第3話 子守唄と来訪者。

 朝食後にやる気の希薄な乳母からアイリーンを奪取し、無事に授乳を済ませて小さな唇を指先で拭ってやる。ふくふくしい手や頬からは甘いミルクの香りがして、大変幸せな気分になった。


 産みの苦しみこそあったものの、よくよく考えれば出逢いから結婚までの面倒くさい手続き、初夜、子供が出来るまでの夜伽諸々をスキップしているのは非常に良い。恋愛結婚じゃないのはもうこの際目を瞑れる。


 だって行間埋めるために薄味でどんな顔とも相性の良さそうな私の顔と、厳しめの顔立ちだけど整ってる夫との合せ技のおかげで、娘は目鼻立ちのパキッとした美人になる未来が確定してますから。


 うちの娘がこの世界一可愛いのでは? 我、この世界の創造神。よし、職権乱用して世界遺産登録しよ。


「ふふ、たくさん飲んだわねぇアイリーン。良い子、良い子。さ、吐き戻さないうちにコホンッてしましょうね」


 まだ座りきらない首の後ろを支え、肩口に顎を乗せるように抱いて背中をトントンと優しく叩く。すると微かに〝けぷっ〟と空気を吐き出す音が聞こえた。耳にまだまだ柔らかい髪の毛が触れる。感触までもが可愛い。


 生後一ヶ月で感じる西洋人と東洋人の赤ちゃんの違いは結構あるが、純粋に産まれた時から大きい。姉弟の子供が出産時で二千グラム後半だったけど、アイリーンはたぶん出産時で三千グラムちょっとはあったと思う。


 これは諸説あるけど食文化の違いで肉と乳製品を食べる西洋人の方が、子供が大きい傾向にあるらしい。だから歩き出すのも東洋人の子供より早いし、髪の毛なんかも出てくる時点で割と生え揃っている。


 アイリーンの髪質は私に似たのかちょっぴり巻き毛だ。しかも夫の髪色と私の髪色が混ざりあった結果、重厚感のある金色になってしまった。分かりやすく例えるなら、美術館とかに飾ってある絵の額縁色。ゴージャスというか厳つい。縦ロールにしたらさぞかしドリル味があるだろう。


 出産したのは今世が初めてだけど、こう見えて赤ちゃんの世話には一家言ある。前世では散々姉弟達の子供の面倒を見させられたからね。夜泣きもミルクもオムツも任せろってなもんよ。あれで甥っ子や姪っ子が私の子供じゃないとか、本当に意味が分からない――と。


「お嬢――いえ、ナタリア様は、ご令嬢なのに本当に小さい子の面倒を見るのがお上手ですね。アイリーンお嬢様は幸せ者です」


「そ、そうかしら? 弟の小さい時で慣れたのかもしれないわね」


「ですかねぇ。それにしても慣れすぎかとは思いますが」


 ここで小首を傾げるマーサに〝細けぇことは良いんだよ〟と言えたら、どれだけ楽だろうか。でも世界観を壊さないためにもご令嬢口調は崩せない。というか、伯爵夫人として崩しちゃ駄目なんだけども。


「ナタリア様、今日はこの後どうされますか?」


「そうねぇ……昨日は部屋でお昼寝をさせてる間にスタイを作ったから、今日はどこか木陰の近くで日向ぼっこでもしようかしら。あんまり長くは外にいられないけれど、アイリーンも私も風と太陽に当たらないと駄目だもの」


「畏まりました。ではすぐにご用意します。ナタリア様とお嬢様は少々このままお部屋でお待ち下さいね」


「ありがとうマーサ、お願いね」


 日向ぼっこの準備をしてくれるためにマーサが一時退室すると、部屋には娘と私の二人だけになる。胸の前にアイリーンを抱き、軽く揺らしながら室内を歩く。こちらを見上げて時折瞬きをする娘の瞳は父親似の青だが、色味はやや明るい。それにまだ大人の目とは違い澄んだ美しさがある。 


「お前はきっと将来誰もが振り返る美人になるわよぉ。だからお母様が生きてる間に、いっぱい可愛く着飾らせて頂戴ね」


 自分で書いた物語りではあるけれど、何か若くして死ぬらしいし。今後の行動で少しでも長生き出来れば良いんだけど。この可愛い生き物を残して早逝するのはごめんだから頑張らないと。


 ゆるり、ゆるり、

 そろり、そろり、

 右に、左に、身体を揺らして歩く。


 ふと視界に書き物机とノートが入った。一冊は赤い箔押しで、もう一冊は深い青の箔押し。どちらも革製で金色の鍵がついた豪華なものだ。


 夫は一度も顔を見に来ないけど、一応何か出産後に褒美はいるかとメイド経由で聞かれたので、綺麗な細工の鍵付きノートを二冊欲しいと頼んだら、翌日には届いた。普通なら何でノートを頼んだかとか聞かれそうなものだが、誰も気にならなかったらしい。


 ちなみに赤い方は娘の成長記録を、青い方はこの世界のプロットで憶えている、もしくは思い出したものを記録している。出産後に昏睡状態から覚めてすぐに書き始めたものの、青い方はすでに結構頁を使ってしまった。


 一回死んで転生しても、そこは物書き。こんな状況でも書くのは楽しい。そして鍵付きなのは純粋に誰かに読まれると恥ずかしいからだ。商業化する気のない文章は他人に読まれたら死ねる。とはいえ――。


「こんなに可愛い娘の成長を記録せずに死ねませんからねぇ。それにもしお母様が死んでも、お前を愛していた人がいたと教えたいもの」


 私が愛そうとしなかった小説の世界を生きる娘に、せめて何かを遺してやりたい。産後鬱ではないものの、センチメンタルな気分なのだ。自分の呆れるくらいフワッフワなプロット力のせいで。ね、愚かぁ。


 商業で出版されているこういう小説を読んだら、人気作家の小説だと原作の熱烈なファンが転生してしまうらしい。原作者の責任が重すぎる。その点厳密に言えばまだ小説にもなっていないこの世界には、よそからの転生者が入ってくることはない。犠牲は自分だけだ。


 失敗すると娘も巻き添えを食らうが、夫はどうなんだろうか。薄っすら憶えている内容だと前半は厳しいけどそれなりに領民に慕われていたのに、後半では何故か滅茶苦茶に嫌われていたはず――と。


 こちらを見上げていたアイリーンの目蓋が、だんだんと重たくなっていく。お腹がいっぱいになって眠たくなってきたのだろう。まぁ眠ってしまったらしまったで、赤ちゃんを寝かせるバスケットに入れて外に連れていけば良い。


「ねーんねーん、ころーりよー、おこーろーりーよー、むーすめーはーよいーこーだー、ねんーねーしーなー……」


 本当の歌詞は坊やだし、ここには子供の名前を当て嵌めるのが主流だけど、この旋律は大人でも眠たくなる魔法だ。ふふふ、これで今まで幾度甥や姪達を寝かしつけてきたことか。案の定、小さな鼻を膨らませてモゾモゾしていた娘は、気持ち良さそうに目を細めて――……寝落ちたぜぇっへっへっへ。


 天使の寝顔を前に幸せな気持ちのままハミングを続けていると、部屋の外から『そこで何をなさっているのですか?』という困惑と警戒の混じったマーサの声が聞こえてきた。うん? 来客? 


 それならノックか声かけくらいしてくれたら良いのにとは思ったものの、本当はあんまり関わりたくないけど仕方なく的なものかと思い、アイリーンを抱いたまま自分でドアを開けた――ら。


誰何すいかもせず幼子を抱いたまま自らドアを開けるとは……伯爵家の人間ともあろう者が、警戒心というものがないのか。侍女の方が余程まともだ」


 そんな冷たい言葉と視線を投げかけてくるテンプレモラハラ男、もとい、旦那様が立っていた。一ヶ月ぶりの妻との顔合わせの第一声がこれとは、なかなか痺れる流れだね。

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