2-4. 14:00 大津市 この交差点を直進するために
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ようやく見つけた食事処はうどん屋さんだった。
もう映えとかそんなん気にしてる場合じゃない。サイクルスタンド――琵琶湖周辺はコンビニですらスタンドを用意している場合が多い――にバイクを預けて店内に飛び込んだ。
そして頼んだうどん定食、その出汁を啜った瞬間は中々言葉に表せない感動であった。
鰹と昆布の合わせ出汁が身体に、心に染み込んでいく。
コシのある麺が喉を滑り落ちていく感覚。
付け合わせの沢庵の奥ゆかしい甘しょっぱさ。
そうか、うどんとは……太陽と大洋の恵みそのもの……。
ああ、内陸県なんて嘘だ。滋賀県には、この器の中には確かに海が、ある……(錯乱) 。
ロードバイクとは不思議なスポーツだ。
プロの競技中にドリンクだけでなく、固形物を摂取するなんて他にはない。カーリングだってあれは作戦会議中の事だしね。
基本的にサドルに座り、上半身を大きく動かさないからできる事なのだそうだ。だから私もここで腹一杯食事ができる。もしこの直後にサッカーみたいに飛んだり跳ねたりなんかすれば即リバースである。
ん? もしかして逆か?
飛んだり跳ねたりしないから競技中にモノを食べることができるし、そうやって途中途中でエネルギーを補給するから、100km200kmを走ることができる。走る羽目になる。
自業自得とはまったく罪深いことだね!
そんな汚話はさておいて、この後の事である。
時刻は13:30ほど。
ここまでの走行距離は101km。
概ね半分の行程を消化してこれから後半戦という状態だ。
キリも良いし昼食を挟んでリフレッシュ。
ここで食事というのは意図したものではなかったが、かえって都合が良かったかもしれない。白髭神社の辺りで食べる事ができなかった時にはどうしたものかと思ったが、何がどう転ぶかわからないものだね本当に。
昼間となって気温はさすがに22℃となっていた。ここから先は大津の市街地で、自動車の排気温なんかもあるから体感としてはもう2、3℃高い様に感じるだろう。
私は防風ベストを脱ぐと、適当に丸めてサイクルジャージと背中の間にそれを放り込んだ。
50km 100kmと長距離長時間移動するロードバイク。時刻も変われば地域も標高も変わる。つまり
気温も天候も昼夜も変わる中を走り回るので、
寒ければ着込んで暑くなったら脱ぐ。深夜に走るなら反射ベスト。雨が降ったら防水ジャージ。
脱いだものはこうして背中に放り込んでおく。誰が考えたのか知らないが、素晴らしい発想だ。
心身ともに回復した私は、再び愛機エモンダに跨った。
ようやく半分、されど半分。
後半戦の始まりである。
・・
琵琶湖を二つに分けるなら、北湖と南湖ではなくて、湖東と湖西のような分け方が滋賀県民にとっては一般的なのだろうか。
近くを走るJRも湖西線と銘打たれていることからわかるように、現在地は琵琶湖西岸である。住所でいうならばすでに大津市。滋賀県の県庁所在地である。
地図で見るとよくわかるが、大津市は山をひとつ挟んで京都のすぐお隣である。
高く切り立ったような山が南北に長く続き、その斜面と琵琶湖に挟まれて存在するわずかな空間に広がる市街地。南下するほどに建物の密度も密集度が高くなっていく。その分往来も多くなってくるので、車道を避けて歩道に入る場面が増えてきた。
以前ロードバイクショップの店員さんとビワイチについて話をした時、「大津市をベースにしない方がいい」と言われたことがある。
一周して戻ってくるということは、そこがゴールだ。夕方の帰宅ラッシュに大津の都心部を疲れてヘロヘロになって集中力がガタ落ちの状態で走るのは危ないという理屈だ。
当時は三重県四日市市、つまり滋賀県の東側に住んでいたこともあって、アクセスのしやすさからも長浜市をお勧めされた。まだ元気で日中のうちに大津を抜けることができるから。
こうして今、車両の往来がだんだん激しくなってく大通りを走っていると、そのアドバイスが的確だったということがよくわかる。
無理をしないのが今回のフルビワイチのテーマである。当然車道を無理に走ろうとも思わない。
そうして速度を落としながら進んでいくと、大きな交差点のブルーの案内板にあの文字が見えた。
左折 琵琶湖大橋
ドクン、と心臓が跳ねる。
琵琶湖大橋は文字通り、琵琶湖に掛かるでかい自動車道路橋だ。
自動車は有料だが徒歩と自転車は無料で通行できる。
この橋を境に北湖と南湖と分けているらしく、地図で見てもそこが海峡のように、陸地に挟まれて湖が細くくびれている部分だ。
そして前回、ビワイチの途中で脚攣りしてしまった私が渡った橋である。
実際のところ、どうだっただろうか……と考えた事がある。
あの時の私にはフルビワイチはまだ荷が重かったのではないか。脚攣りは決断のきっかけではあったが、それが無くてもあの時の私は、この琵琶湖大橋を渡るべきであったのではないか、と。
歴史にたらればは存在しない。
事実のみが存在し、結果が積み重なって今に至る。
交差点の信号で止まり、深呼吸をする。
そう。この交差点だ。この交差点なのだ!
この交差点を直進するために!
私は貴重な休みを費やして、わざわざ彦根で前泊して。
ロードバイクで100km以上も走って、ここまでやってきたのだ!
脚はどうだろう。攣りそうか?
大丈夫。ずっと抑えてきたから。
体力はどうだろう。息が上がって動けないか?
大丈夫。気温が高くなり過ぎないお陰で、十分に温存できている。
ロードバイクにメカトラブルは無いか?
大丈夫。パンクはしていないし、リアディレイラーの動きも。昨日の自転車屋さんに感謝だ。
ずっと無理をせずに走ってきた。
唯一のヒルクライムをすら避けてまで、スタートからずっとここまで。
信号が青になる。
私は交差点を直進する。
前回できなかった無理をここで押し通すために。
もしかしたら、あるいはようやくというべきだろうか。
ここまで走ってきたのはただのビワイチ。
この瞬間、ようやく、私のこのフルビワイチ・リベンジはスタートしたのかもしれない。
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数キロ進んだところでコンビニで小休憩を挟んで、ルートを進む。
市街地を走っていると、案内板に「坂本城」の文字が見えた。
かの有名な明智光秀が居城としていたお城である。
その縄張りは琵琶湖畔から大津市街まで広がっており、比叡山に近く、白鳥道と中山道と二つの主要街道の抑えとして機能していたという。
琵琶湖自体が水運においても重要であることは言うまでもなく、また山をひとつ越えたところに京があることも考えれば、私のような素人だってこの坂本城が軍事・政治・経済において非常に重要な拠点であったことなど直ぐに思い至る。
となれば織田信長にこの坂本城を任されていた明智光秀は信長にとって腹心の部下であり、その信頼がどれだけ篤いものだったのかというのも伺える。
だというのに、光秀はどうして本能寺の変を起こしたのか。
日本史をにおける大事件、その動機は未だに解明されていない。
坂本城は当時、安土城と並び称されるほど荘厳なお城だったとルイス・フロスが記している。
しかし本能寺の変のあとに起きた秀吉の中国大返し、そして生じた山崎の戦いで明智光秀が敗れたと知った腹心・明智秀満によって火を放たれて消失したという。
歴史にもしもはない。
しかし、もしもの歴史を考えてしまうのもまた歴史の面白さである。
もしも明智光秀が山崎の戦いで秀吉に負けず、三日天下に終わらずにいたら。
明智光秀が織田家の実験を握っていたならば。
安土桃山時代ではなく、安土坂本時代、なんてよばれてたのかもしれない。
そうはならなかったこの世界。
兵どもが夢の跡――今は企業の敷地になったり、市街地になったり、公園となってしまったかってのお城で、明智光秀は一体何を思っていたのだろうか。
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坂本城址の公園を越えた辺りから大きな建物が増えてきた。
琵琶湖大橋の辺りが大津市の繁華街に当たるのであれば、この辺りはビジネス街だろうか。
また特徴的なデザインの高級ホテルが立ち並び、湖畔に広がる公園には多くの人々が憩いのひと時を過ごしている。
それらの間を縫うように引かれたブルーラインを走っていくと、ついに国道1号線に行き当たった。
青看板を見上げると、片方に京都の文字。もう片方には四日市の文字。
四日市市に住んでいた時、国道1号線は徒歩圏内であった。
この道路を進んで行けば京都に至り、逆に辿っていけばあの頃住んでいた街に至る。
父の仕事の都合もあって、私は幼いころから長崎県内を何度か引っ越したことがある。
県外の大学に進学してからも何度か。
日本人の引っ越し回数は平均で3回というから、私はそれよりもかなり多くの回数引っ越していることになる。
だから私にとって遠くの街に行くことは慣れたものだが、かつて居た街に続く道路、というものはとても珍しいものだった。
言葉にすると難しい。ずっと昔に読んだ文庫本を久しぶりに開いてみたような感覚。
あの頃と同じ部分と違う部分を照らし合わせているかのような気分になる。
そんな思いを抱きながら、私は琵琶湖の最南端、国道1号線を通って。
琵琶湖の東岸へと渡ったのだった……。
って、今調べて知ったとばってんがさ。
国道1号線のちぃと南んがたに、瀬田の唐橋っつぅやっちゃ知られっと橋があっとってね。
そい橋は夕景でも有名な景勝地げなさ。
そがんやったら国1ンほうじゃのうてからさ、そん唐橋ンがたが正しかフルビワイチんルートちゃっなかとね?
琵琶湖の北端では賤ヶ岳のルートを外れて南端では唐橋のルートに気が付かず。
まったく締まらないことだわよ!!
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