第10話 その日和見は風の如くその静けさは林の如く弁論すること火の如く動かざること山の如し即ち兵は詭弁なり


 人は変われるというけれど。

 人が変わるためには何をすればいいのかわからない。

 だから僕は変われてない。

 変われない。


 じゃあ人が変わるためには何をすればいい?


「人を人たらしめるものとは何か。答えは簡単だよ宮村君。それは後悔だ」


 以前、先輩とそんなことを話した。


「後悔こそが人間を人間たらしめるエッセンスさ。……っと、君には無縁の話だったね」


「なんだか含みのある言い方ですね」


「そりゃそうだろう。なんたって後悔とは、選択という蜜月が果たされたときにしか生まれない産物なのだから。君は選ばない。だから後悔しない。或いは……後悔しないために選ばないのか?」


「その通りですよ。というか、選ぶなんて面倒くさいことを好き好んでやりたくないだけです」


「不健全な話だ。不良な話だ。まったくもって、不真面目甚だしい。いいかい、宮村君。後悔とは苦しみだけれど、心に刻まれる生傷だけれど、しかしそれこそが人間たる証なのだよ」


 先輩は繰り返す。


「なぜならば後悔は進化を育むのだから。後悔とは二度と繰り返したくない記憶であり、そうならないように努める原動力なのだから。故に後悔を持つことで人は成長し、過去とは違う人間へと変わる。その変遷こそが、変化こそが、成長こそが、私は人間の在り方だと定義する!」


 相変わらずの演説に、あの時の俺は乾いた拍手を返していたが。思い返してみれば、的を得た言葉だったのかもしれない。


 後悔が人を変える。

 後悔こそが人を作る。


 だけど俺は、後悔から逃げた。選ぶことから逃げるように、目を背けた。だから変われなかった。


 だけど。

 あの二人は。

 変わっていた。

 それは後悔から目を背けなかったからなのか、それとも中学生から女子高生へと上がるにつれて、自然とそうなるからなのか。俺にまったくはわからない。


 少なくとも。

 俺は変われなくて。

 二人は変わっていた。

 姿だけじゃなくて。あの時の出来事を引きずっていないように感じてしまった。


 俺だけだ。“僕”だけが、あの日に取り残されている。


「君はどうしたい?」


 あの言葉が、頭の奥底から響いてくる。


 俺は変わりたい。

 だけど戻りたい。


 冗談で武装した情けない僕から変わりたい。

 冗談交じりに話したあの日に戻りたい。


 俺は進みたい。

 僕は戻りたい。


 あの日に戻れない限り、俺は前に進むことなんてできない。


 だから。


 俺は選んだ。


 後悔に向き合うことを。



 ◆



「……さってと。しかし、どうするかなぁ」


 猫啼先輩に過去のことを話した翌日。本日の全日程が終わった放課後に、ぶらりと校舎の廊下を歩きながら、後悔に向き合うと選んだ昨晩のことを思い出しながら、どうしたものかと俺は悩んでいた。


 とりあえずスマホを使って二人にメッセージを送ってみたはいいものの、そこから先が全く想像できない。何が起きて、どうすればいいのか。それ以前に、この話の最終的な着地点が、未だに俺ははっきりと見据えることができていない。


 けれど、何も見えていなかった時よりは鮮明になっている。それこそ、未だ蜃気楼のようにおぼろげな野放図だけれども。何もないよりはマシ。


 なんて、これからの自分の行動について考えていると、突然俺を呼ぶ声が聞こえてきた。


「宮村」


 俺を呼んだのは一人の男子。見覚えのあるその顔は、クラスメイトの一人だ。確か……。


「……あー、誰だったか。待ってくれ。今名前を思い出すから……森君?」


「林だ」


 そう、林だ。イグサと同じグループで、昨日俺のことを睨み散らかしてきた同級生。そんな彼が、いったい何の用だろうか。


「風狸が探してたぜ」


 ああ、なるほど。どうやらイグサが探していたことを教えに来てくれたらしい。ふむ、何かあったのだろうか。


「屋上に居るから、ついてこいよ」


 林の言葉に疑問が過る。俺はそれをそのまま口にした。


「屋上? なんでまた屋上なんかに居るんだ?」


「……女子組は屋上に居るんだよ。というか、放課後にたむろするときに俺たちは屋上に居るんだ」


「ふーん、なるほど。わかった、ついてくよ」


 やはり俺のことを睨む林。一体俺が何をしたというのだろうか。


「ああ、その前に少しいいか? 待ち合わせをしていた友人に遅れるとメッセージをしておく必要がある」


「こっちも待ってる人間が居るんだ。早く終わらせてくれ」


「了解了解」


 手早く待ち合わせをしていた友人とやらにメッセージを送ってから、俺は先を行く林の後に付いていく。


「時に林君」


 屋上に向かう道中で、俺は林へと話しかけた。ちなみにこの君付けは俺なりの友好を示すアプローチだ。上っ面な対応策だけれど、どういうわけか彼に睨まれている以上は、やはり俺から譲歩しなくてはならないだろう。


 ……クロバに知られたら、また笑われそうだな。


「……」


「無視しないでくれよ林君。俺たちはお互いに同級生なのだから、こうしたタイミングにこそ交流を深めるべきだと思うんだ。特に俺たちは共通の友人もいることだし、仲良くなれると思う」


「……あのなぁ」


 階段を上る途中で止まって、彼はうざったい様子で振り向きながら、相変わらず敵対心たっぷりの瞳をこちらに向けて言ってきた。


「俺はお前が嫌いだ」


 えぇ……?


「授業を平気でさぼる不真面目さ。そのくせそれを恥じることなく教室に居座る厚顔無恥。それにその言動。自分以外のすべてを見下してるような語り。何から何まで不愉快極まりない」


「困ったな。俺はそこまで嫌われてたのか」


「今更自覚したのかよ」


 どうしよう。反論のしようもない。

 いや、反論しようとすればできる。俺が授業をサボっているのは、すべて水池がお気に入りのおもちゃ感覚で俺を連れ出すのが原因だし、厚顔無恥と言われようが事実恥ずべきところばかりだろうが、教室で授業を受けるのは生徒の義務だから仕方のないことだろう。


 うむ。そう考えるとやはり水池が悪いな。俺に友達がいないのも水池が悪い。そうに違いない。絶対そうだ。


 それに最後のはもうなんでだよ。別に俺は、見下してるつもりなんてないんだけど。むしろ見上げてるのだけれど。首が痛いぐらいに。


 まあ、それはそれとして。


「しかし妙だな。今、林君が並べた話は事実無根とは言い切れないけれど、今の今まで俺とは無関係だった林君にとっては、そこまで嫌う理由にはならないんじゃないか?」


「……」


「その様子を見ていると、俺を嫌うのに何か別の、それこそ核心的な理由があるように見えて仕方がない。唯一、絶対の、俺を嫌う、理由がある。話してくれよ林君。そして友達になろうぜ。交友関係は広くて困ることはないからな」


「……………………」


 上から俺を見下ろす林は、ため息を付いた後にボソリとつぶやいた。


「……なんでこんな奴を」


「?」


「なんでもいい。とにかく、無駄話をしてる暇なんてないから早くいくぞ」


 それから、もう話すのも嫌だといった風に目を切って、彼は階段を昇って行ってしまった。変な奴だと思いつつも、遅れないように俺も階段を上って屋上を目指す。


 イグサが待っているらしい屋上へと。

 けれど、屋上が目と鼻の先にまで迫ったところで、ボソリと俺はつぶやいた。


「……なんでこうも、あの先輩の読みは当たるんだろうな」


 教室棟校舎の四階からさらにもう一つ階段を昇れば屋上に出ることができる。それまでの道中で、これでもかというぐらいに林の敵意にはさらされ続けた。


 おかげで彼が嘘をついていることがはっきりとわかる。というか、こうも嫌いな相手に本当のことを伝えるとは思えない。だからきっと、屋上に居るのはイグサじゃない。


 だから俺は呆れるしかなかった。まさか昨日の時点で、あの先輩はこうなることを予想していたのかと。


「着いたぞ」


「わかってる」


 屋上の扉が開かれた。

 ワクワクするな。テーマパークに来たみたいだ。


「やぁ、ようやく来たね」


「ええ来ましたよ天空寺先輩」


 屋上に続く扉を開いて真正面にある落下防止用の金網を背に、広い屋上で俺の到着を待ちわびていたのは、予想通りイグサではなかった。


 待っていたのは天空寺先輩。林以上に、俺を敵視している学校の人気者。まったく、陰キャが陽キャを敵視することもあるならば、陽キャに陰キャが憎まれることもあるのだろうけれど、人気者に敵対される身にもなってほしいものだ。


 まあ。


「要件はわかってるよね?」


 踏みつぶす奴は、踏みつぶされる奴の気持ちなんて考えないんだろうけど。


 屋上には天空寺先輩の他に、いつぞやの購買前での騒動で彼が引き連れていた取り巻き二人の姿もある。しかし、それ以外の生徒の姿はない。それもそうか。昼休みならまだしも、放課後にわざわざ屋上に来る理由なんてない。


 まあ、それがわかっててついてきたところもあるのだけれども。


 そしてさりげなく、林が俺の背後に回って、すぐさま入ってきたばかりの扉を閉めた。そして、まるで守衛のように構える。逃げ道はなくなった、とみていいだろう。


 なので俺は、流れに身を任せて天空寺先輩の方へと向いた。


「要件、と言われましても。はて、しがない高校一年生でしかない俺と、輝かしい功績を持つ天空寺先輩の間に要件が生まれるほどの関係性を持つことが許されるのでしょうか?」


「ははっ、面白いことを言うね君は」


 笑う天空寺先輩。それにつられて周囲の二人も笑い出した。春風のようにさわやかな笑みだ。これがイケメン。俺なんかよりも優れた容姿が、人好きのする雰囲気をまとっている。人気者になるべくしてなっている。


 だけれども。


「君は一つ大きな勘違いをしているね」


 笑みのままに彼は言う。


「まったくの逆だ。君が僕と関係があるから要件が生まれたんだよ」


「難しいことを言わないでくださいよ先輩。俺、そこまで頭が回る人間じゃないんですから」


 逆。逆。逆。

 冗談に塗れた俺の発言を自己援護するわけではないけれど、はっきりと言って俺と天空寺先輩の関係性は薄い。月と鼈ぐらいには離れていて、月と鼈ぐらいには無関係だ。


 だから彼から俺に対する要件など生まれるはずがないのに、関わってしまったから要件が生まれてしまった、とと。


「君さぁ……生意気なんだよ」


 天空寺先輩から笑みが消えた。

 見覚えのある顔。つい数日前に見た、ショッピングモールで見せた顔。それが再び、俺の前に姿を現した。


「僕が誰だか知ってるよね」


「天空寺翔先輩。三年。サッカー部キャプテン。ファンクラブ有り。悪い噂無し。名実ともに学園の人気者。俺が知るのはこれぐらいですかね」


「じゃあ、今君が知る立場もしっかりと理解しているわけだ」


「はぁ。立場も何も、クラスカースト最底辺ですけど」


 クラスカースト最底辺。我ながら悲しくなってくるほどの立場だな。友人は一人だけいるけれど、先ほどクラスメイトから面と向かって嫌いだと言われてしまったので、プラスマイナスゼロだ。というか、あの友人野郎を本当に友人として数えていいのやら・


「わかっているじゃないか。僕はこの学園の人気者。知名度において右に出る者はいない。モデルとして雑誌に出演したことだってある。つまりは、この学園の顔と言っても過言ではない」


「学園の顔って生徒会長じゃないんですか?」


「……本当に生意気だね、君は」


 なんだろう。言ってはいけないようなことを言った気がする。まあいいや。事実を言っただけだし。


 ただし、その発言が状況を悪くしたのもまた事実。ぴきりと青筋らしきものが、学園の人気者の甘いマスクに浮かび上がっている。

 天空寺先輩は、言う。


「僕は優れている」


「そうですね」


「君は劣っている」


「否定できませんね」


「つまり君は、手を引くべきなんだよ」


「……はあ」


 手を引く。手を引くねぇ。

 主語が家出してしまってるけれど、俺と天空寺先輩のファーストコンタクトを考えれば、あいつに関する話だろう。


「それはつまり、狐陽玄羽から手を引けということですかね」


「僕は最初からそう言っている。こんなことも理解できないのか」


 何を言ってんだこいつと、出かけた言葉を呑みこんだ。すでに状況は最悪なのだ。これ以上、状況を悪くする言葉は慎むべきだろう。


 そんなことをしているから俺の言葉はワンテンポ遅れていて、会話のイニシアチブは完全に天空寺先輩へと奪われてしまった。


「優れたものはより優れるべきなのだよ。そして彼女は優れている。モデル顔負けの美貌に、学年主席を争う頭脳。それはつまり、より優れた僕の元に居るのにふさわしい。僕にも、彼女にもメリットのある素晴らしい選択だ」


「あ、クロバって頭よかったんだ」


「だがしかし、彼女は今、その価値も知らないような愚図の下に居る。これがどれだけ屈辱的なことかわかるか?」


 不味いな。俺の冗談が通じていない。合いの手に挟んだ文句でさえ、無視して会話を推し進められてしまった。いやまあ、最初から通用するとは思ってないのだけれど。


 いやーしかしどうしようかな。俺にできることと言えば会話だけで、会話が通じないとなるもう打つ手なし。結局、俺は無力。何かできると思いあがること自体が、思い上がり甚だしいぐらいの出来損ない。


 だから結局、天空寺先輩にとって俺は無造作に踏みつぶせる蟻んこでしかない。蟻と会話するティラノサウルスなんて存在しない。事実、件の張り紙のせいで俺の学園内での評価は地の底に落ちた。


 きっと、目の前の男は、俺をどうすることもできる。

 言葉は慎重に選ぶべきか。


「んー、つまりこういうことですかね」


 俺は、言った。


「クロバに相手されなくて悔しいってはな――」


 そこまで言って、思いっきり腹を蹴られた。体が後方に数メートル跳ぶ。びたんと、入り口の前で待機していた林のすぐ横にあった壁へと、俺の体は打ち付けられた。それから弾むように体が地面に転がる。


 痛い。痛いというか、苦しい。蹴ってきたのはもちろん天空寺先輩。そんな彼はサッカー部のキャプテンで、その蹴り足は数多の得点を奪い去ってきたフォワードのそれ。そんなものでけられてしまえば、内臓が破裂したのではないかというぐらいの痛みが、俺の内側で暴れまわっている。


「言葉には気を付けた方がいい」


 俺を見下ろしながら、天空寺先輩は言う。


「君には今、二つの選択肢がある」


 林が、取り巻き二人が、天空寺先輩が、俺のことを見下ろしている。


「選択肢の一つは、おとなしく分相応の立ち振る舞いをすることだ。いいかい。彼女は優れた僕と一緒に居るべきなんだ。そうであるべきなんだ。君はそれを邪魔している。だからもう一つの選択肢を取るというのならば容赦はしない。僕と彼女の邪魔をするというのなら――」


 天空寺先輩の顔に感情はない。無感情。けれど、発せられる言葉からは嵐のような怒気を感じられる。苛立っているんだろう。気に食わない奴が、気に食わないことを言い出すから。


 俺の体を彼が踏みつけた。


「いくら劣るとはいえ、この状況がわからないわけじゃあるまい」


 先輩が三人。俺のことが嫌いな同級生が一人。出口はふさがれていて、俺は地面に転がっている。

 相手は運動部の主将。そして俺は、運動神経皆無の落ちこぼれ。


 まな板の上の鯉、とでもいおうか。俺自身は煮ても焼いても食えないような人間だけれど、煮るなり焼くなり好きにしろとしか言うことができない状況だ。


 ここで俺は冗談を一つ。


「学園の人気者がこんなことしていいんですか?」


 彼は答えた。


「学園の人気者だからこんなことをしても許されるんだよ」


 俺を踏みつける力が強くなる。何か気にでも障ったのだろうか。いや、でも林は俺と喋るだけで気に障ってたしなぁ。もしかしたら、俺の言葉には、そういう効果があるのかもしれない。


 まあでも。

 俺もこの人と喋っていると。

 気に食わないと思ってしまうから、人のことは言えないけれど。


 何が気に食わないんだろうか。いや、性格の善し悪しで言えば目の前の先輩は間違いなく後者であるのだから、気に食わなくて当然なのかもしれないけれど。


 だけどこの人には、もっと直接的な嫌悪感がある。根本的で、核心的な嫌悪の理由がある――


 と、そこまで思って、俺は気づいた。


 邪魔なのだと。


 だってこの人は、クロバのことを気に入っていて、そのためには手段を択ばない。ショッピングモールのやり取りだけで、ここまでしてくるような人間だ。


 だから、もしもこの先、クロバとの日常を取り戻すのだとしても。この人の存在は、俺にとって邪魔以外の何物でもないのだ。


 それに、イグサとの一件もある。いざとなれば、俺の悪評に限らず、俺に関係する様々なものへとその悪意を向けることだって厭わないだろう。


 だから、俺は思う。

 不愉快であるとか、気に食わないとかじゃなくて。

 居なくなってもらわないと困る、邪魔な存在なんだ。


 だから、俺は。

 彼の敵になろうと思った。

 この時初めて、思考が感情が繋がったような。そんな気がした。

 絶対こんな状況で使うような言葉じゃないけれど。


 生まれて初めて、何の気兼ねもなく素直になれた気がする。


「苦しいですね」


「……なにがだい?」


「そんなに俺のことが、羨ましいんですか」


 もう一回蹴られた。というか、蹴りで返事するのはやめてほしいんだけど。痛いから。

 まあ、でも、いいや。もうこの人のことは、わかったから。


 ――『いざとなったときは笑うといい。私のようにね』


 猫啼先輩の言葉が脳裏に過った。

 つくづく思うけれど、本当にあの人は、未来予知でもしているのだろうか。


 ともあれ。


「ははっ、面白いですね。あっはっはっは!」


 俺は笑った。誰も笑ってないから、代わりに俺が笑ってやった。


「優れているとか言っておきながら、俺みたいな人間が羨ましいんですか! クロバに相手にされないから、相手にされている人間が羨ましいんですか! だから、そういう人間を連れてきて、こんな風にいじめて! 自分が上だって陶酔したいと!」


 蹴られた。


 蹴られたけれど、俺の笑いを止めることなんてできない。だって、俺の目の前に居るのは、俺なんかよりもよっぽど弱い人間なんだから。


 だから、言ってやる。


「なんてことないんですよ。あんたなんか」


「黙れェ!!」


 図星でも突かれた、はたまた彼のプライドを傷つけたのか。激昂のままに吐き出された天空寺先輩の声が、屋上中に響いた。


「うるさい! うるさい! 口を開くんじゃない! 笑うんじゃない! お前みたいな人間がおこがましい! 僕は誰よりも優れているんだぞ!!」


 天空寺先輩は固執している。

 自分が評価される人間であることを。誰もがうらやむ存在であることを。まあ、それに固執したからと言って、実際に誰からも憧れるような存在になれるほど世界は簡単じゃない。俺がそうであるように。

 だから、学園の人気者としての立場を保っている彼は、事実として本当に優れた人間なんだろう。


 けれど、その価値観が当てはまる人間ばかりじゃないことを、彼は知らない。


「僕にかかればお前なんかどうとでもできるんだぞ!!」


「できてますか? どうとでも?」


「ッ…………!!」


 彼は自分が評価される人間であることに固執している。だからこそ、その正反対のことが起きれば、人は壊せると信じている。


 悪評を流布し、評価を地の底に貶めて、完膚なきまでに地位を貶して、誰からも信用されなくなれば、人間は己を保てなくなり、後悔に塗れ、おのずと自分に許しを求めてくると。


 だからきっと、ここに俺を呼び出したのは、許しを請うて首を垂れる俺のことを踏みつけて、自らを上だと証明するため。


 ついでに言えば、悪評を流布すればクロバが俺に愛想をつかすとでも思っていたのだろう。

 どちらが本命の作戦なのかはわからない。ただ、一つ言えることとしては――


「俺はまだ、笑ってますよ」


 俺は笑った。

 シニカルに。酷薄に。愉快に。快活に。道化のように。喜劇のように。


「はっはっはっはっは!!」


 天空寺先輩の顔は歪んだ。無表情から一転して、火にあぶられているような苦しみの表情のまま、彼は怒り狂った。


「ふ、ふざけるなぁああああ!!!」


 そしてまたもや彼は俺を蹴り上げた。サッカー部を支える右足を使って、情け容赦なく。


「お、おい! 天空寺、それ以上は死んじまうぞ!」


 怒り狂う天空寺先輩を見かねたのか、取り巻きの一人がそう宥めるけれど、そんな制止じゃ焼け石に水。火のついた彼を止めることなんてできやしない。


「うるさい! 僕をここまでコケにするこいつが悪いんだ!」


「目的はそうじゃないだろ天空寺!」


「僕に指図するんじゃない! お前らも退学になりたいか!?」


 続けて止めようとする取り巻き。けれど、彼らの制止も天空寺先輩の一声で逆に止められてしまう。


 その間に、俺はちらりと林の方を見た。

 林は、おびえた様子でこちらのことを見ている。彼がここに居る理由は――まあ、あとでいいか。


 というか、これだけ時間を稼いでるんだから、そろそろ来てほしいんだけど……と、そう思ったタイミングでちょうどよく、林の背後、即ち屋上の入り口の方からどたどたとした足音が聞こえてきた。


 そして、屋上の扉が開いた。


「お邪魔しまーす……って、おーおー、やってんなー」


 状況にそぐわない間抜けな声と、平和ボケしたような足取りと共に、大柄な人影が屋上へと姿を現した。

 屋上に居る人間全員の視線を集める彼へと、俺は声をかける。


「ったく、遅いじゃねぇか水池」


「あー? さっきまで学外に居たんだから当たり前だろ。むしろ、この忙しい俺様がこうして恭しく来てくれたことを感謝してほしいぐらいだぜ宮村ぁ」


 屋上に来たのは水池だ。

 実を言えばさっき、林に屋上に案内される前に、こっそりと連絡を取っていたのだ。

 あの時点で、林の態度は少し不自然だった。だから、事前に手を打っていたのだけれど、まさかここまでの事態になるとは思ってもみなかった。


 ともあれ、備えあれば患いなし。いや、俺の体はすでにボロ雑巾だから患いありか? まあ、どちらにせよ、どちらにしろ、彼にやってもらうことは変わらない。


 じろりと水池が俺を見る。


「……んで? 一応聞いておくが――」


 そこまで言ってから言葉を止めて、彼はいったん周囲を見渡した。林。取り巻き二人。そして天空寺先輩。四人を見てから、改めて俺の方へと視線をよこして、彼は尋ねてくる。


「助けはいるか?」


「頼むよ水池。いじめられて困ってたところなんだ。か弱い俺の代わりに、こいつらをぶっ飛ばしてくれよ」


「よく言うぜ」


 瞬間、水池の体が一瞬ブレたかと思うと、取り巻きの一人がぶん殴られた。数拍遅れて、この場に居た全員が、殴られた彼が地面に転がったのを認識した。


「まあいいや。なんかあったら呼べって言ったのは俺だからな。さぁて、坊ちゃん学校の人気者ってのは、どんぐらい殴り心地がいいのかねぇ……」


「なっ……ま、待て!!」


「あぁん?」


 ぐるぐるぐると、肩慣らしでもするように腕を回す水池へ、天空寺先輩が待ったをかけた。


「な、何をしてる!」


「何って……」


 ちらりと、水池が今しがた殴った取り巻きの一人を見た。屋上に転がった彼は、たった一撃を食らっただけでのびている。起き上がる気配もない。


 一方的な蹂躙だ。急襲からの一撃による暗殺だ。けれど、水池は言う。


「喧嘩だよ」


 喧嘩って、一方的に殴ることを言うんだっけ?


「ふざけたことを……いいのか、僕を敵に回したら、この学園で居場所がなくなるぞ! こいつみたいにな!」


「あー、それは困るな。俺は青春がしたいんだ。まだ女の子と連絡先も交換してねぇ」


 なんだか話がおかしな方向に転がっている気がする。というか水池。お前、俺のことを居場所のない人間だと思ってたのかよ、おい。


「だろう? なら、早く謝るといい。まだ、君がしたことを許してやれる――」


「んじゃま、腕一本いっとくか」


「……は?」


 腕を一本。いく。

 その単語に嫌な予感を覚える俺。しかも、不快なことに天空寺先輩も同じ予感を感じとったようで、二人揃って怪訝な顔をしてしまった。


 ただ、俺たちが感じた嫌な予感以上に、水池が取った行動は意味不明で、訳が分からなくて、恐ろしいものだった。


「えいっ」


 そんな軽い掛け声とともに、彼は自分の右腕をへし折ったのだ。


「痛っ……くそっ、痛いぜまったく……」


「な、な……何をしてるんだ君は!!」


 自ら腕をへし折った水池に対して、困惑した様子の天空寺先輩が声を荒らげた。


「あぁん? 何してるって……そりゃあれだな……ああ、いや。リテイクリテイク……」


 自らを傷つける奇行。その理由を水池はこう言った。


「あー! 痛ぇ! よくも俺の腕をへし折ってくれやがったな先輩さんよ! こりゃ、俺もそれなりの抵抗をしなきゃどうなったかわかったもんじゃねぇな!」


「は、な、何を、何を、言って……」


「何って、前に言っただろ」


 舌ベロを出しながら水池は言った。


「喧嘩を偽装すんなら、もっとリアリティってもんを考えるべきだぜ先輩」


 それから水池は、折っていない方の拳で自分の顔をぶん殴った。顔は腫れ、水池の鼻から血が垂れる。けれど、まるで枷の外れた獣のように、彼は凶悪な笑みを浮かべていた。


「ひっ……!」


 さすがの天空寺先輩もこれには恐怖したのだろう。彼が後ずさった音が、床をこすった。


 だから、俺は、それを。


「頼りになる先輩ってのは、もう無理そうですね」


 だから俺はそれを撮影していた。

 屋上は完全に水池の支配下にある。もちろん、誰も天空寺先輩に蹴られるばかりだった俺に注視などしていなかった。だから、懐からスマホを取り出して、その雄姿を撮影していたわけだ。


「な、何を取っているんだ君は!!」


「何って、見ればわかるじゃないですか先輩。逃げるんなら逃げればいい。ただし、明日からは下級生から逃げたイケメン主将って映像が世に出回ることになるだけですから」


 傷をでっちあげて、相手の地位を脅かすような言葉を並べる。何ともひどい行いだろうか。とてもじゃないが、褒められるような行いじゃない。


 まあ別に、俺の良心は何も痛まないけれど。それ以前に、俺に良心があるも定かではないが。


「落ちるなら一緒に落ちましょうよ先輩。嫌われ者のふるまい方なら、俺が指南できますよ」


 ともあれこれは、やられたことをやり返しているだけだから。

 だから悪いとも思わない。俺は俺の身を待るために、やることをやるだけだ。


「あ……あ、あ……」


 天空寺先輩が体を震わせている。今、彼は何を考えているのだろうか。

 目の前の狂人に対する恐怖か、人気者の地位を脅かされることに対する不安か、自らの矜持を傷つけられたことに対する怒りか。


 確実なのは、今彼の中にいろんなものが流れ込んで、頭の中に渦を作り出していることだ。嵐のような、渦潮のような、感情の濁流。それはどんどんと胸の内で大きくなって、次第にコントロールが効かなくなっていく。


 俺はそれを知ってる。

 そしてそれが、どんな結末をたどるのか、も。


「うわぁあああああああああ!!」


 彼が狂ったように声を上げながら、水池へと殴りかかった。けれど、ひらりと水池は軽い身のこなしでそれを避けて、胴体に一発、鋭い蹴りをお見舞いした。


 鞭のような一撃だ。破壊的な一撃だ。


 たったそれだけの一撃で、天空寺先輩の意識は刈り取られて、彼の体は床に転がった。


「ああ、ついでにお前も」


 そしておまけで、水池の手によって(使ったのは足だけれど)、残るもう一人の取り巻きの意識も瞬く間に刈り取られてしまった。


 これにて終わり。


 最後に転がった先輩三人の負け姿を記念撮影して、脅し用の証拠として保存して一件落着だ。

 この写真は、今後の天空寺先輩対策の切り札となってくれることだろう。……意識もないし、ついでに間抜けなポーズもさせておくか。うぇーい。ぴーすぴーす。


「助かったよ水池。お前が来てくれなかった、俺の命が危なかった」


「嘘言え。誰がお前を脅かせるってんだ」


 撮影を終えて、水池へと話しかける。けれど、俺の言葉に彼は呆れた様子で反応した。何をそんなに呆れられる要素があるのだろうか。俺にはわからなかった。


「俺の脆弱さを考えて発言してくれよ。顔は蹴られちゃいないが、胴体は痣だらけだぞ」


 ひとたび上着を裏返せば、蹴られた跡がくっきりと胴体の至るところに残っている。今はドーパミンやらなにやらのおかげで少し痛いぐらいで済んでるかもしれないが、絶対後で痛みにのたうち回ること間違いなしだ。まったく、あの場面で反撃できない己の脆弱な身体能力に嫌気がさしてくる。


 ともあれ。


「助けてくれてありがとな」


 水池には助けられた。

 だから素直に感謝をしたが、彼は「よせよ」とうざったらしそうに返すだけだった。


「さぁてと、それから……林君」


 水池に感謝してから、次に屋上の入り口で立ち尽くして呆然としている林君へと、俺は声をかける。


 返事はない、が緊張した様子が彼の態度から伝わってくる。

 けれど、別に俺は彼に対して、何かをするつもりもない。ただ一言だけ、言うべきことを言うだけだ。それ以上はなにもしない。興味もない。


「今日のことは内密に頼むぜ。イグサには嫌われたくないだろう?」


「……っ」


 びくりと、彼が肩を震わせた。それから、目を大きく見開いて俺のことを凝視してくる。けれど、その行動に対して俺は何もしない。

 ただ一言、伝えるべきことだけを伝えただけだから。


「よぉし、水池。誰か来る前にさっさと行くぞ」


「ん? もういいのか?」


「そもそもここに来るのは俺の予定にはまったくなかったことだからな。もう一つ。本来の予定が残ってる」


「あそう。ならさっさと行こうぜ」


 林に見つめられながらも、俺は水池を連れて屋上を去った。なにせ、もうここでやるべきことはなにもないのだから。


 それから俺は急いだ。


 本来の予定。やろうと思っていたこと。

 イグサとクロバ。二人に送ったメッセージ。


 放課後に裏庭で待ってる。


 まだ誰も、集まっていないといいのだけれど。

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