第9話 菜々

母を心配させたままでは

仕事にならないので

僕はゴキブリに驚いて

ひっくり返ったという事にして

今日は疲れてるからと家に帰った


店を出てもまだ鼓動が早い

まだあの違和感の男の顔が脳裏に張り付いてる


違和感の男は消えた


僕は店を出る前にカウンター裏で

伝票の4名様という文字を確認した


「あのお客さん4人だったよね」

「え?ずっと3人よ」


という母の言葉から推察すると

この世界から存在とその記憶ごと消えたようだ


テーブルには確かに

あの違和感の男の分もグラスが残っていた

あの男と手荷物だけが綺麗に消えた


僕は時折周囲を警戒しながら

フワフワした気持ちで家に辿り着いた


「あゆむくーんっ」


僕はビクッとして振り返った

遠くで菜々が笑顔で

小さく手を振っていた


「お邪魔します」

菜々は礼儀正しく玄関を上がり

遠慮なく僕の部屋で寛いだ


なんとなく1人は心細かったので

菜々の突然の訪問を僕は喜んでいた


文月菜々は小学生からの

僕の大切な人だ

恋人では無いがお互いに特別な存在だ


時々ふらっと会いに来て

時々ハグやキスをする

僕は菜々にとって1番で

菜々は僕にとって1番だ


このかけがえの無い、形の無い関係は

菜々が恋をしても結婚をしても

これからもずっと続く


ベッドに寝転んだ菜々は

ぼーっと天井を見ている


僕は勉強机の椅子に座った

机には今は宝石デザイン関連の資料が並ぶ


「あゆむくんもこっちに来て」

「嫌です」

「…」

無言でこちらを睨み

菜々は足をバタつかせ

子供のようにふくれて枕を投げてきた


僕は短いため息をついて

菜々の隣に寝転んで

透き通るような白い頬に手を添えて

長いキスをした


幼い頃から可愛いと言われ続けた少女は

18歳になり超のつく美少女となっていた


潤んだ瞳にかかる綺麗なまつ毛

小さな鼻に美しい唇

全てから花のような香りを放つ


僕は目を逸らして天井を見上げた


「コンタクトにしたの?」

「うん」

「眼鏡がいい」


僕はむくっと起き上がり

黒縁メガネにつけ変えた


教室の中で静かに暮らす村人Aに戻った

久しぶりの眼鏡越しの世界だ


菜々の隣に戻った

「やっぱこっちの方があゆむくんだ」

菜々は満面の笑みになった


「あゆむくん、私アメリカに行くの」

「うん」


「びっくりしないの?」

「びっくりしてる」


「結婚するの」

「うん」


「びっくりしてるの?」

「うん」


菜々はけたけたと笑って僕に抱きついた

僕は抱きしめながら天井を見ていた


「どこに居ても私の一番はあゆむくんだよ」

「僕もだよ」


「死ぬまでずっとだからね」

「うん」


「それでも抱いてくれないの?」

「嫌です」


菜々はけたけたと笑いながら

足をバタつかせて僕を蹴ってから

僕に深いキスをしてきた


菜々からキスをしてきたのは

初めてだった

菜々は泣いていた


僕は心臓の半分を

引きちぎられるような感覚を味わいながら

菜々を強く抱きしめた





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