高木

固定標識

高木

 という女がいた。


 漆黒をドブの中で煮詰めたような最悪の精神性を抱え込んだ女だった。

 我々の因縁は、振り返ってみれば小学4年生の春から始まっているのだから、もう10年以上のものになる。しかし『因縁』と格好つけて称してみたものの、その実ただ僕の半生に高木が付いて回っただけであって、別に高木が僕のことを敵として見てくれていたかはわからない。

 瞼と下したその裏の闇は、高木の色だった。

 一つ感覚を閉じると、他の部分が過敏に震えて、鮮やかにも背後の路傍に咲き誇る。

 夜を延ばした髪。光の輪郭のように通った鼻筋。冷たい魚の瞳。その胡散臭さが見た目だけならば、どれだけよかっただろう?

 高木は嘘を吐くこと、誤魔化すことが上手かった。上手過ぎた。

 彼女が口を開けばその場は「パっ」と華やぎ、彼女が諫めれば何者も首を垂れて感服する。まさに全知にして全能、望めばすべてが叶った。

 その理屈は不明だった。少なくとも僕にはわからない。この矮小なる頭では承服しかねる。

 そして高木が物理的な法則を無視する姿を何度も見たし、それを共に目撃したはずの同胞の認識がそれを異常と捉えなかったことも、また異常であった。超能力?魔法?呪法? しかしそのどれとも異なった超然的風が彼女の生存を深く彩っていた。

 高木について考えている間、僕は孤独だった。認識という最も曖昧で、最も重要な物を誰とも共有できない。完璧な存在の前では何者であろうと背景にしかなれない。

 何故僕がここまで高木という存在に敵愾心を抱いていたかって、その理由は一つだった。気に入らなかったのだ。

 そして最悪の点として僕の腹の虫をくすぐり続けたのは、【高木の言葉には中身が無い】という事態である。そしてそんな中身の無い言葉で、誰よりも人に好かれていた。

 その癖その魔法は僕にだけは通じなかったのだから、その疎外感と言ったら幽霊になるような心地だった。

 僕もその言霊に載せられてやろうと、高木の言葉を拝聴した。

 どうも聞こえのいい言葉を並べていることは認識できた。でも、それを噛み砕いて成分として分析してみれば、なんてことのない平凡な主張だ。

 これも超能力か、なんて、何度歯軋りしただろう。おかげで僕の歯並びは随分真っすぐ整ってしまった。

 ──しかし今振り返って、思う。きっとそれが大切なことだったのだ。

 誰でも共感できる平凡な主張を、まるで神の言葉のように表面を血の通った肉で包んで見せる。それこそが民の心を掴むために必要だったのだろう。

 けれども当時の僕は──この世界には正義があって、それは報われるべきで当然報われるものだと思っていたし、難解なものには崇高な解答が用意されていると本気で思っていたものだから、高木のことが嫌いだった。

 何度奴のことを考えても、なに故に見上げそうになるほど民の心を掴むのか? 嗚呼さっぱり、わからない。

 だから敵視して、研いだ視線を真っ向からぶつけて──嗚呼振り返って思うのは莫迦だったなあ。そして今も変わらず、僕は莫迦だ。

 本当は憧れていたんだと思う。

 あの遥かなる存在を解明して、並び立ちたいと願っていた。

 そんなケッタイで青い刹那を過ごして、友との出会いと別れが在った。

 瞼の裏の闇は、不安を煽ることもなく、柔らかい羽毛のように思い出を包んでくれていた。モザイクの欠片が黒の中で宝石のように瞬いて、涙が瞼の隙間から落ちそうになる。

 振り返ると、幾億もの足跡が盤石の思考を固めていた。

 僕たちは勤勉なフリをして、何度も何度も彼岸と此岸ほどの距離を往復して、自分の中身の哲学を踏み固めていた。

 あの日々は無駄じゃない。少なくとも僕の瞳はそう思っていない。

 けれども僕は、ついぞ高木の隣に立てなかった。──いや、

 高木の隣に立った人間など、この世に存在するのだろうか?

 いやに深とした気持ちになった。帳を上げれば前方には無数の道が開けていた。

 首の回転だけで追憶を済ませることができるのだから僕は単純だ。

 そしてきっと、そんなんだからまだ青い。


 高木は自分の素質に自覚的だった。自覚的に、指先ですら全知全能だった。そしてそんな高木のことは、やっぱり嫌いだったはずだ。

 大学の合格発表に高木が居合わせたときの絶望と言ったら、途方も無い。

 けれども入学し、一通りのオリエンテーションを終え……学校の地理を覚え、新しい生活に慣れ始める頃には、この頭の中から高木はすっぽり消えていた。

 逃れられず忘れられない、呪いのように感じていたはずの【高木】という存在は、案外すっきり溶けていた。最早残響のように、遠い。

 今思えば、あれもこれも全て熱病のようなものだったのかもしれない。喉元を過ぎれば、滾っていたはずの敵意は何処かで溶けていた。

 見かけない、ということは実際大きいのだろう。

 そう。同じ大学に通っていたって、生活の領域は大きく異なるのだ。

 彼女は理想を願えば叶うのだから、きっと自分とは違って、光に塗れた大学生生活を満喫しているのだろう。

 それでいい、それがいい。

 関わらなくて済むならばそれに越したことはない。

 春の終わり、夏の一歩手前。することもなくって歩いてた。

 日差しに手を翳して作った黒い傘で目を守りながら、僕は構内を闊歩する。

「やっ」

 背後から軽い声が飛んできた。

 それは頭の中で何千回と反響させて、その度に心の線を震わせた音だった。夢の中でだって聞き飽きた、そんなうっとおしいくらいに澄んだ声。

 めらと髪は逆巻いた。

 高木。






「ひっさしぶり……だよね? うん、久しぶりだ。君は変わらないね。一目見てすぐにわかったよ。何にする? コーヒー? よく飲んでたよね、缶のやつ。

 じゃあ私は紅茶で。すみませーん、コーヒーと紅茶、一つずつで。


 そんな言い方ないじゃん。一応幼馴染みたいなものでしょ、私たち。そんな仲良かったかって言われたらまあー、それはそうなんだけどさ。お気に入りに声掛けちゃダメな法律も無いよ。私、法学部ですから。君は文学部? ぽいなー、ってバカにしてないよ。

 お気に入りって言い方、気に障った? 眉が歪んでるけど。

 でもま、君っていっつも何かに怒ってたし、そっちの方がそれっぽいよ。カリカリしちゃってさー。


 お気に入りの理由はねぇ、いろいろあるけど……ぱっと思いついたのはそうだね。

 高校の時に、倫理の授業で若い男の教師が……そう、今の私達の同じくらいか、少し上くらいの。覚えてる? まあ覚えてないだろうけど。そんなの関係ないよね。

 だって君が忘れてても、私には忘れられないんだから。

 せんせいは訊いたよ。確かこんな内容だった。

【その機械の中に入ると、現実と仮想の区別が一切付かなくなって、自分の理想の幸せな世界に入ることができる。あなたたちはそれに入りますか?】って、

 え、私?

 私の答えなんて気になる?


 あ、形式上訊いただけ。

 そっか。

 私がどう答えたかー、なんて自分でも覚えてないんだ。


 うん、覚えてるのは、問題と貴方の答えだけ。多分私は何か適当なことを言って、また褒められたんだろうね。だって覚えてないんだもの。

 印象に残るようなことを、自分でもしていない。

 だって、私には理解できなかった。

 理想が思い通りにならないことなんてなかったもの。私にとってはこの現実世界が仮定の小箱の中と同じなの。


 悲しい顔しないでよー、めんどくさいなぁ。そんなに真面目だと疲れちゃうよ?

 真面目じゃないのは自衛にもなるんだからね? もっと気楽に、面倒くさい楔は捨てて、忘れて。ね? 

 幸せになろうよ、君はさ。

 なんの話だっけ……


 あ、そうそう倫理の話。私と君が倫理ってなんか変な感じだね。

 ねね、君がなんて答えたか教えてあげる。

【理想が叶う世界とは、理想にしかならない世界。全てが思い通りにしかならない世界。

 つまりそれは予想外の起きない世界。感動のない世界。

 そんなものに自ら嵌りにいく意味がわかりません】

 あ、今頭が痛い〜って顔した。その顔好き。

 でもね、私はその答え嫌いじゃなかった。いいなって思った。

 勿論、考え方についてだけどね?

 紅茶うまっ。

 思い通りになる世界は、思い通りにしかならない世界で、感動が無い。

 この人ならわかってくれるかなって思ったよ。

 ま、なーんか嫌われてて全ッ然話すタイミング無かったけど……


 君の想像通り、なんでも思い通りなんて最悪だよ。

 自分のしたことが何処へも繋がらないの。誰にも伝わらないの。何をしても同じ反応しか返ってこない。もちろん良い言葉でみんな褒めてくれるんだけどね、でも……全肯定って気持ち悪い。

 誰も私自身を見てくれない。みんながほめてくれるのは、私の行動と在り方だけ。

 行動と在り方なんて自分自身みたいなものだって思った? 

 そんなこと、ないんだよ。

 善行をしたら善人で、欲に負けたら悪人だなんて、そんな二元論、君は一番嫌いでしょ?


 知ったような口、効くよ。ずっと見てきたもの。

 面白い話があってね。あ、私が面白いだけなんだけど……愉快不愉快は置いといて、面白かった話。話していい? 


 はい、好きにしまーす。

 私、気になったの。なんで自分の望んだことが全部現実になるんだろうって、なんでそれに疑問を抱ける人間が、世界に二人しかいないんだろうって。

 それでね、占い師に相談してみたの。あ、今馬鹿にしたな? 結構当たるみたいだよ。

 その人は前世占いの人なんだけど、物々し~い倉庫で紫色の布をすっぽり被って、ほんとにそれっぽいの。ちょっと笑いそうになっちゃった。

 それでね、私訊いたの。どうして私の日常は、思った通りに行かないんでしょうって。

 うん、思い通りにならない。ああー……いいね、心地いい。

 わかってくれるから君のことはさあ……まあ……気になってたワケよ。


 はいはい続けますよ。

 せっかちだなあ。

 私の前世は、棺の中で民の為に千年祈り続けたお姫様なんだって。

 その功徳が褒められて、私はなんでも叶うみたいに生まれたらしい。


 ……バカバカしいよね。言うと思ったよ。でもね。すごく、納得したの。

 自分でもおかしいと思うくらいに、すんなりその前世を受け入れられて、なんだか気持ち悪いくらいだった。諦めのつく理屈だった。

 望めば、今と未来は思い通りになるけど過去のことは……例えば前世のことなんか、私には掌握できない。だからしょうがない、ってね。


 そうだね。この占いの結果も、私の思い通りなのかもしれない。

 けれども、それでもいいかな、って思えたの。だって占いなんて、気にしないで、でもちょっと気にして行動の指針にするくらいが一番いいじゃない。事実がどうであれ、私自身が少しでも楽になれるなら、信じたほうがいい……はは。

 怒らないでよ、潔癖症。

 ねえ。前世があるなら、来世もあるよね。


 ただの疑問じゃん、そんなに怒らないでよ。

 慣れてないんだからさ……

 これでもちょっと怖いんだよ。怒ってる君はさ、本気で怒るから。

 でも怖いだけじゃない。

 君はずーっと怒ってて……うん、なんというか、現状に満足してないんだよね。

 諦めてないし諦めないし諦めたくない。


 そうかな? 結構当たってると思うけど。

 少なくとも私はね、信じたいものを信じたい人ってすごいと思うんだ。

 叶わないものに願い続けるのって、きっとすごく体力が必要でしょ?

 ねえ、ねえ。私の夢。大学生にもなって追いかけ始めた恥ずかしい夢、喋ってもいい? 


 待つよ。

 だって君の感情ばっかりは、私にはどうしようもないんだから。


 あざす! じゃあちょっと、自分語りするよ。


 今世は普通に死にたいね。

 誰の役にも立たずに、穏やかに。周りに泣いてもらいながら老衰で死にたい。

 与太話って感じでいいなあ、こういうの。

 もっと早くしたかったな──」






 高木は死んだ。

 子どもを庇って死んだ。

 思い通りにならずに死んだ。

 いや、思い通りになったのかもしれない。

 皆が泣いた。

 僕は黙って目を閉じた。


























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