第4話 ちょっとした問題が。

 九月の青空に洗ったばかりの白い布オムツがはためく。この枚数をマーサと二人で洗って絞って干した達成感ったら凄いわ。あと前世の赤ちゃんグッズが恋しい。こんなことならプロットに書き込んでおけば良かったなぁ。


 大きな木のたらいの水を捨てるのは骨が折れた。腰にもくるしね。伯爵夫人の悩みじゃないわ。盥を柵に立てかけて乾かしていると、足許から「あ〜、あ〜」と可愛らしい声が聞こえてきた。


「うん、お花が気になるの? でもまだ触っちゃ駄目よ。かぶれちゃうわ」


「あうあう、う〜」


「良いお天気でご機嫌ねぇ。アイリーンがご機嫌だとお母様も嬉しいわぁ」


 敷布の上で腹ばいになって遊んでいる娘をあやしつつ、触ってはいけないものからさりげなく遠ざける。


 首が座ってからは視野が広がったので、今までよりも気をつけることが多くなったものの、喃語も覚え始めて可愛いことこの上ない。簡単な手遊びも出来るようになった。もう少ししたら離乳食の時期かな。


 夫に乳母を解雇する代わりに一人で面倒を見ろと言われた日から、早いもので四ヶ月。出産からだと五ヶ月が経った。幸いにも毎日屋敷のどこかしらを散歩しているおかげで、アイリーンの夜泣きはそこまで酷くない。


 ただし寝返りを打てるようになったため、夜は添い寝が必須だ。あと髪の毛がアイリーンの指に絡まると大変なので、三つ編みにして背中に隠して眠るから肩凝りと枝毛に悩まされてはいるかも。


 子育てというのは時間の感覚がなくなる。前世で子持ちの兄妹がそう言っていたことを、初めて我がこととして味わっているが、代わりに毎日何かしら娘の小さな成長を見つけられて楽しい。 でもそんな暢気なことを感じられるのも、マーサのおかげでワンオペじゃないからだ。


「お嬢様はお話上手ですね〜。可愛い可愛いほっぺた、食べちゃうぞ〜」


「あ〜、うぅうぅ、」


「いやぁぁぁん、国宝! ここに国宝がおられますわナタリア様!」


 そう言いながらアイリーンの前方の虫を追い払い、プニプニの頬を擽るデレデレな侍女。もうお嬢様呼びはされなくなったはずなのに、少しそわっとしてしまう。そんな彼女がアイリーン同様腹ばいにならないよう目を光らせるのも、主人としての務めだ。


「マーサ、アイリーンが可愛いのは分かるけれど、顔が……貴女のそんな姿を他の人に見られたら大変だわ」


「あら、平気ですよナタリア様。このお屋敷の人達は旦那様も含め、わたし達に興味などありませんもの」


 ケロッとそんな風にマーサは言うけど、私としてはむしろその方がありがたい。それに食事は一日三食充分な量がきちんと出されるし、栄養価も産後の人間用に考えられていた。オムツの布は汚れが目立つようになれば、朝新しいものがドアの前に置かれている。

 

 ストレスを感じるような世話係を傍に置かれるくらいなら、いない方がマシだ。前世は一般家庭だった上に姉弟が多かったから、着替えも難しくないものなら一人で出来るし、赤ちゃんの面倒もそれなり以上には見られる。


 ただ少々意外だったのは、本当に夜の渡りが一度もないことか。無理矢理ことに及んで、さっさと跡取りを産ませたあとに追い出すつもりなら、それはそれで仕方がないと思っていた。何せ冷遇キャラクターですから。心がないのも頷けるってものだ。


「ふふふ、それはそうだけど、いつ私の素敵な侍女が誰かに見初められないとも限らないでしょう?」


「少なくともこのお屋敷の方はあり得ませんね。出入りしている商人とかなら別ですけれど。オムツを洗う姿に一目惚れとかして下さる方が良いですわ」


「素敵だけど難しそうねぇ」


「難しいからこそ燃えるのですよ、ナタリア様――と、いけない! お嬢様とナタリア様がここにいらっしゃる間に、お部屋の掃除をして参りますね」


「ええ、ありがとうマーサ。お願いするわ」


「お任せ下さいませ。ではまたお掃除が終わり次第お呼びに参りますね」


 そう言うや、ふんわりした所作ながら素早く立ち去る侍女を見送り、娘と二人だけになった。パタパタとオムツ布が風に翻る音と、木々の葉の擦れる音。夏の日差しの香りと土と、石鹸の香り。


 それらを五感で感じながら、自作のハンモック型の抱っこ紐(?)に、眠たそうに目をしょぼつかせるアイリーンを包みこんで抱き上げる。お日様と甘いミルクの匂い。愛おしいその匂いに目を細め、今日はどの子守唄を歌ってやろうかと思案する。五分ほど悩んでから、季節感を感じられるものにした。


「もーりもいーやぁーがーるー、ぼんからさーきーぃはー……、」


 我ながら古いなと思ってしまう選曲ではあるものの、囁くような抑揚はこちらの言葉でないにしろ、覿面てきめんに眠気を誘うらしい。木陰で左右にゆらゆらと揺すりながら最後まで歌い切る頃には、小さな寝息を立てていた。


 ――さて、ここからがのお楽しみタイムである。 


 そーっと敷布の上に腰を下ろして、赤ちゃんを寝かせるバスケットの底から青い表紙の鍵付きノートと旅行者用の筆記具を取り出す。ノートの代わりに本来のバスケットの主である娘を寝かせ、鍵を開けて表紙を開き、上質な紙にペン先を走らせた。綴るのは、この世界のこと。


 タイトルも決めずに始まりもしなかったこの世界ではあるけど、一応小説に起こせる程度にはプロットが出来ていた。娘と夫が悪役にならないようにするには、憶えている限りの情報を書き出す必要がある。


 まずこの物語の主人公達について軽くおさらい。

 人気作のテンプレに則り、ヒロインは平民上がりの伯爵令嬢。

 病気の母親と元気でしっかり者な娘は、下町で肩を寄せ合って慎ましく生きてきたけれど、愛する母親はヒロインが六歳の頃に病で亡くなる。


 ――そして母親の葬儀をした一ヶ月後。


 ボロ家の前に貴族の馬車が停まり、そこから見目麗しいジェントルマンが降りてきて、ヒロインのことを愛し合いながら身分の差で結婚出来なかった恋人、つまり母親と自身の間に産まれた実の娘だと言う。


 あとはまぁ、テンプレ通り屋敷に連れ帰られて、正妻と腹違いの妹に虐げられ、奴隷のようにこき使われる。この手の父親のヒロインを連れ帰ったあとの空気感って、それを察して恋人(ヒロイン母)逃げたんじゃない? と思ってしまう。ネグレクトするなら迎えに来るな。


 ま、そこは重要じゃないから飛ばして。そんな地獄みたいな日々の中で、ある日唐突に第一王子の婚約者を探すガーデンパーティーが開かれて、ろくに淑女教育してないヒロインを引き立て役にするために王城に向かう。


 そしてそこでも陰口を叩かれて会場に居辛くなったヒロインが、生け垣の中に逃げ込むとそこには先客がいて……幼い二人はお互いに似た境遇であることに慰められ、絶対に負けないでいてねと励ましあって分かれる。ここで王家の闇に触れる訳あり第二王子の初恋の人になっちゃうんですね、ヒロイン。


 しかし虐げられてはいるものの、実は第二王子こそが権力争いで殺された先王の息子で、現第一王子は王弟の息子だった――! 的な背景がある。そしてこの第一王子と第二王子を取り巻く派閥にうちの冷遇夫が登場。


 夫は第二王子を祭り上げる側の貴族で、第二王子と年齢が近い娘をその婚約者候補にと目論む……のだけれど、まぁ、先述したように第二王子はすでに運命の相手と出逢ってるので、私の娘は当て馬闇堕ち悪役令嬢になる。


 テンプレと一口に言っても色々あるけど、これは結構オーソドックススタイルだと思います。はい。でもここからが原作者の腕の見せどころだ。恐らく世界の流れはこのプロットに書き込んである時間軸通りに進む――はず。


「えーと……記憶通りだとしたら、ヒロインが第二王子と出逢うのが八歳か。だとしたら単純に考えて、うちの娘がそれより前に出逢えば良いわけだ」


 ノートの注釈スペースに年齢を書き込む。逆算して手習いを始めさせた方が良いだろうか。それともむしろあんまり手習いさせすぎずに、天真爛漫に育てて毒気とか抜くタイプの天使に育てる? ありだな。記載してないけどこの手のヒロインはそのタイプが多いし。


 詰め込み教育は良くない記憶として残りがちだから、闇堕ちに一役買ってしまいそうだ。その時に私が生きてるとも限らない。ここは今後の課題にしますよの印を入れておこう。


「ん……?」


 ここでふとあることに気付いて、パラパラとそれまで書き記してきた頁を読み返す。そうして本当に今更ながら、この作戦にとんでもない落とし穴があることに気付いてしまった。


【ヒロイン 六歳頃……】

【ヒロイン 八歳頃……】

【ヒロイン 十歳頃……】

【ヒロイン 十三歳頃……】

     ・

     ・

     ・

【ヒーロー 三歳頃……】

【ヒーロー 五歳頃……】

【ヒーロー 八歳頃……】

【ヒーロー 十五歳頃……】

     ・

     ・

     ・

 おかわりだろうか? 

 じゃない、お分かりだろうか?

 ボケてる場合でもないのに焦りから目が文字の上を滑る。


「いやいや? いや、そんな、まさかまさかまさか、嘘嘘嘘、冗談だって、ありえないでしょ、そんなの絶対ありえないから」


 心を落ち着けようと深呼吸して、ノートと目蓋を閉じる。もう一度深呼吸して目蓋を持ち上げ、ノートを開いて表紙から今まで書き勧めた頁の最後までを読み進めた。五回くらい。そして覆らない事実に愕然とした。


「ヒロインとヒーロー、名前……つけてない」


 国内のどの地域の下町のどこに住んでいて、そこからどの地域の何という家名のお宅の娘さんになる予定か、一切分からない。そもそもどれだけ国内に同年代の貴族の娘がいるの? 学園への入学設定がないからには、この世界に平民と貴族が一緒に通うスペシャルな学園はない。


 ――ヤバイ、早くも詰んでる。

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