第7話 前途は多難だね。

 土と緑の匂いを含んだ風がスーッと頬を撫でる。この季節の風の匂いは格別だ。何故だかわくわくする。見上げた空は薄く刷毛ではいたような雲が広がっていて、はっきりと青空とはいえないまでも、お天気と言って差し支えない。


 ――そのはずなのだけど。


「うぅ……ナタリア様、すぐに戻ってまいりますので、どうかお嬢様の夜泣きとオムツの洗濯と、わたしがいないことであるかもしれない使用人の嫌がらせで倒れられませぬようぅぅ」


 一人だけ雨模様な侍女を前にこちらも苦笑してしまう。嫌がらせのくだりは夫や屋敷の使用人に聞かれていたら、不敬と言われてしまうだろう。


 でもこれも責任感と愛情からくるものだから悪い気はしないし、そのことを言及されれば彼女を家に帰してでも守るつもりだ。


「マーサは本当に心配性ねぇ。大丈夫、これでも産みの痛みに耐えた一児の母よ。それよりも実家が馬車で三日もかかる距離だとは思わなくて……ごめんなさい、こんなお願いをしてしまったりして」


 意外なことに旦那様は里帰りのお願いした翌々日には、こうして馬車を用立てて下さった。単に用事をさっさと済ませろということなのだろうけど、お金を渋ったわけではなさそうなきちんとした馬車だから、そこのところも含めて感謝しかない。


 普通なら怒るところでも、冷遇というか、妻に興味がないからかあまり怒られなかったのも良かった。この調子でこれからもこちらの奇行を諦めてくれている夫でいてほしい。


 それにあの日も部屋に戻ったらすぐに医者を手配してくれていた。産後に全力疾走するイカれた妻に対しての対応としては満点だと思う。まぁ医者が帰ると同時にドレスの採寸にお針子さんが入ってきた時は、絶対に夜会への出席を有耶無耶にさせまいという圧を感じたけど。


 しかもお針子さん達は夫から口をきくなとでも言われていたのか、こちらへドレスの希望を訊いてくることも一切なかった。まぁもし訊かれたところで特に希望もなかったからそこは気にしていない。出されたものを着ます。はい。


 まともな会話をしたのもあの日が久々なので、どういう人物なのかいまいち計りかねるものの、そこまで短気な人という印象はなかった。まぁあの短時間での印象だから、期待しすぎてもいけないとは思う。


「何を仰いますか! ナタリア様のためでしたら、このマーサ。たとえ火の中水の中ですわ。必ずやナタリア様の秘密をお持ちします」


「ふふ、私達の侍女は頼もしいわねぇアイリーン。ああ、それから弟のために書いた物があれば、それもお願いね。この子に読み聞かせてあげたいの」


「ええ、心得ておりますとも。旦那様達へのお手紙も、しっかりお渡ししておきますからご安心下さいませ。それでは馬車の手配が出来たようですので、行ってまいりますわ」


「んままま、ぷぅ〜」


「いやぁぁぁ、可愛いぃぃぃ! 赤ちゃんの成長は一分一秒ありますもの、見逃さないためにもすぐに戻ってまいりますからね〜」


 小さな手を伸ばして可愛い声を上げる愛娘に高速の頬ずりをして、後ろ髪を引かれまくったまま馬車に乗り込むマーサ。その姿を指をしゃぶりながら見つめるだけで、直前までの頬ずりは泣くどころかスルーするあたり、本当に大物な子である。


 このまま育てば王子の妃候補になるのも分かるのに、ここから何で将来あんなに余裕のない子になるのか……いや、その余計な設定盛った私のせいなんだけども。本当に申し訳ない。


 でも悪役令嬢ってそもそもスペック高いから、そんなヒロインに大敗することある? ってポジションだしね。母親として大事に育てないという気持ちも新たに、ゆっくりと走り出す馬車を見送る。


「――……ふぅ。今日からしばらくお前を守るのはお母様だけだけれど、一緒に頑張りましょうねアイリーン。大丈夫、誰もお前に触れさせたりしないわ」


「あぷぅ」


「マーサじゃないけれど、本当に可愛いわ~。私の顔のパーツがあんまりないのが悔しいけど、だからこそ美人さんになれる素質があるものね」


「うむぅ、あぶぶ……」


「今日は昼間にお散歩をたくさんしましょうね。そうしたら夜に眠れ――あ、うーん、先にオムツ替えましょうか」


 眉間に可愛らしい皺を刻んだと思ったら、オムツ越しに抱き上げていた腕に温もりが伝わってくる。これは小さい方かな。うん。急にうにゃうにゃと唇を戦慄かせて文句を言う愛娘に苦笑しつつ、せめて馬車が見えなくなるまではとマーサに手を振った。


 その後はすぐさま自室に戻り、窓を開け放してオムツを交換。汚れ物と化した布とオムツを交換したことでご機嫌に戻った娘を抱え、勝手に占拠している洗濯スポットへと向かう。


 毎日使う洗い桶は乾く暇もないけど健康だということで良し。ちなみに娘の成長記録日記は、前世でいうところの母子手帳も兼ねている。弟や妹の時に苦労したから、発熱した日とかひきつけ起こした日も逐一つけてあるのだ。


「今日も暑いし脱水症状が出たら困るわね。そういうことだからアイリーン、あとでお水飲んでくれるかな〜?」


「あぷぷぷぷ」


「そう飲んでくれるのね。アイリーンが良い子でお母様嬉しいわ」


「んぷぅ」


 当然だけど全然何を言っているかは分からない。でも話しかけている時に相槌を打ってくれるのは嬉しいし、この積み重ねが早くお喋りを憶えさせるというのも事実だ。なので基本的に子供の面倒を見る時は、独り言でも構わないから話し続ける。


 ただこっちでは主流の子育て方法ではないだけに、傍目には完全にヤバい人なのはご愛嬌。マーサがいないのでバスケットに寝かせたまま話しかけるものの、視線はこまめに愛娘へと向ける。


「洗濯板が似合う伯爵夫人なんて、きっとお母様くらいのものでしょうねぇ。でもこうも洗濯物が多いと、脱水機とか欲しいわ。一人でもオムツやスタイをギューッと絞れるの。貴女のお父様に言ったら買ってもらえるかしら?」


 額の汗を袖で拭いながらオムツに石鹸を擦り付け、泡が残らないようにしっかり濯ぐ。汲んできた水はあっという間に少なくなり、もう一度汲みに行こうと立ち上がった瞬間、立ち眩みがして慌てて座り込む。


 前世よりはうんと涼しいものの、それでも暑いものは暑い。全力疾走したあとに診てくれた医者には、一応健康だけど無茶をするなと口調はやんわり、けれど目は三角につり上げさせてしまうくらいには怒られた。


 浅い呼吸をくり返す私をジッと見つめる愛娘の瞳は、キラキラと輝いて美しい。このモブ顔から産まれたとは思えないわ。将来が楽しみすぎる。


「良い子ね……アイリーン。そのまま、少しだけ大人しくしていてね」


 伯爵夫人としてはしたないとは思いつつぺたりと地面に座り込み、スカートが捲れ上がらないように気をつけながら立膝をして、額を膝頭に預ける。顔は斜めに。視線は娘に。サラサラと木の葉が風に揺れる音が耳に心地良い。


 うっかり閉じそうになる目蓋を叱咤し、さぁ立ち上がって水を汲みに行こうかと思ったその時、いきなり背後から腕を掴まれて、自分の意思とは関係なく引き立たされた。驚きで声を出すのも忘れて振り返ると、そこには不機嫌さを隠さない夫がいて――。


「地面に座り込むなどはしたない真似はよせ。屋敷の敷地内とはいえ、みっともない姿を晒すな」


「はぁ……申し訳ありません。突然立ち眩みがしたもので」


「言い訳は結構。次に男児を産むと言ったのは君だろう。健康管理くらい自分でするべきではないか?」


「ええ、仰る通りですわ。以降気をつけます」


 優しさの微塵もない声と内容に思わず感心してしまう。いっそ清々しいブレなさだ。そういうところむしろ嫌いじゃないわ。優しき夫へ会心させるのは無理そうだけど、契約者としては安心感すらある。


 彼は洗濯物を浸けた桶と私を交互に見比べたのち、娘には一切視線を向けないまま腕を離した。視界に入れるのすら拒否か。徹底してるねまったく。


「旦那様はどうしてこちらに?」


「来月の夜会の打ち合わせをするために君を探していた」


「成程、それはお手数をおかけして申し訳ありません。ではこの洗濯が済み次第、執務室の方へ参りますわ」


 やんわり〝邪魔をしないで待ってろ〟と匂わせたのに、彼は「この作業はあと何工程で済む?」と問うてきた。スケジュールに厳しい人あるある。お前の予定など知ったことじゃないムーブですね。


 ただどうして今なのかと問いたい。でもまぁ、娘を構ってばかりでも駄目か。冷遇夫と悪役令嬢(予定)どっちも責任取らないと平等性に欠けるし。目指せるものなら目指そう、仲良し家族。


「あと二回ほど濯ぎが必要ですので、今から新しい水を一度汲んできて、濯いで、洗濯紐に干してですから――四工程ですわ」


 別に腹が立ったわけでもないので、そう訊かれたことにだけ答える従順な妻を演じたところ、何故か彼は「水は汲んでくる。三工程で済ませろ」と言い出した。でも分かってます。これが優しさでないことくらい。


「君のその作業速度で、このどうでもいい仕事が終わるのを待っていては、こちらの執務が一向に片付かん」

 

 ほらね。

 冷遇系の効率厨ってこういうことなんだよ。勉強になります!

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