3.妊婦はつらいよ

 ここは牧場の離れと言われているあまり活用されていない建物にある厨房。私が汗だくになりながらコトコトと煮詰めているのは蒲焼き用のタレ。この世界で蒲焼きは聞いたことがない名称なので、ひしおの甘ダレと言っている。

 マドリーナから、この厨房は空調の効きが悪いから使ってないと言っていたが、本当に悪い。窓を開けたくても開けるのを躊躇う物体が二つ。私が立つ竈のすぐ横の窓に貼り付いて、自分の鼻息で窓を曇らせては「見えない」と言っているチビとオニキスは鼻歌が止まらない。

 最初は窓を開けていたのだが、空調の効きの悪さに加えて、チビからのブフォーっと生温かい鼻息の攻撃に疲れてしまい閉めたのだ。風の通りが悪くてしんどい。


 オパールたちが妊娠しているとわかって、私とトーマスは急ぎ主要な関係者に集まってもらった。騒然となったのは言うまでもなく、採集キャンプ地にいる所長や、管理所に詰めている所長代理などの上層陣を招集して通信会議が行われた。

 私も下っ端ながら会議に参加したものの、上層部への報告はトーマスと妖獣世話班のリーダーがやってくれた。

 少し揉めたが結果的にオパールたちのつがいの妖獣は、次の物資補給船で帰ってくることになった。

 やんごとなき方の私兵がこちらに帰らせたい妖獣を自らの主から預かっている身として一緒に帰って来るのだが、その人が前線から離脱したくないと言い出したために話が長くなったのだ。今回はやんごとなき方よりさらに上の高貴なる御方がわざわざ会議に出席してくれて、「妊娠している妖獣のケアを優先しなさい」の一言で一件落着。

 高貴なる御方は採集管理所の味方。管理所は軍の管轄という国の機関なので、トップは国の最高責任者。報道動画でしか見たことがない国王陛下と会議をともにするなんて、これを人生で最初で最後の機会にしたい。

 通信会議をやる前から、ごねて揉めそうな予想はしていて、所長がこれ以上ない切り札としたのが陛下の参加。その陛下が今回の採集遠征の実行を最終決定したので、所長は陛下に対してまだ怒っている。陛下にブツブツ文句を言える所長、何気に強い。

 陛下も通信会議で繋がるメンバーが身内だけになったら、所長の隠さない怒りに大きなため息を吐いていたので、上には上の苦労もあるんだろう。


 通信会議前後に漏れて聞いた話しでは、離脱を拒否した私兵は採集隊を見張ることだけに全力投球している暑苦しく使えない人材だという。そんな話を聞かされ無駄に疲れた。

 この管理所での妖獣の管理などは妖獣世話班が窓口であり担当なので、暑苦しく面倒な人と接することになるとわかって、うわぁと声を発した私とリーダーに同情の目が向けられた。

 絶対に面倒くさいと思うが、今は雷と白炎を撒き散らし続けるオパールたちの心身を安定させることのほうが大事。


 会議中一言も発せず、末席に座っていただけなのに精神をゴリゴリと削られた疲労感を引きずりつつ、私の目下の心配は、甘口の大豆のひしおの仕入れ費用が経費で落ちるか否かである。

 普通のものより倍以上の値段がする極上の醤油なのだ。高いのだ。風味と甘さが段違いに違うのだ。これで作る甘ダレは絶品の絶品なのだ。自分へのご褒美で自分用に買ったのだ。

 それを使い切らねばならないとは!

 でも、チビにもオニキスにも頑張ってもらった労いならば、使うけど、使うけど、使うけれどもー!

 使った分を補充する購入費用が経費で落ちなきゃ、トーマスの懐から出してもらう。勝手に約束したのはトーマスだから!


 フォレストサーペントはサクッとマドリーナが狩ってきた。しかも丸々太った個体を三匹。

 夫が勝手にした約束に、「あらあら仕方ないわねぇ」と首を横にちょこんとかしげて、エプロン姿のまま森に入っていき、仕留めてきたマドリーナ。

 この人を怒らせないぞと強く誓った。


 オパールたちはチビとオニキスによる必死の説得を聞いてくれて、「妊娠しているなんて知らなくて! 俺たち事情を知ったんで困ったことあれば助けますから!」の言葉にボロボロ泣いたそうだ。

 オパールたちは不定期的に酷く熱が上がり、イライラが制御できずにとにかく走り回りたくなるらしい。牧場の従業員に向かって走ったのも、その方向に人がいることすらイライラしすぎて認識していなかった。オパールたちに悪気はなかったとは言え、そもそも妊娠している妖獣と番を離れ離れにすると、妖獣が精神不安定になって攻撃されるのは習う。双方怪我なしで本当によかった。ゴゴジもねぎらわなければ。


 通信会議を終えてオパールたちのところに戻り、遅くても三日後には番の妖獣がここに来ること、妊娠していたことをわかってあげられなくて申し訳なかったこと、とりあえず雷と炎をおさめてもらえればありがたいな~と切々と訴えたら、私たちにもボロボロ泣いた。

 雷と白炎をちょびっと浴びたが、防火衣とフルヘルメットで無傷。なお、とても暑かった。

 私もトーマスもリーダーも妊娠の可能性に至らず、人を警戒しまくっていたオパールたちの奇妙な行動を分析しきらず、本当に申し訳なかったと反省。

 オパールたちも反省してくれた。

 ピリピリしていた態度を改めてくれて、妊娠していたことをひた隠しにしていた事情を話してくれた。その事情も踏まえて番と離れ離れになる覚悟をしたのに、予想外の悪阻。その気持ち悪さは耐え難く、今回騒動を起こして結局バレたと落ち込んでいた。

 諸々リーダーが持ち帰って所長を含め、また高貴なる御方にも相談しないとならなさそうな重たい話だったが、私はオパールたちの心身の安定だけに集中すればいい。


 昼過ぎまでかかってひとまずは落ち着き、チビとオニキスに急かされて甘ダレづくりである。

 山小屋の寝室に隠し持っていた醤油などの材料を持って牧場に戻り、甘ダレを作っているが、甘めの醤油を全て使っても小鍋ひとつ分しかできない。全然足りない。若干風味は落ちるけれど普通の醤油にはちみつや砂糖で甘さを足して大鍋の量にした。管理所の調理場で活用度が低い三温糖を使ってしまえと持ってきてもらって入れたことで、まあまあいい風味と甘さになった気はする。

 そういえば山小屋に材料を取りに寄った際、スライムがトゲトゲした形状になっていたけど、なぜだ? 私が出てから山小屋が汚れるようなことは起きてないだろうに、なんで怒ってたのかな?


「チビわかる?」

「オレっちもスライムとは交信できないからわかんないよ。ところでタレまだ? もういいんじゃない?」


 チビの涎がすごい。あとで窓と外壁の掃除をさせよう。

 チビもオニキスも普段は味付きなんて食べないのに、どうして前回なんちゃって蒲焼きを作ったときに食べたのか。そしてハマったのか。妖獣は調理したものは食べな……リーダーを相棒としている妖獣はシュークリームが好きだな。今頃になって授業の内容が間違っている疑惑。今度リーダーに聞いてみよう。


 チビとオニキスの後ろではバーベキューの用意が着々と進んでいる。フォレストサーペントを豪快に焼くなら、わいわいやろうとなったのだ。牧場の従業員たちが張り切っている。

 ゴードンの学校通信も終わり、友だちも三人やってきてキャッキャとお手伝い。ヘンリーは昼寝中だが、途中で起きてきたらその時に考えるべし。

 午前の騒動はなんだったのかと思うほど穏やかな午後。薄曇りの曇天なので暑すぎなくていい。


「よし、チビ〜、鍋を運んで」

「待ってた!」


 竈のスイッチを切り、窓を全開にしてチビに託す。大鍋が水平のまま宙に浮き、窓を越えてバーベキューの準備をしているところに漂っていけば、タレの香りだけでも食欲を唆る。


「いいにおい〜」

「おなかすいた〜」

「さあ焼くぞー!」


 わっと盛り上がってバーベキュー開始。

 フォレストサーペントはヘビ型の魔物。全長六メートルくらいある大きな一匹は分けて人が食べる用。残る二匹も三メートル近くあって極太。チビとオニキスには丸ごとって約束しちゃったからね、トーマスが。

 私がタレ作りをしている間にフォレストサーペントは丁寧に骨を取って食べやすい大きさにカットされていた。

 炭火の上で素焼きして脂を軽く落とした切り身をドブンとタレに浸け、再び炭火の上に持っていけば、タレの焼ける匂いが空腹に暴力過ぎる。


「くぅ! まだ食べてないけど絶対美味しい!」


 自画自賛。

 炊いた米を器によそって焼いたフォレストサーペントを乗せれば蒲焼き丼のできあがり。この世界にも米の上に具材を乗せる料理はあるので、どこかの郷土料理にありそう。その郷土料理の名前がわかるまでは、うっかり蒲焼きと言わないように気をつけよう。

 一口食べれば幸せが口の中いっぱいに広がった。

 私の中にある情報では、蒲焼きと言えばウナギという動物らしいが、ウナギは見たことがない。川ヘビや沼ナマズとは違うのだろうか? 今度調べてみよう。

 チビとオニキスもたっぷりとタレを塗って焼かれたフォレストサーペントにかぶりつき、恍惚な表情で意識を飛ばしていた。そうだろう、そうだろう、たくさんお食べ。


「リリカさんのこの甘ダレ最高です」

「サザラ領のひしおはしょっぱいって聞いていましたが、こうして甘くするのはいいですね。食堂のメニューになれば売れると思うんですが、メニューにはならないんですか?」


 牧場の従業員たちが定番メニューにと言ってくれるが、おそらく実現はしない。

 この地方は大豆の生産は少ないし、大豆からの醤の製造もない。サザラ領かその周辺で製造されている商品を取り寄せることになるので、運賃含めて仕入れ値が高くなる。

 仕入れ値問題以前に、採集管理所の食堂のメニューは実は地産地消を前提として安く提供している。この地の地産地消の食材で他領の郷土料理を再現できるなら期間限定メニューになるけど、蒲焼きは難しいと思う。今朝、私が作った味噌スープも職員限定の賄いで食堂のメニューにはなっていない。味噌もこの地方では作られていないのだ。

 困ったように笑い返すしかなかった私だったが、マドリーナが食堂メニューの裏話をしてくれて、月に一回程度、牧場で味噌や醤油を使った料理パーティーをするのはどうだろう? という提案にノリノリの従業員たち。そういう提案なら、従業員たちも覚えられる、多分マドリーナが習いたいんだろう。


「なあなあリリカ、フォレストサーペントの焼いて脂を落としたやつ、この葉に包んで?」

「ん? これ、チイの葉じゃん?」

「オパールねえさんたちに持っていく」

「チビ、優しい~」

「あんなに泣かれちゃうとさぁ……。それに腹の中にがいるんなら、もっと栄養が必要なのに痩せちまってるしさぁ」

「うう、チビの優しさに泣きそうだ。よし、他の肉とか野菜も分けてもらってくる」


 私とトーマスが会議に出ていた間、チビとオニキスは本当に頑張ってくれた。体に焼け焦げた痕があちこちにある。オニキスは背中のところどころの毛が焼けてしまっていて本当に痛々しい。「たくさん食べれば数日で毛は揃う」と笑っていたが、人に向けて怒っていたオパールたちの雷と炎を代わりに浴び続けて、落ち着かせてくれたのだ。

 オニキスは影の功労者のゴゴジに食わせたいと、フォレストサーペントのいいところの部位を分けるように言ってきた。泣ける。


「俺たち朝にもいい肉食べたし、ゴゴジはまだ食べてないし、もしかしたら、ずっと姐さんたちを観察して寝てなかったんじゃないかと思ってさ?」


 もう、本当にカッコイイこというオニキスだけど、牙に生のジャガイモが刺さったままなのは何故かな? ジャガバターが食べたい? 珍しいことを言うね。よし、ゴードンとそのお友だち諸君、オニキスを接待しよう! ぶどうのゼリーとみたらし団子もどきを作っておいたからみんなでお食べ!


 珍しく調理した食事を食べたがるチビとオニキスはゴードンとその友だちたちに任せて、マドリーナとともにオパールたちに持っていく食材を詰める。

 チイの葉はその香りに弱い鎮静効果がある植物だが、管理所の植物園では栽培しておらず、一番近くて山一つ越えた谷の底。植物園には他の鎮静効果のある植物があるものの、妊娠している妖獣に使っていいかがわからない。牧場の従業員とチビとオニキスがの頭を付け合わせ、各々が持っていた情報から唯一問題なしとなったのがチイの葉。

 今のオパールたちに人工的な薬剤投与や芳香はやめたほうがいいし、怪我の治療が少なかったチビが採りに行ったのだと教えてもらった。


「チイの葉は私も助けられたわ」


 マドリーナはチイの葉の香りを嗅いで、悪阻を落ち着かせてくれるアイテムだったと教えてくれた。

 チイの葉を乾燥させて妊婦用に天然芳香剤として売られているのは見るが、こうして緑鮮やかな葉を手にするのは珍しいとのこと。私の故郷では湯治場の近くの渓谷にわしゃわしゃ生えていて見慣れた植物なのだが、あれも地域行政が管理していて採集には申請が必要だったと思い出した。

 籠の下にもチイの葉を敷き詰めて、オパールたちが食べられそうなものを詰めていく。

 マドリーナは初めて妊娠したとき悪阻が酷く、ネバネバイモなら食べられたそうだ。妊娠すると果物や酸っぱめのものが食べたくなると聞いていたが、それらが全然ダメで、なぜかネバネバイモ。


「何が食べられて、何がダメになるか個人差があるとは聞いていたけど、本当にびっくりだったわ。だってネバネバイモ苦手だったんだもの」

「そうだったんですか」

「オパールたちも、『普段は食べていたのにどうして食べられないのか?』っていう食べ悪阻の感覚があるなら、そのことにもイライラしてるんじゃないかしら。いろいろ持っていってダメなら持って帰ってくればいいし、とにかく種類を持っていきましょう」


 野生の妖獣が妊娠した場合、どうやって悪阻の酷さを凌いでいるのかわからないが、野生なら番がせっせと世話を焼くはず。番が側にいる安心感で悪阻が酷くないのかもしれない。

 番の帰還までの三日間、とにかく誠心誠意、オパールたちのイライラに、こちらがイライラしないように努めなければ。


 ゴゴジは地中のどこにいるのかわからないのでどうしようかと思っていたら、菜園係から通信が入り、ゴゴジを回収しに来てくれと要請が入った。いくつか出てくる場所の予想はしていたが菜園だったか。出てきたのに寝て動かないのは邪魔でしかないと。はい、参ります。


「リリカ姉、またあした?」

「うん、また明日」

「これもおいしかった」

「ふふふ、また作ってあげるね」


 ぶどうのゼリーもみたらし団子もどきも子どもたちに好評だった。みたらし団子もどきはマドリーナも興味を示したので、作り方を早々に教えて親子でキャッキャと作ればいいと思う。マドリーナは私よりも料理の幅が広いし、いろいろアレンジできるだろう。まずはトーマスの稼ぐお金で味噌と醤油を取り寄せるところからだな。


「チビ、オニキス、私はゴゴジを回収して山小屋に戻るから、食べるだけ食べたら勝手に寝てね」

「オレっちまだ食べるー」

「俺もまだ食べるー」


 二匹揃って焼けるのを待っているのはベーコンのアスパラ巻き? チビ、そんな小さいもの食べて味わかるの?

 それにしても本当に調理したものをこんなに食べるのは珍しい。ちょっと心配。


「……胃もたれにいいのは何でしたっけ?」

「……パパオの葉でいいんじゃないかな?」

「パパオならいっぱい生えてます」

「アイツラなら勝手に食べると思うから大丈夫だと思うぞ」

「そうですね」


 朝もそれぞれ大型の牛を食べて、今フォレストサーペントをほぼ丸ごと一匹食べて、まだ食べている。どうにも食いすぎモードのチビとオニキス。トーマスもそう思ったようだが、あの二匹なので心配はいらないだろうという結論になった。


 朝早かった私はもう眠い。スライムの外壁掃除に疲れて、オパールたちの妊娠に驚き、諸々手配に奔走して、なかなかの疲労感。明日も早朝仕込みの約束をしているので太陽が沈むのと同時に寝たい。帰宅したらシャワーをして即刻寝たい。


 山小屋に戻った私の希望は叶わなかった。

 スライムの機嫌は最悪で、何度も何度も起こされた。帰宅しただけで山小屋の内外どっちにも怒られるような汚れはない。風呂場も洗ってきた。着ていた服も洗濯籠に入れた。なのになぜか機嫌が悪いスライム。

 もう訳がわからなくてとにかく謝った。スライムに土下座して、寝させてくれ頼む! という情けない姿を、窓の外からチビとオニキスとオパールたちが眺めてきたが、一匹も助けてはくれなかった。薄情者!

 この山小屋の家主は私なんだが?

 スライムよ、お前は一体何なんだ。もう!

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