第6話 知らないということはある意味では幸せというけれど無知であることほど愚かなこともないだろう


 月曜日、朝。

 俺は一扇高校教室棟四階にある一年C組へとたどり着く。

 扉を開き、教室を一瞥。普段の三十倍近い人目を集めていることを確認してから、俺は特に何も言うこともなく教室の後ろから二番、窓際から二番目の自分の席へと着いた。


 それから、時間割を確認しつつ教科書をバッグから取り出し、一息を付いて着席する。そして、ホームルームまでの空いた時間を埋めるために、読みかけの推理小説を――


「いやいやいやいやいや。おい、何でお前はこんな状況で平常運転なんだよ宮村」


 推理小説を開きかけたところで、隣の席の友人野郎こと水池が、そんな風に話しかけてきた。


 余談でしかないけれど、水池の席は左側。即ち俺から見て窓側に近い位置にあるのだけれど。190を超える大柄なこいつが窓際を占領しているとなると、窓から入ってくる風に当たることすらできないのだ。俺のここ最近の悩みである。


 そんなわけで、びゅうと今日も今日とて窓から教室内を吹き抜けた風が、水池の見事なブロッキングによって俺に当たることなく通り過ぎて行ったところで、声をかけてきた水池の方にゆっくりと顔を向けて言う。


「平常も何も、以前と環境が変わらないから、平常でいるだけだぞ?」


「環境が変わらないって……なあ?」


 俺の態度が納得いかないのか、そう言いながら周囲を見渡すようなしぐさをして見せる水池。


 そのしぐさが何を示しているのかは、まあ考えるまでもなく同級生たちから向けられる視線に関するものだろう。


 好奇。憤怒。軽蔑。嫌悪。


 向けられる視線は色とりどり。


 もちろん以前と今日とで、俺に向けられている視線の変化に、俺が気づいていないわけではない。そもそも俺は、そこまで人目を集めるような人気者ではないのだ。人から視線を集めているというだけで、天変地異が起きたが如き異常事態である。


 まあ、原因はあれだろうな。今朝、学校の掲示板という掲示板に貼られていたあの張り紙。


『一年宮村大河が、天空寺翔を殴り飛ばした』


 女子から向けられる視線の割合が、嫌悪や憤怒に偏っていることから、それが原因であることは確定だろう。


 いやはや、根も葉もないうわさだ。ただ、それを嘘だと覆すだけの影響力は俺にはないし、それを真実にしてしまえるほどの影響力を天空寺先輩は持っている。あの甘いフェイスに惚れた女子生徒がファンクラブを作るぐらいには、影響力があるのだ。


 最初から、俺に為す術なんて何もない。


 そもそも。


「別段、視線が増えたからと言って行動が変わるわけでもなし。生憎と俺は友人が少ないからな。風評一つ、悪評一つで揺らぐほど、俺の地位は高くない」


「ハッ、なるほどな」


「そもそも、俺の唯一の友人を名乗るお前が、その程度の噂話で態度を改めるわけがないだろ。というか、俺が知る限り、お前の方がもっと悪辣だ」


「だな。気に入らねぇ先輩の一人や二人、殴り飛ばしたところで俺に敵うと思ってるんなら、冗談が過ぎるぜ」


「そう。だから俺は変わらない。そもそも何もしてないからな。弁明も何も、俺が何かを変える必要性が何もない」


 ふぅんと、興味深げに水池は唸る。そんな間も、ざわざわぼそぼそとクラスメイト達は噂の運搬に躍起になっていた。


 まったくもって、忙しない。自分に関係しない他人の話の何がそこまで面白いのか。


 ここは一つ、後学のために彼らが噂する話を聞いてみよう。


 まずはケース1。近くの男子四人組。


「なあ、あいつって運動できてなかったよな」


「俺が覚えてる限りじゃ、宮村の奴の体育の成績は低空飛行だ。正直、サッカー部の天空寺先輩を殴れるとは思えねぇが……」


「いやいや、天空寺先輩は夏の大会に向けて調整中だぜ! 問題何て起こしてみろよ、一発アウトだ! つまり、手を出せないことをわかっててあいつ殴りに行ってるってこと!」


「うわなにそれ最悪だな……それに、殴られたのは顔だったか。思いっ切り跡が残る場所じゃねぇか」


 続いてケース2。少し離れた女子グループ三人。


「ほんっとさいってー……暴力を振るえば何でもできるとか、男子ってマジでさいてー。ああ、天空寺先輩が可哀そう……」


「いっつも教室の端で本読んで、何考えてんのかわかんない奴だとは思ってたけど……気持ち悪い」


「あの大男とつるんでるんだから何かやらかすとは思ってたのよねほんと。あーあ、あいつと席遠くてよかったー」


 最後にケース3。教卓近くの男女混合グループ五人。


「男の嫉妬って醜いよねー」


「男友達が居る前でそれを言うか?」


「まあでも、言わんとすることはわかるな。特に、加害者は自らのコンプレックスを深く憎むというし、相手はあの天空寺先輩だ。顔にしろルックスにしろ、男としちゃぁあの人には嫉妬したくもなるってもんだ」


「で、でもさ……これってあくまでも噂じゃなかったっけ? ほら、先輩に聞いてもはぐらかされてるって話だし……」


「やめなやめな。君子危うきに近寄らずってね。少なくとも悪評の渦中の人間を擁護するのは、火鉢に手を突っ込むようなもんだ。なにが起きるかわかったもんじゃない。やめておくべきだ」


 以上、俺に関する噂の総ざらいだ。

 もちろん、このほかにもいろいろと噂されているが、そこにフォーカスしたとして得られる情報があるとは思えない。


 なので大まかにまとめたのが上記の通り。概ね、俺が悪者で天空寺先輩が被害者という構造で、俺の人格を否定する風評のバーゲンセールである。いくらお安くなっているからと言って、軽々に口にしていいものだとは思えないのだけれども。

 それとも、なにか免罪符でもあるのだろうか。今朝に掲示板に貼られていたような。どうせならこのまま学園を真っ二つにするような騒動が起きてほしいけれども、俺の知名度のなさを考えればありえないか。


 というか、よくもこんな状況で、水池は俺に話しかけてこれたなと感心するばかりだ。伊達にアウトローを気取っているだけはある。あとはそれに俺を巻き込んでくれなければ、何も言うことはないのだけれど。


「しかし、不思議なこともあるな」


「不思議ってぇーとなんかあったか、宮村」


 机に肘をついて、少しだけ水池の方へと体を向けた対話モードにて、俺は洪水のように溢れる噂の不思議を一つ提示する。


「噂の流布が早すぎる」


「そりゃそうだろ。ただでさえデカい長身男が、広告塔みてーに張り紙みてーなガーゼを顔に貼っつけてんだからな。あんなお知らせがなくたって、何かがあったってすぐ気づけるぜ」


「顔にガーゼ?」


「お前は見てないのか? 天空寺の奴、こーんなにでかい奴を付けてたんだよ。まるで喧嘩帰りみてーだったな!」


 こーんな、と言った水池は、顎下から口の端っかわを覆い、目元まで行きそうなシルエットを手で表現してくれた。ただ、そんな大きなわかりやすい怪我を、昨日会った時はしてなかった思うのだが……と、思いつつ。まさかと思ってもう一つ訊ねる。


「その怪我って右側か?」


「ん? ああ、そうだぜ」


「はー……なるほどね」


 どうやら彼は、昨日自分で掻き毟った傷を、大げさな処置で隠しているらしい。しかも、俺によって付けられた傷であると吹聴して。いや、吹聴はしてないのか。何者かの仕業かわからない張り紙のせいで、俺がやったように噂されているだけで。


「嵌められたな~、宮村」


 そんな風に言いながら、にやにやと楽し気に笑みを浮かべる水池。何がそんなに面白いのか。そもそも、こうも悪評ばかりが蔓延している理由の半分ぐらいはお前にあるんだぞ水池。お前のアウトローぶりに俺が巻き込まれなければ、悪評を覆してくれる友人が、十人二十人と居たはずなのに……なんて、無いものねだりをしたところで仕方がない。


「っつーか、あの傷じゃぁダメだな。殴られた腫れっつーのは結構後に引くぜ。それに口ん中が切れて水飲むのだってキツイし、殴られたにしては顔面に一発だけなんてありえない。もっと派手に骨折ぐらいしてくれた方が信憑性はあるな」


「お前が何者なのかは知らないが、けが人を装うアドバイスなら俺じゃなく本人にしてくれ」


「したぜ」


「……は?」


「だから、出会い頭にしてやったっつってんだろ。その程度のばんそーこーで殴られたなんて語るたぁちゃんちゃらおかしいってな」


「ひ、久しぶりにお前の非常識ぶりを認識したぞ……あと、やっぱり俺を巻き込むな。非常識がうつる」


「お前に言われたかねーよ、お前には」


 相変わらず非常識なことをしている友人野郎にため息を付いた。


「ま、俺だってなんにも不安がないわけでもないんだけどな」


「へぇ。そんな態度をしてか」


「これで部員集めに支障をきたしたら、俺が先輩に何をされたかわかったもんじゃないからな。ああ、考えただけでも恐ろしい」


 一応、先日のデートを通してクロバに唾を付けているけど、まだ入部届に名前を書かせたわけじゃない。しかもまだ一人。先輩との約束では二人連れてこなくてはならないため、この一件で俺が忌避されるとなると不味い。


 そんな風に話していると、マナーモードにし忘れていた携帯がポケットで鳴り出した。急いでマナーモードに切り替えつつ、ホームルームまで時間があることを確認して、通知を表示。するとそこには、久しく見る名前の人物から俺宛のチャットが飛んできていた。


 イグサである。


『なんか変な噂が流れてるけど』

『タイちゃんがそんなことするはずないよね!』

『私、信じてるから!』


 そして最後に、熊と馬がキメラ融合した謎の生物のスタンプが送られてきた。このスタンプが何を意味するのかは俺にはさっぱりわからない。ただ、純粋なイグサの信頼だけは、感じることができた。


 信じている、か。こう言われてしまうと、少しだけ胸が痛くなる。俺は何もしていないのに、俺の悪評ばかりが蔓延していくこの状況が、信じてくれている彼女を裏切ってしまっているようで、申し訳なくなってくる。


 まあ、一先ずそれは措いておくとして、返信を一つ。


『心配してくれてサンキュー』

『ただ何があるかわからん以上、土曜日の予定はキャンセルだな』


『えぇ!?』

『なんで!』


『なんでと言われても』

『見ての通りこれは俺を狙う闇の組織の仕業でな』

『お前が巻き込まれる可能性がある以上は、遊びに行くのも避けた方がいいだろう』


『闇の組織!?』

『なにそれ?』


『というわけで俺はこれから闇の組織との対決があるんでな』

『さらば』


『タイちゃん!?』

『まだ話し終わってないんだけど!』


 ホームルームが近いこともあって、イグサとのチャットはここらへんで切り上げた。まだ話したりないとスマホの通知が止まらないけれど、無視だ無視。面倒ごとに巻き込むわけにはいかないしな。


 なんて思っていれば、この面倒ごとに俺を巻き込んだ張本人からもチャットが届いていた。クロバだ。


 件の張り紙における登場人物の天空寺先輩は、どうやらクロバのことを狙っている様子。……ちょっと不気味だったけど。ともあれ、ショッピングモールの一件で目を付けられたことには間違いない。もちろん、文句を言うつもりはないけれど。ただ、思うところがないわけでもない。


 さて、そんなクロバからのチャットは、おしゃべりな彼女にしては簡素なものだった。たった一文だけ。


『ごめん』


 そんなメッセージが送られてきていた。

 それもそうだ。あいつだってこんなことになるとは思っていなかったことだろう。俺だって、まさかこんなことをしてくるなんて夢にも思わなかったのだから。


 だから、俺も簡素に返信した。


『気にするな』


 そんなことをしているうちに、ホームルームが始まる。俺は急いでスマホをポケットにしまい、恰好だけは優等生のようにふるまい、教卓に付いた教諭に顔を向けるのだった。

 



 ◆



 そうして昼休み。

 大方の予想通り、怖いぐらいに何もない午前中だった。もちろん、俺に対する奇異な視線を除けばだけど。


 それでも、俺の命を狙うような刺客が現れるようなこともなければ、天空寺本人が教室に乗り込んでくるようなこともなかった。それもそうだ。ここは学園。そんな後先も考えないような奴らが集うような場末じゃない。


「よぉし、購買部行こうぜ宮村」


 そうしてこうして、昼休みが始まるや否や購買部へと向かう水池に連れられて俺も購買部へと向かう。恒例のやり取りだ。


 そんな恒例の道中でひとつ、俺は意外なことに気づいた。


「……視線が少ないな」


 教室中では噂の絶えない男だったというのに、教室の外に出てみるとあら不思議。俺に向けられる視線は絶無となったのだ。


 それもそうか。何せ俺は、天空寺先輩のような校内のだれもが知る人間ではない。噂される名前と俺の顔が結びつかなくて当然だ。


 意外にも、俺の安息の地は多く存在しそうだ。悲しいことに。

 ――と、思ってもいたけれども。


「ねぇ知ってる? 天空寺先輩が殴られたんだってさー」

「え、何それ喧嘩?」

「いや、なんか一方的にやられたって話らしい」

「うわぁ、このがっこでもそういうのあるんだ。なんか意外ー」


 購買部までの道のりを歩いてるだけで、そんなうわさ話が聴こえてくるほどはやっぱり噂は浸透している。顔が結びつかないからといって、油断することはできなさそうだ。


 とはいえ、これならば文芸部の勧誘をするのにも支障はあるまい。


 しかし、一体俺が何をしたというのか。声を大にして文句を言いたいところだ。いや、大にしたら俺のことがバレてしまうな。言うなら小声で言おう。


「随分と噂されてるな、宮村」


「できることなら名前を呼ばないでくれよ。俺だって面倒くさいことには巻き込まれたくないんだ」


 そしてこの状況を、水池は愉快そうに眺めているのが腹立たしい。だってのに、この友人野郎は見下ろすようにこちらへと顔を寄せながら、とんでもない提案をしてきやがった。


「どうせならよ、宮村。本当にぶん殴っちまえよ。なぁ。そうすりゃもうかんけーねぇーぜ。それに、この手の噂ってのは相手がしてこないってのが前提だ。さぞや驚くことだろうなぁーおい」


 意地の悪い笑みだ、と“僕”は思った。俺がそんなことをしないとわかっていっている顔をしている。そのうえで、そうなったら面白そうだという好奇心から、こいつは言っている。


 悪意も善意も何もなく。それも一つの選択だと嘯くように。俺が選択することを何よりも嫌っていることを知った上で言っているのだから、なおたちが悪い。


 なので、水池の邪悪な笑みを睨み返して俺は言った。


「俺は暴力を振るうのは嫌いだ」


「冗談だ冗談。だからそう睨むな」


 適当な態度だ。こいつも、俺も。


「でもいいのかよ。このまま何にもしないってわけにはいかないだろ」


 さて、会話が一つ終わったところで、一歩戻るような話題を繰り返す。


「水池。俺はなにもしないんじゃなくて、俺にはなにもできないが正しいな。朝にも言ったが俺の影響力ってのはたかが知れてるだろ。なら、噂が自然消滅するまでおとなしくしてたほうがいい」


「人の噂は何とやらってやつだな。だが、今回のこれは少し違うだろ。もう一回言うが、俺が予想するに、このやり口はお前が反撃してこないことが前提条件で、何か目的があっての仕込み段階ってとこだな。このまま放置してたらお前……」


「最悪、この学校にいられなくなるってか?」


 可能性の話。それを口にしようとした水池の言葉を奪って、俺が最悪の可能性を口にした。


 水池は俺の食い気味の態度に少しだけ珍しそうに表情を変化させながら、言葉を続ける。


「例の張り紙の目的は、お前の評判を落とすことだな。問題は、なんで落とす必要があるのか、だろ?」


「悪評の流布ってのは、そいつがやった悪事に納得性をつけるためと相場が決まってるな」


「そこまでわかってるなら反撃の必要性もわかってるだろ、お前」


 呆れたように、水池は言う。


「改めて言うが、こいつは下準備だろうな。ほら、ニュースの街頭インタビューで聞くだろ。あいつは根暗で何するかわからなかったってな。要するに、どんな風評だろうが納得できちまったら真実だ。んでもって今、お前は悪者にされる準備をされてるところ」


 続けられる忠告は大げさに。大仰に。


「この時代、たばこの吸い殻一つで退学だってあり得るぜ。お前、何もしないってのはそういうことだぞ」


 お前らしくない言葉だな、と言いかけて俺は口を閉ざした。傍若無人な素行不良生徒こそが水池清水という男なのではないかとも言いかけた。


 どんな人間であろうと、水池清水は俺の友達だ。だから、この視線を、この言葉を、この表情を、俺は友情なのだろうと考えた。


 だから、閉ざした口をもう一度開いて言う。吞みこんだ言葉を、腹の中に入れたまま。


「お前には関係ないことだ」


「そうかよ」


 俺の言葉は続かなかった。代わるように、水池が言葉をつないだ。


「何かあったら呼べよ」


「ん。わかった」


 それから一言も発することなく、俺たちは購買部へと移動した。


「……んー?」


 そして、購買部にたどり着いてから、二人揃って首を傾げてしまった。

 なにしろ、いつもであれば野球部やサッカー部のような運動部連中が団子のようになって人だかりを形成しているはずの購買部が、がらんとしていて誰もいないのだから。


 その代わり、購買部から少し離れたところ――複数の校舎を繋ぐ通路のど真ん中に人だかりができていた。


 まるで、普段の購買部の人だかりを、そのままあちらに移したようだ。


「なんだあのパンピー共は」


「さてな。とはいえ空いてる今がチャンスだ。さっさと買って人が来る前に退散だ」


 水池が通路の人混みを気にするけれど、俺は正直どうでもいい。そんなことよりも、今のうちに普段は運動部連中に買い占められてる人気パンを購入しなければいけない。むしろ今のうちに俺が買い占めてしまおうか。


 なんて。


 その声が聞こえてくるまで、俺は本気でそんなことを思っていた。


「たいちゃんがそんなことするわけないじゃないですか!!!」


 ピタリ、とその瞬間、俺の動きが止まる。まるで彫像にでもなってしまったかのように体が動かない。それなのに、ぐるぐると渦巻く思考だけは目まぐるしい。


 通路のほうから聞こえてきた荒げられた声。聞き覚えのある、幼さを感じる甲高い声。何よりも、たいちゃんというあだ名は、俺が知る限り――


「おい、宮村。今の声は……」


「ちょっと行ってくる」


「へぇー、んじゃ俺も行くかな。野次馬ってのは楽しいんだ」


 手にしていた財布をポケットにしまいなおして、人だかりへと移動する。それから人込みをかき分けて――か、かき……


「ちょ、ちょっと通し……うわっ!!」


 わ、忘れていた。俺は運動神経がないんだった。いや、ないならまだかわいいもので、絶無と言っても過言ではない。成績欄が高々と掲げる体育1の評価は伊達ではない。むしろマイナス1になってないことを評価したい。ので、人だかりを無理にかき分けようとして、逆に人だかりに飲み込まれてしまった。


 事の成り行きを見守るばかりの野次馬とはいえ、彼らも騒動の傍観者となるべく集まっているのだ。そんなところに運動神経絶無の俺が投入されれば、渦巻く人波に抗うこともできずに流されるだけ。


 そして最後に、吐き捨てられるように人並みの中から俺は脱出した。情けなく転びながら。しかも最悪なことに、俺が見つけた脱出口は人波たちが目指す騒動の中心部。


 すなわち、何かが起こってる事件現場だった。


「なんだ?」

「……え?」


 事件現場の渦中に居たのは、対立するように立つ八人の男女。

 片方は背の高い男子三人組。体格からして三年生と思しくそのグループの筆頭に立つのは、現在進行形で時の人となっている天空寺先輩だった。


 その向かい側に立つのは、男子二人と女子三人。天空寺先輩から女子三人を守るように、二人の男子が前に立っている。

 見覚えのある顔だ。それもそのはず、この五人は俺と同級生で、しかも同じクラスの人間で、さらに言ってしまえば――


「た、たいちゃん? なんで……!」


 イグサが仲良くしているグループだった。


「……ちょっと待ってくれ。登場からやり直したい」


「本当になんで?」


 この状況、明らかにただ事ではない騒動の渦中に、転びながら登場だなんて情けない姿は見せられない。ということで、立ち上がってから人だかりの中にまぎれた俺は、再び人だかりの中から姿を現しながら言う。


「それで、これは何の騒ぎ……なんですかね?」


 言いながら、ふいっと俺は視線をイグサから天空寺先輩たちの方へと向けた。

 天空寺先輩が浮かべるのは、昨日と変わらない笑顔だ。唯一、右頬にこれ見よがしに張り付けられた真っ白なガーゼを除けば。


「さあね。僕の方が聞きたいよ、宮村大河君」


 宮村大河。ただそれだけの、俺の名前が呼称されただけなのに、いやに周囲の野次馬たちがざわめきだした。それもそうだ。今朝噂になったばかりなのだ。ここで初めて、宮村大河という名前と俺の顔がつながった人間もいることだろう。


「何をしてたと思う?」


 しかし、ギャラリーのざわめきなど気にした様子もなく、天空寺先輩は話を続けた。こちらへと問いかけるような言葉だ。昨日は俺のことなんて眼中になかったくせに。


「なんでしょうかね。俺の見立てが正しければフォークダンスの練習でもしてたんじゃないですかね。二人一組で四人組。先輩みたいな美男が踊れば野次馬だって集まって当然だと俺は思いますよ」


「それ、冗談のつもりで言ってるの?」


「冗談にしたいんですよ。この状況を」


 少し非難めいた視線を向けられるけれど、別に俺は構わない。というか、本当になんだよこの状況は。ここで言い争っているのがクロバだったらまだわかる。なにせ天空寺先輩はクロバのことを狙ってて、クロバはそれに嫌悪を示してるから。


 なのに、ここに居たのはあろうことかイグサである。しかも、さっきの様子からしてただ事じゃない。本当に。何があったのか。


「おーい、何やってるお前らぁ!!」


 そんな時、人だかりの外から怒声が聞こえてきた。教師の声だ。怒られたくない野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。それを見て、どさくさに紛れるように天空寺先輩たちも動き出した。


 俺の横を通り過ぎるように、去り際に言葉を残しながら。


「冗談、ね。なら彼女が君に惹かれてるのも冗談なのかな」


 俺が何か言葉を返す前に、天空寺先輩は仲間を連れてどこかへと去ってしまった。残されたのは、俺と、イグサと、そのグループ。そして――


「またお前が何かしたのか水池!!」


「違っ……今回は俺じゃねぇーよ!」


 騒動に駆け付けた教師と、その教師に疑われている友人野郎だ。

 水池はのっぽだから人だかりの中でもよく目立つし、今回ばかりは何もしていないという言葉が信じられないほどには素行不良。そのせいで今回も目を付けられてしまったらしく、俺たちとは少し離れたところで教師と言い合いになっていた。


 ただ、今回ばかりは珍しいことに水池はただの野次馬で、本当に何もしてない。なので、ちらりと俺はイグサのグループの、その中でも率先して天空寺先輩に向かい合っていた気の強そうな男子の方に視線を向けてから、フォローのために口論の真っ最中である水池の元に向かった。


「すいません、先生。水池は本当になにもしてないんですよ」


「ん? えーっと、お前は……」


「宮村です。宮村大河。一年C組の」


 俺の顔にピンと来ていないらしい教師に自己紹介をしつつ、俺はちらりと後ろの――イグサのグループの方に再び目線を動かしながら、今回の騒動についての弁明をした。


「実はあっちの友人が天空寺先輩のファンでして。購買部で天空寺先輩を見かけるなんて珍しいじゃないですか。だからちょっと舞い上がって話しかけて、少し騒ぎになっただけなんですよ」


 嘘である。何が起きたのか、俺は全く知らない。

 が、別に全部が嘘じゃない。限りなく狭い俺の学園内での行動範囲で、今まで天空寺先輩を見かけたことがなかったのは事実だ。それと、天空寺先輩は女子人気が高いということを利用した虚偽の陳述。ただ、話を丸く収めるには十分だろう。


「本当か?」


 ぎろり、と俺に向いていた教師の目線が、後ろにいるイグサのグループを貫いた。一応、口裏を合わせてもらわなければ困るため、俺からもアイコンタクトもどきな視線を飛ばした。


「……ですね。はい。すいません、今度からは気を付けますので、許してください」


「ったく、これだから若い奴は……。いいか、次やったらお前らまとめて説教だからな!」


 そして無事、先ほど視線を飛ばした気の強そうな男子がそう言ってくれたことで、教師は引き下がった。ただ、去り際に水池の方に近づいてから、「お前は次に何かしたら職員会議にかけて退学にしてやるからな!!」と言われていた。本当に、普段から何をしているのだろうかこの友人野郎は。


 一応、昼休みなんかは俺も彼奴とつるんでいるわけだけれど、プライベートに関してはよく知らない。まあ、知る必要もないが。


「ふぅー、あぶねぇあぶねぇ。危うく三時間コースだった……助かったぜ宮村」


「そうならないように普段からの行いを気を付けるんだな」


「ばーか。それの何が楽しいんだよ。俺が俺のままに生きる。自由ってのはそういうもんだろ。青春しよーぜぇー」


 しかし反省のしない男である。俺よりも先に、こいつの方が退学になるんじゃなかろうか? これで、今の今まで停学にすらなってないのだから不思議でしょうがない。


「んで、改めて」


 さて、ここで水池との会話を区切ってから、俺は改めてイグサたち五人の方へと向き直った。


 先頭に立つのは先ほどから目立って動く気の強そうな男子。その後ろに男子がもう一人いて、最後方のイグサを守るように女子が二人が真ん中にいる。ただ、俺が話しかけたことによって、イグサが四人を押しのけて俺の前に出てきた。


「たいちゃん!」


 イグサらしからぬ気迫のある声だ。小動物のようにおどおどとしつつも、何かと驚き声を上げる俺の知るイグサが発しないような、そんな声で彼女は俺に迫る。


「たいちゃんは暴力なんて振るってないよね!」


「当たり前だろイグサ。俺は暴力を振るうのが嫌いだ。なぜそんなめんどくさいことをしなくちゃならない」


「そ、そうだよねー! よかったー……」


 ふぅ、と一息。俺の回答に満足したのか、胸をなでおろすイグサであるけれど、少しは状況に置いて行かれている俺の身にもなってほしい。


 何があったのか。俺が求める疑問はそこに集約される。なので俺は、改めて彼らに質問をした。ここで何が起きたのか?


「それで、一体全体何があったのか教えてくれるか? 巻き込まれた身としては、是非とも知っておきたいのだが」


 あまりこういう問答が得意ではないイグサから視線を逸らした俺は、質問を乗せてイグサに押しのけられた男子二人、そのうち先ほどからじろりとこちらをにらみつける彼へと目を向けてそう言った。


 じろり。俺の言葉に一段と睨みを強くしながら、彼は言う。


「お前がさっき教師に話した通りだよ」


「……はぁ?」


 嘘だろ、と思わず言いかけた。俺がさっき教師に弁明したのは舌先三寸の冗談でしかなかったのに、まさかまさかの大正解だと? 一体何の冗談だ。


「あー……っと、本当に天空寺先輩に話しかけただけなのか?」


「形式上は。だろ、風狸」


「あ、うん。林君の言う通りだよ」


 林と呼ばれたこの男子生徒は(クラスメイトだけど初めて名前を聞いた気がする)、仲良さげにイグサへと話題を振りつつ話を進める。そしたら次は、その後ろに居た女子の片方が、話を継いだ。


「厳密に言えばファンってわけじゃないけどね。いーちんが話しかけたのは間違いないよ。理由は……私からは言わない。そっちも、察してないわけじゃないんでしょ」


 いつかに見たことがある女子だ。それもそうか。一応彼女も、クラスメイトなんだから。名前は全然知らないけど。


 ともかく、彼女の話を伺いつつちらりとイグサを見る。すると、申し訳なさそうに彼女は視線を逸らした。


 それから、ぽつりと。


「だ、だって……あの人、たいちゃんのこと悪く言うから……」


「悪く、ねぇ……まあ、そう言われる心当たりしかないけど」


「そんなことないよ!」


 俺個人としては、むしろよく言われる心当たりの方がない。必然、比率的に悪く言われることの方が多いと思っているのだが、そんな俺の後ろ向きな考えをイグサは全力で否定した。


「わ、私はタイちゃんのいいところたくさん知ってるよ! 私が辛いときに助けてくれるし、意外と周りのことよく見てるし、人とケンカしないようにってあんまり自分の意見を言わないし……でも、天空寺さん、たいちゃんのこと何にも知らないのに、『君が知らないだけで、彼はそんなことをする人間かもしれないよ』なんて……『君が思ってるより彼は暴力的な人間かもね』とか……」


「あのなぁ……だからって、それで先輩と喧嘩になったらダメだろ」


「だってぇ!!」


 俺が思わず出してしまった呆れ声に、子供のようにだってと繰り返してイグサは続ける。


「チャットグループでもたいちゃんが酷い言われ方してて! それで、掲示板にもひどいこと書いてあってさ! だ、だから私が……」


 次第にしりすぼみになっていく彼女の言葉は、俺によく知るイグサのそれ。自分の言いたいことを言おうとして、喋ってる最中に自信がなくなって、言いたいことが言えなくなっていく。


「みんながたいちゃんが悪いっていうから……たいちゃん、辛いと思って……」


「だから疑いを晴らそうとしてくれた、ってわけか」


「うん。たいちゃんは暴力なんて振るわないから。だから、何かの間違いだから。なら、天空寺先輩がさ。たいちゃんがやってないって言ってくれればって……」


 なんとなく何があったのか見えてきた。

 おそらく、イグサが天空寺先輩に、本当に俺が先輩を殴ったのかを直接聞いて、そこで口論になったのが事のあらましだろう。


「そうだな。俺の心配をしてくれてありがとな。だが、今回の件は俺一人で片付けるべき話だ。悪いが、心配までにしてくれると嬉しい」


「……う、うん。わかった。ごめん……」


 こいつがここまで声を荒げることなんてそうそうない。さっきの言葉以外にも、よほどひどいことを言われたのだろう。というか、こいつがここまで声を荒げているところを初めて見た気がするぐらいだ。


 となれば、俺に関する悪評が様々なところに広がってる可能性があるな。一体、俺を陥れようとしてる連中は何を目的としているのか。俺みたいな小市民を脅したところで、何も出てこないと思うのだが……――


「ねぇ、たいちゃん」


 ふと、考え事をしている最中にもう一度、イグサが俺の名を呼んだ。俺は何も返さなかったけれど、目線をイグサへと向けたことが返事になったようだ。


「たいちゃんはさ、強い人だけど……きっと、つらいこともたくさんある、と思うの。だから、本当に、本当に、どうしようもなくなったら……」


「わかったよ。そん時はお前を頼るから覚悟しておけよ。俺が誰かに頼るだなんて、相当だからな」


「う、うん! 任せてよ!」


 心配そうにこちらを見上げるイグサの言葉に同意すれば、飛び跳ねるように彼女は喜んだ。その勢いのまま空に飛んで行ってしまいそうな様子だ。


 ただ、なんとなく。そんな風にする彼女の横で、俺は沈むようにイグサの言葉を頭の中で繰り返していた。


 強い人、か。


 俺は別に、強くもなんともないんだけどな。“僕”はそう思った。そう思うことしかできなかった。


「おい、風狸。そろそろいいか?」


「あ、ごめんごめん」


 ここで、林が購買の方を見ながらイグサへと話しかける。確かに、こうして立ち話をしている間にも購買の商品は次々と無くなっているわけで。急がなければ商品自体がなくなってしまう。


 それに、話の区切りもちょうどいい。なので、ここでイグサとは別れることにした。


「それじゃあまた後でねたいちゃん!」


「っても、話しかけられても無視するけどな」


「えぇ、なんでよ!」


 また後で、というのは教室で会おうということだろう。ただ、今の状況で俺とイグサが話すのは、あちらのグループに迷惑をかけそうなのでやんわりと断っておいた。


 それでも彼女はへこたれない様子で言う。


「土曜日の約束、私は諦めてないからね!」


 去り際に一言、彼女は元気よくそう言って購買の方へと駆けていった。


 イグサの小さな背中を見送って、俺は小さくため息を付く。


「かわいいよな伊草ちゃん。ありゃきっとお前に惚れてるぜ。間違いねぇ」


「うるさいぞ水池」


 そして、ため息を付いた俺の横には、両手いっぱいに購買のパンを買い占めた水池が、むしゃりむしゃりと口いっぱいにパンを頬張りながら立っていた。


 何時の間に買って来たのか。そういえば、さっきからいなかったような気がする。足が速いと行動まで早くなるのだろうか……。


 と、そうだ。


「なあ、水池。お前が聞いてたかは知らないが、さっきイグサのやつ、チャットグループで俺の悪口が書き込まれてるって言ってたよな」


「言ってたな」


「言いぐさからして、それって掲示板よりも前の出来事のように聞こえたんだが……」


「そりゃそうだ。例の件、掲示板よりも先に学年のグルチャに出回ってたからな」


「はぁ!?」


 ここにきて新事実。学年のグループチャットに噂が出回っていたのだという。しかも俺の知らないグループチャットという事実も付属。


「何それ俺知らないんだけど……というか、なんでお前が知ってる!?」


「そりゃ立ち回りってやつだよ宮村。俺はお前みたいな孤高の狼じゃなくて、ちんけなウサギちゃんだからな。周りに人がいないと死んじまう」


「それは答えになってないぞ! 言え! なんで俺がハブられて、お前がハブられてないんだよ!!」


 お前は素行不良で学内に友人の少ない一般ヤンキーじゃなかったのかよ水池清水!! 孤独仲間として勝手にシンパシーを感じていたのは、どうやら俺だけだったらしい……なんだか、人として負けたような気がしていつも以上に凹む……。


「今日一番取り乱してるな」


「そりゃそうだろう!」


 こいつのせいで俺には友達ができていないっていうのに……いや、まさか……友達ができないのは俺に問題があったっていうのか……っ!?


 ああもう! なんか変な奴に目を付けられてありもしない噂をばら撒かれるし。なんかイグサの友達、俺のことずっとにらんでて怖ぇーし。そんでもって俺よりも水池の方が友達がいるとか知りたくなかったよ!!


 というか、土曜日の約束を果たすには、今週中に天空寺先輩の件を片付けなきゃいけないよなー……そうじゃなきゃ俺の風評にイグサが巻き込まれるし……。ってか、何気に天空寺先輩、結構な人数に向けて俺の名前を周知させやがったな! 勧誘に絶対響くじゃねぇかこれ。


 ああもうっ!!


「最悪の日だ……」


「意外だな、お前もそんな風に爆発するのか」


「水池うるさい」


「そう言うなって。なんかいいことあるぜきっと」


 ちなみに購買部のパンは売り切れていた。

 最悪の日だ……。



 ◆


 それから放課後。授業が終わり、これから部活動というところで、教室の外に見知った人影が見えた。クロバだ。彼女がこちらを見ている。

 けれど、目が合った瞬間に申し訳なさそうな表情を浮かべたクロバは、すぐに視線を切ってどこかへと行ってしまった。


「どうした、宮村」


「……いや、ちょっとな」


 教室の外を見ながら動きを止めた俺を心配してか、水池が話しかけてきた。ただ、特に返す言葉も思いつかなかったから言葉を濁せば、ふぅんと空気の抜けたような返事をしながら、彼は我先にと下校してしまう。


 本当に、この友人野郎は放課後に何をしているんだろうか。なんて疑問が浮かんだけれど、それよりも俺の脳裏には強くクロバの顔が浮かび上がった。


 ただ、今は避けておいた方がいい。なにせ、クロバと天空寺先輩の関係は噂されているのだ。そこに俺の暴力事件の噂が重なれば、余計にめんどくさいことになってしまう。あらぬ噂が立つのも時間の問題。ならば、関わらない方がいい。


 そう思いつつ、荷物をまとめた俺は文芸部の部室へと足を向けるのだった。



 ◆



「やあやあ宮村君。男子三日会わざれば刮目してみよとはよく言ったものだ。随分な人気ぶりじゃないか」


「ええ、おかげさまで熱烈なファンから幾つものレターを受け取りましたよ。今のところは、これだけですけどね。猫啼先輩」


 大方予想通りの日常が過ぎた放課後に、部活棟二階端にある文芸部部室へと足を運んでみれば、いつも通りの顔をした猫啼先輩が、いつも通りの席に陣取って俺を迎えた。


 熱烈な歓迎の言葉まで用意して。


「レター、か。噂の出回りは今日からだというのに、随分と手が早いんだな」


「それは俺が訊きたいところですよ」


 相変わらずの先手を抑えるような言葉に、辟易としながら俺もいつもの席へと移動する。移動するついでに、もしやと思い靴箱を確認したときに発見された俺宛の手紙を、封を開けた状態で卓上に無造作に投げ捨てた。


 机の上に手紙の花が咲く。それを興味深そうに見下ろした猫啼先輩は、一つ一つを手に取って眺めた。


「ほぉ……どれどれ……『最低人間、学校からいなくなれ』『4ね』『同じ空気を吸っていると思いたくない』『殺す殺す殺す』、と」


 俺が椅子を座っている間にも、いそいそと卓上にばらけた手紙を、ご丁寧に音読までして読み上げる猫啼先輩。それから、興味深げに目を細めながら、俺の方へと話しかけてくる。


「……なんだね、この旧時代的な脅迫文は?」


「知りませんよ。出した本人に聞いてください」


 猫啼先輩の疑問に、突き放すように俺は返答した。しかし、俺の態度など関係ないとでも言わんばかりにマイペースな猫啼先輩は、検分した手紙に目を通しながら、いつもの調子で語りだす。


「時に宮村君。定例通りの罵詈雑言がしたためられているこれらのプレゼントだけれども、私には一つ疑問がある」


「はぁ」


「『学校からいなくなれ』芸がないがお決まりだね。『殺す殺す殺す』品がないが常とう句だ。『同じ空気を吸っていると思いたくない』アクロバティックな悪口と評価しよう。……だが、この『よんね』というものは一体どういう意味なのだろうか? 頭脳明晰な私の知能をもってしても皆目見当もつかないのだが……」


「……それ、本気で言ってます?」


「私が本気じゃなかった時があったかね」


 じろりとこちらを睨む猫啼先輩だけれども、その視線は昼間の林のとは明らかに毛色の違うもの。どこか妖艶で、こちらを小ばかにしているような含みを込めた悪魔のような視線だ。


 こんなものだから、この人の発言は信用ならない。冗談だらけの俺の科白が霞むぐらいには。


 そしてこの残忍な悪役ピカレスクを前にしては、俺はこの意味の分からない茶番の演者に成り下がるしかなかった。


「わかりましたわかりました。それで? 何をお求めなんですか、猫啼先輩」


「お求めも何も、私は最初からこの『よんね』という言葉の意味について聞いているのだよ。できるのならばお安くしていただけると助かるかな」


「ならば答えましょう猫啼先輩。それは『死ね』という言葉を表現規制を搔い潜るために一部を当て字にしたものですよ」


「ほう。それは奇異なることを言うね宮村君」


 大仰で大げさで大雑把で。こうした無駄話を楽しんでいるように見える猫啼先輩は、いつものような笑みを湛えて言う。


「個人間の手紙をどこの誰が表現規制しようというのかね」


「それはそうですけど……」


 ため息を付きつつも、俺は答える。


「発祥はよく知りません。おそらくはネット界隈の言葉でしょう。罵詈に規制をかけるのはどこの業界でもやりますからね。それを掻い潜るための言葉の一つ。その中でも最も安易に使い、かつ簡単に打ち込めるものと判断します」


 携帯を取り出しテキストアプリを起動。片手で打ち込むのに一秒もかからない、たった二文字で表現できる悪口を、俺はわかりやすく猫啼先輩へと示して見せた。


 それを楽しそうに見下ろしながら、彼女は言う。


「それで? その事実がこの手紙に何の関係があるのかな?」


「簡単ですよ。安易に使える言葉だからこそ、常日頃から安易に使っているのでしょう。それが現実世界にまで侵食している――ついでに言えば死と4じゃあ、画数からして違いますしね」


「ほぉほぉ、君はそう考えるのか」


 にやにやと、笑みを深めて猫啼先輩は言う。というか、その言い方は最初から言葉の意味を分かってて話を振ったんじゃないだろうか。


 絶対そうに違いない。


「私はね。これは罪の矮小化だと思ってるよ」


「はぁ」


「いいかい宮村君。人間にはプライドがある。自分は善人であるという矜持がね。だが、人とは弱いものだ。どうしても魔が差してしまう。どんな善人であろうと絶対に、ね」


 バラバラバラと、猫啼先輩は読むために手に持っていた手紙の束を、件の一枚を残して再び卓上へと放り捨てた。


「どんな間違いだろうと人は認めたがらない。なぜならプライドがあるから。自分は善人であるという矜持があるから。だから間違いを犯してしまったときに、自分の正しさが揺るぎ、人は罪悪感という十字架に苦しむのだ」


「じゃあ悪事をしなければいいじゃないですか」


「そう! それだよ宮村君!」


 欲していた答えが返ってきたのだろうか、とても猫啼先輩は嬉しそうに話を続ける。


「プライドがある。だけど魔が差してしまう。だからこそ人間というものは、悪事に境界線を付けるんだ」


「悪事の境界線、ですか」


「そう。人間社会においてやっちゃいけないこと。その境界線を引いて、踏み越えないようにする。そこにとどまる限りは、社会に従属する善人であると自己肯定するためにね」


「それで?」


「まあまあ、そう結論を急ぐな。要するに、だ。この『4ね』という言葉にはある一つのからくりがあるのだよ」


 卓上に散らばった手紙の束。その中で、これ見よがしにわかりやすく上を向いた『4ね』と端的に書かれた手紙に、猫啼先輩は指をさす。


「世間体の悪い行いをしたい。許されないようなことをしたい。でもそんなことできない。だから行為を矮小化することで、この送り主は善人であろうとしているのだよ」


「つまりは、これは悪事ではない、と?」


「そういことだ。“死ね”という言葉は残虐だ。しかし、“4ね”という言葉には愛嬌がある。遠回しの表現だから気づかない相手もいるだろう。私のように」


 白々しいと、“僕”は思う。


「だからこそ、だ。直接的な表現じゃないから相手を傷つけない。冗談のような言葉だから相手は傷つかない。これはまだ、悪事の境界線を越えてない。


――だから自分は悪くない。


 人間はそう考える。自ら引いたはずの境界線を自ら曖昧にして、自分の犯した行為を正当化する。私はこれを、“罪の矮小化”、あるいは“悪意への免罪符”と呼んでいる」


 くつくつくつと、猫啼先輩が悪役じみた声で笑う。


「窃盗犯を万引きと呼べば罪は軽くなるかね? 詐欺脅迫を美人局と記載すれば凶悪性は薄れるかね? 傷害致死をいじめと言い切れば罰を受けなくていいのかね?」


「……」


「そんなわけない。たしかに強い言葉は堅苦しく嫌気がさす。しかし、だからこそ悪事としての境界線をはっきりとさせる力があるというのに、人間はどうしてもキャッチーなフレーズで矮小化させたがる。彼らにとっては、悪事の境界線なんて曖昧な方が都合がいいのだろうね。なんたって、少しぐらい飛び越えても、自分は善人でいられるんだから」


 猫啼先輩は。


 笑っている。


「君はどう思う?」


 笑っている。


 “僕”は。


「俺には関係のない話ですね」


 “僕”は笑えなかった。


「いやなに、ただの雑談の一つだよ。君が持ってきた手紙について、思うところがあったからの演説に過ぎない。いつも通りのあれさ」


「そうですか」


「それともなにかね。この才色兼備な一般女学生に過ぎない私が、恭しく後輩におせっかいを焼いているとでも言うのかな?」


「そこまでは言ってませんよ」


 ここで初めて、俺は自分が滝のような汗を流していたことに気づいた。確かに季節は夏だけれど、何もしていないのにここまで汗をかくことはあるまい。それに呼吸だって、まるで全力疾走した後のように荒い。


 それだけ、俺は呑まれていたんだ。猫啼先輩の演説に。呑まれた理由は……言いたくはない。たとえ、頭の中の戯言だったとしても。


 だから俺は、気を取り直すように、今が日常であることを確かめるために、一番最初へと話を戻した。


「というか、見ればわかると思いますけどこんな状況じゃあ、部活の勧誘なんてできませんよ」


 脅迫じみた手紙の数々。それに加えて、今もなお進行形で広まっているであろう俺の悪評。クラスメイト達のグループチャットなんて知らない俺には、水面下で何が行われているのかなんて知りえない以上、止めることもできやしない。


 しかも、昼間の騒動で多くの生徒に面が割れてしまった。これでは勧誘のために近づくことだってできないだろう。なんて、思っていたのだけれど。


「いるじゃないか。二人。君の話を聞いてくれそうな生徒が」


 この人はどこまで知っているのだろうか、と言いたくなった。ここで三人と言わないあたりとか、本当に。


「誰と誰のことを言っているんですか」


「昨日、町のショッピングモールでデートをしていたあの子と、昼間に天空寺さんとひと悶着を起こしていたあの子のことかな」


 お得意のおとぼけでお茶を濁してみるけれど、やはり猫啼先輩には通用しない。やっぱりこの先輩は苦手だ。


 というか、なぜ昨日のデートのことまで知っているのか。


「まったくもって君も人が悪いよ。あんなにもきゃわいい子が二人もいるというのに勧誘しないとは。君がもし献身的な働き者であったのならば、今日この部室には四人の人間が居たかもしれないのに」


 やれやれと、相変わらず人を小馬鹿にするような態度をとる猫啼先輩。しかし、今回ばかりは腹を立てる気にもなれなかった。


「俺が献身的な働きものでないことにはまったくもって同意しますけどね」


 確かに、彼女らを誘うタイミングなんていくらでもあったわけで、クロバに至っては『一つだけ言うことを聞いてあげる』なんて約束までしている。


 だけど俺は、連れてきていない。


「連れてきたくない理由でもあるのかな?」


 にやりと笑う猫啼先輩。相変わらず、人の心を覗いたような彼女の態度に、ため息しかつくことができない。


 ああ、まったくもってその通りだ。


「片方だけでいいですか」


「非選択主義を貫く君が、どちらを連れてくるかを選べると思えないけどね」


「どちらも応じてくれないかもしれませんよ」


「いいや、応じるさ。君だってそれはよくわかってるんじゃないか?」


「……」


「それとも、こうした方がよかったりするかな。今この瞬間、君に下された命令は『勧誘』から『二人を入部させる』ことに変更されたよ」


 ああもうまったく。なんでこの人はこうも、人の逃げ道を先回りするのがうまいのだろうか。


 これじゃあまるで、暗号解読じゃないか。


 俺の隠し事を、解法に沿って詳らかにしていく――性格が悪いことこの上ない。


「あの二人は、ダメなんですよ」


「なぜ?」


 逃げ場を失った“僕”に笑顔は言う。にんまりと邪悪な微笑みを湛えながら、“僕”という人間を使って遊んでいる。


 本当に。


 本当に。


 性格が悪い。


 こじ開けられてしまう。今の今まで、ずっとずっと冗談で隠し続けていたものを。俺が過去に残した後悔を。


「イグサとクロバは、一緒にしたくはないんです」


 それは俺が、放り出した物語だ。


「中学生の時、イグサはいじめられていました……その主犯格が、クロバだったんです」


 ついぞ答えを見つけることのできなかった、終わってしまった話だ。


「詳しく聞こうか」


 悪魔のような先輩が、にこりと優しく笑っていた。


 


 

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