9-6 校舎の中に駆け込んでいった

 血の臭いや死臭というものは、普通の者が思って居る以上に広範囲へ流れ出して行く。


 むしろ、自身の生存に直結した臭いであるからより過敏である、と言い換えた方が正確かも知れない。

 いずれにしても種族ごとに能力の高い低いはあれど、その辺りはヒトも異形も変わるところはなかった。


「所轄から苦情が来たわ。学校近隣は異臭騒ぎで苦情の電話が鳴りっぱなしなんだって」


「ちょっと派手にバラ巻き過ぎたかな。もっと一箇所にまとめた方が良かった?」


「短期決戦だから構わない。今晩中に決着を着ける」


「久方ぶりにキコカちゃんの本領発揮だ。またあの艶姿を見られるなんてボクは幸せ者だよ。ワクワクするよ」


「呑気なこと言ってるんじゃない夏岡、サボるんじゃないよ。蟹江、あんたも判って居るよね」


「ええ。判って居るわ」


躊躇ちゅうちょ忖度そんたく無用」


「判って居る」


 高所にぶら下げた肉塊が風で揺れていた。

 ミンチにして一口サイズになった肉片を校門と裏門と西門、それぞれにバラ巻いて三人が三箇所で身を隠して待つ手筈だ。


 校外は周辺区画から集結した区域担当者が詰めている。

 マーキングと捕食の妨害で餌の捕食は学校内だけに限定しているから、連中が餌を得られる場所は学校内しか存在しなかった。


 それにムシきはヒトの自我が残って居るモノが多かった。


 知恵が回るから自分の寝床の周囲では狩りをしないことの方が多かった。

 むしろ学校内の方が潜伏できる場所も多数あり、目立たず確実に若い餌と肉体とを得るコトが出来るから、敢えて郊外で他者を狩る危険を犯す必要が薄いのである。


 だからこそ発見が遅れるのでもあるが。


 人間の習性をなぞって昼行性を会得している連中だが、飢餓状態でこれだけあからさまな餌の臭いを無視出来るとは思えない。

 事実、臭気の拡散に伴って、ぞわぞわと実に落ち着かない気配が町中に満ち満ちてゆく感触があった。


「じゃあ、あたしは西門に向うわ。正門の方は宜しく」


 夏岡が先に行きキコカが踵を返そうとすると、蟹江は不意に「待って」と呼び止めた。


「真っ当な子や中途半端な子が交ざっていたらどうするの。臭いじゃ判別出来ないわ」


「足の腱でも切っておきなさい。逃げられなければソレで良い」


「問答無用って訳ね」


「臭いに釣られて来る時点で普通じゃないよ。キコカちゃんの提案でも穏当な方だと思うけどな。男の子相手なら悩殺するっていうのも手だね。真っ当なら食欲よりも性欲だろうから。いまの國子ちゃんなら一発だよ」


「やかましい。シリアルキラー」


 蟹江國子は全裸だった。

 正確に言うのならば長柄刀と脇差し、その二刀を下げる革ベルトを身に着けているだけで、それ以外は何も無く靴すらも履いていなかった。

 若い女性の白い裸身が、冷たい冬の外気に包まれる夜の学内に立っているだけだった。


「からかわれるのがイヤなら何か羽織りなさい」


「血で服が汚れるのがイヤなのよ。それに、何か着たり履いたりしていると動きが鈍るし」


「油断しないように」と言い残してキコカは去り「またあとでね」と夏岡が軽く手を振って夜陰の中に消えていった。


 蟹江は諦めたかのように、白い吐息を夜気の中に吐き出すばかりであった。




 ふらふらと幽鬼のように連れ立って歩く少年少女たちの群れは、もう学校外輪の直ぐ側まで来ていた。


 夜陰の中に目を眇めれば、少年少女達の虚ろな顔が見て取れた。

 開け放した口から垂れた涎すら拭おうとしない。


 ものの見事に呆けちゃって。


 香しい餌の臭いに釣られ自我も蕩けてしまっているようで、何処をどう見ても普通じゃ無い。

 既に手遅れなのはもう一目瞭然だった。


 キコカは細く息を吐き出した。


 外周を囲む区域担当者のマーキング情報に寄れば、既に三百を越える数になるという。


 この学校に通う生徒数は七百人強。

 夏岡の目算が正しければあと百四十から百五十程度居るのだろうか。

 或いはもうほぼ全ての生徒がムシ憑きになっている可能性もあって、罠の口を閉じるタイミングが掴みづらかった。


 だがまぁいい。

 大事なのはムシの拡散を防ぐことだ。

 女王と次代の候補さえ特定して狩ることが出来れば、この一帯を封鎖するだけで事足りる。

 兵隊や労働者は「命令」が無ければ何も出来ない。

 卵を抱えて逃げるどころか、餌を狩ることすらしないデク人形と化からだ。

 疑わしい者も含めて全てを拘束するのは訳もない。


 仮に取り逃がしたとしても兵隊や労働者には繁殖能力は無いから、ソレと判明すれば対処は普通の警察官でも事足りる。

 ヒト喰らいではないから兵隊であっても身体能力はヒト相応。

 大した脅威ではなかった。


 それでも人外相手なので一人二人死人が出るかも知れない。

 だが、それはもう管轄外だ。

 自分の活動は上司に指定された区域内のみに限定されている。

 他者のナワバリにちょっかい出すほどあたしは暇じゃないのだ。


 そして此処に集まって来ている者たちは皆なり振り構わず、山積みされた餌の山に群がり、我先にと貪り始めていた。


 やれやれ。共食いも厭わずか。


 臭いでそれと知れるだろうに、なり振り構わぬ様はそれだけ飢えているという事なのか。

 それとも女王が急いている為なのか。


 膨れ上がった腹を抱えた少年少女たちが次々と、覚束おぼつかない足取りで校舎の中に入ってゆく。

 間違いなく向う先は女王の座だ。


 音を立てぬように、そっとなたを抜いた。

 後を付けようと腰を上げたその時である。

 異様な不快感が頭の上から覆い被さってきた。


「!」


 物理的なものじゃない。

 言い様の無い圧迫感を伴った何かだ。


 不意に左耳に着けたPチャンイヤホンから夏岡の声が聞こえた。


「キコカちゃん、聞こえる?ボク達はすごい勘違いをしていたのかも知れない」


「どうした。ナニがあった」


「命令だよ、命令が発せられている。臭いじゃない、音の命令だ。いまガンガン響いている。学校の敷地内全域にわたってヒトの可聴域を超えた音の命令が響いている。大きすぎて何処が発生源か分からない程の大音量だ」


「なに?音で命令するムシなんて」


「ああ、そうだよ。ヒトに憑くヤツにそんなモノは居ない。でも、ムシに憑く寄生虫だとしたらどうだろう。連中の中には仲間を見分ける音を真似て群れに入り込み、群れのリーダーに取り憑くヤツが居る。ソレがムシの女王を操って群れを統率して居るのだとしたら」


「!」


 つまり、臭いも女王物質も不要という訳か。


「待て、スクランブルで片桐さんから連絡が入った。夏岡は予定通り労働者を追って女王の座へ。あたしも直ぐに向う」


 了解、という返事の後にチャンネルを切り替えれば「異様な音源を拾った」という片桐一尉からの報告があった。


「ヒトの可聴域を超えた大音量です。音源はもう学校の敷地内のそこら中から。共鳴が激しくて絞り込めませんが、学内のスピーカー全てから発せられています。何があったか分かりますか」


「恐らく、女王がムシ憑きに命令を下しているのでしょう。正確にはムシに取り憑いた何かの可能性の方が高そうですが」


 音を全て記録しておいて下さい、と依頼して通話を終了した。


 そうか。学内のスピーカーからか。


 ならば向う先は絞ることが出来る。


 あたしは夏岡と蟹江にそのむねを伝えると、物陰から飛び出し校舎の中に駆け込んでいった。

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