第8話 叩いたところでポケットの中に入ってなきゃビスケットは増えない・中


 十一月の終わり際。

 秋が終わり冬へと差し掛かる変遷の中で、身震いするような風に憂鬱を覚える放課後。僕は教室で本を読んでいた。


 空いた時間に本を読むのは当然のこと。そう母親に言われてようやく読む気になった推理小説を片手に、つい一か月ほど前のことを思い出す。


 イグサを取り巻くクラスメイトのあれやこれ。日に日に過激になっていくいじめからイグサを助けるため、僕はいじめっ子たちを脅して回った。


 嘘と冗談で煙に巻くことしかできない僕にしてはうまく立ち回ることができたと思う。禍根は残っただろうし、確実に彼女らから僕は嫌われただろうけれど、見事いじめを終わらせることができた一件だ。


 ……結果を見れば運がよかったというかもしれないが、まあいい。どちらにせよ、あれから一か月の間、彼女らがイグサに何かをすることは無くなったのだから。


 イグサがクラスから孤立してるのは今も変わらないけれど、代わりに家庭科部でそれなりにうまくやっているらしい。


 実際、あれから一緒に下校することも増えたけれど、それ以上に家庭科部の活動に精を出しているおかげで、あまり下校時間が合わないぐらいには楽しんでいるイグサである。


 実に良いことだ。このまま健全な学園生活を送ってくれることを祈るばかりである。


 そんなわけで、再び孤独な放課後を過ごしている僕は、先月以前とあまり変わらない日々を送っていた。


 と、ここで携帯が鳴る。


 小説にしおりを挟み、卓上の携帯を取った。イグサからのメッセージだ。


『今日もちょっと遅くなっちゃいそうだから先帰ってていーよー!』

『待っててくれてありがと』


 とのこと。

 ついでに奇妙なゆるキャラのスタンプが付随している。全身が血走った眼玉で構成されたゆるキャラである。それが拳銃片手に土下座している。まったく緩くない絵面だが、なぜこんなものがゆるキャラと呼ばれているのだろうか。

 相も変わらず世界は謎に満ちている。


 さて、イグサの予定を待つ必要もなくなった放課後、特に学校に用事もないために、家に帰ろうと席を立つ。窓の外を見てみれば、冬至の近づいた夕暮れが空に広がっていた。ちょうどいい下校タイミングだ。


 用事もないなら下校する。学生として当たり前のことで、選択すまでもないことだから、僕の行動はスムーズだった。


 階段を下りて靴箱を経由し、校門を通り抜けて学外へと一直線。近道の公園を通り過ぎれば、実家のある住宅街。


「……」


 通り過ぎれば、実家のある住宅街だけれども。その手前で、僕は足を止めてしまう。

 公園に設置されている遊具スペース。その中でも黄昏るのにはぴったりのブランコに、見知った顔を見たからだ。


「美人ってのは、どこにいても様になるもんなんだな」


 遠くから見てなおその輪郭をはっきりと確認できるほどに目を引く容姿をした彼女は、間違えようもなく狐陽玄羽だった。


 一か月前までは、多くの取り巻きに囲まれ君臨していた彼女だけれど、今となっては見る影もないほどに孤独だ。


 ただ、彼女は変わっていない。人の中に在ろうと、なかろうと、彼女という人間が醸し出す雰囲気には一ミリたりとも揺らぎが見えなかった。完璧だった。


 それは小学校の時からおんなじだ。そこにいるのに壁がある。触れてはいけないような警告文が、彼女と僕の間に立ちはだかっている。


 簡単に飛び越えられそうなのに、近づくことすらできない。まるで幽霊のようだと僕は思った。彼女にとっての僕たちが。そこにいるくせに、居てもいなくても変わらない。彼女のにとって、僕たちは幽霊のような何でもない存在なのかもしれない。


 なんて。


 ただ、なんだか。

 今日の彼女は、少しだけ綻んでいるような感じがした。


 そんな風に見ていると、僕の存在に気づいた彼女がこちらを見た。けど、それだけ。何かを言うでもなく、動くでもなく、ただこちらを見て、興味なさげに視線を外す。


 だから僕も、特に何もせずにその場を離れた。触る神にたたりなし。まあ実際は、話しかけに行くなんて選択をしたくなかっただけだけど。


 それから帰宅し、特に何かがあるわけでもなく翌日へと時間は進む。その日も僕は一人下校だ。どうやらイグサは、部活で三年の先輩たちに向けたクリスマスパーティーの準備をしているらしく、しばらくは忙しいといわれてしまった。


 まあ、元から僕は人生ソロプレイヤー。一人でいる時間が長くなったところで、さしたる問題はない。うん。さみしくなんかねぇよ。本当に。嘘じゃねぇかんな。


 そんな帰路、またもや僕は、夕暮れの公園で一人の少女を見かけた。玄羽だ。今度は滑り台の降り口に座っていた。目を惹くほどの美人が滑り台の降り口に座ってる絵面は何ともシュールだ。あれじゃあだれも滑り台を使えない。


 そしてまた、僕と玄羽の目が合った。だからと言って、何もないが。

 そして今日も家に帰った。翌日。また彼女は同じ時間に公園にいた。

 今度はジャングルジムの上。足を組み、器用にひざの上で頬杖をついている。目が合った。別に、だから何だって話だけど。僕は家に帰った。パンツが見えそうだったから気まずかった。


 翌日。また公園にいた。今度はシーソーに座っている。すごいなと感心した。あんな二人用コンテンツ、俺には到底乗りこなすことなんてできない。僕は家に帰った。


 翌日。それでも彼女は公園にいた。アスレチックのネットに背中を預けている。僕は家に帰った。


 そんな一週間。

 休日を挟んで次の登校日。

 下校の時間。またもや彼女は公園にいた。二つ並んだブランコの片方を開けた状態で、空を見上げている。


「何やってんだよこんなところで」


 僕は思わず話しかけてしまった。


「……今日は話しかけてくるのね」


「僕は気まぐれなんだ。それで? 可能な限り理解できる話で、下校際の僕を待ち伏せしてる理由を教えてくれると助かるんだが……」


「はぁ? 誰があんたなんか待ち伏せするか。気持ち悪いのよストーカー。あー、やだやだ。陰キャってすぐ勘違いするんだから」


「今お前は僕の心を傷つけた!!」


 まったく何て言い草だこいつは! 人のことをストーカーだなんて……別に、身辺調査してから、いじめができないように脅しただけなのに……ん? 僕、やってることやばくね?

 考えないようにしよう。


「いいだろう、そっちがその気ならこちらにも考えがある! 悪口には嫌がらせで対抗してやろう!」


 そう言って僕は、怒った勢いそのままに玄羽の隣のブランコに座った。怪訝そうな目で彼女が見てくる。何やってんだお前と言いたそうな顔だ。


「何してんのよ」


 実際言われた。そんな言葉を、鼻で笑ってやろう。


「ふっ、どうやらそちらは一人で居たいみたいだからな。嫌がらせとは相手にしてほしくないことをする。つまり僕はここに居座るだけで嫌がらせが成立するのである!!」


「……子供みたいな発想ね」


「中学生なんて子供に決まってんだろ!」


 こいつ……強い……!!

 不味い。俺の得意技なんて口八丁の冗談で煙に巻くぐらいしかないのに、それですら勝てそうにない……!!


「はぁ、わかったわよ。目障りなら出てく。それでいいんでしょ」


 なんて思っていたら、玄羽はそう言って立ち上がった。


「はぁ? どうしてそうなる」


「どうもこうもないわよ」


 立ち去ろうとする彼女に対して、僕は引き止めるように声をかけた。対して、振り返った彼女は言う。


「私は醜いいじめっ子。いなくなってほしいのは当たり前の考えでしょ? だからあんたはここにいる。さしずめ、監視ってところだと思ってるわ。また、やらかさないようにって」


 間違ってはいないな。いや、間違ってるけど。

 別に僕は、彼女を監視していたつもりはない。だけど、公園に居る彼女を気にかけてしまったことは、一か月前のいじめが原因だ。となれば、再犯を懸念して監視していたと取られても仕方ない。


 ただ、一つ気になることがある。


「ほかのやつらはどうしたんだよ」


 いつの間にか見かけなくなっていたけれど、彼女の周りには取り巻きたちが大勢いたはずだ。それが居ない。公園で一人ぼっち。一体どうしたのか。


「さてね。あんたには関係ない話よ」


「そうか。んじゃいいや」


「……………………」


 なんだか不服そうな顔をされてしまった。いや、関係ない話と突き放してきたのはそっちなんだが?


「まあいい。人が居ようと居まいが、お前の雰囲気は大して変わってないしな。心底つまらなさそうな顔をするなら、一人で居る時の方が様になる」


「……誰が心底つまらなさそうよ」


「小学校の時からそうだろお前。壁を作ってるのかは知らないが、グループ活動の時はこれでも結構苦労したんだぜ。まるで別世界にいるみたいだった」


「小学校って……なんでそんなこと覚えてんのよ」


「これでも美人の顔と名前は記憶しておく主義なんでな」


 ちらりとかっこつけてみる。前髪をかき上げる決めポーズだ。うわ、なんかすっごい微妙そうな顔された。もう二度とやらないようにしよう。


「別に、やっぱりあんたには関係ないことよ」


「そうかよ」


 そして、彼女の堅牢な心の壁は穿てずに終わる。むしろ、距離が開いたような気さえする。そもそも僕は何を思って彼女に話しかけたのか。無駄に悪印象を与えただけな気がした。


 ただ、同時に僕は思う。


 壊れそうだ、と。


 罅の入った壺が今にも軋んでいる。このままじゃ壊れて終わる。何が終わる? 玄羽が終わる。何が終わる? 玄羽の何かが、終わってしまう。


 果たして僕は、彼女の態度のどこからそんなことを感じ取ったのか。こればっかりはわからない。ただ、昔からそうだった。不思議と人の雰囲気から、何かを感じ取る。それを僕は、勘がいいのだと言っている。


 今回もその勘の良さが発揮された結果だ。


 このままじゃ壊れる。取り返しがつかないことになる。

 だから、僕はなんとなく言った。去り際の彼女の背中に向けて。


「明日も来いよ。僕はここにいる」


「………………」


 こちらを振り返ることもなく、玄羽は立ち去ってしまった。

 もうここには用はないと、僕もブランコから立ち上がって、自分の家に帰った。


 そして翌日。昨日と同じ夕暮れの時間。


「よっ」


「……やっぱりストーカーね。あんた。気持ち悪い。私、ストーカーなんて大っ嫌いだから」


「はいはい。ストーカーでいいよ」


 やはり彼女は、公園に居た。昨日と同様、ブランコに座っている。

 なので、ブランコに座る彼女の隣のブランコに僕も座る。


「私が先に居たのよ」


「その言葉が、僕が後から来ちゃいけない理由じゃないことを祈るよ」


「ふんっ」


 腕を組んで、僕のいる方途は違う方を見ながらそう言う玄羽の表情はうかがえない。何を考えてるのかは判然としない。

 大して僕が何を考えているのかははっきりとしている。何も考えていなかった。何を隠そう、僕は玄羽が今日、公園に居るとは思わなかったのだ。


 『明日も来いよ』とは、ストーカーの誹りを受け、気持ち悪いといわれた僕の言葉である。そして彼女は、イグサをいじめていた主犯格。はっきり言って、僕が玄羽であればもう公園には来ない。


 なのに公園に居る。僕が来ることがわかっているというのに。意味が分からなかった。当然、何を話そうかなんて考えておらず、ブランコに座ったはいいものの、気の利いた話題が一つも出てこない。


 気が抜けば、イグサをいじめていた時の感想を聞いてしまいそうになる。ただ、さすがにそれはまずいだろうと、空気を読む能力の欠けた僕に辛うじて残された、搾りかすのような社交力が警鐘を鳴らしている。


 なので、別の話題を――


「玄羽」


「私、馴れ馴れしく下の名前を呼んでくる奴は嫌い。その程度で距離を詰められた気になってるやつもね。大っ嫌い」


「そうか。んで、玄羽」


「……」


 お、はじめて玄羽が僕の方を見た。なんだかめちゃくちゃ眉をひそめているけど、まあ構わない。僕の言動でいくら嫌われようとも、元から僕は嫌われてるのだから。


「人間は好きか?」


「気の利いた話題一つ出せないの?」


「……これ、気の利いた話題じゃなかったのか」


「呆れた……あんたがいつも一人で居る理由がわかった気がするわ」


 今度は呆れられてしまった。これでも頑張って絞り出した話題なんだぞコノヤロー!


「人間が好きか、ね。強いて言うなら嫌いよ。嫌い。大っ嫌い」


「強いていう必要もない答えが出てる気がするんだが?」


「あら。私が意見を言うこと自体、強いられでもしない限りしないことなんだけど……それともなにか、こんな変な質問に気軽にこたえられる奇特な人間が居るとでも?」


「人間の好悪は、僕の中ではかなりフランクな話題なんだけどな」


「はぁ?」


 今度の玄羽の顔は人を見るような眼をしていなかった。なんだ。僕が人間じゃないとでも言いたいのか。


「人の言葉を借りるとすれば、交友関係とは両者の好悪の認知によって成り立つと言う。ほら、友達を探すときは自分との共通点を見るだろう? ゲームが好き、本が好き。故に人が何を好きか嫌いかを聞くところが、交友関係のスタートダッシュと言えないだろうか?」


「それを本気で言ってるならダントツでびりっけつね。コースアウト甚だしいわ。というか、なんで犬とか猫とかじゃなくて人間なのよ。その質問、好きっていえば偽善者だし、嫌いって言ったら気持ち悪い奴認定のキラーパスなのだけれど? 回答次第で人が死ぬわ」


「いやだってお前、人嫌いそうだから……」


「嫌いってわかっててなんで聞くのよ!」


 ふむ。やはり玄羽は人間が嫌いか。まあ予想するまでもなかったな。

 とりあえず、激昂するように声を荒げる彼女に対して、どうどうと宥めつつ話を続ける。


「人間が嫌いとは……お前とは仲良くなれそうだな」


「人間が嫌いな奴と仲良くなんてできるわけないでしょ」


 ド正論である。


「ちなみにどこら辺が嫌いなんだ?」


「心強すぎじゃないあんた……? どうしてここまで言われて、そのまま話を広げられるわね……」


「そりゃそうだろう。そもそも、僕はそっちが何を好きで何が嫌いなのか知らない。逆に言えば好きだろうが嫌いだろうが、どちらかでさえあれば話を広げられる。これで好きでも嫌いでもないなんでもない好悪の話を振ってみろ。気まずさから場は凍り付き、12月の寒空の下で僕は凍え死んでしまう」


「勝手に死ねばいいじゃない」


「それじゃあ僕の葬式じゃ友人代表としてスピーチをしてくれよ」


「家族以外に来てくれる人いるの?」


「保証はできない」


 ここまで話して、僕は思う。意外に話せる奴じゃないかと。

 ふむ。もしかしたら壁を作っていたのは僕の方で、案外狐陽玄羽という少女はフレンドリーな人間なのかもしれないな。


「あーもう呆れた! 私帰るから!」


 ひとしきり話した後、彼女はそう言って立ち上がった。そうして昨日のように帰ってしまう。ただ、去り際に一言だけ。


「あんた、明日もいるつもり?」


 そう聞いてきた。

 僕は言ってやった。


「気が向いたらいなくなるよ」


 あっそと、僕の言葉にそんな返事をした玄羽は、そのままこちらを振り返ることもなく帰ってしまった。昨日と同じであれば、もうここに用はない。ので、僕も家に帰る。


 そんな折、ふと考えた。この公園は僕の帰り道だけれど、今の今まで玄羽と遭遇することはなかった。なのに、ここ最近に限ってなぜ彼女は公園に現れるのか。


 考えたけど、それらしい答えが出ることはなかった。なので、僕は彼女の行動を気まぐれだと断じ、そのまま家に帰った。


 そうしてまた翌日に、公園で玄羽と会う。


「気が向いたらいなくなるんじゃないの?」


 出会い頭にそう言われた僕は答えた。


「気が向かないだけだ」


 気が向かないだけ。

 ここが僕の下校路である以上、公園で玄羽に遭遇しないためには遠回りをしなくてはならない。或いは、この遊具スペースで玄羽を無視するか。


 ただ、僕は選ばない。選ぶ気にならない。気が向かない。

 だから今日も、公園で玄羽と会う。

 そして明日も、玄羽と会うのだろう。


 12月の半ば。期末テストの一週間も。

 冬休みに向けた助走が始まった一週間も。

 クリスマスの近づく12月後半戦も。

 僕は玄羽と会い続けた。

 昼と夜の合間。どちらでもない、黄昏の時間に。


「よっ」


「ん」


 12月23日。今年最後の登校日。

 二学期の閉会式も終わった午前の昼下がりに、珍しく夕暮れじゃない時間帯に僕は玄羽に会った。

 待ち合わせをしているわけでもないけれど、こうして公園で密会をすること早三週間。11月の末の頃を入れればひと月は経つだろう交流を経たことで、ついに気さくなあいさつに返事をしてくれるまでに、僕は玄羽と距離を詰めることに成功している。

 

「冬休みだな」


「そうね」


「ちなみに、そっちはこれからどうするつもりなんだ?」


「どうするって、何がよ」


「明日から年明けまで休校だ。下校際に逢瀬ってのもできなくなる」


「あら。私と会えなくなるのが寂しいのかしら?」


「憎まれ口を聞けなくなるのも寂しいには違いないからな」


「相変わらずの減らず口ね」


 こんなやり取りも三週間となれば慣れたものだ。むしろ、こうして言い合うこと自体が社交辞令のようにさえなっている。


 不思議なもんだ。一応、こいつとの関係は小学校の時からだけれど、当時は無関心で、ついこの前は敵だったというのに。

 今となっては、こうした話し相手となっている。


「休み、ね。別にどうってことはないわよ。そもそも、年末なんて忙しいもんじゃないの普通は」


「予定なんてないが?」


「……あ、ごめんね」


「なんでそこは普通に謝るかなぁ!?」


 まあ一応、年始にイグサとは初詣の約束はしているけど、本当にそれだけ。つくづく、自分の交友関係の狭さには呆れるばかりだ。


 本当に。つくづく僕には。呆れるばかり。


「まあ、そっちは僕とは違って友達が多そうだからな。僕とは違って」


「悪かったわよ。逃避したい現実を突きつけるのは酷なことだって学んだわ」


「くっ!!」


 話す。相変わらず。

 語る。憎たらし気に。

 喋る。減らず口で。


 でも、彼女はどこか楽しそうだった。

 眉をひそめて、口をへの字に曲げて、いつだってこちらを胡乱げに見つめてくる。でもたまに、どこか可笑しそうに口角が歪む。


 彼女は少しだけ、楽しそうで。

 だから少しだけ、僕も楽しかった。


 けれどそんな時間は、長くは続かなかった。


「玄羽!」


 その時、僕たち二人とは違う声が玄羽の名を呼んだ。女性の声。生徒ではない、それなりの年齢。僕は聞いたことがない声。


「お母さん……?」


 玄羽のお母さんが、公園に居た。

 娘が美人なら母親も美人か。確かによく似ている容姿をした、玄羽が順当に年を重ねればこうなるだろうというような見た目をした女性。彼女は、顔を険しくして玄羽の方を見て言う。


「貴方……こんなところで何してるのよ!」


 公園に響くヒステリックな叫び声。僕の隣からひっと、怯えるような声が聞こえた気がした。


「お、お母さん。えっと……これは……」


 叫ぶと同時にこちらへと距離を詰めてくる玄羽の母親。対して玄羽は、見たこともないほどに狼狽えている。


「毎日毎日どこで遊んでると思ったら、こんなところで男と一緒に……」


 ギロリ、と彼女の視線が僕の方に向く。


「家の娘を誑かさないでくれますか! あっちに行きなさい!!」


 浴びせられたのは正真正銘の敵意。殺すという意思がこもった言葉の鉾。それは突如として僕の方へと襲い掛かってきた。


 そんなものを突き付けられては流石の僕も動揺する。いつも平然と冗談を言うことだけがアイデンティティだったはずなのに、彼女の言葉に僕は何も返せずに黙ることしかできなかった。


 ただ、それは威嚇のようなもので、言うだけ言った彼女は、興味を失ったかのように僕から視線を外し、我が子の方へと向き直る。


「玄羽! お母さん言ったよね! 玄羽はいい学校に入らなきゃいけないって! だから、学生のうちに恋愛なんかしてる余裕なんてないの! そもそも、こんな時期に遊んで暮らしてるような中学生なんて、将来ろくな大人にならないのよ!」


 ただ、自分の方に言葉が向けられなくなったからと言って、安心することなんてできなかった。まくしたてるように続けられる母親の言葉。それはさっき僕に向けられた敵意なんかよりも強烈で、とげとげしい。


 あんなものを浴びせられている。実の母親から。


「聞いてるの玄羽! 聞いてるなら返事をしなさい!」


 動揺と困惑の色が強く浮き出た顔をした玄羽は俯いていて、母親の言葉を聞いているようには見えない。だから母親は、不真面目な娘を叱るようにそう言う。


 そして、手を、振り上げた。


 パシン。


 信じられない音がした。


「お母さんは貴方のために言ってるのよ!」


 母親が振り上げたこぶしは開かれていた。だから、玄羽を襲ったのは平手打ちだ。それでも、響いたことが痛ましいのには変わりないし、とてもじゃないが人前でやるようなことじゃない。


 だから僕は信じられなくて、目を疑った。けど、頬を打たれた玄羽が、打たれた頬を手で抑えながらつぶやくのだ。


「ごめんなさい……」


 繰り返し、繰り返し。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」


 うわ言のように、彼女はそう繰り返す。

 だから僕は見ていられなくなった。


「謝ればいいってわけじゃないのよ!」


 もう一度、玄羽は打たれた。

 僕は。

 僕は――


「ほら、家に帰りますよ!」


 僕は何もしなかった。 

 彼女が打たれた後も、そのまま腕をつかまれて連れていかれる間も、僕は何もしなかった。


 無抵抗のまま連れていかれる玄羽の目が、何かを訴えかけるようにこちらを見ていた。僕はその目を見つめ返した。


 一度だけ、玄羽の母親が憎たらし気にこちらを向いたけれど、それだけだ。特に何かを言われることもなく、彼女は玄羽を連れて立ち去ってしまった。


 公園に僕は一人残された。

 いつもと同じ、玄羽と別れた後の孤独。

 いつもと違うのは、去り際の玄羽の表情。

 ……いや、違うか。


 なんとなく、僕は玄羽が公園に居た理由が分かった。


「連絡先、交換してなかったな」


 携帯を片手に握りしめて、僕は玄羽が去っていった方角を眺めた。

 陽はまだ傾き始めたばかりだった。



 ◆



 真四角の一室。フローリングの床に、何の柄もない白一色の壁紙。部屋の一つの角には学習机と本棚があり、高校受験や大学受験を目指す教材が所狭しと並んでいる。そこから対角線上の窓際の位置にはベッドがあり、それ以外には何もない。


 あったものは捨てられた。


 それが、狐陽玄羽の自室だった。


「……」


 嫌いなものの多い玄羽だが、ミニマリストというわけでもない。好きなものだってある。少ないけど。それでも、部屋の中に好きなものを並べるぐらいの趣味は持っている。


 家庭菜園の本然り、流行りものの服然り、ティーンズ誌然り、小説然り。最近は人との喋りかたなんて本も買った。ただ、今日の一件を理由にすべてがビニール袋に包まれてしまった。必要ないからと。


 それから彼女は、残されたベッドの上に座っている。時刻は夕方。いつもなら宮村と公園で会っている時間。落ちる夕日に背を向けるように、彼女は窓の方を見ない。


 彼女が見るのは無機質な部屋。かすかだけど確かに存在した自分らしさが消えた部屋。何もない部屋。


「はっ」


 笑えた。

 何もできない自分に。心の底から。彼女は笑った。

 涙は出なかった。泣くほどの価値を、感じなかったから。

 と、その時。


「楽しそうだな玄羽」


「ははー!?」


 聞こえるはずの声が聞こえてきた。

 思わずベッドから飛び上がる玄羽。柄にもない仕草であるが、驚けば誰だってこうなるというもの。彼女も人間である。


「え、いや……なんで宮村の声が……」


 玄羽の家は公園から離れているし、家の近くで宮村を見かけたことなんてない。そもそも玄羽の部屋は二階。大声でも出さない限り、外から聞こえてくるわけが――


「ひどい反応だ。まるで幽霊を見たような驚きっぷりじゃないか」


 そろそろ幻聴かと玄羽が疑い始めてきたあたりで、再び宮村の声が聞こえてきた。幻聴じゃない。そう確信した玄羽は、すぐに声の出所を探し――つい先ほどまで自分が背を向けていた窓を見た。


「ハロー」


「……幽霊みたいな登場の仕方をしないでほしいのだけれど……」


 窓の外に宮村は居た。大きな荷物をもって、さも当たり前のように。


「いやー、不法侵入ってマジでビビるな。二度とやりたくねぇ」


 軽くそう言う宮村は、どうやら窓の外にある、一階と二階の間にある屋根の上を足場にしているらしい。一体どうやって上ったのか。いや、それよりも気になることはある。


「なんで来たのよ」


「何を言う玄羽。俺とお前の仲だろう」


 今時家まで押しかけてきてそんなことを言う人間など、ゲームのキャラクターかストーカーしかいないだろと玄羽は言いたくなった。

 ただ、そんなくだらないことよりも言うべきことがある。


「もう会うなって言われたわ」


「どちらにせよ年明けまで会えないだろ」


「……これからも、よ」


 つい数時間前に言われたことだ。


「もう放課後に会えない。学校が終わったら塾に行くから。塾に行くまで、お母さんがずっと見てる」


「むしろ今まで通ってなかったのか」


「お金ないから、ウチ」


「ふーん」


 その告白に対して、宮村は興味がなさそうに返事をしながら、背負っていた荷物を下ろしながら、屋根の上に座り込んだ。それから、夕日を見るように玄羽の方に背を向けて、窓に背負預ける。


「それ、会える理由にならねぇだろ」


「……なんでよ」


「僕も塾に行けばまた会える」


「……あんたねぇ。そういうこと言うから、友達いないんじゃないの?」


「僕の交友関係は別に言いだろ! ……とにかく。だから何だよって話だ」


「だから、なにって……」


 だから何、か。

 確かに塾に行けば放課後の時間が無くなる。けれど、それは会えない理由にはなりえない。会えないわけじゃない。


 だけど、玄羽は会えないと思っていた。会う方法なんていくらでもあるのに。


「会いたくないならそう言ってくれて構わない。慣れてるから。むしろ言ってくれないと毎日ここに来るぞ」


「それは困るわ……」


 いや、今まで毎日のように会っていたから、さして変わらないのかもしれないけれども。


「というか、逆に聞くが僕と会えないことにそこまで落ち込むってことは、会いたくないってわけじゃないんだな」


「なっ……そ、そんなわけ……!!」


 口ごもる玄羽は考える。宮村と会えなくて落ち込んでいた?

 気に入らない話だ。そんなはずない。そう玄羽は考える。ただ、そんな思考回路とは正反対な答えが、彼女の口からは零れ落ちた。


「……そう、かも、しれないわね」


「そうならそうと早くいってくれよ。否定されるのも傷つくんだぞ」


「悪かったわね」


 納得できたわけじゃない。自分が宮村と会えなくて落ち込んでいたなんて事実を、玄羽がすぐに認められるわけがない。

 それでも。


「あんたと話すのは、楽しかったわ」


 それでも、玄羽はあの時間に嘘をつきたくなかったのだ。


「…………」


 その言葉に宮村は何も返さない。気取っているのか夕日を見ているせいで、玄羽からは彼の表情すらうかがえない。何を考えているかわからない。


 まるで何も聞こえていないようだ。宮村との間にあるガラス一枚が、無限に二人を隔てる壁のように感じてしまう。


 だから玄羽は、独り言のように言葉を発した。


「小学生のころ、つまらなそうだったってあんたは言ってたわよね。その通りよ。本当に、つまらなかった。退屈だった」


 玄羽が手で窓ガラスに触れる。


「一年生の時にね。初めてできた友達が居たの。だけど、その子の親の仕事を知って、お母さんすごい怒ったわ。理由なんて知らない。だけどもうその子とはかかわるなって言われてさ。意味わかんなかった。けど、私はお母さんに嫌われたくなかったから、言われたとおりにした」


 冬の冷気がガラス越しに伝わってくる。

 冷たい。慣れたとばかり、思っていたはずなのに。


「返事しちゃダメだって無視した。そうしたら、いつの間にか私は一人になってた。悪者になってた。私が悪くて、クラスの人たちが正しい。なんで無視なんてひどいことするのって。私はお母さんが正しいって言ったことを守ったのに」


 今でも鮮明に思い出せるあの時の記憶。

 誰しもから存在しないように扱われた時代。


「じゃあ、私が悪者ならお母さんも悪者なの? お母さんが言ったことは間違ってたの? わからなかった。なんにも。だから、嫌い」


 嫌になった。嫌いになった。


「慣れあいも友情も交流も約束も偽善も優しさも思いやりも悪さも正しさも恋も愛も男も女もみんなみんな大っ嫌い」


 世界は冷たい。正しさばかりを求めてくるくせに、悪いとしか評価しない。

 正しくなきゃいけないわけじゃないのに。正しかったとして褒めてくれもしないのに。


 なんで世界は正しいの? 

 私だけが間違っているの?


 玄羽はもう、なにもわからなくなってしまった。

 ガラスに触れる玄羽の手が、強く握りしめられていた。

 

「馬鹿じゃねーの」


 玄羽へと、肩越しに振り返りながら宮村は言う。


「全員が間違ってるに決まってんだろ。世界も、クラスも、僕も、お前も。正しい奴なんて一人もいるわけない」


 その言葉もまた、そうであることが当たり前のようだった。或いは、そうであってほしいと言っているようだった。


「じゃあ、どうすれば正しくなれるのよ」


「無理だな。絶対に。正しさなんてただの虚構でしかない。だから僕たちにできることは、信じることだけだ。自分が歩く先に、自分の望む未来があると」


「……じゃあ」


 力ない言葉で、玄羽は尋ねる。


「じゃあ、私はどうすればいいのよ……」


 何でもないかのように、宮村は答えた。


「お前がどうなりたいか、大事なのはそれだけだろ」


 そう言って、宮村の視線は夕日の方へと戻された。だからこれは、宮村の独り言。誰に向けたわけでもないつぶやきだ。


「僕も玄羽と話すのは楽しかったよ。こんなところに話に来るぐらいには」


 玄羽は。

 少女は、握りしめたこぶしを開いて、ついでに窓も開けた。それから、窓枠から体を半分乗り出して、窓の外にいる宮村に顔を近づけて宣言する。


「私だって、楽しかった……から、だから! 私は、あんたと友達で居たい! もう、一人は、嫌だから……!」


 玄羽は初めて、心の底にある本音を言ったような気がした。素直になれた、ような気がした。


 心は軽い。それでも、どこかすっきりしない。きっと、まだ心残りがあるからだ。今言ったことが、間違っていないか不安だからだ。


 だから、彼女は窓の外へと乗り出した体を引いて、家の中へと体を戻した。それから、軽やかにベッドから降りて、家の奥へと向かう。


 振り返った宮村が問う。


「どこに行くんだ?」


 部屋のドアを開けながら、玄羽は答えた。


「お母さんと話してくる」


 部屋の扉は閉められた。


「…………」


 家の廊下。すぐそこに階段がある。階下にはお母さんがいる。お父さんは居ない。何年も前に死んでしまったから。だから、この家の主は玄羽のお母さんだ。


 呼吸を整えてから、玄羽はゆっくりと階段を下りる。降りてすぐ、台所が見えた。台所に母親がいるのも見えた。料理中のようだ。玄羽は思う、まめな母親だと。忙しいのに、晩御飯で手を抜いたところを見たことがない。


 昔からそうだ。お父さんが死んでしまってから、お母さんは昼のパートを終わらせた後は、夜のパートに出かける。その中継ぎ。黄昏の数時間を、お母さんは玄羽のために使っている。


 小学校から帰ってきた玄羽を家で迎え、ご飯を作り、少しだけ勉強を見てあげてから、夜のパートに出かける。だから玄羽は、少しだけ気後れしてしまった。


 今までずっと自分を支えてくれた背中を見て、息をのむ。夕暮れの数時間。母親と会える数時間。


「ねぇ、お母さん」


 玄羽は、台所へと足を踏み入れた。


「…………どうしたのかしら、玄羽」


 母親は少し不機嫌そうだ。昼間のことをまだ引きずっているようだ。


「塾に行くって話だけどさ……」


「なに?」


「……考え直して、くれないかな」


 玄羽の少しだけ呼吸が浅くなる。それを無理やり整えながら、彼女は続けた。


「私、ね。友達がいるんだ――」


 ダンッ! と、台所に音が響いた。どうやら、母親がまな板を強く打ったらしい。びくりと、玄羽の体が震えた。

 けれど、彼女は言う。


「友達と遊びたいの。もちろん、勉強は頑張る。ほら、今も成績は問題ないからさ。わざわざ行く必要なんて――」


「玄羽ッ!」


「っ!」


 台所で料理をする母親は、玄羽の方を向いていない。それでも彼女が発した声は、玄羽を委縮させるには十分な力があった。


「私はね、玄羽のために言ってるの。あんな学校で一位を取ったところで、全国で通用するわけないわ」


 ようやく母親は玄羽の方を向いた。


「それに、友達と遊びたい? そんな暇があるなら勉強をしなさい! いい? 良い学校に行く子はね、みんなが遊んでる時間を削って勉強をしてるから、努力をしてるから合格できるのよ!」


 吠えるような声が台所を超えて家中に響いた。目を瞑りたくなる嵐のような怒声。それでも玄羽は、母親を見た。


「お母さん! わ、私は……」


 息が詰まる。言おうとした言葉が出てこない。それでも玄羽は、必死になって伝えようとする。

 自分は友達と遊びたい。楽しかったあの放課後を失いたくない。


 しかし、続く言葉は母親の抱擁によって踏みつぶされた。


「玄羽。私はあなたのために言ってるのよ」


 母親が玄羽を抱きしめる。


「玄羽は私みたいになっちゃダメなの! お母さんね、貴方には幸せになってほしいのよ! だからわかって頂戴」


 玄羽は。


「中学に上がっても勉強もしないで遊んでる子は将来碌な人間にならないわ! あなただって、そうはなりたくないでしょ?」


 少女は。


「安月給で朝から晩まで働かされて、男に騙されて、一生みじめに暮らすのよ。そんなの嫌でしょう? 大丈夫、貴方は私の子供なんだから、しっかり勉強すれば医者にだって銀行員にだって慣れるのよ。だからお母さんの言うことを聞きなさい玄羽。そうすれば、将来を心配しなくていいの」


 母親は、言う。


「お母さんが言ってることが正しいのよ」


 玄羽は――


「……………………違う」


 玄羽は、自分を抱擁する母親を撥ね退けた。ドンっと、少女らしく軽い力で押した。普通なら、その程度じゃ人は動かない。でも、娘に拒絶されたからか、母親は玄羽から手を放し、ぐらりと後ろによろめいた。


 そして、信じられないような眼で玄羽を見る。そんな母親に対して、玄羽は言った。

 言ってやった。


「私は……私は、そんな幸せいらない!」


「…………ぁ」


「お金があれば幸せなの? 男に騙されなければ幸せなの? いい学校を卒業したら幸せなの? 私にはわからない! 全ッ然わからないわ!」


 自らの母親を突き放すように。


「辛かった! 学校で一人で、誰も友達がいないのが! だけど、公園で、あいつが話しかけてくれたから……私は、うれしかった。楽しかった。あの時間が無くなるぐらいなら……私は幸せじゃなくたっていい!」


「あ、あ…………」


「だから、お母さん」


 玄羽が母親を見る。


「ごめんなさい。私はお母さんの言うことを聞けません。塾には行かない。でも、いい学校に行けるように努力する。勉強をして、いい点を取って、いい学校に卒業する。だから、私を――」


 大きく息を吸って、玄羽の言葉は続く。


「私の、好きにさせて」


 母親を拒絶する玄羽の言葉。それでも、自分をここまで育ててくれた親の望みを反故にすることはできない彼女は、彼女なりの約束と共にその言葉を綴った。


 勉強をするから、心配しないで。

 いい学校に行くから、心配しないで。

 だから私の好きにさせて。

 けれど、そんな願いは届かない。


「あ、あ、あぁあああああああ!!」


「ひっ……!」


 今まで聞いたことのないような絶叫が玄羽を襲った。


「なんで、なんで私を否定するの! 私は貴方のためを思って言ってるのに……玄羽のためなのに!」


 ヒステリーを起こすように叫ぶ母親が、よろめくように後ずさると同時に、すぐそばのまな板の上にあった何かを手に取った。きらりと光るそれは包丁。


 母親はそれを玄羽に向けて言う。


「教育……そうよ、玄羽も言いたくて言ってるわけじゃないわ。あの男よ。あの男が悪いのよ……! 玄羽ぁ!」


「な、なに……」


「貴方はいい子よね」


 急転直下。膨れ上がるような怒りを爆発させていたはずの母親の顔が、突如としてにこりとした満面の笑みに変わった。


 玄羽は恐ろしかった。母親が何を考えているのか、わかるから。


「お母、さん」


 玄羽は自分の右頬に触れる。

 母親は怒るとすぐに玄羽を打つ人だ。だから、包丁を持った姿を見て、これから何が起きるのかを悟ってしまった。


「やめて…………」


「だめよ」


 冷たい声が響く。

 声量は今までで一番小さいのに。今までで一番よく聞こえた。


「悪い子には、お仕置きをしないといけないから」


 包丁が振り上げられた。


 だが、その包丁が動きを止める。この場にはいないはずの第三者が、二人の会話に割って入ったから。


「さすがにそれは見過ごせない」


 そういいながら、どこからともなく宮村は現れ、振り上げられた母親の手を止めていた。


「なっ、あ、あんた……なんで人様の家に……玄羽! あんたが連れ込んだのね!」


「あー、いや。勝手に入った。不法侵入ってやつだな。ちょうど窓が開いてたから。まったく、不用心だぞ玄羽」


 そこで初めて、玄羽は自分が窓を開けっぱなしにしたままだったことを思い出す。いや、わざとか。もしかしたら、助けてくれる……なんて、そんなことを思っていたのかもしれない。


 だから彼は、ここにいる。


「……やべ」

 

 ただし、生憎と玄羽を助けに現れたヒーローは度がつくほどの運動音痴。たとえ相手が女性だとしても、素の筋力で普通に負けた。


「放しなさい!!」


 情けなくも振りほどかれてしまう宮村の手。それと同時に、運悪く宮村の腕を、母親が持っていた包丁が切り裂いた。


 まっすぐと線を引かれた痛みが宮村の右腕に走り、衣服の下から血がにじむ。これにはさすがの宮村も、顔をゆがめて苦しんだ。


「チッ……我ながら無様すぎる……!!」 


「はぁ……はぁ……許さない。私の娘を誑かして……死ね!!」


 人を切ったからだろうか。或いは、憎しみを向ける相手が目の前にいるからか、母親の顔は般若のように歪み、目が血走る。そんな彼女の追撃が、痛みに喘ぐ宮村へと襲い掛かった。


 それを住んでのところで避けてから、宮村はすぐそばにいた玄羽の手を取る。


「よぉし、十分だ。逃げるぞ玄羽!」


「え、え……ちょ、逃げるって!」


「いいか、玄羽! 凶器を持った人間を前にしたときは逃げる一択だ! 多少マンガ読んでるからって、絶対に立ち向かおうとなんてするんじゃねぇぞ!!」


「立ち向かったあんたがそれ言う!?」


 手を取られた玄羽は、その手を抵抗せずに受け入れた。そしてつられるがままに母親から逃げる。


「待ちなさい!」


 母親の制止を無視して、宮村の後についていく。二階に上がり、何もない部屋を通って、窓枠を超える。


「あ、ちょっと手ぇ放すぞ!」


 そこで彼は、玄羽の手を放して、窓の外の屋根上に置いてあった荷物を取った。それから、彼は下の道路へと飛び降りる。


「来いよ玄羽。悪い子なら、こんぐらいやれるだろ」


 それから、下の方で挑発するように玄羽を誘った。

 飛び降りる。その前に、ちらりと玄羽は後ろを見た。母親がいる。包丁を手に持っている。血の付いた包丁を。憔悴したその顔はさっきよりも老けて見えた。


「……ごめんなさい、お母さん」


 それでも彼女は、玄羽の母親だった。だから玄羽は、少しの罪悪感を吐き出すようにそう呟いてから、宮村の後に続いた。


 母親が飛び降りてくることはなかった。

 ただ茫然と、玄羽の部屋から外を見つめるだけ。


 そんな母親へと再び振り返ることはなく、玄羽は宮村と一緒に逃げるのだった。



 ◆



「もー足痛すぎ! ちょっと! 逃げるんなら靴の用意ぐらいしてよ!」


「いや、あそこで包丁が出てくるなんて思うわけないだろ普通! あー、僕も脱いだ靴置いてきちまったよ……」


 それから数分後。二人の姿はいつのも公園にあった。逃げる先に選んだわけではなく、自然とここに足を運んでいた形だ。

 ただ、そんなことよりも重要なのは二人の足裏だ。なにせここまで、コンクリートの上を靴なしで走ってきたのである。靴下も意味をなさずに悲鳴を上げている。


「もう歩けない……」


 ぺたりと玄羽が地面に座った。それに合わせて、宮村も近くに座る。


「ッ……痛ったた…………」


 ただ、座る際に手を付いたところで、改めて彼は自分が切られていたことを思い出した。傷は浅い。けれど、右上腕を縦に10㎝はなぞった傷跡はとてもじゃないが見ていられない。


 とりあえず彼は、上着を脱いでシャツ姿になった後、肩口を脱いだ服で縛って止血擬きの応急処置をした。ただ、上着を脱いだせいでとても寒い。それもそのはず、時期は年末迫る12月の後半戦。身も凍える寒さが宮村へと襲い掛かる。

 かと、思いきや。体の左側がほんのりと温かくなる。何かと思い宮村が左を向いてみれば、玄羽が抱き着いてきていた。


 目を丸くして彼は訊く。


「……どうした玄羽」


「寒いのよ」


 寒いらしい。確かに、人肌は暖かいし、寒さをしのぐ方法に抱き合うというのもある。ただ、それは極限状況下での話で、家に帰れば暖房が舞っているような日本でやるようなものじゃない。


 帰れる家があれば。


「あー、悪いがそっちの荷物漁ってくれ」


「はぁ? ちょっと、マジで空気読めないのねあんた」


「いや、その袋ン中に服が入ってるかもしれんから取ってくれって言ってるんだ。生憎と俺じゃあ、触っていいかわからないんだよ」


「何言ってんの……って、これ……」


 気まずさからか話を逸らすようにそんなことを言う宮村に呆れる玄羽だが、抱き着いたところで寒いものは寒い。それに玄羽は部屋着のラフな格好で、外に出るような服じゃない。だから言われたままに、彼女は宮村がずっと持っていた荷物に手を伸ばして、気づいた。


 その荷物がゴミ袋で、しかも数時間前に捨てられた自分の私物だったことに。


「……え、なんで、これ」


「お前んちに行く前に、お前の母親がゴミ捨て場に捨ててるのを見つけたんだよ。透けて見えるのが明らかにゴミじゃないし、昼間のこともあって、まさかって思ってな」


「ストーカー?」


「お前んちを探すのに数時間走り回ってたやつに言う言葉かそれ?」


「ごめんごめん……ありがと」


 うれしかった。けど、喜ぶのは少し憚られた玄羽。

 あんなことがあった後だから。まだ感情の整理がついていない彼女だ。


 だから、宮村へと向けられた彼女の声は、いつもの彼女からかけ離れた弱弱しいものだった


「……傷、大丈夫?」


「蜂に刺された時よりはましだこんなもん」


「そう」


 なんだか絶妙な返事だ。蜂に刺された時よりもマシだからと言って、状態がいいとは限らない。そう思いつつ、玄羽は私物が詰まったゴミ袋から、上着に使えそうな服を出して宮村に渡しつつ、自分も寒さをしのげるようなものを羽織る。


「あんがと」


「いいのよこれぐらい」


 そんな短いやり取りの後、玄羽は訊いた。


「なんで、助けてくれたのよ。そんな傷、負ってまで」


「こりゃ完全に不可抗力だよ。さっきも言ったが、まさか包丁が出てくるなんて思ってなかった」


「そうじゃなくて!」


 声を強めて、改めて訊いた。


「なんで、私みたいなのを、助けてくれたのよ……」


 先ほどのこともあって落ち着いた今、色々と過去のことを考えてしまう。今までの自分。人を嫌い、壁を作って、突き放すように憎まれ口を聞くばかりの自分に、どうしてこうも構ってくれるのか。


 特に今日のことなんて、放っておくべき場面だろう。家の事情で、親子喧嘩で、関わりたくなんてない出来事。なのに彼は、教えてもない玄羽の家を数時間走り回って探し当ててまで、彼女の元に訪れた。


 どうしてそこまでしてくれるのか。


 宮村の答えは簡単だった。


「見てられなかったからだよ」


「……それだけ?」


「それだけって……友達が苦しそうにしてるんだったら、助けるのが普通だろ。選ぶ選ばないとか、それ以前の問題だ」


 ぱちくりと目を瞬かせる玄羽は、ぐるぐるといましがたの宮村の言葉を頭の中で繰り返す。それから、ドッと笑った。


「……笑うところか?」


「ふ、ふふっ……ごめん。今の答え、友達が居なさそうだなって思ったから」


「カチーン! 今、お前は俺の逆鱗に触れた!」


「ごめん、ごめんってば!」


 玄羽は助けてなんて一言も言ってない。なのに、苦しそうにしてたからなんて理由でおせっかいをかけにくるだなんて、しかも仲がいいとは言い切れないような二人の仲だ。距離感を間違えているんじゃないかと玄羽は思った。まあ自分も、友達がいるような人間じゃないけれど。それでも、相変わらず友達が少なさそうな宮村の言葉に笑ってしまった。


 そんな彼女に怒る宮村は、怒りの勢いそのままに遺憾を露わにした。そしてそのまま――


「これはお前が選べ」


 懐から出したスマホを、玄羽へと突きつけた。


「……これ、って」


「さっきの動画だよ。そっちの事情は一切知らんが、虐待は言語道断だからな。証拠は取らせてもらった」


 スマホに映るのは玄羽とその母親。口論の末に包丁が取り出され、それに慌てた宮村が切られるシーンまでばっちりと映っている。そのあとの、死ねという言葉まで。


「虐待じゃなくても、ここまでやったら殺人未遂だ。僕の不法侵入なんかよりもよっぽど悪質だな」


「そ、そうね……」


「それで、どうする?」


「どうするって……」


「決まってんだろ」


 なんてことないように、彼は言った。


「通報するか、しないか」


 証拠映像はばっちりと残ってる。娘に暴力を振るおうとする姿。それを止めに入った友人にまで手を出す姿。ここまであれば、母親は間違いなく逮捕されてしまうだろう。


 だからこれは、通報するか否かではなく、母親を犯罪者にするか、許すかの話だ。


 恐る恐る、玄羽は宮村の目を見た。


「俺はしないよ。いや、どちらかというと選ばない。そういうやつなのは知ってんだろ」


 ああ、そうだ。この男は選ばない。この一か月、幾度となく言葉を交わせばそれくらいすぐにわかる。さすがに腕を切りつけられて尚、通報する気にならないのはどうかと思うが……そんなこともあるだろう。この男なら。


 だからこれは、玄羽が選ばなきゃいけない。


 玄羽が終わらせなきゃいけない。


「私は――」


 その時、玄羽の脳裏に記憶が過った。

 様々な記憶が過ぎていく。幼い時、小学生の時、そして今。

 母親の顔。母親の言葉。母親の手。

 だけど、それよりも。


『なにやってんだよこんなところで』


 あの日、あの時。突然目の前に現れた男子の言葉が、玄羽の胸の内を埋め尽くした。だから、彼女は。


「ごめんなさい」


 母親との記憶を思い出すのは苦しかった。

 男子との記憶を思い出すのは楽しかった。

 だから選んだ。


「警察署に行きましょう。私は、もう、戻れないから」


 玄羽は選んだ。

 母親の元から離れることを。

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