馬鹿には視えない高木様

固定標識

【高木】

 という女がいた。

 振り返ってみれば僕たちの因縁は、小学四年生の春から始まっているのだから、もう十年以上のものになる。しかし『因縁』と格好つけて称してみたものの、その実、ただ僕の半生に高木が憑いて回っただけであって、別に高木が僕のことを敵として見てくれていたかはわからない。

 これは黒歴史の回顧録だ。

 後悔と嗚咽を塗り重ねて、青春を台無しにした大莫迦者による後始末の物語だ。きっと忘れてしまえば、鎧を脱ぎ捨てたかのように楽になれる。そんな重しの記憶だ。

 しかし──

 忘却するには美しすぎる、漆の黒色は

 今もこの心臓の中心で、静かに息を続けている。

 だから何度でも目を閉じる。僕だけは、彼女を美化せぬようにと。高木という、一人の平凡な女性の生きた軌跡を失くさぬようにと。

 だから何度でも目を閉じる。

 瞼を降ろしたその闇は高木の色だった。

 一つ感覚を閉じれば他の部分が過敏に震えて、鮮やかにも背後の路傍に咲き誇る。

 見やれば人影が、闇の中でしかしと輝いた。

 高木。


 ──────────・・・


 夜を延ばした髪。光の輪郭のように通った鼻筋。冷たい魚の瞳。その胡散臭さが見た目だけならば、どれだけよかっただろう?

 高木は狡猾な人間で、他者の懐柔が上手かった。

 自らバカを装い、素知らぬ顔で他者へ近づきその心を解きほぐす。四季折々に仮面を付け替え、四面楚歌とは無縁な女。

 しかしその魚の瞳が真に笑んでいた瞬間を、僕はついぞ知らないし、真に笑んでいないことに気付いていた人間を、僕は僕以外に知らない。

 高木と僕は不可解に歪な一対一だった。

 彼女が口を開けばその場は「パっ」と華やぎ、彼女が諫めれば何者も首を垂れて感服する。語る言葉は種となり、土に芽吹き、花となり生きる。

 人心掌握と言い切ってしまうには、どうも不可思議なくらいの斥力。宗教とか信仰とか、そういう形容が適当なもの。

 その理屈は意味不明だった。少なくとも僕にはわからない。そして何の因果か、彼女の魔法は僕にだけ通じなかったのだから、その疎外感と言ったら幽霊になるような心地だ。

 高木について考えている間、僕は孤独だった。完璧な存在の前では何者であろうと背景にしかなれないのだ。

 仮に高木を完璧な存在であると認めるならば──諦めてしまうのであれば、それは僕に適用された淘汰の法則なのだろう。

 その孤独に耐えかねて、僕もその言霊に載せられてやろうと、高木の言葉の拝聴を試みたこともあった。彼女と取り巻きは、放課には必ず教卓に集まって話をしていて、その大抵は、取り巻きが高木に何か相談をして、高木がそれに言葉を返すという形式だった。

 駅前のカフェがどうだの。

『え。分かる⁈ そうなんだよ、そうなの! よかったあ、○○ちゃんと友達で!』

 悩み相談をされて。

『でもその難しさも君だけのものだからなあ、私が邪魔しちゃ悪いよ』

 涙で声にならない想いを聞き受けて。

『それが偽物でもねえ、揺れた心はホンモノだよ?』

 そんな言葉と共に振り撒かれる笑顔に、全員が心を融かされていた。

 それが温かな慈雨か酸のシャワーかなんて問うまでもなく、僕たちは僕たちの成分のまま、彼女の言葉を聴いた。

 あの教室は二つに分かたれていた。

【高木を好きな人間】と【そうでない人間】

 当然僕は後者で、同時に後者は僕一人である。

 高木の周りには常に人がいた。移動する時も食事を摂る時も、独りの高木を見たことはない。そして彼女を囲うその全員が同じ形状で笑う。

 表情無き笑顔の群れに包囲されて、魚の瞳は笑わない。

「マネキンの前で素直になれないというのは……女性にとって好ましいことではなかろう」

 などと独り言ちたのは、その輪に唯一入れなかった根暗な少年である。

 彼女の唇から投与される見目かわいらしい錠剤は、噛み砕いて成分として分析してみれば、なんてことのない平凡な主張だった。だから僕にはむしろその見た目が受け付けなかった。誤魔化しに見えて仕方がなかった。プラセボ効果で人が救われることなど決して無いのだと、本気で信じていた。愚かで若かった。

 だから二つに一つだった。

 高木が神の威力のように言霊に意志を込め得る怪物なのか。

 周囲の人々が皆、表面の砂糖を舐めるばかりの俗物なのか。

 どちらにしろ、僕という没個性で天にも地にも属さない愚か者は、教室という箱の中で浮くしかなかった。


 当時の僕は──この世界には正義があって、それは報われるべきで、かつ当然報われるものだと思っていたし、難解なものには崇高な解答が用意されていると本気で思っていたものだから、高木のことが嫌いだった。

 何度奴のことを考えても、なに故に見上げそうになるほど民の心を掴むのか? 嗚呼さっぱり、わからない。

 だから支配も懐柔も洗脳もされまいと敵視して、研いだ視線を真っ向からぶつけて──振り返って思うのはバカだったなあ。

 そして今も変わらず、僕はバカだ。


 青春とは熱だ。

 心の熱であり身体の熱であり、病の熱だ。当事者だけは気付けない厄介な不幸だ。

 だから今、冷静に身を浸して振り返れば、当時の僕が高木に抱いていた敵愾心が、所詮上辺の照れ隠しに近しい成分でしかなかったことは自明だった。

 本当は憧れていたんだと思う。

 あの遥かなる存在を解明して、並び立ちたいと願っていたのだ──

 

 ──────────・・・


 瞼の裏の闇は不安を煽ることもなく、柔らかい羽毛のように思い出を包んでくれている。モザイクの欠片が黒の中で宝石のように瞬いて、涙が瞼の隙間から落ちそうになる。

 闇の中で、しかしと揺れる高木の影が、所詮まぼろしであると呑み込めた瞬間、それは消え去り、何処までも続く果て無き道だけが残った。

 幾億もの足跡が盤石の思考を固めていた。

 僕は勤勉なフリをして、何度も何度も彼岸と此岸ほどの距離を往復して、自分の中身の哲学を踏み固めていた。あの日々は無駄じゃない。

 けれども僕は、ついぞ高木の隣に立てなかった。──いや

「高木の隣に立った人間など存在するのだろうか?」

 いやに深とした気持ちになって帳を持ち上げれば、前方には無数の道が開けていた。大学構内の歩道には落葉樹の華やかな翡翠の影が、まばらに。まるで紙吹雪のように落ちていた。

 踏むことも憚られるような若々しさを、しかし感傷無く足蹴にしながら、僕は旅路を歩いてゆく。

 ふと、うなじを刺す針の気配に振り向いて──

 しかしそこには何者もいない。

「そういうものだ。そういう……」

 首の回転だけで追憶を済ませることができるのだから、この構造は単純だ。

 そしてきっと、そんなんだからまだ、あの青さを忘れらない。


 高木は自分の素質に自覚的だった。自覚的に、指先ですら全知全能だった。そしてそんな高木のことは、やっぱり嫌いだったはずだ。

 大学の合格発表に高木が居合わせたときの絶望と言ったら、途方も無い。

 けれども入学し、一通りのオリエンテーションを終え……学校の地理を覚え、新しい生活に慣れ始める頃には、頭から【高木】はすっぽり消えていた。

 逃れられず忘れられない、呪いのように感じていたはずの【高木】という存在は、案外すっきり溶けていた。

 最早残響のように、遠い。

 あれもこれも全て熱病のようなものなのだ。喉元を過ぎれば、滾っていたはずの敵意は何処かで溶けていた。

 見かけないということは、実際大きいのだろう。

 そう。同じ大学に通っていたって生活の領域は大きく異なるのだ。

 彼女は理想を願えば叶うのだから、きっと自分とは違って光に塗れた大学生生活を満喫しているのだろう。

 それでいい、それがいい。関わらなくて済むならばそれに越したことはない。


 春の終わり、夏の一歩手前。することもなくって歩いてた。

 日差しに手を翳して作った黒い傘で目を守りながら、僕は構内を闊歩する。

「やっ」

 背後から

 軽い声が飛んできた。

 それは頭の中で何千回と反響させて、その度に心の線を震わせた音だった。夢の中でだって聞き飽きた、鬱陶しいくらいに澄んだ声。

 めらと髪は逆巻いた。

 高木。


 ────────────・・・


「ひっさしぶり……だよね? うん、久しぶりだ。君は変わらないね。一目見てすぐにわかったよ。何にする? コーヒー? よく飲んでたよね、缶のやつ。

 じゃあ私は紅茶で。すみませーん、コーヒーと紅茶、一つずつで。


 そんな言い方ないじゃん。一応幼馴染みたいなものでしょ、私たち。そんな仲良かったかって言われたらまあー、それはそうなんだけどさ。お気に入りに声掛けちゃダメな法律も無いよ。私、法学部ですから。君は文学部? ぽいなー、っていやいやバカにしてませんよ。


 お気に入りって言い方、気に障った? 眉が歪んでるけど。

 でもま、君っていっつも何かに怒ってたし、そっちの方がそれっぽいよ。カリカリしちゃってさー。


 お気に入りの理由ねぇ。いろいろあるけど……んー。ぱっと思いついたのはそうだね。

 高校の時に、倫理の授業で若いせんせい。男の人ね。その人……そう、今の私たちと同じくらいか、少し上くらいの。覚えてる? まあ君は覚えてないだろうけど。そんなの関係ないよね。

 だって君が忘れてても、私には忘れられないんだから。

 せんせいは訊いたよ。確かこんな内容だった。

【その機械の中に入ると、現実と仮想の区別が一切付かなくなって、自分の理想の幸せな世界に入ることができる。あなたたちはそれに入りますか?】って……


 え、私?


 私の答えなんて気になる?


 あ、形式上訊いただけ。

 そっか。


 私がどう答えたかー、なんて自分でも覚えてないんだ。


 うん。覚えてるのは、問題と君の答えだけ。私はまた何か適当なことを言って、褒められたんだろうね。嫌になるよねえ。多分大声で下ネタ叫んでも褒められるよ私。


 いやしねえって。女っすよ。一応。

 例えだよ。どれだけ適当でも思い通りになっちゃうって、例えですー。


 だって私には理解できなかった。

 理想が思い通りにならないことなんて、なかったもの。私にとってはこの現実世界が仮定の小箱の中と同じなの。


 悲しい顔しないでよー、めんどくさいなぁ。そんなに真面目だと疲れちゃうよ?

 真面目じゃないのは自衛にもなるんだからね? もっと気楽に、面倒くさい執着は捨てて忘れて。ね?

 幸せになろうよ、君はさ。


 なんの話だっけ……


 あ、そうそう倫理の話。私と君が倫理ってなんか変な感じだね。


 うっさくないよ。大事な話。


 ねね、君がなんて答えたか教えてあげる。

 聴きたくないなら耳塞ぎな?

 君がどれだけ昔の自分が嫌いでも私には関係ないもんねー。だって、


 なんでもねっす。はい。


 うっさいなーもー。はい怒りました黒歴史行きまーす。

【理想が叶う世界とは、理想にしかならない世界。全てが思い通りにしかならない世界。

 つまりそれは予想外の起きない世界。感動のない世界。

 そんなものに自ら嵌りにいく意味がわかりません】


 あ、今頭が痛い〜って顔した。その顔好き。


 でもね、私はその答え嫌いじゃなかった。いいなって思った。

 勿論、考え方についてだけどね?


 紅茶うまっ。


 思い通りになる世界は、思い通りにしかならない世界で、感動が無い。良いこと言うね。


 なんでそんな曲解するかなあ……らしいけどさあ


 私は、この人ならわかってくれるかなって思ったよ。

 ま、なーんか嫌われてて全ッ然話すタイミング無かったけど……


 君の想像通り、なんでも思い通りなんて最悪だよ。

 自分のしたことが何処へも繋がらないの。誰にも伝わらないの。何をしても同じ反応しか返ってこない。もちろん良い言葉でみんな褒めてくれるんだけどね、でも……全肯定って気持ち悪い。

 誰も私自身を見てくれない。みんながほめてくれるのは、私の行動と在り方だけ。


 行動と在り方なんて自分自身みたいなものだって思った? 

 そんなこと、ないんだよ。


 善行をしたら善人で、欲に負けたら悪人だなんて、そんな二元論、君は一番嫌いでしょ?


 知ったような口利くよ。


 あ、面白い話があってね。私が面白いだけなんだけど……愉快不愉快は置いといて、面白かった話。話していい? 


 はい好きにしまーす。


 私気になったの。なんで自分の望んだことが全部現実になるんだろうって、なんでそれに疑問を抱ける人間が、世界に二人しかいないんだろうって。

 それでね、占い師に相談してみたの。


 あ、今馬鹿にしたな? 結構当たるみたいだよ。

 その人は前世占いの人なんだけど、物々し~い倉庫の奥で紫色の布をすっぽり被って、ほんとにそれっぽいの。ちょっと笑いそうになっちゃった。

 それでね、私訊いたの。どうして私の日常は、思った通りに行かないんでしょうって。


 うん、思い通りにならない。ああー……いいね。

 わかってくれるから君のことはさあ……まあ……気になってたワケよ。


 はいはい続けまーす。せっかちめ。


 私の前世は、棺の中で国民の為に千年祈り続けたお姫様なんだって。

 その功徳が褒められて、私はなんでも叶うみたいに生まれたらしい。


 ……バカバカしいよね。言うと思ったよ。でもね。すごく、納得したの。

 自分でもおかしいと思うくらいに、すんなりその結果を受け入れられて、なんだか気持ち悪いくらいだった。諦めのつく理屈だった。


 望めば、今と未来は思い通りになるけど過去のことは……例えば前世のことなんか、私にはどうしようもできない。だからしょうがない、ってね。


 そうだね。この占いの結果も、私の思い通りなのかもしれない。

 けれども、それでもいいかな、って思えたの。だって占いなんて、気にしないで、でもちょっと気にして行動の指針にするくらいが一番いいじゃない。事実がどうであれ、私自身が少しでも楽になれるなら、信じたほうがいい。


 怒らないでよ潔癖症。

 はー…お腹いたい


 前世があるなら来世もあるよねぇ。


 ただの疑問じゃん、そんなに怒らないで?

 慣れてないんだからさ……


 これでもちょっと怖いんだよ。怒ってる君はさ、本気で怒るから。


 君はずーっと怒ってて……うん、なんというか、現状に満足してないんだよね。諦めてないし諦めないし諦めたくない。


 そうかな? 結構当たってると思うけど。

 少なくとも私はね、信じたいものを信じたい人ってすごいと思うんだ。

 叶わないものに願い続けるのって、きっとすごく体力が必要でしょ?


 ねえ、ねえ。私の夢。大学生にもなって追いかけ始めた恥ずかしい夢、喋ってもいい? 


 待つよ。

 だって君の感情ばっかりは、私にはどうしようもないんだから。


 あざす! じゃあちょっと、自分語りするよ。


 夜の月は綺麗に光るよ。色んな人を感動させるくらいに綺麗だよね。

 けどね、それでも──今世は普通に死にたいね。

 誰の役にも立たずに、穏やかに。みんなの笑顔に包まれながら老衰で死にたい。


 与太話って感じでいいなあ、こういうの。

 もっと早くしたかったなあ──」


 ────────────・・・


 高木は死んだ。通りすがりの老人を庇って死んだ。

 思い通りにならずに死んだ。

 いや、思い通りになったのかもしれない。

 皆が泣いた。叫んで縋った。

 僕は黙って目を閉じた。

 




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