をかけることにした。やる気になっているときに覚えてもらえればチビの仕事の範囲も広がるだろう。セイとナタリオさんが静かに首を横に振っていたけれど。


 医務室や薬局のある区画の手前で、手洗い、うがい、エアーシャワー。マスクをして区画に足を踏み入れる。

 廊下に最近貼り直したらしい色のついたテープで行き先が示されていて、熱や咳、鼻水といった風邪症状がある人は赤色テープに沿って進み、それ以外は黄色テープに沿って進む。青色テープは準備中とあったが去年までと同じなら毎秋の季節性の風邪の予防接種を受ける際のルートのはず。

 陛下の秋の来訪が決まった際に、本年の予防接種は前倒しになると管理所職員向けの通達は見たが、具体的にいつからとは書かれていなかった。このテープが貼られたということはそろそろだろう。

 医務室には最低でも二人の医師と六人の医務補佐職員がいるけれど、数日前から風邪が流行っているからか臨時勤務の職員が増員されていてテキパキと診察室に振り分けていた。


 薬局で湿布剤を買い、今すぐに背中に湿布を貼りたいので処置室を借りたくて廊下のベンチで空くのを待つ。

 その間に通りかかった医務室の年配のおじいさん事務員に声をかけられ、明後日から季節性の風邪の予防接種が始まるので、勤務スケジュールと照らし合わせて早めに受けに来るようにと言われた。いつからだろうと思っていたら明後日とは随分早い。


「リリカさんとアロンソさんは陛下がいらっしゃったら領主館で執り行う行事にも参加になるだろう? 早めに打ってしまうのを勧めたい。おい、トウマ、お前もだぞ」

「わーかってるっ。さっさと来るよっ!」


 トウマはわかりやすく嫌な顔。予防接種を受けると副反応の高熱続きで寝込むから嫌なんだとぶつぶつ文句を言っていた。

 私は予防接種後に接種した場所が痛くなり、若干熱が出てだるくなるけれど、高熱となって寝込んだことはない。

 予防接種を嫌がる人の多くは、注射そのものより、副反応で高熱が出たり、頭痛が酷かったり、打った箇所が真っ赤に腫れて痛い痒いなどで嫌だとなるらしい。

 予防接種後の副反応のことを思い出していたら、「注射は嫌だー!」と逃げ回っていたリーダーと、彼を見て呆れ顔のメイリンさんとフェフェを思い出した。


「……まず、リーダーを明後日の予防接種開始の日にここに押し込もうと思います」

「お、それはありがたいな。アロンソの予防接種嫌いは困ったもんでな。去年は会議中に捕まえて打ったと聞いてるからなー」


 季節性の風邪対策の予防接種は国の補助事業で無料で受けられる。シャーヤラン領のあるこの周辺地域は秋で、私の故郷シシダのあたりの地域は初夏、首都だと春だった。気候などの違いで地域によって流行る時期が若干違うのでズレる。そんなこともあり、本当は半年に一回、年に二回受けるのが理想と言われるが、あっちこっちと移動しない限りは居住地の感染ピークに合わせて一回受ければいい。

 七歳未満の子どもは成長度合いに合わせての判断で、基礎疾患との兼ね合いで受けられない人もいるが、基本は八歳以上から接種。

 大昔は予防接種したことで重篤な副作用で亡くなったり、障害が残ることもあったらしい。祖父母世代の時代より前のことなので大昔の話だが、この大昔の話を持ち出して拒否する人も一定数いる。

 今は基礎疾患との兼ね合いで要調整の人以外、重篤な副作用が出ることはないのだが、大昔の情報を鵜呑みにして信じ込み、今の新しい情報を正しく理解せず感情的に反発する声が残っているため任意接種だ。

 ギャンギャンと噛みつく人も、一度季節性の風邪にかかると黙って受けるようになるとも聞く。

 任意となっているが、ほぼ誰もが予防接種を受ける。行政や軍、管理所の職員および家族は実質義務だ。公務員として国民の模範になる目的と言われるが、結局は仕事上、寝込むわけにはいかないのが現状。季節性の風邪にかかった経験がある人や、その看病をした経験がある人ほど予防接種開始とともにさっさと受ける。

 私もその一人だ。

 私は首都に出た最初の二年間は予防接種を受けなかった。感染力の強い季節性の風邪だが絶対にかかるわけじゃない。両親やばばさまたちのおかげでシシダを飛び出し、早く働けるようにならなきゃと学院では猛烈に勉強していて、まだまだ子どもでやはり注射は嫌だった。そんなこんなの消極的理由で予防接種を受けずに流してしまった。看病した経験もなく、症状の酷さを知らなかった。

 見事に季節性の風邪にかかった。

 四十度を超える熱に全身の痛み、このままでは頭が割れてしまうと恐慌状態に陥りそうになった頭痛、頭より大きく腫れ上がったのではないかと錯覚してしまうほど痛かった喉、止まらない咳──。

 学院併設の病院に五日間隔離され、最終的に復帰まで十日間もかかってしまった。朦朧の中で死ぬんじゃないかと何度も思った。後々知った治療費もとても高く、看病に来てくれた両親にもすごく申し訳なかった。

 二度とあの症状を体験したくない。予防接種を受ければたとえかかっても症状は軽く、あそこまで高い治療費にならない。予防接種が始まったら最優先で絶対受けると学び、誓った。


 秋に陛下がいらっしゃることを考えれば予防接種はさっさと受けておくのがいい。昼食後一番でメイリンさんに相談しようと決めた。きっと同じことを考えるはず。私もずいぶん図太くなってきたと思う。


 処置室が空いたので衝立の中で作業服を脱ぎ、背中に湿布剤を貼る。腕と太ももには塗布タイプの湿布剤を塗り塗り。湿布剤は治療薬ではなく一時的な鎮痛を促すだけ。頼りすぎてもいけないとわかりつつも、この数日間は頼りたい。


 よし、昼食だ。午後の勤務を考えると下の街まで出る時間はないので、管理所の食堂か職員寮にあるカフェ、売店の惣菜弁当を買ってどこかで食べるの三択。自然と職員用の食堂に向かっていた。


「今日はトウマの奢りっ!」

「別にいいが、なんでだ?」

「バイクに嫉妬」

「なんだそれ」


 ぶはっと笑われたが、奢ってくれるようなので白身魚のカルパチョを注文してしまえ。鮮魚メニューはちょっと高いので私にとってはご馳走メニュー。

 私が二種類ある緑連豆パスタのどっちの味にしようか迷っていたら、トウマがシェアするかと提案してくれたので、昨日のリーダー夫婦と同じようにシェア前提で料理を選んだ。カルパチョをサラダ代わりにしようとなり、トウマは唐揚げを追加していた。


「デザートはいいのか?」

「うん、いい」


 そんなに一度に多くの量を食べられない。白身魚のカルパチョが食べられるからそれだけで大満足。

 トウマはクリーミーなチーズのコクがある緑連豆パスタソースが好みにあったようで、粉チーズをさらに足していた。


「リリカが緑連豆を潰し始めたのを見たときは、何してんだ? と思ったが、こうなると美味うまいな」

「ここまで大きな話しになるなんて思わなかったけどね」

「そうだな」


 昼食を食べながら、私が不在にしていた間のトウマの話を聞いた。一昨日は私以上に朦朧としていて、昨日も一瞬しか会わなかったけれどかなり疲れた様子だったのが気になっていたのだ。

 トウマとオニキスは揃って睡眠不足だっただけで、体調が悪いわけではなかったことにホッとした。

 整備班で魔導具整備係の先輩二名が休暇に入ったタイミングで大型の医療機器に不調が起きたのが最大の原因。その緊急修繕依頼が入ったときは定期修繕中の他の大型魔導具を分解しきったところで中途半端に放り出すこともできない。整備班の班長や先輩方々があちこち画策しても、人材をすぐに手配できるものでもない。こういうときに限って次々と予定外の修繕依頼も舞い込んでてんてこ舞い。日中に定期修繕して短い仮眠を取り、深夜から早朝まで医療機器の修繕。整備班のメンバーでやりくりしあったが、臨時で持ち込まれる細々とした緊急の修繕依頼も続き、寝たのに起こされる不規則勤務の睡眠不足。整備班メンバー数名が同じ状況に陥ったそうだ。


「何も先輩たちが休みに入った途端にあれもこれも壊れるな! って思ったよ」

「そうだったんだ」

「オニキスも別の依頼があったのに無理させた」


 オニキスはトウマとは別行動で土木チームと動いていた。

 トウマたちのチームが医療機器の不調がなかなか特定できず、事情を知ったオニキスとフェフェが異能の鑑定で助けてくれることになったが、医療機器の中身は非常に複雑で、オニキスたちの異能で鑑定調査して修繕してまた鑑定調査してと、時間がかかったそうだ。途中でフェフェは別の所長案件で呼び出されてしまい、最後まで取り組んだのがオニキス。日中は土木作業支援、深夜から早朝は修繕の鑑定調査支援。やはり睡眠不足になってしまったそうだ。

 幸いだったのが不調となった医療機器を使用して検査する患者数は少なく、提携している下の街にある病院で検査を受けてもらうことで凌ぐことができたことだろう。


「医療ものはまだまだ勉強不足だと痛感した。設計書や整備マニュアルはあるんだが、読み解くだけでも時間がかかる」

「でも、本気で駄目なら班長さんは修繕そのものを保留して先輩さんの休暇明けを待ったんじゃないかな? 班長さんが修繕しようと決めたってことは『いたメンバーで対応できる』って思ったんだよ」

「……そう、そうだよな。どうにも無理だったら先輩待ちにするなり、街からベテラン呼ぶよな」


 トウマはふてぶてしい雰囲気と落ち着き払った様子もあって三十歳台後半のベテランに見えるが実際は二十八歳。魔導具整備士として知識もあって腕もいいと言われているけど若手も若手。経験年数が多いわけではない。

 実践で学べる場はとても貴重。

 トウマに偉そうなことを言ってしまったが、私はもっと歳下で、私自身が日々一つひとつ学ぶ毎日。経験の積み重ねは大事だと思っている。

 少し落ち込んでいたらしいトウマだが、いいこと言ったと唐揚げを一つくれた。もうお腹いっぱいだよ。


 トウマの話しに区切りがついたら、私の話しになったものの、トウマに伯父のことを言えなくてチクリと心が痛んだ。空軍の戦艦に乗れたことやシシダに寄り道してもらえてよかったと当たり障りのない雑談中、自然な笑顔でいられただろうか。


 その後はとりとめのない雑談。シシダでのチビの報道で、私はしばらく街に行かないほうがいいと苦笑まじりに言われた。とくにチビの大ファンなあの商会長のところとその周辺の商店。想像できる。無駄に熱烈歓迎されそう。もうしばらく妖獣世話班の使いっ走りは回避して、職員寮の売店と商会からの仕入れで凌ごう。


 午後はトウマは引き続きバイク整備。私は妖獣たちの見守りで山小屋なので別行動。だけど明日も会える。トウマと会える約束があるだけなのにニヨニヨしてしまう。バイク整備に夢中で私の訓練中の補佐なんてまったくしてくれないけれど、バイクの整備を訓練場でやる必要はなく、私と近くにいたいと思ってくれているとすれば顔も緩むってもんだ。

 もうちょっと訓練を見てくれて、応援してくれてもいいのにと思うが、ちょっと考える。

 仁王立ちで私の訓練を見つめるトウマ。

 駄目だ。そうなったらきっと落ち着かない。

 そこにいる。それでいいじゃないか。うん、バイクに嫉妬してごめん。


 山小屋に戻る前に受付窓口に寄り、メイリンさんに予防接種のことを伝えると、真顔になって私の提案に大きく頷いてくれた。

 明後日に何がなんでもリーダーを医務室に連れて行く。重要な課題となった。

 メイリンさんも演奏の練習日と照らし合わせてリーダーと同時に受けるという。


「チビのコンサートまで風邪なんてひいていられないわ!」


 メイリンさんの目標に笑ってしまうが、メイリンさんだけでなく、音楽同好会から選抜された演奏者のみんながそんな感じのようだ。

 午前にルシア先輩が明日から復帰する連絡が入り、サリー先輩も回復したもののお子さまの体調が落ち着かないので復帰は明後日以降の連絡があったことをメイリンさんと再度確認しあい、細々とした事務作業をこなす。サリー先輩が在宅で事務作業フォローに入ってくれているので予約対応と餌の手配の発注確認は心強い。

 手元の作業に一区切りさせたらメイリンさんと話し合い、リーダーの予防接種対策で明日以降のメンバーの勤務スケジュールの修正提案を作ってみた。しかし、リーダーかシード先輩またはサリー先輩が参加しないとならない会議が結構あってなかなか難航。予防接種後の副反応を踏まえて二日休みで組んでみたら、ニット先輩か私が連勤になってしまった。

 二人であれこれと組み直してみたが、悩んでもパッとうまい改善策が見い出せなかったので、リーダー抜きのメンバー共有をしたら即座にサリー先輩から修正案がきた。


「うわあ、サリー先輩攻めてきた〜」

「でも、そうね。ここのところ当日受付がないのは事実だわ。夏眠預かりがゼロになる四日後から預かる妖獣予約数も少なくなるし、サリーの攻めてきたこの勤務でいけるわね」


 サリー先輩の攻めの勤務スケジュールは、当日受付窓口を一時不在で乗り切るちょっと苦肉の案。どうにも人員不足に陥りそうなとき、当日受付窓口に『御用の方はお呼び出しください』の看板と呼び出し魔導具を置いて乗り切っているのだが、その方法を最初から勤務スケジュールに組んであった。

 今日は休みのシード先輩からもサリー先輩の勤務スケジュールを推す返信が来て、ルシア先輩も承諾の回答。不意打ちの出来事が起きたら予定通りにはならないが、不測の事態ばかり気にしてもどうにもならない。

 明後日リーダーに何が何でも予防接種を受けさせて、その後は順番に予防接種を受ける。

 連日全時間帯を看板対応で乗り切るのは認められていないが、一時的なら所長も見逃してくれる。ただし、相談せずにやると怒られるから、シード先輩から所長に報告してもらえることになった。

 昼休憩で職員寮に戻っていたニット先輩もサリー先輩の案に乗ってくれた。


「さっき端末でも見たけどサリーの案でいいと思う」

「ばうばー、おっおっおっ」


 ニット先輩の背中にはかなりご機嫌な息子さんが背負われていた。

 今まで泣き喚きが酷くて外に連れ出してもギャン泣き続きとなり、まわりに迷惑になるからと外に連れ出すのを止めてしまっていたが、昨日のチビの演奏者との歌合わせでは泣かなかった。あれは奇跡だったのかと話し合い、育児支援の方々からの後押しもあって息子さんを積極的に外を連れ出そうとなったそうだ。乳幼児の成長は早い。夫婦が落ち着いて寝られない日々は続いているのは事実だけど、所構わず泣き喚きが酷かったのは数週間前までの一時的だったのかもしれない、と。

 ちょうど奥さんが売店に買い物に出たついでに、今の息子さんを状態を知るために、あえて外に連れてきたという。

 子どもは泣くものだ。どんどん外の世界を見せたほうがいいと思う。私もメイリンさんもそう助言した。


「部屋では貰った昨日の映像をずーっと流しててさ。画面を食い入るように見て、どうやら歌っているつもりになっているんだ。もう可愛くてさ。またチビの練習に連れて行きたいよ」

「ふふふ、オバチャンはバイオリン頑張っちゃうわよお~!」


 メイリンさんが話しかけたら、ンパーッ! と答えながら、ニット先輩の髪を鷲掴みにしてグイグイ引っ張ってしまう息子さん。


「あだだだっ!」

「あらあら。バイオリンはねぇ、こう弾くのよ?」

「ンプーッ!」

「よーしよしよし、エバンス、髪を掴むな、引っ張るな」


 ニット先輩が握られていた髪を息子さんの手から外すと、今度はバシバシ頭を叩かれて、ドスドスと横腹を蹴られていた。うん、ご機嫌でなにより。

 ニット先輩は奥さんが売店の買い物が終わり次第、息子さんを預けてメイリンさんと交代。

 私も山小屋周辺で走り回っているだろう妖獣たちの監視をしているリーダーと交代なので、窓口をあとにした。


 駐車場に行ったらオニキスがぷかぷか漂っていた。あれ? チビは?


「チビなら先に山小屋に行ったぞ。草抜きの実践だとさ」

「……じっせん」


 セイとナタリオさんが諦めたように首を横に振っていた姿を思い出すと、やらかす結果しか思い浮かばない。


「アロンソとフェフェがいるし、キィもついて行ったし、失敗してもどうにかなるだろ」


 オニキスはのんびり構えているが私は不安。大きな事故だけは起こしてくれるなと思いながら浮遊バイクに跨って山小屋に向う途中、ゴゴンと低い地鳴りが聞こえてきた。


「なんでこんな大穴を掘るのよー!」

「掘るんじゃない! 抜くんだ!」

「あれー?」

「アッハッハッハッ!」


 キィちゃんとフェフェの叫び声と、間抜けなチビの声と、リーダーの笑い声も聞こえてきた。


「……」

「……」


 チビのやる気は認めるけど、チビによる草むしりの道のりは非常に遠いようだ。

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