2-6. 16:00 疾走! 守山地獄



 ・


 休憩を終えて再びロードバイクで走り出す。

 全身の関節もまた同じ格好同じ姿勢になることでギシギシと軋みだす。20分程度の休憩では気休めにもならなかったか、右膝の痛みは変わる事なく心を苛んでくる。

 ペダルを踏みこまない事をずっと心がけてきたため唯でさえ遅い巡航速度は更に遅くなっていく。

 ロードバイクに乗っていると、それに関連する数字がおかしくなっていくものだ。

 距離、時間、あるいは速度。

 もちろん私だって例外ではない。遅い自覚も貧脚の自覚もある。だが、速いことに憧れが無いわけではないのだ。

 そのただでさえ遅い巡航速度が膝と体中の痛みで更に遅くなる。スタート当初維持していた20km/hを下回り、今では17km/hがせいぜいと言ったところか。いや、それでさえ執筆している私が美化した記憶かもしれない。

 痛みに喘ぎながらもいくつもの川を越えててく。

 この辺りは驚くほど自然公園や緑地が多かった。田畑が広がっているすぐ隣の区画が公園で、小さな住宅地の次に見えてくるのがキャンプ場で、といった具合に。

 傾き始めて柔らかくなった陽光に照らされながら走ると、程なくして左手側の湖面を横切る、大きく長い何かがあった。


 琵琶湖大橋。


 ついに――ついに、私はここまでやってきた。

 あの交差点で左折することを拒み、直進した。

 そして南湖をぐるりと回って、ここが、あの琵琶湖大橋の逆端だ。

 

 私はついに四年越しの、あの時のリベンジを果たしたのだ。

 交差点で嬉しさのあまりにダンダンとハンドルを叩いて右手を握る。

 橋を渡っていればわずか1.5km10分足らずの距離だというのに、南湖をぐるっと回って35km以上も遠回り。

 この遠回りこそ今回わざわざ琵琶湖まで来たの理由であり、得たのは右膝の痛みと私以外の誰にも全く価値のない達成感。

 でも、その達成感が欲しくて。どうしても欲しくて。

 それだけのためにここまで走ってやってきた。


「南湖、なんぼのもんじゃい」

 

 隣で並んで信号待ちをしていた男子高校生が私のつぶやきに不思議そうな顔をしていた。

 

 ・


 琵琶湖大橋を超えて更に2、3km進んだところに琵琶湖に面した公園がある。

 『サイクリストの聖地碑』という、ロードバイクを支えに脚を後ろに大きく上げる女性の銅像がそこに立っている。同じ敷地内に『BIWAKO』のモニュメントがあるその第2なぎさ公園はビワイチ勢だったら間違いなく立ち寄る場所だろう。私も例に漏れず立ち寄り、愛機を銅像に立てかけてパシャリと写真を一枚。

 ついでにBIWAKOモニュメントでも写真を一枚。


 体力と精神力と時間の余裕があれば、ここで一服したいところだった。

 この公園は琵琶湖に隣接する砂浜になっていて、休憩がてら足を浸したらさぞかし冷たくて気持ちよいだろう。

 でも、もう立って歩くことさえしたくない。というか膝をまっすぐ立てていること自体がもう痛いのだから、それどころじゃないのだ。よろよろとロードバイクを押して聖地碑を後にする。

  

 痛みを堪えペダルを踏む。

 このサイクリストの聖地から北側は自然豊かで、公園だけでなく湖水浴場も多数ある。

 滋賀県には海がないが淡海とまで呼ばれる琵琶湖がある。なので滋賀県民の夏のウォーターアクティビティと言えば先ずは琵琶湖で泳ぐことなのだろう。オートキャンプ場も多いので、そちらの趣味を持っている人であれば琵琶湖はとても楽しめる場所だろう。

 漫画『ゆるキャン△』では主人公の一人が原付バイクにキャンプ道具を積み込み、山梨静岡長野各地でキャンプを繰り返している。

 私はオートバイに乗っているもののキャンプ道具はもっていない。

 そこまでではなくていいから、折り畳みチェアとマグカップを持って行ってデイキャンプくらいはやってみたいと思っている。琵琶湖のほとり、さざなみを眺めながらのんびりとコーヒーを飲みながら過ごす時間はきっと豊かで、静かで、なんというか救われている事だろう。


 さて。

 激痛を堪えながらも走り続ける。 

 ここまでくればもう、修験道か何かの修行めいたことをやっている気分だ。成し遂げることができれば悟りを開けるとか煩悩を捨てることができるとかそんな特典は全くなくて、得られるのは自己満足だけなのだが。

 だから途中で面白そうな施設や場所があってもスルーだ。

 白と水色の水玉模様の建物が見えてくる。これがポタリングだったら一も二もなく立ち寄る面白そうな施設。「かねふく めんたいパークびわ湖」となんとも面白そうな、なんならここでお土産に明太子買っていきたい!(売っているのか知らないけど)と思ったけどこれもスルー。

 ビオトープ、カフェ、神社、史跡。全部スルーだ。

 気が付けば近江八幡市に突入していた。

 近江八幡城址への案内板、安土城址の案内板。どちらもスルー。

 安土城址にはいったことがあるが、近江八幡城はいったことが無いのでいずれば立ち寄ってみたい場所の一つ。

 

 勘違いしないで頂きたいのだが、修行めいた余裕のないビワイチをやっているのは私の独断と偏見の行為であって、ビワイチそのものは絶対に琵琶湖一周しなければならないというものではなく。むしろ琵琶湖を中心に周辺各地の観光を推奨しているものであり、初心者でもゆったり楽しめるコースがいくつも設定されているので、もし琵琶湖を自転車で巡ってみたいという方はネットでそういうコースを探してみることをお勧めします。少なくともこのエッセイはビワイチをするときに参考にするようなものじゃないよ?


 さておき近江八幡市を通るビワイチルートは、いったん琵琶湖湖畔を外れて広い田園地帯を抜けるルートを取っていた。

 私は長崎の出身である。坂の街長崎、なんて言われるくらい長崎市内には平地がすくない。長崎市内だけでなく、諫早周辺を除く県内全域がそんな感じだ。

 だからこの近江八幡の田園地帯のようにだだっ広くずっと向こうまで平坦が続く見晴らしの良い場所というのはそれだけで新鮮な光景だ。この道を南に向かって進めば西の湖という琵琶湖に繋がる湖があり、そのそばには安土城址がある。

 前述の通り私は安土城址に行ったことがある。

 小高い山の上に立てられた城であったため、天守跡地まではそこそこ長い石段を登っていく必要がある。

 その途中にいくつもの屋敷跡があって発掘調査がされているのだが、その一角に羽柴秀吉邸跡地もある。つまり、信長配下だった頃の秀吉の住居だ。

 こういった偉人の足跡をみるにつけて、ここが歴史の舞台だったのだと思う。

 地図で見てみると、安土城はなるほど、要衝と呼ばれる場所にあるのだと素人の私にもわかる位置にある。

 琵琶湖の東岸にあって水運に強く、京都にほど近く、東海道・中山道・北国街道に容易にアクセスできる位置。周辺は平地で遠くまで見渡せる安土山の上にあるため軍事施設としても優秀。

 本能寺の変ののち、安土城は火災によって焼失したが、かつては絢爛な施しのなされた華麗な城であったという。

 この天主からの展望を、信長や秀吉は一体どういう思いで眺めていたのだろうか。

 少なくとも当時は自転車なんてまだ南蛮にも存在していない時代だったので、そんなものに跨って琵琶湖を一周しようとした挙句、膝の痛みに悶絶して呻きながら走っている男がいるなんて思いもしないだろう。


 そう。近江八幡市に入った辺りで、私の膝の痛みは更にひどいものになっていた。

 西の湖の北側にある田園地帯を突っ切る通りに、野菜の直売所があった。

 もうすでに建物は閉まっているが、幸いにも駐車場は開いていたためお邪魔して、そのアスファルトの上に大の字で寝転がる。

 限界だった。

 ロードバイクのペダルを漕ぐために曲げ伸ばしする。そのたびに激痛が走る。

 かといって停まってバイクを降りるのも一苦労。痛みに耐えながらもなんとかバイクを降りて、建物に立てかけるのが精いっぱいだった。

 体力的な消耗も激しくはある。が、それは致命的なほどではない。疲労感はあるが、スピードを出していない分回復する量とどっこいといったところ。

 問題は右膝の痛みだ。


 常々、私は疑問に思っていた。

 例えばプロ野球のピッチャーが肘の痛みや胸の張りを訴えて降板・休場、なんてニュースを見る度に、


 「身体が資本のプロスポーツ選手は試合に出ないことには金を稼ぐことはできない。だというのにそれを承知で休むとは、一体どれほどの痛みなんだろうか?」


 と。

 その答えがこれだった。

 これほどの痛み、しかも動かすたびに激痛が走るのだとすればまともなパフォーマンスを発揮することはできない。いまなら5歳児と相撲を取って負ける自信がある。それくらい膝が痛いのだ。

 太陽が傾き、そろそろ夕暮れと言える時間だ。

 もちろん5月も半ばを過ぎて日は長くなっている。しかしそれだっていつまでも沈まないわけではない。

 昼間とは違ってどことなく優しい金色の夕日は、間もなく夜がやってくることを意味している。

 私はサイクルジャージの背中に放り込んでおいた防風ベストを取り出し、羽織った。最高気温が高くないお陰で苦労はしたが、消耗が抑えられたことはありがたかった。今度はまた気温が下がる。また寒くなる。

 疲労感のせいか食欲は無かったし喉が渇いているわけでもないのだが、無理やり補給食を齧ってドリンクで流し込んでおく。

 食欲がないからと言ってここで食べておかないと、日が暮れてからハンガーノックで動けなくなる可能性がある。

 そしてもうフラフラしかけているので、バイクで走りながら補給食を食べる自信が無かった。

 だからここで無理やり補給食を食べることは義務的なまでに必要な行為だった。

 ここからJRの路線までは5kmほど離れている。そこまでいかねばリタイアする事さえできないという状況である。


 残りは何キロだろうか。

 当然100kmも残っているはずはない。

 40km? 30km? きっとそれくらいのはずだ。

 気にはなる。だが調べることはしなかった。知れば計算したくなる。残り何キロ、何時間走ると計算して、思った以上に時間が掛かるとなれば心が折れると思ったからだ。

 10分が経過した。

 動きたくないという思いが全身に渦巻いている。

 しかし動かねばならない。すぐに夜が来る。寒くなる。暗くなる。それまでに少しでも走り出して距離を稼ぎ、身体を温めなければならない。

 こういう感情が強く拒絶しているがすぐにでも動き出さねばならないという状況下にあって、即行動を開始するためのちょっとしたコツがある。

 それは感情をオフにすることだ。

 もちろんそんなことは不可能だから、感情部分から肉体の操縦席にアクセスできないように切り離すイメージだ。

 感情を肉体コントロールから切り離しておくと理性で肉体を操作することができる。少なくとも感情に振り回されない分だけ起動が速くなる。感情は即物的な欲望が強いので、膝が痛いとか宿題が面倒だからとやりたくない行動を回避するのに全力で自分自身に言い訳をする。しかも人間は基本的にバカなので、なにかから逃げて楽になる言い訳に簡単に飛びついてしまうのだ。

 だからこういう意識を切り替えしなければならない時。

 私はパン、と両手を打ち合わせる。行動と音の二つで意識のスイッチを強引に切り替えるのだ。

 そして私は軋む身体と痛む右膝を抱えて、なんとかロードバイクに跨る。走り始める。

 次に休憩するとなれば、その時はもしかしたら走り出せないかもしれない……なんて笑えない冗談が脳裏に浮かんでくる。全く、洒落にならない。

 

 

 ・



 琵琶湖。

 滋賀県の中央部に位置する河川だ。

 県土面積の1/6を占めるというが地図上のインパクトでは1/2くらいはあるように見える。


 そして滋賀県の河川のほとんどが琵琶湖に流れ込む。

 

 そんな琵琶湖を一周しようとするとどうなるか?

 400を超える大小の川を、橋によって越えなければならないということだ。


 もちろん暗渠になっている場所も多いだろう。橋といってもほとんど道路で、大きくアーチを描いているとも限らない。コンクリブロックで蓋をしてあるだけで溝かと思ったら川だった、というような小さいものもあるだろう。

 

 だがこのフルビワイチ、確かに多くの川に掛かる橋を越えてきた。


 そして橋はその形状かが若干のアーチ状になっている事もまた多いのだ。

 何が言いたいのかというと、今現在の腱だか筋だかがブチ切れそうなほど痛むこの右膝で、私は橋のアーチを……ほんの十数mほどの坂を上らなければならない、ということなのである。

 目の前に、また橋が現れた。

 息を吸い込んでーー歯を食いしばる。

 踏み込む。

 右膝に激痛。呻き声が漏れる。無視してギアを操作し前スプロケットを軽くする。その途端脚にかかる反発力が軽くなってスカッとペダルを踏みぬいてしまう。

 橋の頂点部分からはほんの数メートル、わずか3秒足らずで駆け抜けてしまう下り坂。

 わずか3秒、されど3秒。

 気休めにもならない休みだ。だからといって、要らないなんて口が裂けても言えない。走行真っ最中にわずか3秒、膝を労わることができる。それがどれだけありがたいことか。

 いっそ右足で踏み込みスタートするのはやめようかとも考える。

 だが左足で踏み込みスタートするのはなにか、調子も拍子も狂ってしまう。

 もう肉体的にもいっぱいいっぱいの私では、細かいことを考えるのは難しい。なにせ頭の中には「右膝イタイ」の5文字ばかりしか浮かんでこないからだ。

 今現在走行することができているのは単に惰性で同じ動きをくり返すことを肉体に命じていて、それが実行されているというだけのこと。

 ここで今までほとんどやったことのない左足踏み込みをしようとすれば、もしかしたらロードバイクの乗り方そのもののリズムが崩れてしまうかもしれない。その立て直しにどれだけ痛みを我慢しなければならない? 

 長くどこまで続くかわからない痛みよりも、今来るとわかっている激痛を。

 一難去ってまた一難。

 橋を越えた先に、また橋がある。

 右膝の激痛に顔をしかめながら、乗り越える。

 小さな橋、大きな橋。それをいくつ越えただろうか。


 気が付いた時には、私はついに彦根市に突入していた。

 ゴールは間もなくである。

 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る