第12話 愛ゆえに自己犠牲は普通だよね
教室の扉付近。
背中をポンと押された俺は、水瀬を巻き込み転んでしまった。
途中で体を一回転させることで、水瀬が床に叩きつけられることを防ぐ。
よく漫画で女性が下になることがあるが、あのシーンは非現実的だ。
背中が痛む。
「健人くん大丈夫?」
心配そうに見つめる水瀬。
それはありがたいのだが、色々と厄介な問題が。
水瀬の整った顔が真上にあること。呼吸音が聞こえてきそうなほどに近い。
「ああ、大丈夫」
そして、
腰の部分が芸術的に一致したことにより、傍から見ると水瀬が下心で押し倒したように見えるわけで。
「水瀬が小鳥遊を押し倒しているぞ!!」
坊主頭の野球部――久島光輝の扇動的でエネルギッシュな声が聞こえてきた。
呼応するように騒めくクラスメイト達。
余計なことを言ってくれる。
平穏無事な学生生活が恋しい。
「うわ~水瀬エッロ! スカートが小鳥遊の股間を覆ってるじゃん!」
光輝は空気も読まずに、中学生のようなことを言い放つ。
光輝は馬鹿である。
しかし、人気者でもあるので、教室の空気は一変する。
クラスメイトたちは、ひそひそ話をしながら俺たちを見ていた。
「水瀬やるじゃん~!」
廊下では有本雫がニヤニヤとした表情で俺たちを見ている。
「助けろ」
「はぁ? なんで?」
……どいつもこいつもアホだ。
「水瀬えっろ! あたしも抱き着きたいな~。いいな健人くん」
「なっ! そんなつもりは無い! 事故!」
水瀬は頬を真っ赤に染め上げるて、手をワチャワチャと動かしながら抗議している。
とはいえ、この状況が簡単に覆るわけではない。
『水瀬は、変態である』という共通認識は、思いのほか早く広がるものだ。
人は、うわさ話が大好きなのである。
「水瀬さん。意外と大胆なんだね」
「有本さんに背中押されただけじゃないの?」
「友達の有本さんが押す?」
「押さないか」
「二人はどういう関係なんだろう」
「小鳥遊ってそんなキャラじゃなかったよな」
「それ思った」
「小鳥遊、羨ましい。呪う」
有本雫は行事大好きの陽キャで、クラスでの立場とイメージがかなり良い。
だから、親友の水瀬を押すはずがないと考えているようだ。
俺は心の中で溜息をついた。
家に帰ってゲームしてぇ……キンキンに冷えた炭酸を飲みながら。
俺は、再び雫を見る。
サムズアップをしていた。意味が分からねえよ。
水瀬は女の子だ。こんな不名誉な状況は、可哀想だ。
それに、ケントと朝比奈水瀬の関係性に気づく奴もいるかもしれない。
仕方がない。泥をかぶるか。
「水瀬、俺に任せてくれ」
「健人くん?」
照れ笑いをして、頬を緩ませている水瀬がいた。
え? なんで?
「まぁ……とにかく少し荒業になる」
水瀬を下に寝かせると、俺が上になるように態勢を変えた。
「下から見る星宮は最高だったが、上からもいいな」
こんな手法しか思いつかない自分が恥ずかしい。
「そういうことは、公共の場で言わないで」
そうだよなと思う。ごめん水瀬。
「困るよ。人目が無いところじゃないと!」
「……」
どうやら、水瀬は混乱状態のようだ。
「俺がドジなばかりに星宮さんを廊下に倒しちゃって。でも、ラッキースケベってやつ?」
大きな声でそう言うと、再び教室が騒めく。
「な~んだ。小鳥遊からか」
「良くねーよ! 小鳥遊の発言やばいって」
これでいい。
平穏無事な高校生活を守るためには、時に自分自身を犠牲にしなければならない。
「という設定で」
俺は皆に聞こえないように、小声でそう呟く。
「設定……」
「そ。その方が水瀬のイメージはいいだろ」
「うん」
「あの星宮、腕離してくれる? また疑われるぞ」
水瀬は、俺の袖口を掴んでいた。
「でも、それじゃ健人くんが」
寂しげな表情をしていた。
床を覆うように金髪が扇状に広げて、ただ真っすぐに俺を見ていた。
うっ……そんな視線で見られると、困る。
それでも、俺は自分自身の平穏と水瀬のイメージ維持のために、重い体を起こそうとした。
その時。
「星宮に小鳥遊。お前らなにやってるー?」
最近赴任してきた若い女の担任――寺島梨乃が俺たちを見下ろしていた。
鋭い目つきにショートヘアー。
猫背で全身に力が入っていない寺島先生は、矢継ぎ早に口を開く。
「全く。机を使ってやりなさいよ。それが学生の特権でしょ」
事態をややこしくするな。
背中に冷たい汗が流れる。
「ご、誤解だ! これは事故で――」
「分かってるって。小鳥遊が欲情を抑えきれずに、星宮を押し倒してしまったんだろ?」
「ううん。梨乃ちゃん、私がやったんだー」
「え?」
起き上がった水瀬は、微笑んだ。
「星宮。性欲もほどほどにな」
「でも、性欲じゃないよ! 協力者としての愛情だもん」
「分かった。よくわからんけど、席に戻れー。有本、お前もだぞ。いつまで廊下にいるんだ」
「はーい」
水瀬は恍惚とした表情で、俺をずっと見ていた。
「これも私の意志だよ」
「あ、うん」
何の意志!?
水瀬の考えは分からん。
男子生徒から憎悪の視線。瞳に黒い炎を宿している。
女子生徒からの反応は様々だ。
嫌悪で顔をしかめている生徒や、ハアハアと息を荒げている生徒もいる。
間違いなく俺の平穏無事な生活は、終わりを告げようとしていた。
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