第2話 元勇者、逃亡少女達と出会う

「あなた様は、勇者――“慈悲深きマーシフル”アシェル様ですねっ!」


 令嬢は僕の名を口にした。

 だが、僕は彼女を知らない。


 ということは、きっと、勇者様・・・の信奉者か何かだろう。


「……その呼び方は正しくない。僕はもう勇者じゃないし、慈悲深くもない」


 僕はそう告げたが、令嬢は駆け寄ってくる。

 彼女はきつく、僕の手を取った。


 白くて華奢な――温かい掌だった。


「いいえっ、忘れもいたしません! あれはちょうど一年前、わたくしの故郷、アルタンジェ領でのことです――」


 情熱的に思い出を語りだそうとする令嬢。

 だが、それを遮ったものがいた。


 ぐううううぅぅぅぅぅ――


 僕の、腹の虫だ。

 二週間近く、何も与えていないせいで史上最高に機嫌が悪い。


「……ボウヤ。アナタ、本当に何も食べてないの?」

「だから……言ってる、だろ」


 いくらかの同情とともに、ロザリンド。

 僕は首肯しようとして――その瞬間、世界が空転した。


「そ、そんなっ、アシェル様! しっかりなさってくださいっ、アシェル様――」


 必死で僕を呼ぶ声が、どんどん遠ざかっていく――


(これで、終わりか……)


 魔王べーリオルが放つ闇の波動に耐えた勇者も、度を越した空腹には耐えられなかった。


 享年十七歳。

 短い生涯だった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 目を覚ました瞬間。

 最初に感じたのは――


(匂い――食べ物のッ)


 すぐさま跳ね起き、匂いのもとを探るが。


「オ! 起きたナ! さあクエ!」


 その必要はなかった。

 目の前に差し出されたのは、得も言われぬ香り漂うウサギの串焼き。


「――――っ」


 反射神経だけで串を奪い取り、一瞬で食べ尽くす。


 ……美味しかった。

 他に表現のしようもない――これまでの人生で、もっとも幸福を感じたひととき。


 二週間ぶりにありついたまともな食べ物のことを、他にどう表現したらいい?


「ハハハ! イイ食べっぷりダナ!」


 串にこびりついた肉の一筋まで、かじりとりながら。

 ようやく、串の持ち主に目がいった。


(……あの馬車に乗っていた、獣人族の女だ)


 オオカミ属の証である尖った耳と尾をフリフリさせながら、嬉しそうに八重歯を覗かせる。


「オマエ、ミーリの言った通りダナ! イイヤツ! 気に入っタ!」

「……ありがとう。君は――」


 彼女は、汚れたシャツを押し上げる豊かな胸元を示しながら、


「ブエナは、ブエナだ!」

「このウサギは君が獲ったのか――いや、待て、僕は、その前に、ここは……」


 周囲を見回す。


 夜の森、焚き火のそば。

 ゆらゆら揺れる炎にあたっているのは、僕とブエナと、もう一人。


「良かった――目を覚まされたんですね! あのままアシェル様が起きられなかったらと思うと、わたくし……っ」


 陶人形のような白い肌と金髪が眩しい令嬢。


「ご無事で、本当に何よりでした……アシェル様っ」


 気づけば僕は、彼女に手を握られていた。

 宝石のような瞳を、涙できらめかせながら。


「あなたに命を救われたのは二度目ですっ。この恩義、いずれ領地を取り戻した証には必ずお返しいたしますっ」

「……ええと……君は、確か」

「いやだ、わたくしったら――失礼いたしました。わたくし、アルタンジェ家が当主を務めております、ミーリアと申します」


 スカートをつまみ上げて、優雅な一礼。


 アルタンジェ。

 聞き覚えがある名前だった。


 ……確か、十二魔将の誰かと戦った土地だ。

 隻眼のアインだったか告死のスーだったか双翼のディスだったか、どの魔将だったかは忘れてしまったけど。


「あの日、我がアルタンジェ領は魔王軍によって侵攻を受けておりました。突然やってきたアシェル様とお仲間は、魔族に討たれんとしたわたくしとお祖母様の命を救い、民を守るために命を賭けて戦ってくださいました」


 僕が憶えているのは、三万を超える魔族の軍勢に側面から攻め入り、どうにか魔将を討ち取ったこと。

 その時に負った傷を癒やすため、しばらくどこかの城で療養させてもらったこと。


 あの城で過ごしていたときのことを、思い出す……


「もしかして……あのとき世話になった城にいた……?」

「はい。わたくしは、お話を賜る機会こそありませんでしたが――大軍勢に立ち向かうアシェル様のご勇姿、片時たりとも忘れたことはございませんわ」


 なるほど。


(……多分、彼女は勘違いをしている)


 女性を救ったという逸話なら、きっと僕ではなくラフェンディの功績だ。


(ラフェンディ・ドゥ・サルビアノ=ゼラ)


 神聖ゼラ皇国の第三皇子にして、天才的な神聖魔法の使い手。

 皇族らしからぬ奔放な人物で無類の女好き。

 だらしないところもあったけれど、いつも明るくて、僕らのムードメーカーだった。


 そして戦争で第一皇女と第二皇女を失った皇国を担う未来の皇帝でもあった。

 

(……魔王べーリオルとの最終決戦で、命を落とすまでは)


 自分も致命傷を負っていたのに、僕の治療を優先したお人好し。

 絶対に生き残って、世界中の美女から称賛とキスを集めると豪語していたくせに。


「……アシェル様? どう、なさいました?」

「僕が誰かを知っているなら……今、僕がどういう状況なのかも知っているんじゃないのか」


 魔王を倒した五人の英雄。

 その中で唯一、生き残った男。

 苦楽を共にした仲間を裏切り、富と名声を独り占めしようとした偽りの英雄アシェル。


 世間では――少なくとも、神聖ゼラ皇国とリダルグ連邦国、世界魔法士協会、そして“影の一党”は、僕を私利私欲に走った極悪人と見なしている。

 魔王亡き今、地上に残る唯一の脅威だと。


「ですから、あなたは魔王を倒し世界を救った英雄だと――何か、間違いでも?」


 そう訊ねるミーリアの表情に、嘘や皮肉の気配はない。


「――安心して、元勇者・・・さん。お嬢は最近の世事なんて知らないのよ。この子は半年以上、屋敷に閉じ込められてたんだもの。ザブロフの薄汚い野望のためにね」


 木々の向こうから、二人が姿を見せる。

 色っぽいドレスに身を包んだ妖艶な美女――ロザリンドと、眠たげな表情のエルフ。

 野営の周りで見張りをしていたのか。


「ザブロフ――確か、あの騎士達もその名前を口にしていたな」

「金と女と権力にしか興味がないクサレ商人よ。あの騎士ぶった手下を見れば分かるでしょう?」


 つまりミーリア達は、そのザブロフとかいう人物の元から逃げ出してきたということか。


「……アシェル様のおかげで魔王軍はアルタンジェ領から撤退いたしましたが、傷ついた領地の復興には多くの財が必要でした。ザブロフ率いるムーア商会は『経済的援助』という名目で我が家にすり寄り、影で密かに土地と民を自らのものとしていたのです」


 ミーリアが唇を噛んだ。


「こちらがようやくザブロフの狙いに気付いたときには、すべてが遅きに失していました。わたくし達はザブロフの私兵によって屋敷に軟禁され……もとより病を患っていたお祖母様が、昨晩に亡くなり。わたくしが領地の正式な領主となった途端。あの男は――わたくしを、手籠にしようと……」

「――その現場に、たまたまアタシが出くわしたの。ヒゲヅラの汚いオッサンが子ども捕まえてるなんて絵面、あまりにも気持ち悪かったから……後ろから花瓶でぶん殴っちゃってね」


 話を引き取ったロザリンドが剣呑に笑う。

 長くつややかな黒髪をかきあげながら、


「いくら金払いが良くても、ああいう客はダメね」


 彼女の言わんとする所、そして痛切なミーリアの表情。

 その二つを飲み込んで、僕は言葉に迷った。


「それは……その。どういったらいいか」


 僕には分からない。


 聖剣を抜いた日から――いや、その前からずっと、僕は戦いを続けてきた。

 日々、誰かを殺すか、さもなければ誰かを失うか。


(瞬きの間にも人が死んでいく世界で、他人の死をどう扱えばいいか)


 傷ついた人や残された人に何をしてあげれば良いのか。

 ずっと生き残り続けてきた自分はどうすれば良いのか。

 そんなことを考える余裕はなかった。


「……僕も、大切な人を亡くしたことがある」


 言えるのは、自分のことぐらい。


「魔王を倒して平和を取り戻すため、彼らは命を捨てた。僕の剣を魔王に届かせるために死んでいった。それは正しいことだったと思うけど――仕方ないことだと理解しているけど」


 明るかったラフェンディ。剣を教えてくれたヴァネッサ。本が好きだったメイゼル。いつでも優しくしてくれたシェルスカ。

 僕にとっては家族だった。

 それ以外にも、亡くなった沢山の人がいた。


「それでも。あのとき、彼らを救うことができなかったのか。今でも考えてる」


 ずっとずっと、考えている。

 すべてを無くして、ただ生きていることすら難しくなった今でさえ。


「だから、ミーリア。君が今どんな気持ちか……少しだけ、想像できる」


 僕は、ミーリアに握られたままだった手を、握り返した。

 できるだけ優しく。


「お祖母さんのこと。辛いよね」


 抑えていたものが溢れ出すように。

 ミーリアの表情が崩れた。


「……お心、遣い……感謝、いたしますわ――っ」


 俯いて肩を震わせながら、それでも嗚咽だけは堪えている。


 僕は彼女が落ち着くまで待ってから、


「……君達はこれから、どうするつもり?」


 ミーリアが顔を上げる。


「もちろん、屋敷を――領地を。お祖母様が遺したものは、すべてを取り戻しますわ。一族が愛したアルタンジェの地を、あのような下劣な者には絶対に渡せませんもの」


 瞳に宿る強い決意。

 その光が、かつての仲間を思い起こさせる――魔王軍によって壊滅状態へと追い込まれたリダルグ連邦国の騎士、ヴァネッサ・ロンダイン。

 騎士として人々の平穏な暮らしを必ず取り戻すと誓った女性。


 だが、僕が聞きたかったのはそういうことじゃない。

 もっと差し迫った問題のことだ。

 ザブロフ達に追われている状況でどこに向かうのか、といったような。


「えっ、あっ、そ、そういう話でしたのね。ええと……まずは、ノルドスク伯爵家に嫁いだ叔母様の元へ向かおうと思っております。あの方から力をお借りして、逆賊ザブロフを討つつもりですの」

「……この辺りからノルドスク領に向かうときは、自由都市を通るはずだ。そこまでは送る」

「え~、やさし~。さっきまで、あたし達を追い剥ぎする気満々だったのに~?」


 皮肉なのか冗談なのか、いまいち分からない女エルフの一言。


 彼女が言うことはもっともだ。

 野盗に成り下がったことは忘れてない。

 けど、腹が満たされた以上、彼女達から何かを奪う理由もない。


「足止めの詫びだ。それから」


 僕はかけら一つ残っていないうさぎの串を見てから、


「命を救ってもらった礼に」

「……随分とお人好しなのね。ボウヤ」


 嫌味というより不思議そうに、ロザリンド。


「本当に、アナタがあの・・アシェルなの? 他の英雄四人を殺して魔王討伐の功績を独り占めしようとした、極悪非道の背教者。世界の裏切者」


 冗談じゃない。そんな訳がない。


「裏切ったんじゃない。ただ……力が足りなかったんだ。僕が、弱かったから」


 僕がもっと強ければ。もっと速ければ。もっと賢ければ。

 みんなが犠牲になる必要なんてなかった。


「僕が……もっと早く魔王にとどめを刺していれば。みんなを守り切れれば。彼らは今頃、幸せに暮らしていたかもしれないのに」


 たまたま聖剣を引き抜いただけの子供に過ぎなかった僕を、勇者として認め、鍛え上げてくれた仲間達。

 誰よりも助けたかった人達。


「……少なくともアナタが、ザブロフのような連中とは違うってことは分かったわ」


 ロザリンドは、どこか気まずそうに肩をすくめる。


「なんダ、ロザ。まだ疑ってるのカ? コイツ、イイヤツだゾ。メシよく食うシ、なんかイイ匂いするシ」


 いつの間にか、ブエナが僕の懐に入り込んでいた。

 何故か、鼻をこすりつけるようにして僕の匂いを嗅いでくる。


 首筋に息があたると、妙な気分になる。


「ちょっ――やめてくれ、くすぐったいだろっ」

「ホラ見ロ。反応もカワイイ」

「やだ~、照れちゃって~顔あか~い」


 何故か、女エルフは頬を緩ませている。

 そしてミーリアは両手をパタパタとしながら、ブエナを引き剥がそうとする。


「ちょ、ちょっと、お二人ともっ! ぶ、不躾ですっ、ゆ、勇者様の、そんなところをっ、クンクンして――はしたないですよっ」


 その様を横目に、ロザリンドがため息をつく。


「もう……分かったから。次の見張り当番、お願いね。これ以上誰かに襲われるのは御免よ」


 ブエナは上機嫌に鼻を鳴らしながら、


「任せとケ! ホラ、行くぞアシェ!」

「分かった、分かったから、少し離れてくれ」

「そうですっ、離れてくださいっ」

「ミーリアちゃんは~寝ときなよ~、一番体力無いんだから~」


 ……そして。


 交代で周囲を見張るうち、夜が明けていく。

 木々の隙間から差し込み始めたオレンジ色の光は、やがて葉を透かして、辺りを温めていった。

 くすぶる焚き火の痕に土を被せて後始末を終えると。


 騎士達から奪った三頭の馬に、めいめいが跨る。

 ロザリンドの後ろにミーリア。

 ブエナの後ろに女エルフ。


 そして最後の一頭には――


「どうしたの、ボウヤ。早く乗って」

「いや、その」


 僕はそばに立っている馬を見上げ、呟く。


「……どうやって乗れば良い?」


 全員が、信じられないという目で僕を見た。


「……勇者だったのよね、アナタ?」

「聖剣を抜いたから、そう呼ばれただけ」

「えっと……世界中を……旅してきたんですよね……?」

「そうだよ」


 ――そう。

 僕はかつて勇者だった。

 聖剣を抜いたその日から、ひたすらに魔物と戦い続け、ついには魔王をも打ち破った。


「ウマ、乗らなかったノカ?」

「自分で走る方が速かったから」

「え~、すご~い、脚、速いんだね~」


 果てしない戦いの日々で手に入れたのは、何者にも負けない強さと。


(戦うこと以外は何一つできない、無力さ)


 乗馬も、野営も、料理も、狩りも、釣りも、農作も、治療も鑑定も交渉も掃除も洗濯も――

 この世界で普通に生きていくことすら、できない。


 たった一人で腹を空かせて山中を彷徨い、挙げ句、野盗の真似事をするしか能がない。

 こんな僕が、どうして仲間を裏切ったりできるだろう?

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