第4話 知らないことだらけの世の中は思ったよりもつまらない・上
一日中休みというのも考え物だと思った日曜日のことだ。
いや、学生だろうと社会人だろうと休日というものは広く普及されるべきだし、どんなタイミングであろうと休む時間があるという環境は是非とも推奨されるべきことだとは思う。
そう言う点で見れば、俺という存在は社会の範疇からある程度の逸脱しているのかもしれない。なにせ、日曜日という、上から読んでも下から読んでも日曜日という回文擬きが示す休日に難色を示している高校生こそが、他でもない俺なのだから。
休日というものは辟易としてしまう。なにせ、何にもないから。いや、何もないことこそが休日なのは言うまでもない事実だし、休日だからと言って予定を作ってはいけないなんて法律は、この民主主義国家には存在しない。
ただし、偶然にも友達と呼べる存在が、破天荒極まりない例の覗き魔しかいない俺には、奇跡的に休日の予定が埋まってしまうなんてイベントが起こりえるはずがなかった。
つまり、俺の休日には何もない。故に、休日は度し難い。
休日は暇の温床だ。暇が蔓延っている。暇が増殖している。暇に蝕まれていく。暇に殺されてしまいそうになる。
だからこそ、その暇を埋めるために何かをするべきなのだろうけれど、そのためには何をするべきかを決定しなくてはならない。
決定する。うむ、実に度し難し。
ことなかれと生きている俺には、やはりあらゆる選択から背中を見せて逃走する義務が生じていると言っても過言ではない。
選択。決断。決定。取捨。ああもう、こんな文字ですら考えたくもないし見たくもない。まったくもって、俺は骨の髄まで染まり切った臆病者だ。何かを決定するだなんて、サブいぼが立つ。
なので、俺は日曜日が嫌いである。それこそ、中学生に上がってからは土曜日にも授業があると聞いて安堵したぐらいだ。まあ、高校では土曜日に授業を実施しないところに来てしまったので、そんな安堵も消えてしまったのだけれども。
ともかく、学校生活というものは素晴らしい。何も選択することなく、ただただ学生として定められた時間を過ごすだけなのだから。
部活動と称した義務を果たし、勉強と称した義務を果たし、睡眠と称した義務を果たし、登校という義務を果たす。それだけですべての歯車が回っているような気分になれる。整然とした、心地の良い時間だ。
だからこそ、決まりきった世界を、自分の選択で変えなければいけないことが恐ろしい。自分なんて気持ちの悪い存在が決めた不確かなスケジュールなど信用できるものではない。
だから“僕”は、休日が嫌いだ。
けれども、今日だけは違った。いつものように流されるがままであることには違いはないけれど、何の予定もないわけではないのだから。
「ふむ、ふむふむふむふむ……。まあ、問題なしね。満点とはいかないけれど、及第点は出せる程度。まったく、あんたも年頃の男子なんだからおしゃれには気を使ってよね。身だしなみ気にしない男子とか、私嫌いだから」
「最低限は備えているつもりだクロバ。少なくとも、俺にだって恥も外聞も気にするぐらいのプライドはあるからな」
そんな風に俺が会話するのはクロバ。
休日ということもあって制服ではない彼女は、高校生らしいファッションをしている。
丈の長いデニムパンツに、ベージュのシャツ。左手には肩掛けのバッグ、右手には脱いだ帽子を持っている。
よく似合っている。クロバの姿に対する俺の感想はそんなものだった。
なにせ俺は、ファッションに対してあまりにも疎すぎるから。
ちなみに、俺はズボンにプリントTシャツという見栄えもへったくれもないスタイルである。これが本当に及第点なのかは、ファッション弱者の俺には見当もつかない。ともあれ、クロバ的には許容範囲内ということなのだから、お眼鏡に適ったことに安堵しようか。
そんな風に胸をなでおろしてから、改めて状況を確認する。
俺がクロバと待ち合わせをしていたのは、俺たちが住む町から少し移動した先にある近場のショッピングモール。待ち合わせ時刻は午後一時。
さて、ここで何が起きるのか、と言えば――
「それで、クロバ。どうして急にデートをしようなんて言い出したんだよ」
俺たち二人が何をするのかと言えば、それは紛うことなきデートである。
そう、デートである!!
いやなんでだよ。
先に言っておくけれど、これは男女間で遊びに来た事実を恋愛沙汰に絡めてデートと揶揄う儀式でもなれければ、俺とクロバがそういった間柄というわけでもない。
ただ俺たちは、このショッピングモールに二人だけで訪れた事象のことを、デートと呼称しているだけに過ぎない。
……まあ、そう思っているのは案外俺だけなのかもしれないけれども。というのも、先日……二日前のことだ。
二日前と言えば、クロバが俺をデートに誘った日なのだが、それはもう散々な日だった。
というのも、昼休み。堂々と俺をデートに誘うだけ誘った後、颯爽とその場からクロバが立ち去った直後のこと。
『たいちゃん……たいちゃんの……裏切り者ぉ!』
なんて言葉と共に、ぽすんと俺の背中にヘッドバッドが叩き込まれた。
イグサである。
何を思ったのか、両手を胸の前でぐっと握りしめて羽毛のように柔らかい渾身のヘッドバットをかまして来たイグサである。
ただし、見た目通りにちんまいその一撃は可愛いもので、せいぜいが俺の心をほっこりさせる程度のものだった。
『宮村……宮村の……裏切り者ォッ!!!』
続いて、そんな言葉と共にバコーンと俺の胴体に鉄拳が襲い掛かった。
水池である。
何を思ったのか、鋼のように硬い鉄拳をぐっと握りしめた渾身の一撃をこいつはかましてきやがったのである。
見た目通りに巨大なその一撃に可愛げなんてあったもんじゃない。一瞬で俺の体は教室の端から端へと数メートル舞い、見事に壁に叩きつけられる。
『な、なぜ……だ……』
なぜだ。
いや、本当になぜなんだ。
そこで俺の記憶は途切れた。
それが二日前のことだ。
もちろんその後、俺を保健室送りにした水池には直談判をしに行ったし、俺という男が居ながら女を作っていただなんてという返答には寒気がしたけれど、肝心なのはそこではない。
肝心要なのは、その後の俺の周りの反応であった。ああ、一応補足しておくと、俺の周りというのはクラスメイトのことであって、俺の友人のことではない。
おいそこぼっちとか言うな!! すべては水池が悪いんだよ水池が!!
ともかく、あの昼休みの後からクラスに、更にはクラスを超えて広まって聞こえてきた噂にこそ、俺がクロバから訊き出しておきたい問題があった。
曰く、クロバはかのイケメンエリートたるサッカー部のキャプテンとの交流があるとのこと。イケメンエリートと言ったところで、俺にとっては交流のない赤の他人。その名を
ただし、俺に関わってくるというのなら話は別。
色恋沙汰の多い高校生活において、男女の交流とは即ち恋仲を示す符号でしかない。言うまでもなく、クロバと件の天空寺先輩の交流は、転じて二人の恋仲を噂するものとなっている。お熱いもんだな。間に俺が挟まらないのならば。
まあつまるところ、クロバが公衆の面前で俺にデートを申し込んできたおかげで、クラス内での俺の立場が何でもない水池の友人から、学園でも噂のカップルの間に入った間男へとランクアップしたのである。
いや、ランクダウンか? 少なくとも悪評であることには変わりない。なにせクロバの容姿に魅了された男子からは憎悪を伴った嫉妬を向けられるし、天空寺先輩のファンガールたちからはクロバの関係者として敵意を向けられるばかり。
ただでさえ仙人のような学園生活を送っていたというのに、一転して噂の絶えない学内の人気者である。迷惑甚だしく。
そんなわけで、これだけ振り回された俺だからこそ、デートの理由を訊く権利ぐらいはあるだろう。
「デートの理由を訊く男は嫌い」
「そうですかい」
まあ、そんな風にはぐらかされてしまえば、手も足も出ないのだけれども。そこまでの度胸はないのだ。俺は。
「そもそも女の子のわがままを聞いてあげるのが男の器量ってやつだと思わない?」
「俺の器量が電子炊飯ジャーみたいに小さいのはよく知ってることだろ」
「なんでよりにもよって器量の例えが炊飯ジャーなの。何? 大魔王でも封印してるわけ?」
「本編じゃ封印できずに破壊される程度の器ってことだ」
実際俺の中に封印されているのは、思い出したくもない過去だしな。冗談にもならない話だ。
「まあいいや。とにかく、今日という日は私のために尽くしてもらうわよ」
「デートってそう言うもんだっけ?」
「デートってそう言うものなの」
ふむ、やはり俺には男女関係のあれこれに対する知識が欠けているようだ。まあ、ファッションにすら頓着がない時点で、達者とは言い難いか。
「とりあえず、まずはあの店から見て回るわよ!」
「つまり、体のいい荷物持ちってことね」
ただ、これがデートなんてものではなく、ただの荷物持つ招集であることは、恋愛弱者な俺でもわかることだった。
「ああ、そうそう」
出発進行と意気込んだ次の瞬間に、そう言えばとばかりにクロバは立ち止まった。それからくるりとこちらに振り返って、彼女は言う。
「付き合ってくれたら、タイガの言うこと、一つぐらい聞いてもいいけど?」
……食えない奴だ。僕はそう思った。
多分こいつ、俺が文芸部の部員を探してることを知ってやがったな。いったいどのタイミングで聞いたのか。初めて人に話したのは先日の昼休みだけれど、偶然聞いていたのだろうか。
ともあれ、そう言われてしまえば、荷物持ちだろうと何だろうと付き合うしかなかった。猫啼先輩の恨みを買う前に、早々に部員候補を見つけておきたいからな。
――それから一時間。
あっちへ行ったりこっちへ行ったり。あれやこれやとショッピングモール内に遊園地のアトラクションが如くぎっちりと詰め込まれた服飾店をクロバと共に巡りに巡る。
「どう、この服に合う?」
「おー、似合う似合う。ぴったりだ。これ以上ないぐらいにな。ヴィーナスの生まれ変わりと言ってもいい」
「何それ褒めてんの? ふんっ、まあいいわ。でもこれは買わない」
手に取った服を自分の前に持って俺に見せるクロバ。売り物の服を重ねた姿を俺は全身全霊で褒めたたえたのだけれど、気に入らなさそうにあしらわれてしまった。これでも精一杯の称賛だったのだが、返されたのは疑わし気な視線だけ。ちょっと悲しい。
それから彼女は、手に持っていた服を元に戻してしまう。
「いいのか?」
「誰かさんがしっかりと褒めてたら買ってたかもしれないね。あーやだやだ。素直じゃない男は嫌い」
これ以上なく素直に褒めたつもりだったんだけど。
「それに、無駄な買い物はするつもりもないからね。ウィンドウショッピングというやつね。ウィンドウショッピング」
「なるほど」
悪く言えば冷やかしというのだろうけれど、ショッピングモールの半分を埋め尽くすのではないかと思うほどに多い服飾店の総数を見れば、仕方のないことかと思えてくる。
「そもそも、生憎とそんなに手持ちもないしね」
シニカル気味にそんなことを呟いたクロバの言葉に、俺は返答しなかった。
そうしてこうして、一通り気になった服を見終わったクロバは次の店に移動する。その後ろにお付きの執事が如き足取りで俺も続く。
「一つ疑問なんだが」
「あによ」
疑問。と、言ってもそこまで深いものではない。それこそ、お喋りらしく歓談の話のタネ程度でしかない疑問だ。それがわかっているのか、クロバの返事も適当だ。
「昨今どころか一昔前から、女子と言えば買い物が長いというのが常識だったな。このような常識の是非について、クロバはどう思う?」
「また変なこと言いだすわねタイガは。まー、長いとは思うけどさ」
女子曰く、女子からしても長いらしい。
「けど、長い時間を長いと認識できないぐらいに、夢中になっていることもまた確かだけどね」
苦笑するように、彼女は言葉を続けた。
「でも仕方ないことじゃん? 女の子にとって身だしなみは死活問題なんだから。誰よりも綺麗な自分でありたい。誰にも見せたくない自分でありたくない。特に、好きな人の前じゃね。それに比べたら、時間なんて大したものじゃないのよ」
「なるほどな」
「そもそも選ぶ過程が楽しいの。タイガもそうでしょ? ゲームとか本とか、選んでる時は楽しい……って、感じじゃないね。タイガに限っては」
「生憎とな」
つまりは、女子にとって服選びというものは己のステータスの一つであるわけで、ゲームでいうところの経験値稼ぎみたいなものなのだろうと解釈する。選び、吟味し、理想に近づく。
なるほど、そりゃあ俺がファッション弱者なわけだ。生憎とそういう勉強は一切したことないのだから。今日の服装だって、五月に夏服を買いに行ったときに、マネキンに付いていたものを適当に見繕っただけだしな。
かけてる時間が、まるっきり違う。
そういえば、何日か前にクロバが言ってたな。感想待ってますって。そりゃそうだ。こんな人間の言葉だろうと、苦労したものには肯定の言葉が欲しくて当然か。
「つまり、今のクロバがすごい綺麗なのも、そう言う努力の賜物ってわけか」
ぽつりと、素直に俺はそう言った。
「……………………」
「どうしたクロバ。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして。俺の顔にごはん粒でも付いてたか? ちなみに俺の今日の朝食はパンだ。最近いちごジャムにハマっていてな。となると顔についてるのはパンくずが正答だが」
ピタリと、クロバの動きが止まった。はて、何か迂闊なことを言ってしまったりしたのだろうか。とすると気まずい。冗談を一つつままなければやってられないぐらいに。
「じゃ、なくてっ……!!」
さて、数秒動きが停止していたクロバは、突然今度は早送りするように機敏に俺の方に詰め寄ってきた。
「今の、本当?」
「ああ、本当だぞ」
なにか鬼気迫る様子のクロバである。そこまで俺がパン食に鞍替えしたことが疑わしいとでも言うのだろうか。
まさか、今の今までしっかりとご飯を炊いて食べていたけれど、なんだかめんどくさくなってパンで手軽に済ませていることがバレたのだろうか。
何たる怠惰。何たる惰性。これは確かに、本当なのかと話を疑われても仕方がない。
「そう、そうなのか~……へー……そう……」
詰め寄った距離をふらりと開けて、はにかむように揺れるクロバ。どういうわけかその口元はにヘらとした笑みを浮かべていて、どこか嬉しそう。
この反応……おそらくは、奴もパン派と見た。
なんて、冗談だけど。
「まあいいや。とりあえず、次はあっちのお店行くから」
「はいはい」
どうやらまだまだ続くらしいウィンドウショッピング。現在時刻午後二時を少し過ぎた頃。あと何時間これが続くのか、そんな風に思っていた時、ふと俺の肩が通行人にぶつかった。
「うわっ!」
こちら運動神経皆無で体育評価1の劣等生である。しかも、肩をぶつけてきた相手はスポーツでもしているのか、揺るぎない体幹で強烈に俺にぶつかって来た。いや、流石に事故だとは思うけれど、思わず俺は後ろに倒れ、情けなくしりもちをついてしまう。
「おっと……すいません」
「い、いえ、前を見てなかった俺の不注意です」
肩をぶつけてしまった通行人の男が、申し訳なさそうに尻もちをついた俺に手を差し伸べる。ありがたく、俺はその手を取って起き上がった。
「んー……君、高校生?」
「え、あ、はい」
それからパンパンと尻を払っていると、ふと通行人の男がそんなことを訊いてきた。
通行人は清涼感溢れる美男子だった。俺と同じく高校生か、もしくは大学生。俺よりも背が高くて、俺よりもがたいがいい癖に、威圧感を一切感じられないスレンダーな美男子。
そんな彼は、おせっかいをやくように俺に言う。
「高校生ならもう少し鍛えた方がいいと思うよー。いや、ほんと余計なお世話だと思うけどね。でも、今みたいに倒れちゃうってなるとかっこ悪くて、彼女さんに嫌われちゃうかもしれないじゃん」
おうおう、酷い言いようだなこの男。
おせっかいなのか嫌味なのか、人の好さそうな笑みを浮かべながら綴られた言葉は、どこか敵意のフレーバーを仄かに香らせている。
なぜにそこまで言われなければならないのか。いや、そこまで言われるぐらいに、俺の運動神経が終わっているのは確かなのだけれど。ただ、それでも心外であることには変わりない。
俺が何をしたというのだ。
「そうは思わないかい、狐陽さん♪」
「……少なくとも、他者の欠点を露悪的に指摘する人間こそ、私は好きになれませんけどね。天空寺先輩」
……ああ、え? この人が、天空寺先輩?
改めて、俺は自分がぶつかってしまった男を見た。
清涼感溢れる美男子フェイス。筋肉質ながらも、威圧感のないしなやかな肉体。俺よりも遥かに高い背は190に行かずとも近い数値にあるだろうことが窺えて、その高身長を裏付けるように長い脚は男でも惚れ惚れするほどのかっこよさがある。黒を基調とした柄物のシャツ。短パン。銀色のチェーンネックレスにピアスを幾つか。見事に似合っている。俺と違って。着こなしている。
なるほど。彼が、天空寺先輩か。
サッカー部キャプテンの三年生。またの名を、俺を間男にしてクロバとの関係を噂されている男子生徒。
人の好さそうな笑顔を浮かべた彼は言う。
「ところで、狐陽さん。この後、お茶でもどうかな。僕は綺麗なものが好きだから、綺麗な人と一緒にお茶をしたいんだ」
「遠慮します」
これ以上ないまでのアプローチ。学園きってのイケメンからのお誘いだ。けれどもクロバは、嫌悪感を抑えることなく先輩からの誘いを断ってしまった。ばっさりと。
ああ、うん。クロバってイケメンとかあんまり好きじゃないもんな。
ナルシストとか、そういうの。
いや、それ以前にクロバはあんまり人が好きじゃない。
嫌いだ。好き嫌いどころか嫌い嫌いと繰り返すぐらいには、彼女は人が嫌いだ。
だから、天空寺先輩のアプローチもあっけなく断られてしまった。なんだか、可哀そうになってくる。可哀そうポイント1点だ。10点たまったら俺が同情して挙げるチケットを贈呈しよう。
「相変わらず、強烈だね狐陽さん。仕方ない。ここは僕が奢ってあげるとしよう。なに、これでもお金はあるんだ。好きなモノでも何でも頼むといい。スイーツとかどうかな。これから行こうとしてるお店で、ちょうど新作スイーツを提供してるところでさ」
ここで天空寺先輩、めげることなくアプローチ続行!
男の甲斐性を見せつけつる作戦に切り替えた! ヒュー! 女の子のわがままに付き合って挙げられる先輩かっこいいぞー!
「いやです。いりません。必要ありません。さようなら」
うん。好きなモノを頼んでもいいという言葉が悪手だったかな。クロバ、好きなモノなんてあるのかわからないぐらい、嫌いなものが多いから。そもそもクロバ甘いもの嫌いだから……。
「……」
ちらり、と天空寺先輩の顔を見てみる。
人の好さそうな笑顔を浮かべた、清涼感溢れる美男子だ。けれども、その笑みにはどこか罅が入ってしまったような暗幕がかかっていて、底知れぬ恐怖を感じてしまう。
それもそうだ。ここまでのアプローチを断られては、あまり気分の良いモノじゃない。彼が何を考えているなんてわからないけれども。ここまで取り付く島もなく断られてしまったら、俺ならマントルまで心が深く深く悲しみに沈んでしまうことだろう。そのまま突き抜けブラジルへ。傷心旅行である。
「うーん、困ったな……」
ぽりぽりと、天空寺先輩が右手の人差し指で右頬をかく。
「どうにも僕の誘いを受けてくれないみたいだ。なんでだろう。なぜなんだろうか。ここまでしてあげてるってのに、許容してあげてるというのに、なんで、君は、僕を、受け入れて、くれない」
がりがりがり。天空寺先輩の頬をかく指が爪を立て始めた。
「この服装がいけないのかい。それともこの背丈が君を恐怖させてしまったかな。いやいや、そんなことはない。そんなことはないはずだ。少なくとも、僕が、僕である限り、そんなことはないはずだよ」
……なにを、言ってるんだこの人は。
影がかかったように、彼の表情が虚ろに落ちていく。
「予定が違う。話が違う。調和がとれてない。君と、僕だ。自然であるべきだろう。ここは。断るだなんて。不自然でしかないはずだ。君は。なんで。僕の、誘いを、断るんだ」
がりがりがり。彼がかきむしる頬から血がにじむ。
「君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は、君は」
異常だ。僕はそう思った。
ただ、クロバは断っただけだ。ショッピングモールで、友人と遊んでる途中だっただけの彼女が誘いを断るだなんて、当たり前のことなのに――
「その辺にしてくれませんかね、先輩」
自然と、俺はクロバと天空寺先輩の間に立っていた。
「……」
天空寺先輩が、笑顔のまま俺を睨む。
対して俺は、睨み返すなんて高等テクニックを使えない。なのでただただ懸命に、ひたすらに言葉を重ねるだけだ。
「ナンパだったらクロバだって望むところでしょうがね。生憎と先客が居るんですよ。ちょうどさっき、成功したところでして。ええ、それこそ俺の舌先三寸が繰り出した口説き文句がバチコーンと決まったわけですわ」
天空寺先輩は何も言わない。
「つまりは先着順ってわけでして。いやはや、理不尽なのはわかりますよ。スタートラインがまるっきり違う。貴方は今で、俺はさっき。ハンディキャップっつーには校庭二週分は多すぎる差かもしれませんがね。ともあれ、先輩と俺の見てくれを比べたら月とすっぽん。お情けをかけてここは一つ許してほしいもんですわ」
天空寺先輩は何も言わない。
「まあなんと言いましょうか。ここは引き下がってくれませんかね。いえ、もちろん、嫌みとかでも何でもなく。お互いのためです。お互いのため。特に天空寺先輩には立場があるはずです。何があろうとも、ここはショッピングモール。人目を集めます。現に集めてます。なので、ここは、引いてください」
天空寺先輩は――
「宮村、大河、だな」
「……はい」
天空寺先輩は、俺の名前をゆっくりと呼んだ。
冷汗が落ちる。さっき、俺のことを高校生かどうかなんて確かめていたくせに、端から俺のことを知っていやがった。これが何の意味を持ってるかなんて見当もつかないけれど。
嫌な予感だけが、生ぬるく頬を撫でた。
「そう言うあなたは、天空寺翔先輩……ですよね」
「ああ、そうだよ。僕が天空寺翔だ」
売り言葉に買い言葉。鏡合わせに唱えた言葉が、果たして彼の何かを刺激したのか。生ぬるく感じた嫌な予感は解けて消えた。
虚ろに落ちた表情も元通り。さっきまでの威圧感はどこへやら、俺の目の前にはサッカー部キャプテンの美男子こと天空寺翔先輩しかいなかった。
さっきまでの天空寺先輩は、どこにもいない。
「ごめんね、狐陽さん。それじゃあここは、かっこ悪く引いておくとしようかな」
くるりと踵を返した天空寺先輩は、それだけ言い残してどこかへと立ち去ろうとする。やけにあっさりと。なんだか不気味なぐらいに。
そして何もないままに、その背中は人込みの向こうへと消えていった。それから俺は、すべての緊張を吐き出すように大きく息を吐いた。
そして一言。
「……なぁ、怖くねーかあの先輩」
まったくもって、不気味な先輩だった。噂に聞く限りじゃ、甘いマスクに人好きのする性格だとばかり聞いていたのだが、まったく別モノじゃないか。
「そう。だから嫌い。イケメンってところも人気者ってところもお金持ちってところも全部全部大っ嫌い」
天空寺先輩が見えなくなってからそう呟いた俺の言葉に、いつも通りの声色でクロバが返答した。
いやはや、まったくとんだ人気者が居たもんだ。それとも、少しぐらい闇があった方が男はモテるってもんなのかね。
「一つ訊くが」
「あによ」
「俺を連れてきた理由ってのは……あの先輩だったりするのか?」
「……まあ、そうね。ちょっと、付きまとわれてて……監視って言うのかな、あれ。ちょーっとヤバそうだったから、突いてみればみればこの通り。嫌になるわ。本当に」
ショッピングモールの人ごみの中へと消えて言った先輩の、もう見えなくなった背中へと未だ目を向けながら、なんとなく気づいていたことを背後に居るクロバに訊く。
帰って来た答えは肯定。まったくもって、めんどくさい星の下に生まれたものだと、クロバの運命に同情した。
「ようやく落ち着いたってのにな」
「ええ、本当に。まったくいい迷惑。……でもさ」
でも、と。もったいぶるように聞こえたクロバの言葉。続く言葉が聞こえてこなくて、何かと思ったその時。そっと、俺の背中に体温を感じた。
「――……間に立ってくれた時は、すごいかっこよかったから」
夏服の薄い生地越しに感じるクロバの体温。
聞こえてきた声は囁くように、俺の耳朶を揺らす。
甘い声だった。
むせかえりそうな甘さ。
思わず呑み込んだはずの記憶を戻してしまいそうな。
四か月前の、卒業式のあの日を思い出してしまうような。
そんな、声をしていた。
「クロバ――」
名前を呼ぶ。けれど、続く言葉を遮るように、俺の背中からバッとクロバが退散した。そして、気後れする俺の遅れた先手を奪うように、振り返った先に居た彼女は得意気に笑う。
「口説き文句、ね。いつの私に言ってくれた言葉のことなのかな」
「……言葉のあや、というものだ。俺の言葉が八割冗談で構成されていることなんてお前もよく知る所だろ。つまり、俺の言葉はすべてが口説き文句ってことだ」
「あはは、なにそれ」
「口説き文句なんて、冗談以上の何物でもないだろ」
笑う。笑う。笑い合う。
けれどもきっと、笑ってない。
ちょっとだけ寂しそうな彼女の笑顔に。僕は何も言うことができなかった。
選ばなかったから。
選びたくなかったから。
中学三年生の門出を祝福するような春先の後悔を。
強かに、彼女は僕に思い出させた。
どうか。
どうか。
臆病者と。
卑怯者と。
罵ってくれ。
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