空の彼女と幼い彼


 日が傾き始め、青い空もオレンジ色へと変わっていった頃。街はずれの海岸沿いに着陸したクイーンルビーからスカイが降り立った。


「ようやく撒いたわね、ったくしつこかったぁ。ごめんね、ヨハン。流石にアンタの屋敷は軍に張られてると思うから、この辺で」

「お、おば、おば……お姉さんっ!」


 後から降りてきたヨハンが、いきなり声を上げる。目を丸くして振り返ったスカイとは裏腹に、彼の顔はとても真剣なものであった。


「なあに、ヨハン。やっとお姉さんって呼んでくれたわね。そうそう、女性の扱い方はこうで」

「ぼ、ぼぼぼ」


 ようやくおばさん呼ばわりから解放されたのかといい気になったスカイとは裏腹に、ヨハンはとても必死であった。

 何か言いたいことがあるのに、緊張なのかあるいは別の感情か、上手く言葉にできない様子だ。いつもの仏頂面で無遠慮だった筈の彼からは、到底想像できない有様である。


「どうしたのよ、急にかしこまっちゃって? お姉さんはここにいるから、ゆっくり話してごらんなさい」

「ふ、ふーっ、すーぅ」


 右手を腰にあて、少し前のめりになりながらスカイは優しく諭す。それを素直に聞いたヨハンは一度息を吐き、もう一度吸い込んでいた。


「落ち着いた? さ、もう一回ゆっくり言ってごらん」

「……お姉さん」


 ほら、ちゃんと言えたわね、なんてスカイが内心で微笑ましく思っていると、ヨハンは深々と頭を下げた。


「ぼ、ぼくと、け、けけけ、結婚を、前提に、つ、つつつ、付き合って、くださいっ!」


 更には頭を下げつつも、右手だけを真っすぐにスカイへと差し出している形だ。

 彼女の目が見開かれる。


 誰がどう見ても、愛の告白だったからだ。


「……アタシ、おばさんよ?」


 不意打ちを食らったスカイだったが、やがてはゆっくりと口を開く。


「きっと後悔するわ。今なら聞かなかったことにしてあげる。どう?」

「…………」


 スカイの言葉に対して、ヨハンは何も言わない。降ろした手でタキシードのズボンを強く握り込み、口を閉じたまま必死になって彼女を見ていた。

 その表情に、冗談の色はない。


 彼は本気だ。彼女はそう感じた。


「アタシ、おばさんよ?」


 再度、スカイは口にした。

 ヨハンは、表情を変えない。


「…………」

「…………」


 二人は見つめ合う。

 スカイは彼の本心を図るかのように。


 ヨハンは彼女に思いが届くように。

 互いが互いを、見つめ合う。


「……ヨハン。目を閉じて」

「っ!」


 するとスカイは後ろで手を組み、前のめりになった。



 スカイが前のめりになったことで、ほんの少し、二人の距離が縮まる。

 ヨハンは胸をドキンっと高鳴らせて、ギュッと目を閉じた。


「…………」

「…………」


 彼女は何も言わないままだったが、ヨハンの胸は高鳴りっぱなしであった。

 何故なら目を閉じていても、先ほど告白した女性の息遣いが、徐々に近づいてきていることが分かったからだ。


 彼女は今、自分の元に身体を寄せてきてくれている。


「…………」

「……はっ、はぁ」


 スカイは何も言わないが、ヨハンは胸の鼓動が限界に来て、思わず息を漏らしてしまう。

 その間にも彼女との距離は、縮まっていく一方だ。ズボンを握る手が、知らず知らずのうちに強くなっている。


 恋した女性が自分の近くに来てくれているのだ、緊張の度合いは天井知らずである。


「……ふぅ」

「っ!」


 彼女の息遣いが鼻に当たった。

 ヨハンは身体が飛び跳ねそうな心地を覚える。


 彼女はもう、文字通り目の鼻の先なのだ。

 ここからされることなど、一つしか思い浮かばない。


「~~~~っ!」


 この先を思い浮かべて、ヨハンは顔が強張ってしまった。緊張に耐えきれなくなっていたのだ。

 声に鳴らない声が、固く閉じられた口から洩れてしまいそうである。


 そんな口も、彼女によってこじ開けられてしまうのだろうか。

 そう思えば思う程に、彼の身体は固くなっていく。


「……ヨハン」


 彼女の声は、耳元で聞こえた。甘い囁きと吐息を感じ、彼の耳が異常な程に敏感になっている。最早頬を寄せるレベルだ、もうすぐだ。

 彼が全身で身構えた、その時。


「このおませさん」

「いたっ!?」


 ヨハンの額に痛みが走った。思わず身を引いた彼が目を見開いてみれば、長い体躯を屈めて右手でデコピンをしたであろうスカイの姿がある。

 夕陽を背にした彼女のその姿は、とても優し気な顔は、酷く扇情的なものだった。


「アタシなんかを選ぶには、まだ若いわ。今は世界を知らないだけ。大きくなって、色んな女の子と出会って。それでもアタシが良ければ、もう一度告白してね」


 呆気に取られているヨハンに対して、スカイがもう一歩、近寄ってくる。


「ありがと」

「っ!?」


 ヨハンの身体がビクンと震えた。

 スカイが不意打ちで、彼のおでこにキスをしたのだ。


 咄嗟におでこを手で抑えた彼を見て彼女は微笑むと、すっと踵を返す。そのまま一度も振り返らないままにクイーンルビーに乗り込むと、離陸を始めた。

 紅いゲオルクが浮き上がり始めた頃に、ヨハンはようやく我に返った。


 彼が駆け寄ろうとした時には、もう手の届かない位置まで飛んでいる。


「お、お姉さんっ!」

「いい男になれよ、少年」


 クイーンルビーに取り付けられたスピーカーからは、スカイのそんな声が聞こえた。その言葉を最後に、紅のゲオルクは一直線に飛び出していった。

 残されたのはヨハンと、寄せては返す波だけである。


「……あなた以上の女性なんて、高望みになっちゃいそうだ」


 完全に紅が見えなくなった頃、ヨハンは一人で呟いていた。


「最後まで、カッコつけちゃってさ。ぼくを振ったこと、後悔、させてやる」


 その目に涙を浮かべながら、ヨハンは声を震わせている。

 告白の結果がどうなったのか、理解してしまったからだ。


「また、ね。またね、おばさんっ!」


 ヨハンは行ってしまった方向へ向けて、大きく手を振った。遠くなった彼女が、それでも見てくれていることを願って、彼は手を振り続けていた。

 最後まで、口では強がっていたが。事前にスカイから話が行っていたハウスキーパーのラウラが彼を迎えにきた時、彼はラウラの胸に飛び込んで泣いた。


 その日以降、彼は泣かなくなった。それは強がりでもなんでもなく、彼に落ち着きが出てきたからだ。

 いつか再会する彼女に並びたてるような、男になる為に。


 強がりではなく、本当に強くなる為に。

 いい男に、なる為に。


 やがて彼は人前でも、心から笑うようになった。

 周囲の人間は彼の変化を快く受け入れ、人が集まるようになっていく。


 初恋こそ叶わなかったが。

 少年は少しだけ、大人になった。

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