2-2. 8:00 奥琵琶の戦い


 ・


 『奥びわスポーツの森』はその名の通り運動公園らしい。

 奥の方にはテニスコートやグラウンドがあるようだが、そちらをのんびり見て回っているわけにはいかない。

 辺りを見回すと建物の影にベンチとサイクルスタンドが置いてあった。トイレを済ませた私は、ありがたくサイクルスタンドを利用させてもらうことにする。


 琵琶湖はその全域で、サイクリングを推進している。

 例えばビワイチのコースにはブルーラインが引いてあるし、それも上級者用のファストコースと初心者用の低速車コースの二種類もだ。豊公園の辺りで気が付いたように自転車用の道路拡張も進めている。

 こういった県の事業としてもだし、ホテルや旅館の宿泊コースにはサイクリスト向けのサービスがあったり、コンビニやこういった公園でサイクルスタンドや空気入れが用意してあったりと実にありがたい。

 琵琶湖は言うまでもなく滋賀県最大の観光資源なのだが、それをサイクリスト向けにも利用している。

 サイクリストはことある毎に何かを一周したがる性癖を持つ生き物だ。それが日本一の琵琶湖であれば言わずもがな、という奴である。

 滋賀県はサイクリストに来県してもらってお金を落として欲しい。

 サイクリストは安全にビワイチに挑むことができてありがたい。

 WIN-WINというやつである。

 その恩恵に私もこうして預かっているわけだ――ロードバイクは繊細なメカを搭載しているので、サイクルラックに預けることができるのであればストレスが無くて良い。

 ベンチに座って補給食をドリンクで流し込む。コンビニで買った四個入りのクリームパン。もぐもぐとしながら現在位置と時間を確認。

 20km/hでおよそ1時間と、現時点で全くの予定通り。脚も身体もロードバイクも今のところ問題ない。

 天気アプリを確認する。気温はまだ低い16℃、雨の予報は無いものの、天気は見ての通り曇りである。


 改めて地図を見る。

 『奥びわスポーツの森』の文字が示す通り、この辺りから奥琵琶と呼ばれる地域に入る。住宅地は減り、田畑が目立つ……更に言えば琵琶湖周辺でも珍しい山に近いエリアである。

 その中でも、ひと際目立つ地名がある。

 賤ヶ岳。

 織田信長が本能寺の変に倒れた後の織田家における主導権を争う羽柴秀吉と柴田勝家が雌雄を決した古戦場である。

 この賤ヶ岳の戦いで勝利した羽柴秀吉は大きく勢力を伸ばし、やがて天下人へとなりあがっていく……そういう場所である。


 再び私はロードバイクに跨り、走り出す。

 賤ヶ岳はビワイチ序盤の、そして最大の難所だ。

 繰り返すが琵琶湖は湖。つまりその周辺を一周するビワイチのルートは平坦地が殆どだ。

 その中において賤ヶ岳はルート上二か所しかないヒルクライムなのである。


 これから私はその、ビワイチ最大の難所に挑む……!



 ・



 琵琶湖沿いにあるトンネルを抜けると、今度は湖畔から離れて田畑の中を走るルートになる。

 ビワイチルートはずっとブルーラインが引いてあるので、それに従って走っていけばよいので、その意味でビワイチは非常に親切だ。知らない土地で道に迷うというのはロングライドにあって避けたいトラブルの一つ。その心配が無いというだけでどれだけ心強いか。

 そんなことを思いながら走っていると、案内板が立っていた。


 直進 国道365号線へ接続 福井県敦賀方面

 左折(奥側) 県道514号線 賤ヶ岳ビワイチルート

 左折(手前側)国道303号線 賤ヶ岳トンネル


 賤ヶ岳は古戦場として有名であるだけでなく、余呉湖という琵琶湖の周辺湖を一望できる景勝地であり、ハイキングコースも準備された山である。

 そしてこの賤ヶ岳を登るのがビワイチのルートだ。

 一方、山の中を貫通するバイパストンネルも存在する。自動車の多くはこちらを通る。敦賀方面に抜ける主要な国道だから、旧道である賤ヶ岳越えのルートは不便だったのだろう。実際前回賤ヶ岳を越えた時は、短い距離で一気に標高を稼がないといけないルートのため非常に斜度の高く、曲がりくねった登り坂に苦労した覚えがある。


 すう、と大きく息を吸って。

 吐く。

 

 さぁ、越えてみせよう賤ヶ岳。

 

 私は左折し。

 暗く長いトンネルを抜けて。

 ブルーラインの引かれた旧道と合流し。

 賤ヶ岳を越え……いや、避けた。


「ちょ、ちょちょちょ、ちょい待ちィや! なんや避けたて!? ここは困難を乗り越えたって『やったぜ俺は!』てぶち上げるとこやろ!?」


 え、なんですか急に。っていうか誰ですかあなた。


「誰て。そりゃ賤ヶ岳に決まってんでんがな! フジイチの籠坂さん時みたいにヒィヒィ言うとる兄さんに絡んでビクンビクン(脚攣り的な意味で)ってやる予定で控えとったっちゅうねん! って言うか、平坦メインのビワイチじゃここしかヒルクライムあらへんねん! 序盤最大の山場にして見せ場やろ!?」


 えー? ヒルクライム?

 いや、まだ50kmしか走ってないのに、序盤で脚を使い切るとかないから。

 俺の目的は賤ヶ岳じゃなくてビワイチだから。

 抜けるとこはちゃんと抜いて温存するよ。当然でしょ?

 

「抜……はぁーーーーーーーッッ!?」

 

 トンネルの中は難関だった。

 暗いし寒いし急遽購入したライトじゃ光量ちょっと足りなくて。歩道部分は狭いから走りにくいし。

 いやあ大変だったね!

 

「ちょ、兄さ……大変だったで済ませんといてぇな――え? お終い? ウチの出番、これでお終い!? 酷ない!? ウチの扱い酷すぎひん!? アホな!!」


 ああ、このあとちょろっと登りがあるから、ヒルクライム要素はそれで充分かな!


「このどアホーーーーッッ!」

 

 ふう。

 賤ヶ岳、あなたもまた強敵だった……!

 きっと忘れないよ。3日くらいは(笑)。




 ・・



 強敵との戦いは苛烈を極めた。ような気がするがここに記すにはこの余白は狭すぎる。

 というのは冗談として。

 賤ヶ岳を避けてトンネルを抜けたというのは本当。

 今回のフルビワイチにおいて、わずかに道に迷った以外で意識してブルーラインから逸れて走ったのは、唯一この賤ヶ岳トンネルだけだった。

 

 繰り返しになるが、ビワイチのルートは本当に、殆どが平坦ばかりで賤ヶ岳が唯一のヒルクライムと言っていいほどだ。

 その唯一を回避した。

 それだけ私にとって、フルビワイチというのが強敵であったことの証左である……というかまぁ、私の脚がアレ過ぎるだけなのだが。

 

 この判断が正しかったと確信できるのは、およそ5時間後のことである。

 その時の私は、地獄の真っただ中に居た。



 ・


 

 5時間後の事はさておき、時刻は10時を回る少し前、だろうか。

 私は奥琵琶と呼ばれるエリアの中でも、最も奥まった場所ーー海津大崎と呼ばれる辺りを走っていた。

 小さな峠を越え、同じく小さなダウンヒル。登りの途中で二人組のローディに抜かされる。彼らもビワイチの最中だろうか。

 西浅井大浦という集落を越えると、県道557号線に入る。

 ここら辺は奥琵琶地域の中でも更に奥まった場所になり、湖面にせり出した山肌と湖のすぐ間に道路が通っている、というような場所だ。道路幅も自動車がようやくすれ違うことができるかどうかというような細い場所も多い。

 だが、琵琶湖の畔を走る絶景の快走路でもある。

 ロックシェードのようないくつかのトンネルを抜けたところに朱塗りの鳥居が見えた。

 大崎寺という寺院があって、このお寺と周辺道路は桜の名所らしい。確かに琵琶湖の湖畔にあって長く続く桜並木はさぞかし美しい眺めだろう。

 それを抜きにしてもここは集落から離れた場所である。キャンプ場や湖畔の釣り場があるらしく、琵琶湖の緑とさざなみを全身で楽しむことができる。

 

 ビワイチを厳密に規定するならば、琵琶湖を一周する行為だ。

 だがビワイチはそればかりが楽しみではない。琵琶湖周遊ポタリングのおすすめコースもいくつか紹介されている。四月になったら、この辺りをゆっくり走り回るのもいいかもしれない。

 

 そんな事を考えていたら、目の前にサルの親子が現れた。

 ニホンザルの雄と雌、そして小さな子どもの計3匹。子ザルは岩肌に飛びついて遊んでいて、見ていて非常にほほえましい光景だ。


 しかし、私はその光景を見た瞬間警戒心をマックスにした。

 テレビや動物園で見ればかわいらしくほほえましい光景であっても、現実に行き当たればそれは野生動物との遭遇だ。

 奥まった自然豊かな場所とはいえ、人間の活動領域。

 よろしくないキャンパーや釣り人の捨てていったゴミを漁っているならば人間が餌になるものを持っていると学習しているかもしれないし、子育て真っ最中であちらの気が立っているかもしれない。

 繰り返すが、このニホンザルは野生動物だ。

 人間以上の握力、雑菌だらけの爪。襲われるかもしれない恐怖ーー。


 私は必要以上にスピードを出さず、しかしギアを落としていつでも加速できる状態でサルの親子の横を通り抜ける。幸いにもサルたちは岩壁側に寄っていてくれたので、道路幅いっぱいの距離を取ってやり過ごすことができた。少し走って追いかけてくる気配が無いことを確認し、ようやく気を抜く。

 

 自然豊かなのは良い事だし、野生動物を必要以上に駆除しろとは思わない。

 だがこうして、自分がというのは強いストレスだ。今回は幸いにもロードバイクという、いざとなれば逃げることができるだろう装備に跨っていたからよかったものの、徒歩では絶対に会いたくはない。


 それから少し進んだところで小さな、しかし確かに見覚えのある墓地があった。


「ここだ……!」


 感慨深くつぶやく。

 前回ビワイチに挑んだ際に、脚を攣ってしまい休憩を余儀なくされた場所だ。

 敷地内に東屋があって小一時間ほどストレッチと補給を食べて寝て過ごした場所だった。

 元よりロングライドで数十kmを走るというのは人体に強い負担を強いる行為だ。身体を痛めつけて回復し、その繰り返しで消耗していく。

 そこに脚が攣ってしまうという決定的にひとつの限界ラインを突破してしまう行為が起きてしまうと、直後はかなり脚をかばって走らなきゃならなくなる。

 

 前回の私は何もかも未熟だった。

 

 睡眠不足に加えて、もったいないからと補給をケチった。憧れにして聖地琵琶湖を走るのだと勢い任せに突っ走って、平坦ばかりだから速度も乗るのでペース配分も何もない。しかも直前には賤ヶ岳を越えている。

 脚が攣って当然。長浜をスタートしてヒルクライム込み30km、むしろここまでよく持ったとさえ言える。

 そして私は前回フルビワイチを諦めたのだ。

 

 それを踏まえての今回のフルビワイチ・リベンジだ。

 酒を入れてまで睡眠時間を確保。補給食を惜しまない。賤ヶ岳は回避し、ペダリングには力を込めない。

 ここまでの平均速度だけでいうならば前回の方が上だっただろう。

 しかしどちらが余裕があるのかと言えば、比べるべくもない。

 

 前回を乗り越えた……!

 その実感を持って私は東屋の前を通り過ぎる。 

 

 大崎の県道557号線を走り抜けるとセブンイレブンがあった。

 ここで二度目の大休憩、ドリンクの補給を行うことにする。

 走行距離はざっと50km。全体の1/4を終えたことになる。奥びわこスポーツの森から小休憩を挟んだことで体力的に問題はないが、肉体的にはちょっときつい。

 やはり長時間ロードバイクに跨っているということで、身体が固まってしまうのだ。特に脚の筋肉はそれが顕著で、同じ動作を何千回と繰り返したことで関節の可動域が変なことになってる。

 気温はようやく上向きになってきたものの、それでも20℃に届くかどうか、と言ったところだ。

 天気は重たい雲が見えてはいるが、東の方向では晴れ間も見える。とりあえず降ることはなさそうだ。


 ストレッチを繰り返して身体の関節を解しているとローディ二人組がやってきた。

 大崎寺の辺りで写真を撮ったりしていたので、途中で追い抜いてきたのだ。

 彼らは地図確認しながら交差点を指さしている。ここで左折するのがビワイチルート、右折すると山間部を抜けて福井県敦賀に向かうルートになる。

 彼らは右折を選んで進んでいった。同じビワイチチャレンジャーかと思っていたら、どうやら違ったらしい。

 彼らはどこまで行くのだろう。敦賀まで? それとも途中のどこかに目的地があるのだろうか。

 滋賀県の人だろうか。それとも私と同じような来訪者だろうか。

 全くわからない。

 彼らと私はたまたま同じ日に、同じ時間帯に、琵琶湖の湖畔の道を同じ方向に向かって走った。同道したわけでなく、ここから行く先すら分かれてしまう。

 ただのすれ違っただけの人たち。

 でも、彼らが無事に目的地に到着して、無事に家に帰りついて、今日この日を楽しく過ごしてくれるのであればいいな、と思った。









 

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