【完結】愛染橋(作品241114)
菊池昭仁
愛染橋
第1話
私は顧客との不動産売買契約契約を終え、頑張った自分へのささやかな褒美として、『
やや薄暗い店内、私は入り口のマガジンラックから週刊誌を取り、窓際の席に座った。
ウエイトレスがお冷とおしぼり、そしてメニューを携えてやって来る気配がした。
「いらっしゃいませ、お決まりになりましたらお呼び下さい」
「アイスコーヒーとサンドイッチをお願いします」
「かしこまりました。お飲み物は最初にお持ちしてもよろしいですか?」
「一緒でお願いします」
「承知いたしました」
私は週刊誌から目を離し、彼女を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
その女は3年前に別れた、小夜子とそっくりだったからだ。
(小夜子!)
私はメニューを持ち帰るそのウエイトレスを目で追った。
縊れたウエスト、すらりと伸びた長い脚、そしてその女は小夜子と同じように髪をポニーテールにまとめていた。
カウンターで店長らしき男と談笑している横顔、すべてが小夜子とそっくりだった。
当時、小夜子は元カレから復縁を迫られていた。
「ねえ、私どうしたらいいと思う?」
「それはお前が決めることだろう?」
確かに私はそう吐き捨てるように言った。「どうすればいい?」のその言葉の裏には、「彼とやり直したい」という気持ちが隠されていたからだ。
そして私の予想通り、小夜子は私の元を去った。
私は大切な女を失ってしまったのである。
そして3年が過ぎた今、目の前に別の小夜子が現れた。
私は怪しいストーカーのように彼女をじっと見ていた。
サンドイッチとアイスコーヒーをトレイに乗せてその女はやって来た。
「お待ちどう様でした」
驚いたように自分を見詰める私に女は言った。
「何か?」
「すみません、あまりにも知り合いの女性に似ていたものですから」
「そうでしたか? よくある顔ですけどね? うふっ」
「いえ、とてもお綺麗です、あなたも」
私はつい 「あなたも」と言ってしまったことを後悔した。
「ありがとうございます。お近くなんですか? お勤めとか?」
「ええ、ここから歩いて15分位のところに会社があります」
「そうでしたか? 是非またいらして下さいね?」
そう言って笑うと彼女はトレイを持って去って行った。
ハムサンドとほろ苦いアイスコーヒー。
それは私の切ない恋の始まりだった。
第2話
その日から私は毎日のように『紫苑』に通った。
小夜子に似た彼女に会うために。
だが長居はしなかった。ストーカーだと思われたくなかったからである。
私は平然を装い、いつも飲物だけを注文し、タブレットを確認するふりをして15分ほどで店を引き上げた。
ただし、金曜日の夜だけは食事もした。
「ナポリタンとジンジャエールを下さい」
「お好きなんですね? ナポリタン?」
「金曜日はカレーという人もいるけど、僕はここのナポリタンが週の締めくくりなんですよ」
「美味しいでしょう? ウチのナポリタン。あの、お名刺とかいただいてもいいですか?」
意外だった。私は慌てて名刺入れを取り出し、彼女に名刺を渡した。
「オリエント不動産の倉田と言います」
「オリエント不動産なんですか? 大手じゃないですか!
倉田さんは課長さんなんですね? 凄いですね! 私、伊東由美子といいます。
みんなは「由美ちゃん」って呼んでくれます、だから倉田さんも今日から由美ちゃんでお願いします」
店に通い始めて一ヶ月、私は遂に彼女の名前を知ることが出来た。
「それじゃあ由美ちゃん、ビールとフライドチキンを追加でお願いします」
「はい、喜んで!」
彼女はオーダーを伝えに戻って行った。
軽やかに左右に揺れるヒップ。私は後背位で攻めた小夜子の尻を思い出していた。
(由美子の尻も白桃のようなのだろうか?)
私は苦笑いをした。
ビールと唐揚げが同時に運ばれて来た。
「陽介さんはお料理と飲物が一緒ですもんね? 熱々ですから気をつけて下さいね?」
下の名前で呼ばれた。由美子と一緒に食べたいと思った。
「由美ちゃんも一緒にどう?」
「ありがとうございます。でもここはそうゆうお店じゃないので。残念ですけど」
「それなら今度、一緒に唐揚げとビールでもどう?」
「唐揚げじゃなくて焼鳥がいいかなあ」
「じゃあ焼鳥で」
彼女は含み笑いをして私の席を離れて行った。
一週間が過ぎた金曜日。焼鳥の話もすっかり忘れていた時、ビールと唐揚げを運んで来た由美子が言った。
「今日は華金ですね? 陽介さん、今日は彼女さんとデートですか?」
「そんな子がいるなら金曜日の夜にここで独りでビールなんか飲んでいないよ」
「それなら今日、焼鳥、食べたいです」
私は驚き歓喜した。
「由美ちゃんはここ何時に終わるの?」
「9時です」
「それなら新橋の機関車の所で待ってるよ。急がなくていいからね?」
「わかりました。新橋の機関車の前ですね? 9時半頃には行けると思います」
「気を付けてね?」
「はい」
彼女の笑顔がとても眩しく感じた。
思いがけない華金の夜に、私の心は期待で高鳴っていた。
第3話
新橋の蒸気機関車の前で待っていると、由美子が手を振りながら走って来た。
「陽介さーん!」
息を切らしながら由美子は言った。
「はあはあ、ごめんなさい、待たせちゃって」
「ここまで走って来たの?」
「そうよ、だって待たせちゃ悪いでしょ?」
由美子は小夜子と同じことを言った。
小夜子はいつも待ち合わせに走って来る女だった。
「ごめん、待った?」
はにかむ姿も由美子は小夜子にそっくりだった。
「銀座だからここからタクシーで行こう」
「うん」
私はタクシーを止め、由美子と銀座の焼鳥屋へと向かった。
後部座席に並んで座る時、彼女の太腿が私の膝に触れた。
店を出る時に着けて来たのだろう、ほんのりとディオールの香水の香りがした。
この香りは小夜子のお気に入りと同じだった。
「銀座の焼鳥屋さんなんて初めて、楽しみだなあ」
「たぶん気に入ってくれると思うよ。お任せなんだけど苦手な物はある?」
「苦手な人は多いけど、食べ物は平気、好き嫌いはありません。うふっ」
「それは良かった。ということは僕は由美ちゃんの苦手な男じゃないということでいいのかな?」
「当たり前じゃない、そうじゃなければ一緒にご飯なんか行きませんよ。陽介さんはうちのお店の常連さんだし。
あっ、今日、一緒に飲むことはお店には内緒にして下さいね?」
「わかっているよ」
すると由美子は私の膝にさりげなく手を置いた。
小さくてしっとりと柔らかい手だった。
繁盛店だったので、予め予約をしておいて良かった。店はほぼ満席だった。
早い時間であれば、銀座のホステスとの同伴客が多いが、金曜日の夜ということもあり、サラリーマンが数人と後はアベックだった。
「お飲み物は?」
「ビールでいいかい?」
「はい」
取り敢えず、私たちは生ビールで乾杯をした。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
由美子は美味しそうにビールを飲んだ。
細くて白い喉仏が上下し、色っぽいと思った。
ビールを飲む仕草も由美子は小夜子にそっくりだった。
「あー、美味しいー」
「由美ちゃんはいつも晩酌をするの?」
「しますよ。彼がいつもお酒を飲むので」
「彼? 由美ちゃんは同棲しているの?」
私はがっかりした。急にビールが苦く感じた。
「私、人妻さんなんです。子供もいるんですよ、小学4年生の女の子が。ルナって言います」
「いいのかい? 人妻さんが俺なんかと一緒に飲みに来て?」
「全然平気ですよ、だって今私、離婚調停中なんです」
「離婚調停中?」
「ええ、私、旦那と別居して、今は実家暮らしなんです」
そう言うと由美子は残ったビールを一気に飲み干した。
「お替りしてもいいですか?」
「もちろん」
「今日は久ぶりに酔いたい気分なんですよ。潰れちゃったら介抱して下さいね? 陽介?」
由美子は私のことを呼び捨てにした。
私はずっと女とご無沙汰だったこともあり、その由美子の言葉に欲情した。
彼女はビールを焼酎に変え、よく飲んでよく食べた。
「ねえ陽介、カラオケが歌いたい」
「カラオケかあ? 久しぶりだなあ」
「私、『逢いたくていま』が私の主題歌なの」
「MISIAだっけ?」
「そう、私あの歌が大好きなの」
私たちはカラオケボックスへと移動した。
移動中、由美子は歩きながら私に突然キスをして来た。
「初めて陽介を見た時から、あなたのことが好きだった」
彼女は私に腕を絡ませた。柔らかい乳房が私の腕に触れた。
第4話
大きなビルが丸ごとカラオケ・ブースになっているカラオケ店に入った。
手慣れた手つきでリモコンを操作する由美子。
「何か飲むか?」
「クリームソーダとフライドポテト」
「女子高生か?」
「カラオケに来たら定番でしょう?」
私はそれとビールを注文した。
「ねえ陽介、一緒にデュエットしようよ」
「俺はいいよ」
「いいからいいから。これ、知ってるよね?」
由美子は片方のマイクを私に無理やり押し付けると、イントロと一緒にモニター画面に曲のタイトルが映し出された。
『愛が生まれた日』 藤谷美和子と大内義昭。
それは小夜子と行きつけのスナックでよく歌った想い出の曲だった。
由美子の澄んだ美しく伸びやかな歌声。それは小夜子と同じ、いやそれ以上の歌唱力だった。
あなたがいればそれだけでいい
めぐり逢えた
そう歌いながら由美子は私を見つめて微笑んだ。
美しい女だと思った。
久しぶりのカラオケに、私は酔っていたこともあり、年甲斐もなくそれを熱唱した。
「陽介、上手上手」
由美子は笑った。
その後は由美子のオンステージだった。
うっとりと自分の歌に酔いしれる由美子。かわいい女だ。
そして彼女の十八番、MISIAの『逢いたくていま』が流れた。をモニターの歌詞を見ずに目を閉じて歌う由美子。
あまりの歌の上手さに私は鳥肌が立った。
歌が終わって私は由美子に拍手を送り、由美子を抱きしめた。
彼女はそれに熱い口づけで応えてくれた。
「好きよ、陽介」
「俺もだ、由美」
私は由美子を「由美」と呼び捨てにした。
「山口百恵の『愛染橋』って曲、知っているか?」
由美子の耳元で私は囁いた。
「もちろん。有名な曲だもん」
「愛染という言葉は愛染明王から来ているんだ。百恵ちゃんのこの歌の愛染橋は今はもうない。前は大阪市浪速区にあったんだが、今は阪神高速1号環状線になってしまっているらしい。
だがその近くには「愛染坂」という坂道が残っていて、「愛染堂」というお堂があって、そこに愛染明王が祀られているそうだ」
「愛染明王?」
「そうだ、密教でいうところの明王で、悪因を断ち、良縁が結ばれ子供が持てるというご利益があると言われている」
「愛染橋かあ? 行ってみたいかも。そうすれば今の旦那との悪因も切れるということだもんね? そして陽介と・・・」
由美子はその先を言わなかった。
「今度、一緒にそこへ旅行しないか?」
「うん、行きたい、いいね? 行く行く」
私はリモコンを操作し、山口百恵の『愛染橋』を選曲した。
私は感情を込めて『愛染橋』を歌った。別れた小夜子に想いを込めて。
由美子も私と一緒に歌い始めた。
その日が私たちの愛が生まれた日となった。
第5話
ホテルの部屋はエアコンの音と由美子の喘ぎ声が彷徨っていた。
「うっ あ あうん」
私は夢中で由美子のカラダを愛撫し、舐め、甘噛をし、何度も濃密なキスをした。
久しぶりに私は女を抱いた。
由美子の股を押し広げ、クリトリスを強く吸った。
由美子の手が私の両腕を強く掴み、大きくカラダを仰け反らした。
私は体勢を整え、ゆっくりとヴァギナにペニスを挿入した。
「うっ あ あ」
由美子が快感に溺れそうになり、私の頭を必死に掴んだ。
「もっと激しく突いて、お願い」
私は由美子に激しく腰を打ち付けた。すでにコンドームは装着していたのでいつ射精しても良かった。
お互いのクライマックスが近づいた時、私は思わず由美子に向かって「小夜子!」と呼んでしまった。
それは小夜子とのセックスの絶頂時に、よく彼女の名前を呼んでいたからだった。
後の祭りだった。 虚しい射精だった。
由美子は気付かないフリをして、何も言わなかった。
「ゴメン・・・」
「いいよ別に。付き合っている女の人の名前なんでしょ?」
「付き合ってはいない、別れた女なんだ、本当にゴメン」
「小夜子さんってどんな人だったの? 私よりキレイだった?」
「最初に言っただろう? 君にそっくりな知り合いがいたって。それが小夜子なんだ」
「そうだったんだ? 陽介は私を愛してくれたからお店に通ってくれていたんじゃなくて、小夜子さんっていう人に私を重ねていただけだったんだ・・・、それ、ショックだな?」
「そうじゃない! 確かに最初は驚いた。でも君に逢いたくて店に通ったのは本当だ! 由美子は小夜子の代わりなんかじゃない、俺は君を好きになった! 由美が好きだ、信じて欲しい!」
「今すぐ「信じろ」と言われても無理」
「じゃあどうすれば信じてもらえるんだ?」
「その人の写真、スマホにあるんでしょ? それを私に見せて」
私はスマホの小夜子の画像を由美子に見せた。
「あらやだ、双子みたい」
「驚いたよ、あまりにも瓜二つで」
「ふーん、そうなんだあ? 明日もお店に来てくれるわよね?」
「もちろんだよ」
「それじゃあ待ってるね?」
由美子はブリッとした尻を見せながら、バスルームへと消えた。
翌日、私は店に行って驚いた。
由美子は髪を金髪に染め、美しい自慢のポニーテールをバッサリと切り、ショートボブにしていたからだ。
「ご注文は?」
「ア、アイス・ココアを」
「うふっ かしこまりました」
少しして、アイス・ココアをトレイに載せて由美子がやって来た。
「お待ちどう様でした。アイス・ココアです。
どうです? この髪型、このメイク? 似合います?」
「凄く似合っているよ」
「良かった。私は小夜子さんじゃないからね? 私は由美子、伊東由美子。
小夜子じゃないから!」
由美子は怒って行ってしまった。
ココアは甘かったが、彼女の態度は酷くビターだった。
私は小夜子の名前を呼んだことを後悔した。
第6話
その日の夜、私は由美子と私のマンションで会った。
彼女は部屋の中をじっくりと舐めるように見渡した。
「ふーん、結構キレイにしているんだ。夫とは大違い。靴下は脱ぎっぱなし、お菓子を食べても食べかけのまま放ったらかし、本当にだらしない人だった。でも陽介は違う、ちゃんとしているわ」
「君の旦那がそう出来るのは、君というちゃんとした奥さんがいたからだろう? 俺にはそんな女はいない、だから何でも自分でやるしかない。部屋を散らかさないのは俺が独りだからだ。ビールでいいか?」
「紅茶とかある? 温かい紅茶が飲みたい」
「ダージリンでいいならあるよ」
「紅茶ならなんでもいいわ」
私は棚から紅茶を取り出し、ティー・ポットと茶器を用意してお湯を沸かした。
紅茶は100℃の沸騰したお湯で淹れる方が美味い。
由美子がキッチンにやって来た。
「後は自分でやるから大丈夫。あなたは座ってビールでも飲んでいて」
「仕事で疲れているのに悪いな?」
「お客さんじゃないんだから平気、私、陽介の妻だから。うふっ」
由美子ははにかむように笑った。
「エプロンあるけど着るか?」
「いらない、どうせ小夜子さんのエプロンでしょう?」
「安心しろ、俺のだ」
「なら貸して、この服、気に入ってるの。今度、私のエプロン持って来てここに置いておくわね?
好きでしょ? 裸にエプロン。あはははは」
由美子は私の黒いエプロンを着け、ポットに紅茶を入れ、お湯を注いだ。
白くて細い美しい手で、ティーカップを優雅に持つ由美子。
「似合っているよ、その金髪」
「キャサリンみたいでしょ?」
「キャサリン?」
「外人だから」
私たちは顔を見合わせて笑った。
「私、小夜子さんの代わりはイヤよ。私を愛して、この私を」
「ごめん、君を傷つけてしまった」
「私こそごめんなさい、大人気ない高校生みたいなことして」
「びっくりしたけど、ちょっとうれしかった」
「ちょっとだけ?」
「いや、かなり」
「一度、金髪にしてみたかったのよ、外人みたいに」
「改めて惚れ直したよ」
「小夜子さんよりも?」
「もちろん、ハリウッド女優も君には敵わない」
由美子はティーカップを置いて立ち上がると、座っている私を後ろから抱きしめた。
「好きよ、陽介が大好き」
「俺も由美子が大好きだ、愛してる。だから大切にしたい、君を」
由美子は私の前に来て、膝を跨いで私と向き合うと、濃密な熱いキスをしてくれた。
「私を捨てちゃイヤよ、もう陽介を好きになっちゃったんだから」
「それは俺のセリフだよ」
「男のくせに捨てられるのはイヤなの?」
「由美子に捨てられるのはイヤだな?」
「変な人、でもそんな陽介が大好き。ねえ寝室はこっち?」
私と由美子は寝室へと移動した。
第7話
「今度、小夜子なんて私のことを呼んだらぶっ飛ばすからね?」
「お前が好きだよ、由美子」
唇を重ねた。やわらかい濡れた唇、甘いリップの味がした。
私たちは服を脱ぎ、下着姿になるとベッドへ倒れ込んだ。
しっとりとした肌のぬくもり、私はキスをしながら片手で由美子のブラのフォックを器用に外した。
すでにショーツの中は濡れ、布から染みが出来ているのがわかる。
私はそれを由美子の足から抜き取った。
(この女は小夜子じゃない、由美子だ)
私は自分にそう言い聞かせた。
まるで白人を抱いているようだった。白くなめらかな肌、そしてブロンドの髪、鳶色の瞳。長い睫毛の影が伸びていた
私たちは夢中で愛を確かめあった。
由美子と一緒に朝を迎えた。
私は朝食にフレンチトーストを焼いていた。
「飲物は何がいい?」
「オレンジジュースとコーヒー」
「コーヒーは俺が淹れてやる。オレンジジュースは冷蔵庫にあるから自分で出してくれ」
「あなたは何を飲む?」
「俺はコーラにする」
「それじゃあ出しておくわね?」
由美子はグラスに氷を入れ、コーラを注いで私に渡してくれた。
「ハイどうぞ、ダーリン」
「ありがとう、ハニー」
私たちは笑った。
「私たちって相性がいいみたいね?」
「そうだな? 少なくともカラダの相性はいいようだ」
「性格的にはどうかしら?」
「俺は我儘だそ」
「そうかしら? そうは見えないけど。
でも私は我儘よ、好きな物は好きだし、嫌いな物は嫌い。ハッキリしているの」
「女はそれでいいんじゃないか? その方がかわいいものだ」
由美子は私の頬にキスをした。
「娘が成人したら、一緒に暮らそうか?」
「どうして娘さんが成人したらなんだ?」
「だって娘はあなたの子供じゃないから」
「だったら俺の子供にしたらいいだろう? 君の子供は僕の子供だ。君と同じように愛する自信はある」
「陽介・・・」
「最初からそのつもりだよ。三人で暮らそう、ここで一緒に」
「娘の父親になってくれるというの? ありがとう、うれしい・・・」
由美子は泣いた。
そして次の日曜日、私たちは三人でディズニー・デビューすることになったのである。
第8話
岬というその女の子は、小学校四年生で可愛い娘だった。
由美子に似ていないところを見ると、旦那に似ているのだろう。
岬は由美子の後ろに隠れるように私を観察していた。
「こんにちは岬さん。陽介って言います。陽介って呼んでね?」
岬は上目遣いに私を見ていた。
「ほら岬、陽介にご挨拶は?」
岬は黙っていた。どうやら警戒しているようだった。
岬は父親のことをどう思っているのだろうか? 父親にとって娘は特別かわいいはずだ。たとえ由美子と冷めた関係になったとしても、それで「ハイ、さようなら」とはいかないだろう。
もし由美子の旦那が岬をかわいがっていたのであれば、岬は私を受け入れてくれないかもしれない。
少なくとも仲良くなるには相当の時間がかかるかもしれないと思った。
私はクライアントのお子さんにもチャン付けや君付けで呼ぶようなことはしない。子供は「小さな大人」だからだ。
だから私は「岬ちゃん」とは呼ばず、彼女を「岬さん」と呼び、他の大人のように、馴れ馴れしい態度は取らないように心掛けた。
「岬、ビッグ・サンダー・マウンテンに乗ろうか? 岬、好きだもんね?」
岬は黙って頷いた。
私たちは長い順番待ちに並んだ。ようやく私たちの順番になった。
その時、由美子がわざと私と岬が一緒に並んで座れるように仕向けてくれた。
意外に岬はそれを嫌がらなかった。
ビッグ・サンダー・マウンテンは普通のジェットコースターとは違って、短いアップ&ダウンやクイックカーブを頻繁に繰り返すアトラクションだった。
私と岬、そして由美子は大声を出してスリルを味わった。
少し大きな急勾配を下っている時だった、岬が私の手を強く握った。
私はその小さな手を握り返した。
その時、私と岬の絆が生まれたような気がした。
『カリブの海賊』、『ジャングルクルーズ』など、様々なアトラクションを楽しんだ。
コーヒーカップにも三人で一緒に乗ったりもした。
私たちは大きな声で笑った。
お昼になり、ディズニーのレストランで昼食を摂ることにした。
「岬さんは何がいい?」
「カレーが食べたい、ミニーちゃんのカレー」
「デザートは?」
「バニラアイス」
「じゃあ注文するね? すみませーん」
美味しそうにカレーを頬張る岬に私は目を細めた。そして由美子はそんな岬と私を見て満足そうに笑っていた。
「お口にカレーがついているわよ」
由美子は岬の口についたカレーを拭いてやっていた。
ギフト・コーナーでディズニーグッズをいくつか岬に買ってあげた。
岬がシェリー・メイのキーホルダーを見ていたので、
「これがいいのかな?」
私はそのキーホルダーを取ると、一緒にカゴの中に入れた。
ベンチで一休みしていると、岬は私が買ってあげたディズニーのキャラクターたちの入った袋を大事そうに抱きしめて眠ってしまった。
「かなり歩いたもんね? でもこんなに楽しそうな岬を見たのは初めて。ありがとう、陽介」
「俺に娘と女房が一度に出来たんだな?」
「そうだよ、親子共々よろしくね?」
「こちらこそ」
「それじゃあそろそろ帰りましょうか? ほら起きなさい、岬」
「起こさなくてもいいよ、ぐっすり眠っているんだから」
私はおみやげの入った袋を由美子に渡すと、岬を背中におんぶした。
「重いでしょ?」
「女の子って意外と重いんだな?」
「骨がしっかりしているからね?」
岬のサラサラの髪が私の頬に触れた。甘いミルクのような匂いがした。
私は本当の父親になれたようでうれしかった。
第9話
私たちは一回戦を終え、ピロートークをしていた。
「あっさり離婚出来ちゃった。どうやら女がいたみたい。まあなんとなくそんな気がしていたんだけどね?
慰謝料と養育費、ガッポリ請求してやったわよ」
「岬は?」
「ちょっと寂しそうだった。あの娘、パパっ子だったから」
「岬を欲しがらなかったのか?」
「渡すわけないじゃない、ママ母に虐められるのは目に見えてるわ。それに岬は私の産んだ子供だもの。誰にも渡さない」
「これからは俺が岬の寂しさを埋めてやらないとな?」
「私も埋めてね? 寂しがり屋さんだから」
私たちは再びベッドでの戯れを始めた。
「大阪の『愛染橋』の話、覚えているか?」
「うん、百恵ちゃんの『愛染橋』のモデルになった場所でしょ?」
「岬が春休みになったら三人で出掛けてみないか? 『愛染橋』に」
「三人で?」
「そう、俺たちは家族だから、岬だけ置いて行きたくないんだ」
「陽介・・・、あの娘、喜ぶと思うわ。あなたのことが大好きだから」
「俺も見てみたいんだ、『愛染橋』を。もっとも橋は残ってはいないが、その坂、『愛染坂』を三人で登ってみたい。その伝説が本当なのかどうか、確かめてみたいんだ」
由美子はそっと私にカラダを寄せた。
「その伝説、叶うといいわね?」
「叶えて見せるよ、必ず」
そして春休みになり、私たち三人は新幹線のぞみで大阪を目指した。
岬と私はすっかり仲良し親子になっていた。
私は岬を抜け者にはせず、どこに行くにも三人一緒に出掛けた。
「ねえ陽介、ユニバーサル・スタジオに連れて行ってくれるの?」
岬は私のことを「陽介」と呼んでいた。
「もちろんだよ、岬。そしてカニも食べに行こう」
「楽しみだなあ、カニ大好き。岬、ユニバは初めてなんだ。ハリー・ポッターが見たい」
「ホグワーツのスクールコートとマフラー、魔法の杖も買ってあげるよ」
「ホント? クラスで誰も持っていないよ」
岬は楽しそうに駅弁を食べていた。
愛染坂の前までやって来た。
「これが愛染坂なのね? 結構急な坂なのね?」
「その方がご利益がありそうだろう? 緩やかな傾斜じゃありがたみがないというものさ」
「さあ、愛染明王様にお参りしよう。それから、ひとつ注意しなければならないことがあるんだ。坂を登り始めたら絶対に振り向いちゃ駄目だよ。そして話をしてもいけない。そうしないと伝説は成就されないらしいんだ」
「そうなのね? 岬、分かった? この坂を登り始めたら絶対に振り返っちゃ駄目よ、そしてお喋りも禁止なんだって」
「どうして?」
「魔法がかからなくなるんだってさ」
「どんな魔法?」
「どんな魔法だろうね? なんだかワクワクするわね?」
私たちは手を繋いで坂を登り始めた。
坂の途中にある、小さな愛染明王堂の
その時、一陣の突風が吹いて、岬のエンゼルハットが飛ばされてしまった。
「振り向くな岬! 由美! 大丈夫、俺が取って来てやるからそのまま前を向いて登り、坂の上で待っていろ」
私は坂の下に飛ばされて行った岬の帽子を必死に追いかけた。
坂道に足を取られ、私は転倒して坂を転がってしまった。
最終話
「パパーーーーーッ!」
岬が振り向き叫んだ。由美子も同じように振り向いた。
「あなた!」
その時、岬が初めて私のことをパパと叫んだ。
幸い私のカラダは坂の途中で止まり、軽い打撲だけで済んだようだった。
「あなた大丈夫!」
「パパーっ、死んじゃやだよーっ!」
私は由美子と岬を抱きしめた。
「あはははは 大丈夫だ、パパは不死身だから死なないよ」
嬉しかった。パパと岬に呼ばれたことが。
「わーっ」
岬が大きな声で泣いた。
「伝説、駄目になっちゃったね?」
「いや、伝説は本当だった、それが証拠に岬は私のことをパパと呼んでくれたじゃないか? 俺たちは家族になったんだよ」
私たち三人は抱き合って泣いた。
そして三ヶ月後、私たちはバージンロードを三人で歩いた。
私たちは本当の家族になったのである。
あの『愛染橋』の言い伝えは本当だったのである。
「パパ、ママーっ、早く早くーっ! 写真撮ろうよみんなで一緒に!」
気の早い蝉時雨が遠くから聴こえていた。
どうやら今年の夏は暑くなりそうだった。
『愛染橋』完
【完結】愛染橋(作品241114) 菊池昭仁 @landfall0810
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