第3話「船に花」
*栗トン、めくり札めくって、
▲3「船に花」
春ドン すると偉スクス、あなたは裁判がどのようにおこなわれたか、ご存じない
ということですね。あの傲慢な裁判のことを。
偉スクス 裁判のことは聞きました。ひどい裁判だったってことはネ。哲学者に興
味をもたない酒びたり者でも知っています。恐い話だといいながら酒をあお
り、これが毒杯であったらアアアなどとおめいていました。
春ドン いつか本当にそういう日がこないとも限りません。ふつうに呑む酒に毒が
まじりこんでいるという日が。権力者は目くばせ一つで何でもできますから
ネ。
偉スクス 不思議なのは、刑はふつう、判決が出たら即おこなわれるのに、祖クラ
の場合は判決からだいぶ経ってからでした。あれはなぜですか。
春ドン デロス島へゆく船に花飾りが付けられたからです。アテネでは、むかしか
ら、デロス島のアポロン神殿の祭りに使節を送っています。使節派遣の期間
は、国を清らかに保つため、いかなる罪人であっても処刑してはならないと
いうことになっています。掟です。
派遣行事は、神官が船に花飾りを付けるときに始まり、船が帰ってきて花
飾りが外されたときに終わります。今年は、裁判の前日に花飾りが付けられ
ました。花飾りの日を決めるのは神官の権限で、貴族も裁判官も口出しでき
ません。ゆえに処刑の日が延ばされたのです。
偉スクス 春ドンそれで、あの方はどのように死に臨んだのですか。最期に立ち会
えた人はいましたか。それとも役人の性分として、意地悪く独りぼっちの死
を与えたのでしょうか。
春ドン 多くの人がつどいました。役人の中にも、この裁判は宜しくない、祖クラ
は死ななくてよいと思っている人がけっこういて、弟子の私たちは自由につ
どうことができました。
偉スクス どんな人たちがつどいましたか。
春ドン アテネ人では、アポリス、栗ゾン、その父親の栗トン、それにアイスネス、
名前はもっと挙げられます。アテネ以外の人も来ました。偉大なる言論の独
立者がこの世から消えるのですから。
偉スクス 祖クラの第一の弟子といわれる不ラトーンの名がありませんが。
春ドン まァそのー、不ラトーンは病気だということで。
偉スクス 春ドン、奥歯に物が挟まりましたか。
春ドン そんな処に立ち会っては、自分の立場があやうくなるからだとささやく雀
もいましたがよく分かりません。不ラトーンの家は名門ですからネ。政府の
要職についている人が何人もいます。本人の意志で来なかったのか、誰かに
止められて来られなかったのか、そのへんは分かりません。
偉スクス メーモンというのはデーモンを内包しているから不都合なものだ。尊敬
する師匠の最期の日に来られないなんて。
春ドン 人間、分からないものです。師匠祖クラの判決も、あんなに簡単に出すこ
と自体、あやまちでした。もっと丁寧なダイアローグがなされなければいけ
なかったのです。ですから不ラトーンのことも、私たちは簡単に判断しない
ようにつとめています。判断の浅い人たちとおなじあやまちをしないように。
偉スクス やさしい方々です、寛容に満ちあふれている。
春ドン それが正しさを保つ方法だからです。われらが師・祖クラの教えにのっと
っているだけです。
偉スクス それで、ほかの都市からは?
春ドン テーバイから蝉アンと加マル。メガラからも何人もの人たちが見えました。
偉スクス 春ドン、ここにいる私たちはピタゴラス学派ですが、あのお方を思い出
すのはあなたと同じように喜びです。あの方の最期の日の様子を教えて下さ
い。私たちの仲間にも尊敬の念を以って広く伝えます。
春ドン 申し上げましょう。
C―― まず私たちは、あの方の死に立ち会っても悲しみにおそわれなかったとい
うこと、あの方は態度においてもことばにおいても、おどろくほど幸せそう
であったこと、このことをお伝えしておきましょう。
D―― 祖クラが牢獄につながれると、私たち弟子は毎日あの方のもとに通いまし
た。朝早くあつまり、牢獄の門があくのと同時に中へ入れてもらい、あの方
と共にすごしました。
W―― あの日はいつもより早くあつまりました。前日、花で飾った花船がデロス
島から帰って来たと聞いたからです。翌日、私たちが門の前にゆくと、門番
がいいました。
C―― 翌日、私たちが門の前にゆくと門番がいいました。
「いま、11人の刑務委員たちが――」
D―― 門番がいいました。
「いま、11人の刑務委員たちが、祖クラの鎖を解いて、今日が――」
W――「祖クラの鎖を解いて、今日が、毒を飲む日だと――」
ユニゾンABCDW
「今日が、毒を飲む日だと、祖クラに告げているところです」と門番がいいました。
カノンABCDの順。
私たちは胸を押しつぶされそうでした。牢獄に入ると、▼あの方のそばに、奥さまのクサンティッペが子どもさんを抱いていました。奥さまは、「ああ祖クラ、これが最期だなんて」と、おめきました。
ユニゾンABCD
私たちは胸を押しつぶされそうでした。牢獄に入ると、あの方のそばに、奥さまのクサンティッペが子どもさんを抱いていました。奥さまは、「ああ祖クラ、これが最期だなんて」と、おめきました。
春ドン 祖クラは困惑して、幼ななじみの栗トンに頼みました。
祖クラ これを家へ連れて行ってくれないか。
栗トン 奥さまに心おだやかにいてほしいんだね。分かったよ祖クラ。
祖クラ やさしくしてもらったからね。いい連れ合いだった。
栗トン ホントに連れてゆくよ。いいんだね。
祖クラ ああ、お願いする。クサンティッペ、子どもたちと心おだやかにね。
春ドン 栗トンは祖クラのことを何もかもご存じです。幼なじみの頼みを尊重して
クサンティッぺを連れて出ました。それから、あの方はベッドの上で起きあ
がり、折りまげた脚をさすりながら切り出しました。
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