2-5. 15:00  フルビワイチの代償



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 どうりで国道1号線にブルーラインが引かれてねぇな……って思ってたんだ。

 まぁいいさ。そんな事今更気が付いてもアフターフェスティバル。それよりも前に進む以外に選択肢は存在しないのである。


 国道1号線を渡った辺りで周囲を見回すと、瀬田川の河岸にブルーラインが見えた。ガードレールにロードバイクを預けて休憩を入れる。

 寒いのは困る。身体は硬くなるし、汗冷えが激しくて体温維持に体力が奪われる。

 しかし暑すぎるのもまた困る。シンプルに体力消費が速くなるし、汗をかきすぎてドリンクを飲み過ぎると今度は腹を下すこともある。

 その意味で、この日の気温は理想的……というにはちょっと届かないくらいの温度だった。お陰でドリンクの消費が以外に少ない。まったく、ビワイチを始める前まではその気温の低さを心配していたというのに、蓋を開けてみたら都合が良いと喜ぶのだから全く現金なものである。


 琵琶湖東岸に渡った後はゴールの彦根城に向かって北上する。

 国道1号線が通る影響か、琵琶湖は南湖周辺の方が人口が多いイメージだ。

 

 少し進むと程なくして近江大橋が見えてきた。

 琵琶湖を渡るための橋は四つある。

 南から順に、瀬田川に掛かる唐橋、国道1号線、この近江大橋、そして私が渡らない事を選んだ琵琶湖大橋だ。その全てがこの南湖周辺に存在する。

 人の往来が多い場所に人口が集中するのはなるほど、確かに理屈である。


 しかしここは琵琶湖、日本最大の湖である。

 琵琶湖そのものが人々の生活に寄与する重要な水源である一方で、その恩恵にあずかる野生動物や水棲動物は数多く、自然環境保護の対象でもある。

 人々の生活と自然環境保護。そのどちらもの両立させる形ため、特に琵琶湖の南東部には自然公園や緑地が多かった。

 県道559号線を北上していく。この県道はスタート直後に走っていたさざなみ街道の一部だ。ついにここまで走ってきたのだ、この街道の先にゴールがある、という実感が湧いてくる。



 草津市に入ったあたりから湖岸周辺は農作地が広がり、その分交通の混雑度はかなり低い。

 また道路そのものが整備されて新しいアスファルトが敷かれているため走りやすい。

 

 何度か繰り返していることだが、自転車とは車輛の一種である。

 よって道交法的には自動車道路を走行することが望ましいとされる(当然その場合、ヘルメットの着用義務がある)。

 その一方で交通弱者もある自転車は、周囲の状況に応じて歩道に入っても良いともされる。朝晩の通勤帰宅ラッシュでバンバン車が走り回ってるのに、自転車が混じっていたら危険だし、事故が起これば誰も得をしないのは言うまでもない。

 また歩道には自転車が走っても良い標識が掲示されている場所も多い。

 いずれにしても自転車が歩道を走る場合は走行の方向は問わない(つまり左車線側の歩道を逆進してもよい)が、歩行者に配慮すること、速度を抑えること、歩行者に対して車道側を走行する事となっている。

 

 んで、このビワイチである。

 ビワイチには上級者向けで主に車道を走るファストコースと、初心者向けで主に歩道を走るスローコースがある。

 そ二つのコースは基本的に並んでいるが、場所によっては歩道と車道に分かれたり、スローコースだけ住宅地の走りやすい路地を通っていたりする。

 ロードバイクをガチでやりこんでいる人たちは40km/hで巡行する。本気になったらもっと出る。つまり冗談抜きで原付バイクに追いつき追い越すのだ。そんな人たちが歩道を走るのはそれはそれで危ないのだ。


 翻って私の脚力についてだが、正直アレだ。25km/hがせいぜいといったところ。それも短時間だというから更にアレとしか言いようがない。

 脱貧脚と呼ばれるのが30km/h巡行の維持というから、それにも全く及んでいない。しかもこのフルビワイチでは体力の温存のためにもペダルを踏まないということを徹底してきた。それでも疲労がないわけじゃない。すでに20km/hの維持すら怪しい。

 それならば歩道を走るスローコースを走るのがよい、ということになる。


 だが私はそれを選ばず、状況に問題がなければ、可能な限りファストコースを走っていた。

 歩道は文字通り人がその足で歩くための道である。舗装はアスファルトだけでなく、レンガの場合も多い。砂利が浮いていたり穴が開いていたりする。その保守が車道よりもされていないことが多いのだ。

 人間の足が持つ、足場の悪さを選ばないその走破性は非常に高い。多少穴っぽこが開いていようが、段差があろうが気にならない。

 一方でロードバイクはタイヤが細い。昔に比べて太いタイヤが主流になってきているとはいえ、ママチャリやマウンテンバイクに比べてその細いタイヤは、足場の悪さがもろに影響するのだ。

 ビワイチ事業の一環として、特にこのさざなみ街道は車道も歩道もきれいに整備されていた。

 だがところどころレンガ敷きになっている場所が気になる。時々ある緑地公園の入り口の境目にあるコンクリートブロックのちいさな段差が身体中に響く。そのわずかなガタガタが続くと大きなストレスになるし、速度もロスする。

 それを嫌がって私はファストコースを走っていた。速度が速ければガタガタは酷くなる。タイヤが細くて空気圧も高い(つまりタイヤが硬い)とギャップで生じる突き上げが強くなる。速度も遅くてタイヤが太いママチャリは走行快適性という点で意外にも評価が高いのだ。つまり、歩道を走るのに向いている自転車はママチャリなのである。

 そんなわけで速度が出せないくせに車道のファストコースを走っていた私だったが、歩道に入らないのはもう一つ理由があった。


「右膝……痛い……」


 ここまで140kmを超えて走ってきた結果、右膝に痛みを感じていた。

 わずかな段差を乗り越える度に衝撃が体中を反響し、右膝に集まってくる。


 

 ・


 

 プロのロードバイクの世界では、試合の最中に補給食を口にする他に例を見ないスポーツだ。

 私のようなアマチュアだってそうしている。ロードバイクで走りながらカロリーメイトを齧っているし、ゼリーを飲んでいる。

 それが可能なのは、サッカーや野球、あるいはバスケットボールのように全身で飛んだり跳ねたりしないからだ。

 サドルに座って脚だけ動かしている――というのはあまりにも極端な言い方ではあるが、サッカーに比べればそれに近いものがある。

 もちろん上半身が何もしていないわけではない。ハンドルを操作し、握る位置を変え、状況に応じて姿勢を変える。しかしそれにも限界がある。

 ずっと同じ体勢。ずっと同じ脚の動き。

 ここまで10時間近く延々とそれを繰り返してきたため、私の全身が悲鳴を上げ始めてきた。


 ビワイチにはヒルクライムらしい箇所がひとつしかない。

 ビワイチはそのほとんどが平坦である。


 登りが無いということは、下りがないということでもある。

 下りで脚を休めることができないということである。

 平坦であるということは、淡々と漕ぎ続けなければならないということである。

 ダンシングも必要ない。淡々とーー延々と同じ姿勢で、同じ脚の動きで。でないと止まってしまうから。


 そうして同じ動きを繰り返してきた結果が積み重なった結果、私の右膝は限界に至った。

 ペダルに脚を載せる、その重さで漕ぐ。関節が曲げられ、伸びていく。痛みが走る。


 琵琶湖の湖面がざわざわと揺れている。

 降り注ぐ日差しにきらきらと輝いている。

 水辺に敷かれた芝生の上で家族連れが遊んでいる。ふざけながら走り回る子供たち。

 植えられた木々が風に揺れる。

 水辺に生える草木の影に水鳥が浮かんでいる。

 美しい世界の中で、独り走る私は苦しんでいた。

 脚が、痛い。



 15:45、目の前に交差点が現れた。

 右に曲がれば道の駅。左向かいには琵琶湖博物館。そこで私の心の糸がプツンと切れた。

 右膝が痛い。のみならずずっと同じ姿勢だったため肩や左足の関節も固まって悲鳴を上げている。

 私はたまらずバイクを降りると、博物館入り口の階段にへたりと座り込んだ。ゆっくりと膝を伸ばしてみるーー激痛。


 痛みを感じるのは、右膝の裏側にある、膝を曲げると強く浮き出る両側の筋だ。素人がネットの画像を見て調べたので間違っているかもしれないが、おそらく大腿二頭筋と半膜様筋・半腱様筋の膝側の接続部である。

 これら三つの筋肉はまとめてハムストリングスと呼ばれ太もも裏側全体を覆っており、伸縮することで膝の曲げ伸ばしをコントロールしている筋肉である。そこが悲鳴を上げている。

 ヘルメットを脱いで階段に体を預けた私は、家電や自動車の耐久試験のテレビCMを思い出していた。「わが社の製品は厳しい耐久審査基準をクリアしており……」というナレーションの後ろで冷蔵庫のドアをパカパカ開け閉めしたり自動車が土砂降りよりもひどい水をぶっかけられて水漏れが無いか見られているアレだ。

 私の右膝は、ここまで10時間にも及ぶその厳しい耐久審査をクリアできずに不合格を言い渡されたらしい。

 自動車や冷蔵庫なら不具合が出たパーツを交換したり、なんなら丸ごと買いかえればよい。

 しかし、膝である。

 ガコッと取り外して交換なんてできるわけがない。そもそも売ってないし。

 膝を動かすと痛みが走るので中途半端に曲げたまま動けない。

 痛みから気を逸らしたくてスマホを弄り考える。


 右膝の痛みに対して左膝はなんともない――少なくとも今のところは――のはなぜなのだろう。


 少し考えて、その理由はすぐに思い至った。


 多分だが、日本で自転車に乗っていて停止する場合左足を地面に着くことが多い……と思う。

 海外では違うかもしれない。なぜなら日本では自動車は左車線走行で、自転車はさらにその左端を走るのだから、停止する時右側に傾くと危ないからだ。

 そうなると信号停止からスタートする時は大体右足からペダルを漕ぎだすことになる。

 また私の場合右が利き足だからか、坂道やダンシング、加速のために踏み込む際にも右足から始めることが多い。左でそれができないわけではないが、意識しなければ基本右足に頼ってしまうわけだ。


 自転車、自動車、あるいはバイク。荷車でも、何か荷物を抱える時でもいい。

 重たい物が動き出そうとする時が一番パワーが必要になるというのは誰もが経験上わかることだと思う。

 その次に加速しようとする時もまたパワーが必要になる瞬間だ。

 自転車の場合、そのパワーを出すための負担は膝が受け取ることになる。


 あるいはハンドル操作。

 自転車は後輪を回転させることで、車体全体を走る乗り物だ。

 なのでペダルを踏みこむタイミングとハンドル操作は連動させることになる。


 いくら一定のリズムで、そして可能な限りペダルを踏まないようにしていたってそれがゼロになるわけではない。

 地面の障害物を避けたり、小さな段差を乗り上げたり、もちろん信号停止からスタートする時と、ペダルを強く踏み込む場面は無数にある。

 その無数の踏み込みを右ペダルで行っていたのであれば、この右膝ばかり痛むというのも納得だ。

 納得したところで痛みが軽減されるわけじゃないし、残りの距離が短くなることもない。

 

 二十分ほどの大休憩を取って、右足を引きずりながら再び愛機エモンダに跨る。

 パチンと音を立ててペダルに嵌るビンディングシューズ。

 その音が拷問器具に自分で自分を縛り付けたかのように思えてしまう。

 いっそのことリタイアしてしまおうか。そんな弱気が頭に過ってしまうが残念なことに、リタイアするためにはルートを外れて3kmほど走らなければJRの最寄り駅にたどり着くことができない。

 それにここでやめてしまえば、どうせ後悔がずっと心に残って、また琵琶湖にまで来なければならなくなるだろう。私はそういう人間だ。

 だったら逃げるために走るのもゴールに向かって走るのも余り変わらないな。


 後ろに向かって前向きという実に不思議な精神状態。

 こんなことを自発的に行っているのだから、実に度し難いと自嘲しつつ私は前へと向かって走り出した。

 

 

 

 

 

 


 

 

  







 

 

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