前日編
1-1. トラブル二乗
・
5月19日(日)。
仕事を終えて帰宅すると、私は「ほへぇ」と気の抜けた息を吐いた。
明日から三連休である。休みを貰えるというのはありがたいことだが、三日間職場を離れるということで、事前の準備や前倒しでしておくことがあって、それらを片付けるのに大忙しだった。
しかし苦労した甲斐はあった。
仕事の引継ぎを十全に終えたことで心残りはない。何の不安も心配もなく、私は三連休に入ることができる。
晩飯を食べながら、さて、と改めてGooglMapを眺める。
ネットの地図は現在地と目的地を打ち込めば簡単に移動ルートを出してくれるので非常に便利だ。
今回の岐阜県多治見市から滋賀県彦根市までの移動ルートは、一旦岐阜を出て名古屋に入り、再び岐阜の西側へと入って滋賀県入りという流れで、名古屋、大垣、米原で計三回の乗り換えだ。
多治見からは、長野と愛知(というか名古屋)を結ぶJR中央本線以外にも、岐阜県の南側をぐるりと回って岐阜市に向かうJR太多線というのが走っているのだが、いかんせん距離が長いうえに時間がかかる。
多治見市から県庁所在地である岐阜市に電車で向かうには、快速に乗って一度名古屋を経由する方が早いのだ。
こういった交通事情を見るあたり、如何に名古屋という大都市に経済と流通が集中しているのかよくわかる。
多治見から彦根までは名古屋経由で、ざっと2時間半。
三連休初日と三日目は完全に移動日と割り切っている。なら、お昼の電車に乗れば、三時ごろには彦根に到着している計算だ。
となれば急ぐ必要も無いし、仕事で疲れたので今夜はゆっくりしよう。
準備は明日の朝にしよう。二泊三日の野郎一人旅だ、準備と言ってもたかが知れている。なにも人跡未踏の秘境を目指すわけではないのだから、何か忘れたとしても彦根で購入すればよい。
それじゃ早めに寝ましょうかね……と布団に入ろうとしたところで気が付いた。各種ライト類の充電をしておかねば。
自転車は、道路交通法上軽車両である。
なので公道を走る際には ・ライト ・反射板(テールライト) ・ブレーキ の三点セットが装着義務とされているし、『警笛ならせ』の標識がある場所ではベルを鳴らさなければならない。
というわけで私もライトとテールライトを持っているわけだが、それらはUSB充電式なのである。
予備も含めて計4つ。あとはBluetooth式のヘッドホンとモバイルバッテリー、スマホももちろん充電しなければ。
ここ何年かで、電池内蔵式の機器はなにもかもUSB充電になったなぁと思う。
電子加熱式タバコもUSB充電式だ。ヘッドホンもタバコもコンセントに繋ぐ時代。
タバコはもう、煙草とは書かないのだろう。
二十年前、煙草にメンソール配合やらライトタイプやらが販売されるようになった頃、「こんなもん男が
あの頃から見て、なんとも不思議な時代になったものだと思う。「そのうちタバコをコンセントに繋いで充電する時代になりますぜダンナ」なんて言っても、当時の人々に信じてはもらえないだろう。
さておき電子機器類をコンセントに繋いで、本日は就寝でござい。
おやすみなっせ~ zzzz
・
翌朝。
休みの日に惰眠を貪るのはちょっとした贅沢だ。
旅行の予定といっても一人旅。要は今日中に彦根にたどり着けばいいし、何も一日一本しかバスが来ないような秘境に行くわけじゃない。
のんびりと準備しても夕方にはあっちに着くと考えればとても余裕のある日程だ。
あくびを噛み殺しながらシャワーを浴びると、着替えて外に出る。近所の郵便局でお金を下ろし、コンビニでサンドイッチを購入。
モサモサとサンドイッチをコーヒーで流し込みながら、天気予報を確認。
懸念していた通り、ビワイチ挑戦の明日は気温が低くなるようだ。曇りのち晴れ、最高気温、21℃。
うーむ。予想通り雨を降らせていた前線は移動してくれたのはいいのだが、これだったら予定を前倒しにして、今日の挑戦にしていた方が良かったかもしれない。だがそれだと疲れ切っていた昨晩、帰ってくると同時に家を出て、名古屋からは終電に飛び乗って移動ということになるのでシンプルに面倒でやりたくない。
それにそんなことを嘆いたところで今更である。
寒くなるなら寒くなると割り切って、それに備えた方が何倍も建設的というものだ。
というわけでパックのコーヒー飲料を飲み干すと、私は旅行の準備を始めた。
先ずはヘルメット。
これが無くて始まらないってくらい重要なギアだ。
明日の挑戦に向けてのサイクルジャージ、グローブ、ビンディングシューズ。防風機能のついたベストも用意する。
ロードバイクも準備しなければ。
タイヤに空気を入れる。フレームとサドルにバッグを装着。中身はパンク修理キット、予備チューブ、CO2ボンベ。最低限最寄りの自転車屋まで至れればよい、と割り切って準備しておく。空のボトルをケージにセット。
忘れてはいけないのはミニ財布。
サイクルジャージには背中にポケットが付いていて、補給食だったりを突っ込んでおくことができるだが、このミニ財布が非常に便利だ。手頃なサイズでジャージのポケットにちょうどいい。クレカと保険証、万札と千円札を一枚づつ入れておけば、残念リタイヤとなった時でもホテルに戻るくらいのことはなんとかできる。
輪行用の準備も怠ってはならない。
何度も記したように、ロードバイクはタイヤを簡単に外すことができる仕組みだ。縛ってまとめて、専用の袋に入れてしまえば電車に持ち込んで良いのだ。これで滋賀まで自走しなくても大丈夫。
すっかり準備を整えた私は、荷物を詰め込んだリュックを背負いロードバイクに跨った。
駅について、端の方でロードバイクを輪行袋に入れる。
おっと、のんびりしていたら電車がもうすぐやってくる時刻だ。
私は輪行袋を担ぐと、意気揚々と改札を抜けて名古屋行の電車が待つホームへと向かった。
・
分解しているとはいえ、ロードバイク……自転車一台は結構な大荷物である。
取り回しは最悪だし、なんならビッグサイズのスーツケースの方がキャスターが付いている分、邪魔にならないまである。
ということで私は輪行の際にはできる限り先頭か最後尾の車両に乗り込むことにしている。
東海最大にして日本有数の大都市名古屋。そのセントラルターミナルたる名古屋駅は、平日昼間だというのに多くの人で賑わっていた。旅行客、ビジネスマン、遊びに来た人たち、遊びに行く人たち。
輪行袋を抱えて人々の中をかき分けながら、中央本線から東海道本線のホームへと向かう。
今この瞬間、いったいどれくらいの人がこの名古屋駅にいるのだろう。でも多分、ロードバイクを抱えて歩き回っているのは私一人だろうな、そんな益体もないことを考える。
ちょうどお昼時だった。
ホームで電車を待つ間、駅そばならぬ駅きし麺を食べようか迷う。
しかし時間が15分しかない。さすがに早食いが過ぎるので、代わりにキオスクでサンドイッチを購入。何も考えずに買ったので、食べながら朝もサンドイッチだったことを思い出した。
定刻通りにやってきた大垣行の電車。最後尾の車両に乗り込む。
満席ではないが、まばらに人はいる。ボックスシートも一人は座っている人がいるので座るのは諦めよう。
邪魔にならない場所を……と隅の方で大人しく立っていることにする。
恙なく大垣に到着。
ここでも数分の待合を経て、定刻の電車に乗り込んだ。
日本の列車、そのダイヤは世界でも指折りの正確さだそうだ。
一本のレールを、十分おきに何台もの列車が走っている。それも快速だったり各駅停車だったり特急だったり、停まる駅も速度も違う列車が追い抜き追い越されを予定通りにこなしている。
一方通行ならばまだしも、場合によっては単線。つまり停車駅で向かいから来る列車とうまい事すれ違うように調整しなきゃならない事もある。
いったいどういう思考回路があれば、それで事故なく運営できるダイヤを計画できるのだろう。予定通りの運行ならまだしも、日々トラブルや事故で遅延が起こり、そのたびに調整を入れなきゃならないなんて。私には絶対に無理だ。
もし私がダイヤを編纂するとなったら、一体どうなるか。
始発から五分後、事故の報告が相次ぐことになるだろう。
特急が各駅停車に追突事故。単線区間で正面衝突。脱線。爆発。混乱。飛び散るガラス。瓦礫の廃墟と化した街。立ち上る炎と煙。アラート、アラート。正体不明の飛来物。爆発。鳴り響くサイレンとクラクション。逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子ども。誰かが落としたぬいぐるみ。墜落する報道ヘリ。飛び交う戦闘機とミサイル。目覚める大怪獣。銀の外星人。スパークする光線。爆発。爆発。
大惨事である。どうしてこうなった。
そういえばどうでもいい話だが、昔、スーパーファミコンでシムシティが発売された時のことを思い出した。
市長となって土地を造成したり公共施設を配置して人口を増やし、メガロポリスを目指すシュミレーションゲームのシムシティには、ある程度発展した都市でスタートするシナリオが用意されている。
その既存シナリオで、隕石や怪獣襲来のコマンドを駆使し都市の人口を激減させゲームオーバーを目指す、市長解任RTAを友人たちと競ってゲラゲラ笑っていた私のような奴には、こんな緻密なダイヤを組ませてはならない人種筆頭であるだろう。
そんなバカなことを考えながら大垣発の電車に乗り込んだ。大垣からはかの有名な関ヶ原を通って滋賀へと至る。
車窓から街並みを眺めていると、そこかしこに関ヶ原の文字が見える。
なんかもうね、字面が強いよね『関ヶ原』。
『関ヶ原クリニック』とか予約した瞬間虫歯治りそうだもんよ。
地図で見ても日本のど真ん中に位置するこの場所で、かつての天下分け目の大決戦が行われたという。
今では日本のどこにでもある、小さくのどかな田舎町だ。かつての戦場の面影などどこにもない。名を上げる前の宮本武蔵もこの戦に参加していたというが、彼はそこに見える丘を駆け上ったりしたのだろうか。
忘れてしまいそうになってしまうが、歴史とは記念するべき出来事の事を言うのではない。 積み重なった時間の事を言う。もっと言えば、人々の何気ない日常だって歴史の一部には違いないのだ。そう思って見てみれば、向かいのホーム、路地裏の窓、そんなところにいるはずもない場所だってきっと歴史の欠片がいるのではないか。
おっと。
ぼんやりとしていたら開閉する電車のドアに、輪行袋の端っこがコツンと引っかかってしまった。
危ない危ない。通路の邪魔になると思ってドア側に寄せすぎていたか。
あくびをひとつ。電車はなおも東海道を進み、滋賀県へと入っていった。
滋賀県米原市で、更に電車を乗り換える。
と言ってもここから彦根はわずか一駅だ。だが、ちょっと注意してみると面白いことに気が付く。
乗り換える電車は東海・山陽本線の表示がされていた。行先は姫路。
そう、この列車は京都、大阪を越えて姫路まで行く電車なのである。
岐阜県と滋賀県は隣同士だが、やはり東海地方・関西地方と向いている方向が違ってくる。岐阜県民は近くの大都会といえば名古屋を思い浮かべるだろうけど、滋賀県民は京都や大阪に意識が寄っている。そもそも関西=近畿とは、畿内(古語でいう首都、つまり京都)に近い場所の事をいうのだ。
JRは日本中に線路を巡らせているが、繋がっている線路は各地のJR各社が管理している。岐阜県はJR東海の管轄だが、米原から西はJR西日本の管轄だ。
県境だけでなく地域をもまたいでここまで来た……!
姫路という多治見から遠い地名を目にした瞬間実感する。
乗り継ぎの電車に乗り込む。
米原から彦根まではわずか一駅。
15時。
彦根市に、私は到着した。
予約したホテルは彦根駅出て、徒歩3分の所。
輪行袋を抱えながらえっちらおっちら歩き、ホテルにチェックインする。
部屋はよくあるビジネスシングルルーム。ベッドにテレビ、デスク。どうせ二泊、しかも明日はほとんど部屋にはいないのだからこれで十分。
「さてと組み立てますか」
荷物を放り出した私は輪行袋からロードバイクを取り出した。何度も行っている作業なので慣れたものである。
ひっくり返して上下逆さまにしたバイクに前輪と後輪を嵌めていく。
自転車の形に戻ったバイクの天地を戻してやって、忘れないうちにライトを装着……。
ライトを……あれ? 無い?
慌ててリュックの中身を確認する。ない。
全部ひっくり返してみる。ない。
スマホの充電器とケーブル、ある。
モバイルバッテリー、ある。
着替え、明日のジャージ、ビンディングシューズ、ある。
フロントライト、リアライト。予備を含めて2セット。間違いなく昨晩コンセントに繋いで充電したはずだ。
それを丸々、持ってくるのを忘れた……!?
マジか。
ヤバいぞ、どうする。
自転車は軽車両である。
故に道交法上、公道を走行中はリアライトの点灯か反射板が必要と規定されているし、当然暗くなったらフロントライトの点灯も義務である。
そういった法律上の問題だけではない。
ロードバイクは普通の自転車と違ってかなり速度が出るし、自動車に並んで車道を走る場面だって当たり前にある。
スタート直後は朝だからまだ良いとしても、夕刻以降ともなればライトが無いと足元が覚束なくて走りづらい。何か踏んでパンク、あるいは転倒ーー車道側に転倒すれば骨折だけじゃすまない。
何より被視認性が低下する――周囲の自動車からこちらを認識されず、追突や横押しされる事が起きるかもしれない。
夜に自転車の無灯火走行の何が怖いかというと、コレだ。
自転車に乗っている方が周りを見えていても、周りの自動車の運転手の方が見えてなくて事故に繋がるというのはよくある話なのだ。
冗談では済まない。ライトが無いことで本当に命に関わる。
特に今回はビワイチに挑むのだ。終盤は間違いなくフラフラのヘロヘロだ。そんな状態で、ただでさえ事故率の高い時間帯にライト無しで走る?
私はわざわざ滋賀まで事故に遭いに来たわけじゃないのだ。
予定外の出費は痛いが背に腹は替えられない。
マップ検索すると2kmほど先の商店街にロードバイクを扱っている自転車屋さんを発見した。幸いにも営業中だ。
ライトを購入するために、バイクを伴ってホテルを出る。
エレベーターから出ると、入れ違いのお客さんにびっくりされた。そりゃ、普通ビジネスホテルのエレベーターから自転車押して出てくる奴なんていないだろうし、なんかすんません。
ライトが無いので本当はダメなんだけど、さすがに距離があるのでロードバイクに跨り走り出す。
軽快に走り出そうとして違和感に気が付いた。
ギアチェンジができない……?
フロントディレイラーは問題ない。
だが、リアディレイラーがトップから3段くらいまでしか動かない。
慌ててバイクから降りて、コンビニの駐車場に入る。
ホテルの狭い部屋で組み立てなおしたから何か変な位置にホイールを入れてしまったのだろうかとバイクをひっくり返してみるが、そんな事はなさそうだ。
ペダルを回しながらリアディレイラーを操作してみる。
トップ方向には動くけど、ロー側、つまり軽くする方向への動きがおかしい。
なぜだ。
朝、駅に向かう時には何も問題なく操作できたというのに……。
原因を考えるとすぐに思い至る。
電車のドアが閉まる時に……!
リアディレイラーは、非常に繊細かつ複雑な機構をしている。
そのうえハンガーと呼ばれるリアディレイラーをフレーム本体に接続するための部品があるのだが、これが非常に歪みやすい。
ちょっとコツンとぶつけただけでディレイラーを操作するワイヤーが緩んだり、ハンガーが歪んで角度が変わってディレイラーが動かなくなったりはよくある話。パンクの次に起こりやすいメカトラブルだ。
それが今起きている。
走ることはできる。
だが、ギアを軽くすることができない。
私は天を仰いだ。
ライトを忘れたのも、バイクをぶつけたのも、私の不注意だ。
しかし……こんな。
2つも、同時に、起こるかなぁ!
ビワイチのスタートを待たず、ロードバイクがまともに走らない/走ってはいけない状態。
畜生なんてこったい!
私は、そう悪態吐かずにはいられなかった。
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