第9話 叩いたところでポケットの中に入ってなきゃビスケットは増えない・下


 春先の教室。

 中学三年の終わり。

 僕はなんとなく、窓から見える桜の並木を見下ろしていた。


「不思議な気分だな」


 本日は卒業式。三年間の学校生活に幕を引く最終段階である。というか、既に卒業式は終わり、皆が皆、保護者と共に校門前で記念撮影でもしているころだろう。


 こんな時間に、教室の窓際の席で黄昏ている卒業生なんて僕一人ぐらいだ。


 まあ正直に白状すれば、僕も記念撮影をしている陽キャ同様に思い出に浸っているからこそ、教室に居るのだけれども。僕は一人で、一人こそが僕。だから一人になって、中学生として過ごした三年間を振り返った。


 ただ、三年間の思い出に浸ろうとも、どうにもこうにも二年生後半の思い出のインパクトが強すぎて、他の思い出が薄れてしまっている。これは僕の交友関係があまりにも乏しいのも原因だろうけれど、やはりあの時期に起きたクロバとの一件は、忘れがたいものがある。


 冬の黄昏時に出会った少女と、その母親との一件。刃傷沙汰にまで至ったあの事件は、母親の逮捕という形で幕を終えた。まあ、あれだけ証拠がそろってたのだ。そうならない方がおかしいか。


 そしてクロバは、父方の祖父母の元で暮らすことになった。ただ、祖父母の家も学校からそこまで離れていないので転校することにはならなかったので、今も同級生として同じ学校に通っている。


 ちなみに、クロバの母親が逮捕されたという噂は、当然の如く学校中に広まったけれど、そこは流石のクロバである。「言わせておけばいいのよそんなこと」と言って、どこ吹く風で登校していた。まあ、小学校のころから一匹狼だったクロバである。心は強いのだろう。


 そうして一年。様々な出来事がありつつも、僕とクロバの交流は続いた。遊びに出かけることもあれば、特に何事もなく帰路を共にすることもあった。いうなれば友人だ。うむ。感慨深い響きである。


 そしてイグサの方も大した問題もなく、クラス替え後のクラスになじんでいた。というか三年に上がってから僕と同じクラスになった。なので、たびたびドジする彼女のフォローを繰り返して、僕の三年間は終わったといっても過言ではない。まあそれも、僕がおせっかいを焼き続けた結果だけれど。


 ともあれ終わり。中学生としての学園生活の終幕である。


 喜劇のような事件も、悲劇のような事件も、今となっては笑い話。くだらないことを言って笑い、くだらないことをして遊んだ。そんな三年間だった。


 振り返るばかりの過去の光景。目を閉じて浮かび上がる景色を振り返り、目を開いた僕はぽつりとつぶやく。


「……帰るか」


 校門の近くで親を待たせている都合上、思い出に浸って長く教室に居るわけにもいくまい。そんなわけで、椅子から立ち上がった僕は、後ろ髪を引かれながらも教室を立ち去った。


 三年の教室は校舎の四階。折り返しの階段をマイペースに降りていく。一階にたどり着けばすぐの場所に校舎入り口があって、そこから外に出れば校門まで一直線だ。


 ただ、僕のよく知る人物が、校舎入り口で待ち構えていた。


「やーっと来た。ったく、本当にどこに行ってたのよあんたは……」


 クロバだ。


「ふむ、クロバか。なんか用か?」


 口から出てきた僕の声には、一年前にはなかった親しさが込められている。それもそうだ。あの時とは状況が違う。今の彼女は、敵だった少女ではなく、親しき友人なのだから。


「ええ、用よ。……ちょっとこっちに来てくれる?」


 ぐるりと、校舎内に居る僕の方を見てから、校舎外の人たちを見るクロバ。彼女にしては珍しく、人目を気にしているようなしぐさだった。


「人目を気にするなら中庭に行くといいぞ。さっき見たときは、人気は全くなかったからな」


「なんでこっちの考えてることがわかるのよ……」


「さてな」


 どうやら図星だったらしい彼女は、胡乱気にこちらを見つめてくる。それを得意のおとぼけでひらりと躱してから、僕たちは中庭の方へと移動した。


 二つある校舎に挟まれた場所。地面には芝生が敷き詰められていて、ベンチや自販機などが設置してある中庭は、平時であれば生徒たちの憩いの場として人気なスポットだ。


 とはいえ今日は卒業式。さっき上階で見た時と変わらず、中庭に人気はなかった。まあ、卒業式の日に、わざわざここに来るような人間はいないか、と僕は思う。体育館からも離れてるから、通りがかる人もいないのだ。


 秘密の話をするにはぴったりである。


「単刀直入に言うわ」


 中庭に向かうまでの道のりを先導していた彼女は、中庭につくなりくるりと振り返って言う。


「タイガ。貴方が好きよ。付き合ってくれない?」


「…………………………………………………………………………ちょっと待ってくれ」


 あー、えっと。

 今しがた聞こえてきた声を、僕は正しく認識することができなかった。貴方が好き。僕が好き。クロバが。僕を。好んでいる。


 ぼっちをこじらせた僕には、理解に困る言葉であった。それでも僕は、辛うじて言葉を返す。


「言い方を変えてくれ」


「やっぱり一筋縄じゃ行かないわねあんたは……」


 しかし僕が懸命に考えた言葉は、クロバを呆れ返させることしかできなかった。


「はいかいいえか。もしくはいつもの軽口で冗談を言うか。正直、あんたが告白されて何を言い出すかなんて皆目見当もつかないけれど。まさか、告白の仕方を変えてくれなんて言われるなんて思いもしなかったわ」


「そりゃそうだろう。僕を誰だと思ってる」


「非選択主義の日和見主義者」


「大正解」


 選ぶなんて気持ち悪い。決定だなんておぞけが走る。それが僕の唯一のアイデンティティだ。

 それを知っているのなら、告白の仕方が間違ってることもわかるはずだ。


 僕は選ばない。


「……はぁ、わかったわよ。あんたは選ばない。選べない。私が、選べばいいんでしょ」


 かつかつと彼女が僕の方へと近づいてきた。反射的に僕の体が後ずさってしまう。それを彼女は僕の胸倉をつかんで制止させた。そうして、僕の動きを止めた後、彼女はまっすぐと僕を見つめる。


 相変わらず綺麗な顔をしている、と僕は思った。


 そして突然、その顔が僕の顔に近づいてきて――唇が、触れ合った。

 強襲された。有無を言わさぬ勢いで、何の抵抗も許されぬまま。

 触れ合った時間は一秒にも満たない一瞬だけれど、永遠とも思える感触が僕の思考をバラバラに破壊した。


 そして一拍の空白。


 クロバの手が僕の胸倉から離れ、お互いに数歩、後ろに下がる。そんな空白。時が止まったかのような時間。それから、トマトのように顔を耳まで真っ赤にしたクロバは、言った。


「これが私の気持ちよ。だから、私と付き合いなさい」


 その時、視界に映った少女が浮かべた、溢れんばかりの涙をこぼしそうな潤んだ瞳が、僕を打ち抜いた――


「……な――」


 僕は。


、なん、で……?」


 僕の目は、クロバの後ろに居た少女の顔を捉えていた。


「えっ……ちょっと、なんであんたがこんなところに――」


 遅れてクロバも、この中庭に居た僕と玄羽以外の存在に気づいた。

 誰もいないと思っていた中庭だけれど、別段ここは人払いがされた場所ではない。だから僕たちは中庭にこれたわけで、それは他の誰も例外ではない。だから彼女がいることも、なんら不自然なことではなく、不可解なことではなく、それは数ある可能性の一つでしかない。


 そこに居たのはイグサだった。


 今にも泣きだしそうな顔で立ち尽くすイグサが、僕たちとは少し離れた場所で、こちらを見ていたのだ。


「えっと、なんでタイちゃんが、狐陽さんと……」


 虚ろ気にそう呟く彼女は、きっと今クロバが僕にしたことを見ていたのだろう。そして彼女が今にも泣きだしそうな理由に、僕は気づいていた。


「……ねぇ、あんた」


 そこで不意に、クロバがイグサへ向けて言葉を発した。


「邪魔しないでよ」


 するりと、彼女の腕が、僕の腕に絡まりあう。それはまるで恋人がするようなスキンシップ。クロバの体が、僕の体に密着した。

 けれど、僕は。

 それどころじゃなくて。

 それどころじゃなかったから。


「きゃ!」


 僕は思わず、力任せにクロバを振り払ってしまった。いや、違う。これは違う。振り払ったんじゃない。

 拒絶したんだ。

 僕が。

 クロバを。


「な、なにするのよタイガ!」


「あ、いや……これは……」


 一瞬、自分が何をしたのかが理解できなかった。かけがえのない友達で、実を言えばまんざらでもないとばかり思っていたクロバを、僕は拒絶した。その事実を、僕は僕自身を信じられなくなっていた。


「ごめんなさい!」


 ただ、僕が何か、言い訳をするよりも先にイグサから謝罪のような言葉が飛び出した。


「わ、私、が……ちょっと、邪魔しちゃった、みたいだから……ごめんなさい。私が、悪くて……」


 飛び飛びの言葉は震えながら語られる。けれど、それらの言葉はしりすぼみにその意気を失っていき、代わりにイグサの瞳からはとめどない涙が溢れ出した。


「ごめんなさい。タイちゃん。ごめんなさい」


 繰り返されるその言葉を、僕はただ聞くことしかできなかった。

 そして続けられた、言葉も。

 僕は聞くことしかできなかった。


「好き、でした……ごめんなさい……」


 僕は。

 僕は。


 選ぶ。

 選ばなきゃ。

 選ばなきゃいけない。


 クロバが僕のことを好きで。

 イグサが僕のことを好きで。


 だけどイグサが泣いていて。

 そんな顔を僕は見たくなくて。


 でもそれでクロバの思いを拒絶することなんてできなくて。

 だからってクロバとイグサは絶対に相容れなくて。


「……ふっ」


 なんで僕は選ぶことが嫌なんだろう。

 わからない。わからない。

 わからないんだ。

 僕は。

 僕が何を望んでるか。

 わからないんだ。


「ふざけんじゃねぇよっ!!」


 ……あれ?


「好きだとか嫌いだとか知ったこっちゃないんだ! なんで僕をそんなことに巻き込む! そんな苦しいことを選択させる! なんで僕に! 僕は――」


 なんだよこれ。

 僕が喋ってるのか?

 口が勝手に動いてる。

 僕はこんなこと。

 僕はこんなこと、言いたくないのに。


「大っ嫌いだ!!」


 口から呼吸が漏れる。肩で息をしている自分がいる。自分というものを見下ろしている自分がいる。もう僕は、自分が何をしたいのかわからなくなってしまった。


 僕は何で、イグサのドジを助け続けていたんだろう。


 僕は何で、公園で黄昏るクロバに話しかけ続けていたのだろう。


 もう何もわからない。

 わかりたくない。

 考えたくない。


 選びたく、ない。


「……あ」


 ようやく、僕は自分の体を動かせるようになった。なんて、冗談でしかなくて。最初から最後まで、僕は自分の体を動かしていた。

 僕は、自分の意思で喋っていた。

 傑作だ。前にクロバに言われたとおりだった。

 結局僕は、偽善者なんだ。


「……ああ」


 二人を見た。

 玄羽と伊草が立っている。

 玄羽は言葉を失って、伊草は涙を止めていた。

 二人の目は僕を見ている。二人の顔を見ているのに。二人の表情を見ることができない。

 その顔に浮かんでいるのが、怒りなのか悲しみなのかわからない。


「……そんな、つもりじゃ、なかったんだ」


 だから僕は逃げた。

 逃げた。

 逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた。逃げた――


 気づいたら家に居た。


 これで終わり。

 そうして“俺”は、高校生になった。



 ◆



「とまあ、そんなわけでして」


「なにがそんなわけだよ。全部全部、君が悪いんじゃないか。このみたらし団子」


「自分が甘ったれ小僧だってのは重々承知してますよ猫啼先輩」


 時は戻って、高校一年生の七月の文芸部部室。イグサとクロバと“僕”の間にあったあれやこれやの須らくを、猫啼先輩へと吐き出した俺は、語りつくした疲れのままに机に伏せた。


「だから僕は、二人を同じ部活にいれたくないんですよ」


 俺は自分がわからない。

 自分の望みがわからない。

 だから俺は選ばなかったし、選べなかった。

 そんな俺が招いた結果が、卒業式の暴走だ。


 自分の過ちに対する自責。二人の思いを踏みにじった罪悪感。この胸の内にあるナニカへの恐怖。


 そんなあれこれから逃げるように、同じ学校に通う二人を避けて、俺は学園生活を送っていた。


 そしてあの時のことを繰り返したくないから。俺は、二人を一緒に文芸部に誘いたくなかった。


 けれど、呆れたように猫啼先輩は言った。


「まったく君という男は何と情けないことか。そんなに悩むのならいっそのこと、二人とも恋人にしてしまえばいいものを」


 ギロリと俺は、机に伏せながら猫啼先輩を睨んだ。

 けれど、悪びれもなく猫啼先輩は言葉を続ける。


「何を睨む宮村君。世間体からすれば確かに二股は許されざることだろうけれど、君は世間体を気にする人間ではないだろう」


 何を言うかこの先輩は。とりあえず俺は、頭上から頭のおかしなことを言い出したこの先輩に対して、対空砲火が如き反論を机に伏せながら向ける。


「人間の根底は帰属意識ですよ。社会から外れることに病的に恐れる生き物です」


「友人も作らず社会に属するつもりもない人間が何を言っているのやら。それに、君がやったのは、究極的に二股するのと何ら変わらないだろう?」


 反撃空しく焼野原。けれども続き、言葉の絨毯爆撃が降り注ぐ。


「結局は選ばなかっただけだ。君の主義通りにさ。だが、二人と同時に付き合おうが、振って関係を終わらせようが、そこだけは変わらないはずだよ。ならばいっしょに付き合った方が、男としては『役得』なのではと私は思うが?」


「…………」


 何も言い返せなくなった俺は体を起こして、改めて猫啼先輩の顔を見た。睨むように。尋ねるように。

 けれど彼女は、俺の視線など意にも介さず訊いてくるのだ。


「君はどうしたい?」


 机に伏せていた体を起こしたおかげで、猫啼先輩の顔がよく見える。やはり彼女は、愉快そうな笑みを浮かべていた。猫のようだ。意地悪で、気分屋の、悪戯好きな猫。


 彼女の顔は、楽しくて愉しくて仕方がないと言っているようだった。


「俺は自分のことがわかりません」


「そんなものを考えたところで意味はないとわかっているくせに。そもそも自己理解なんてものは人間の永遠の課題だ。人間とは何なのか。己とは何なのか。それを真に理解できるのなら、哲学なんて言葉はない。さて、君はどうしたい?」


「俺は選びません」


「何を言うかね宮村君。君は選んできたはずだよ。選択なき人生などありえない。どんな状況であろうと人は選択する。不可抗力に従うこともまた選択だ。そして君は、自分が選んでないと思い込んでいるだけ。或いは、そういうことにしたい理由があるのか……君はどうしたい?」


「俺は……俺は」


 反論が思い浮かばない。

 取り囲まれているようだ。水責めのようだ。火刑のようだ。時間が経つうちに息苦しくなっていく。今すぐここから逃れたいという思いが強くなっていく。


 それでも彼女は、俺を見ている。

 見透かすように。見通すように。


「……変わり、たいです」


 そして俺は殺された。

 そして僕が引きずり出された。


 心の奥底に封じ込めていたものが、白旗を上げた。


「俺は気持ち悪い。俺は気味が悪い。俺は意地汚い。俺は弱い。だから変わりたい。かっこよくなりたい。強くなりたい。誰にでも尊敬される人間になりたい」


 俺は俺が嫌いだ。


 冗談を交えないと人と話せない性根が嫌いだ。

 誰にも負けるような弱っちい体が嫌いだ。

 選ぶこともできない優柔不断な自分が嫌いだ。

 何かを演じていないと折れてしまいそうな心が嫌いだ。


 俺は。

 僕が。

 嫌いだ。


 かっこよくなりたい。強くなりたい。尊敬されたい。誰に対しても胸を張って誇れるようになりたい。


 こんな自分を、誰にも見てほしくない。


 そんな吐露。

 それを聞いた猫啼先輩は、笑顔で俺に近づいて、優しく頭をなでながら言った。


「思いあがるんじゃない。君には無理だ」


 悪魔だよこの人。


「バッドコミュニケーション甚だしくないですか?」


 なんだか真面目に心の内を明かした自分がバカみたいじゃないか。いや、バカなのかもしれない。だって相手はあの猫啼先輩だ。人を手のひらの上で転がすように語り、道化を演じるように言葉を連ねる。

 この人を相手に真面目になるなんて、馬鹿馬鹿しいったりゃありゃしない。


「いやいや。無理なものは無理さ。君だってそれは十分に理解しているだろう? 人に胸を張って生きられる人間に、だなんて……ハッ、冗談のつもりかい?」


 そうなのだけれど。そうじゃないだろう。

 少なくともそこは、優しい声をかけて元気づけるものじゃないのか普通は。いや、普通を求めること自体が間違っているか。この先輩に関しては。この悪役ピカレスクに関しては。


「ともあれ、君の非選択の性分の根幹には、己への自信のなさがあることがわかった。となればここは、先輩らしく一肌脱いであげようじゃないか」


 嫌な予感がする。予感した、けれど。結局俺は、何の抵抗もできずに、猫啼先輩の言う先輩らしい行動に付き合わされることとなるのだろう。これも、予感だ。


「君は風狸伊草のことどう思っている?」


「……ドジな奴です。何もないところで転ぶようなトラブルメーカーで、何をしてもから回る。でも、優しくて、怒らない。だから、抵抗しない。それでも自分を貫けるような、強い奴です」


「じゃあ狐陽玄羽のことは?」


「嫌みったらしい人間ですよ。人と壁を作って、誰かに合わせることなんかしない。それでも、悪い奴じゃないですよ。純粋で、人と何かを共有して、楽しめる。普通の女の子です」


「君は二人の告白を受けてどう思った?」


「驚きましたよ。どちらも、どちらで。ですが。それ以上は、ないです。なにも」


「ハハッ! ならば簡単なことじゃないか!」


 笑う猫啼先輩。その姿は大仰で、喜劇を見てるようだった。道化のようで。幕間のようで。四番目物のようだった。


「君は二人が嫌いかね?」


「なんでそうなるんですか」


「ならば結構。暗号はもう解けたも同然だ」


 探偵気取りの彼女は言う。


「最後の質問だ」


 彼女は窓際に立つ。夏場の太陽が窓の外に見える。逆光が彼女を覆いつくした。それでも、先輩が笑っていることだけはわかった。


 にやにやと。笑っている。


「君は本当のところ、二人に一緒に居られると、思い出したくもないあの瞬間を思い出してしまうから、一緒に居てほしくないだけなんじゃないか?」


 ああ、もう。この人は本当に、なんでもお見通しなのだなと、僕は思った。

 それこそ、人の暴かれたくない秘密を暴き、見たくもない真実を突きつけ苦しめる。その姿はまさに、悪役ピカレスクと呼ぶにふさわしい。


「さてでは訊こう」


 問う、のではなく訊く。

 猫啼先輩はそう言った。


「君はどうしたい?」


 俺は言った。

 僕は言った。


 不器用なほど生真面目に。

 嫌になるぐらい不真面目に。


「あの二人と、もう一度仲良くしたい。くだらないことを言って、笑えるような。くだらないことをして、遊べるような。そんな日常を、また繰り返したい」


 変わりたい。

 あの日、あの二人にあんなことを言ってしまった自分から変わりたい。

 そしてまた、あの日常に戻りたい。可能ならば、二人と一緒に。


「ならばすべきことは簡単だ」


「無理です」


「何を言うか宮村君。その無理というのは、君がいるだけで二人が傷つくから無理だとでもいうのかい? 可笑しな話だ。ではここで一つ。いいことを教えてあげよう。君は、一週間前に、私にこんなことを言ったじゃないか」


 一週間前。俺は、何を言ったっけ?

 もう何を言ったのか忘れてしまった俺に代わって、妙にうまい声真似で先輩は言った。


「『みんな、そこまで興味が無いんですよ。他人の感情などに。ましてや存在もしないキャラクターなんか、どうでもいい。自分の都合のいいものが、都合よければ、それでいいんです』」


 そして続ける。


「その通りさ。人は自らの都合しか考えない。都合のいい世界しか見ない。都合の悪いものから目を遠ざける。見ないふりをする。過去の失敗だって、いつかの恥だって、他人にとってはどうでもいいことだ。だから大丈夫」


 猫啼先輩は繰り返した。


「それに、恋は盲目というしね。安心して、二人を連れてくるといいさ、宮村君」


 まったくもって安心できない言葉だった。

 でも。

 おかげで。

 自分が何をしたいのかが、分かった気がした。


「猫啼先輩」


「何かな宮村君」


「ありがとうございました」


「感謝されるほどのことじゃない。そもそも私の目的は一つさ」


「わかってますよ」


 俺も椅子から立ち上がると、ちょうど最終下校のチャイムが鳴った。だからそのまま、俺は荷物をまとめて部室の入り口へと移動する。


 そして、振り返りながら猫啼先輩に言った。


「きっちり二人分の椅子、用意しておいてくださいよ」


「うむうむ。期待通りの言葉が返ってきて感激だよ」


 部室の鍵を片手でもてあそびながら、猫啼先輩はそう返した。


「あー、あと。これはおまけなのだけれど」


 最終下校の時刻。部室から出て、猫啼先輩が鍵をかけるタイミングで、そんな風に思い出したかのように話しかけてきた。


 もう話は終わりだと思ってたのだけれど、まだ何かあったのだろうか。


「おそらく、今週中に君を取り巻く騒動が解決するだろうね。ただ、どう終わるかは見当もつかない。だから私が助言を上げよう」


 俺を取り巻く騒動と言えば……間違いなく、天空寺先輩の一件だ。そういえば、部室にきて一番最初の話題はそれだったか。


 しかしなぜ、彼女はそうも確信をもって、今週中に終わるといえるのだろうか。やはり俺には、猫啼先輩が考えていることがわからなかった。


 それが嘘なのか本当のことなのか。気分屋の猫のように、彼女は言葉の意味を悟らせてくれない。


「いざとなったときは笑うといい。私のようにね。君には少々、表情というものが欠けているからさ」


「……はぁ。わかりました。せいぜい覚えておきますよ」


 そんな風に言葉を交わして、職員室に鍵を返しに行った猫啼先輩とはそこで別れた。


 そして一人。


 校舎を抜け、校門を通り、覚えのある家までの道を一人で帰る。その道中で、俺はいろいろと考えた。


 今日のこと。昔のこと。友達のこと。俺のこと。


 俺が、どうしたいのか。


「あー……やっぱ一人は寂しいのか」


 俺は初めて、一人の寂しさを思った。


 

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