第8話「きらいときらい」

*栗トン、めくり札めくって、

▲8「きらいときらい」


春ドン わたくし春ドンは、そこで、祖クラと加マル・蝉アンとのダイアローグの

   様子を、偉スクスたちに話すのをやめて、一呼吸おきました。偉スクスも、

   大きな溜息をついて、いままでの話をかみしめているようでした。それから

   彼は、「春ドン」と私を呼びました。


偉スクス 一刻は短い。一日は長い。だが二日より短い。まもなく夕暮れが近づく

   のに、喜んでハデス=冥界へおもむくのだといいきることができる御方(おん

かた)、その名は祖クラ、何と澄みきった哲学者だろう。

春ドン はい、偉スクス。あなたはいま、私が感じていたことを、私より明瞭にい

   ってくれました。あの方は若者たちとの議論を心から楽しみ、私たちがどん

   な精神状態におちいったかを見ぬき、見事に癒して下すったのです。


栗トン 注釈「ハデス」について。ハデスとはギリシャ神話における死者の国を支

   配する神のこと。ハデスはゼウスとポセイドンのきょうだい。死者の国を支

   配するので冥土・冥界の意味に用いられる。


偉スクス 春ドン、あなたは、あの方からどんなことばをかけて貰いましたか。

春ドン 私はあの方の右側にいて、ベッドのかたわらの腰掛に坐っていました。あ

   の方は私の頭をなで、首のまわりの髪の毛をにぎりしめて、おっしゃいまし

   た。

   「春ドン、いいかね、どんなことがあっても、言論ぎらいにならないように

   しよう。言論ぎらい以上に大きな災いはない。言論ぎらいと人間ぎらいとは

   同じような形でやってくる。人間ぎらいが人の心に忍びこむのは、考えも無

   しに或る人を信じ、しばらく経ってから当の人が性悪(しょうわる)で、信頼に

値しないことを発見することからはじまる。そんなことに何度か遭うと、怒り

   の果てに誰彼かまわず憎むようになるのだ。分かって貰えるだろうか」と。

    私は、「もちろん分かります」と答えました。


祖クラ 分かってくれるんだね、感謝するヨ。ありがとうございますと頭を垂れる

   よ。決して感傷的になっているわけじゃない。私はいつでも、誰に対しても、

   素直に誠実に接するようつとめてきた。違っただろうか、私は自分を飾って

   いっているだろうか。

春ドン いいえ、飾ってなどいません。いつも誰に対しても誠実で、率直でした。

   感謝をあらわすときには、私たち至らない弟子に対しても、「ありがとうご

   ざいます」と頭を垂れてくれるのです。ありがとうの簡単なことばでよいの

   に。こんな丁寧で大きなプレゼントはありません。

    分かります、分かっています。「ありがとうございます」と丁寧にいって、

   いつも私たちと対等であろうとしてしていることが。わたくしは、わたくし

   に限らず、あなたとダイアローグできる者は、〈感謝する人のある仕合わせ

   を味わっている〉ということを、ここに言明します。

祖クラ 春ドン、そのことば、〈感謝する人のある仕合わせを味わっている〉とい

   うのは、絶品だね。私も〈感謝する人のある仕合わせを味わっている〉とい

   うことを言明するヨ。

    さてここでダ、同じ言論が同じように理解されるとは限らない。同じ言論

   でありながら、真実に思えたり、真実に思えなかったりすることがある。そ

   んなところへ迷いこむと、苦しみのあまり言論へ憎しみを向け、言論を遠ざ

   ける。そんな人生をかかえることになったら、真理や尊い知識を得る機会を

   逸してしまう。そういうことがあるから注意しなくちゃいけない。

春ドン 怖ろしいことですそれは。

祖クラ そうならないために、私たち自身がまだ言論に関する充分な知識を持って

   いないということを、謙虚に受けいれることだと思うのだ。春ドン、どうだ

   ろう。

春ドン ハイ祖クラ、謙虚に受けいれる、そう努力します。

祖クラ 同時に、言論に対して健全になるように努力しなければならない。という

   のは、いまの私自身が、知を愛する哲学者の態度を取らずに、無教養な連中

   のように相手を打ち負かすことばばかり考えて、議論しているかも知れない

   からね。知を愛するとは誠実を愛するということとおなじでなければならな

   いと思う。

春ドン 相手を打ち負かすことばばかり考えて議論しているかも知れないとのこ

   と、それはまったく勇気あることばです。

    私がそう答えおわると、あの方は顔の向きを少し変えて、蝉アンと加マル

   に話しかけました。


祖クラ 蝉アンに加マル、君たちがいだいている疑念を確認しよう。蝉アンは、タ

   マシーが肉体の諸要素の調和なら、肉体が死滅すればタマシーも死滅すると

   考えている。だから肉体とタマシーが一緒に死滅しないという説に疑念をい

   だいている。どうかね蝉アン。

蝉アン そうです、そう思っています祖クラ。

祖クラ 次に加マル。君は、タマシーが肉体よりも長く生きるという点においては、

   私に同意している。しかし、タマシーは多数の肉体を着つぶしたのちに、最

   後の肉体をあとに残して、タマシー自身も滅びるのではないかと考えている。

   どうだろう。

加マル そうです、そう考えています。

祖クラ そこで改めて二人に聞きたい。


カノンBCDの順。

 学習とは想起=思い出すことであり、▼であれば、私たちのタマシーは肉体のうちに縛りつけられる以前に、どこか他の場所に存在していた筈だという説はどうだろう。


祖クラ 学習とは想起=思い出すことであり、であれば、私たちのタマシーは肉体

   のうちに縛りつけられる以前に、どこか他の場所に存在していた筈だという

   説はどうだろう。


加マル わたくし加マルは、学習想起説はいまも説得力をもっていると考えます

蝉アン 私も学習想起説は理解できます。

祖クラ そうかい、では蝉アン、君は肉体の諸要素の調和=ハルモニアこそがタマ

   シーなのではないか、といった。つまり、タマシーは合成的なものだという

   ことでよいだろうか。


カノンAWCの順。

 君は肉体の諸要素の調和=▼ハルモニアこそがタマシーなのではないか、といった。つまり、タマシーは合成的なものだということでよいだろうか。


蝉アン そうです、よいです。タマシーは合成的なものだと思います。


栗トン 注釈「ハルモニア」について。ハルモニアは調和のこと。調和をあらわす

   ギリシア神話の女神ハルモニアに由来する。


祖クラ では、タマシーを合成すべき構成要素が存在するより以前に、タマシーが

   存在していたなどということは、君は受けいれられないだろう。


ユニゾンBCD

 いいかい、もう一度いうよ。蝉アン、君は、タマシーを合成すべき構成要素が存在するより以前に、タマシーが存在していたなどということは、受けいれられないね。


蝉アン 受けいれられません。

祖クラ 蝉アン、これで君も気づいた筈だ。君が主張する、タマシーは構成要素以

   前には存在していないという説と、先に君が合意した学習想起説とは調和し

   ないのではないだろうか。二人とも「学習想起説はいまも説得力をもってい

   る」と答えたけれどもネ。

蝉アン そうですねえ、どうも調和しないようです。

祖クラ では、この二つをどのように処遇しようか、蝉アン。

蝉アン 私は学習想起説を採ります。というのは、肉体の諸要素の調和=ハルモニ

   アがタマシーだという説は、尤もらしかったからでして。

祖クラ ハハハ、誠実なことばだ。次に加マル、君の求めているのは、私たちのタ

   マシーが不滅であり、不死であることが証明されることだね。

加マル そうです、はい。

祖クラ 君の考えは複雑だ。どう複雑かというと、タマシーが強く神的なものであ

   り、私たちが人間になる以前にも存在していたということを証明しても、タ

   マシーの不死を証明していることにはならないからだ。ただ、タマシーが非

   常に長命であり、かつてどこかに存在していたということを証明しているに

   すぎない、と君は考えるだろうから。


AB・ 君の考えは複雑だ。どう複雑かというと、タマシーが――

BW・ どう複雑かというと、タマシーが強く神的なものであり、私たちが人間に

   なる以前にも存在していたという――

AB・ 私たちが人間になる以前にも存在していたということを証明しても、タマ

   シーの不死を証明していることにはならないからだ。

BW・ ただ、タマシーが非常に長命であり、かつてどこかに存在していたという

   ことを――

AB・ かつてどこかに存在していたということを証明しているにすぎない、

BW・ と君は考えるだろうから。


加マル 祖クラそうです、まったくそのとおりです。そのように考えます。

祖クラ さらに君は、こう考えている。人間の肉体の中に入ったこと自体が、タマ

   シーの病気のようなもので、タマシーの滅亡のはじまりだと。加マル、不都

   合があったら、君自身が訂正してくれないか。

加マル いえ、その必要はありません。私が思っているとおりの表現をしてもらっ

   たと思っています。

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