第6話 河川敷の死闘 ②悪魔

 強く冷たい風が吹いていた。もうすぐ春だと言うのに、風は容赦なく体温を奪い去っていく。髪や外套はバタバタとはためいて、今すぐここから逃げ出したがっているようだった。


 頭上では雲が、まるで早送りの、都会を歩く人波のように、あるいは獰猛な肉食獣に追われる草食獣の群れのように、忙しなく流れていた。


 月にかかっていた雲が切れて、戦場に月光が落ちた。


少年C「第2ラウンドといこうや」


 月明りに照らし出された少年の顔は、ひどく笑っていた。耳まで裂けそうなほど大きく開かれた口に、頭のてっぺんまで届きそうなほど吊り上がった目。つい今しがた仲間の一人がぶっ飛ばされたにも関わらず、彼の表情に焦りや不安の色は全くない。ひとかけらの怒りすらない。彼はただ楽しんでいる。この血塗られた夜を。


本屋「悪魔だ」


 ぼくは無意識に呟いた。悪魔。あまりにも安直な喩えだが、少年の、背筋が凍るような笑みを見て、ほかに適切な喩えは浮かばなかった。


三ちゃん「……あれ?」


 ふらふらと倒れかけては持ち直し、泥酔した酔拳の使い手か、起き上がり小法師のようだった三ちゃんが、ようやく両足で地面を踏みしめて言った。重心が定まったようだ。


ノムさん「三ちゃん!」


 ノムさんが三ちゃんに駆け寄っていく。まるで戦地から帰還した夫を見つけた妻のように。ノムさんはそのまま三ちゃんを抱きしめると膝をついて、三ちゃんの胸に何度も何度も頬ずりをした。


三ちゃん「ノムさん、本屋」

ノムさん「良かった。三ちゃん、良かった」


 金髪の少年に蹴りを食らって、倒れた時にはもうほとんど意識がなかったに違いない。意識がないまま、それでも気持ちだけがこの人を立ち上がらせたんだ。立ち向かわなければならないという、強い気持ちだけが。


三ちゃん「俺、生きてんだな」


 三ちゃんは二、三度大きくまばたきをして、ノムさんでも、ぼくでもなく、ただ空気に向かって話しかけるみたいにそう言った。


ノムさん「生きてるよ。三ちゃん、本当に良かった。帰って来てくれた」

三ちゃん「……夢だったか」


 ノムさんは泣きじゃくって、三ちゃんの赤いネルシャツの胸元を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにするのに夢中で聞こえていなかったようだけど、ぼくにはその小さな呟きが確かに聞こえた。

 「夢だったか」安堵よりも、寂しさを感じさせる声だった。


 きっと、夢で彼に会ったのだろう。三ちゃんがヨッチャンと呼び愛した、あの無垢な天使に。


ノムちゃん「そうだ、それより三ちゃん!」

三ちゃん「ああ、どうなった」

ノムさん「ほら!」


 ノムさんが指した先では、騎士団長 ――ぼくは敬意を込めて、鎧の彼女をそう呼ぶことにした―― と、大柄な坊主頭の少年が対峙していた。


ノムさん「すごかったぜ、たった一撃であの金髪の小僧をぶっ飛ばしちまったんだ!」

三ちゃん「……そりゃあすごいな」

ノムさん「もう大丈夫だ。あの姉ちゃんがみんなやっつけてくれるよ」


 確かにあの一撃は見事だった。金髪の彼はまるで漫画みたいにぶっ飛んでいたもの。あれを見れば誰だって安心する。勝利を確信する。だけど……


 騎士団長と坊主の少年が組み合った。およそ人間と人間がぶつかり合ったとは信じがたい、重く鈍い音が響いた。二人はアメフト選手がするみたいに、頭を下げて、肩と肩をぶつける形で組み合った。まさに肉弾戦と呼ぶにふさわしい迫力、いやそれ以上だ。


 (着ている鎧を含めれば)どちらも100㎏はありそうな二人だ。重機と重機がぶつかり合うみたいに、分厚い金属板のひしゃげる音でも聞こえてきそうな迫力だ。実際、二人の足元の土は、彼らの体重に押しのけられてめくれあがっていた。


団長「くっ……」


 今、この状況がチャンスなのか、あるいはピンチなのか、ぼくには判断がつかなくなっていた。先ほどの長髪の少年の笑みがあまりにも不吉で、ぼくはすでに「勝てるに違いない」という希望を手放し始めてしまっていた。


 なぜさっさとぶっ飛ばさない? 彼女は今、一体何を考えている?



 二人の組み合いを見て、マルコも同じことを考えていた。悪魔も恐れるあの騎士団長が、ただの人間に後れを取るはずがない。それだけコンディションが悪いということか、あるいは……。


 マルコは右手に握られた空のチョコチップスティックパンの袋を見た。

 ひょっとすると、自分はかなりまずいことをしてしまったのではないか。


団長「くそっ……!」


 組み合いのさなか、団長は考えていた。


 先ほどぶっ飛ばした金髪の男からは、なんら武術の心得のようなものは感じられなかった。しかしこの男は明らかに違う。なにかしらの体系メソッドを持った武術の心得があり、少なからぬ鍛錬を積んできたことがわかる。


 このように武器を用いず、組んだり、投げたりする武術は、帝国ではほとんど見たことがない。使からだ。


 しかし、この男には、この武術こそが、オーダーメイドであつらえた衣服のようにぴったりと合っている。身の丈は私と同じくらいか、しかし骨が太い。筋肉の量も相当だ。体重で言ったら、鎧を着た私と同じか、それとも男の方がいくらか重いくらいか。大きさと重さが、そのまま強さに繋がる、そういう種類の武術だ。


 もしこの男が機動力が物を言う騎馬兵ジノマットのような立ち回りを求められたら? 不適格だ。斥候ハリエルのような奇襲戦法もまた、この男には不適格。重装歩兵ヴァーレン斧兵カンツミのような膂力が物を言う戦闘スタイルであれば、あるいは彼に向いているかもしれない。しかしこの男の武術は、多対多の戦場においてはかなり不利なスタイルと言えるだろう。組み合いのさなかに、背後から敵に槍で突かれてはどうしようもない。だからこそ、帝国ではこのような武術が発展しなかった。しかし、一対一の局面では非常に有効な武術であることは認めざるを得ない。実際、私はまだこの武術に対する突破口を見いだせていなかった。


補給兵「武器がないと戦えないんだ……」


 マルコの予想は半分当たっていた。実際に団長は今、武器を持っていないために攻めあぐねていた。しかし、実力的に戦えないというよりは、複雑な状況が絡み合って、戦えない、というのが正解だった。


 団長はなおも思考する。


 私自身が徒手空拳を不得手としている、ということも確かにある。不得手というのは必ずしも弱いという意味ではない。ということだ。いくらとは言え、この男は人間だ。魔物ではない。必要以上に傷つけるのは本意ではない。まして法律もわからぬこの異国で、異邦人である私が現地の人間を殺してしまおうものなら、我々の処遇がどうなったものか……リスクは計り知れない。


 その上この空腹。体調さえ万全なら、この程度の力比べに負けるはずはないのだが、腹が減って、思うように力の加減ができない。ここで勢い任せにこの男をぶん投げてしまえば、彼の生命の保障は全くできない。


 剣だ。剣さえあればいかようにもできる。たとえこの極限状態にあっても、剣は私に精密な加減を可能にする。私はこの拳の千倍、いや一万倍、剣を振るってきたのだ。


補給兵「苦しそうだ……」


 団長が空腹に喘ぎ、息を吐いた一瞬の隙を少年は見逃さない。少年は団長の腕を掴んで引き込み、団長の体を背負って投げ、地面に叩きつけた。まるで地上6階からブラウン管テレビか冷蔵庫でも投げ捨てたみたいな音が響いた。


少年B「お前、臭いな。鼻が曲がりそうだ」

団長「くそっ……!」

少年B「だけどお前は頑丈だ。頑丈なやつは好きだ。長持ちするからな」


 少年は表情一つ変えずに言った。顔の肉が分厚くて、表情が読み取り難いだけかもしれないが、その声色もまた感情に欠けていた。


 投げられるダメージは大した問題ではなかった。しかしこのままでは泥仕合だ。地面に倒れていた団長は勢いよく起き上がり、約10メートル後方にいるマルコに向かって叫んだ。


団長「剣だ! 棒状のものなら何でもいい、武器を探してくれ!」


 『軍神の加護』は騎士団長の肉体のみならず、その装備にも影響を及ぼす。団長の体を通じてチョコチップスティックパンが、強度を得る。しかし元が非常に柔らかいパンだ。敵の平凡な攻撃を受け止めることはできても、騎士団長自身の攻撃力には耐えられない。チョコチップスティックパンはたったの一撃で砕け散ってしまった。


 金髪の男が持っていた金属バットは、男と一緒に川に落ちてしまっていた。


 マルコは必死で長い、武器になり得る物を探したが、辺りは風にそよぐ草ばかりでこれと言ったものが見つからない。草をかき分けても小石やダンゴムシが見つかるばかりだ。自分の持ち物はと言えば、腰に下げた小さな革製のカバンに入っている止血帯とわずかな薬草くらいのもので、とても役に立ちそうにない。


 マルコは少し離れたところで戦いを見守っていたホームレスたちに駆け寄って、身振り手振りで、長い棒状の物を要求した。


補給兵「あー、あの、長ーい。びよーんびよーん。ぶん! ぶん! 武器。長いやつ。伝わるかなあ……」

三ちゃん「ん? 剣道か?」

本屋「武器が必要ってことかな」

ノムさん「なんでもいいのかい?」


 マルコはなんとなく意図が伝わったのを感じて、肯定のために首を縦に振った。現代日本でも、アル=カザンサでも肯定の仕草は首を縦に振ることだった。


ノムさん「ちょっと待っててくれ」

本屋「ぼくが持ってるのは古本くらいで、武器になりそうにはないな……」

三ちゃん「俺も空き缶とか自転車のチューブとか、そんなんばっかりだ」


 ノムさんだけが自分のブルーシートハウスへ駆けていき、数秒と経たないうちに何かを持ってマルコの元へ戻ってきた。


ノムさん「これでどうだい?」


 ノムさんの手には、良く研がれた出刃包丁が握られていた。


補給兵「ダメ! これはダメ!」


 マルコは首を激しく横に振った。当然、否定の意味だった。


本屋「ノムさん、それはさすがに……」

ノムさん「え? ダメかい?」

三ちゃん「あの姉ちゃんを人殺しにするつもりかよ」

本屋「いくらなんでも殺人に加担するのはちょっと……」


 月光を反射して出刃包丁が妖しく光った。青白く輝く刃が、真っ赤な鮮血を吸いたがっているようだ。いかにもやる気満々だ。


出刃包丁「……」

マルコ「どうしよう。さすがにこれは、どう手加減したって殺しちゃうよなあ……」


 マルコにとってもまた、殺人は望むところではなかった。先刻まで復讐の怒りに燃えていた三ちゃんでさえ、若い命を奪うつもりはなかった。いくら犯罪都市川崎と言えど、ここは法治国家なのだ。この場で出刃包丁だけが命を奪いたがっていた。


ノムさん「そんなこと言ったってなんかじゃダメなんだろ?」


 実際にはおたまやフライ返しで何の問題もなかった。しかしこの状況で、誰もが困惑していた。団長以外に正解のわかる者など、一人もいなかった。


 ガシャッと大きな音がした。音のした方を見ると、団長はまた地面に倒されていた。


本屋「押されてるみたいだ……」

ノムさん「言ってる場合かよ! もう殺しちまおうぜ!」


 ノムさんは興奮した様子で、唾を飛ばしながら出刃包丁を振り上げた。


三ちゃん「ノムさんがやるんじゃないんだから、大人しく見てろって」


 三ちゃんはなだめるように、ノムさんの肩をポンポンと叩いて言った。


本屋「自分たちを棚に上げるようで申し訳ないが、君は戦えないのか? 武器こそ持っていないようだけれど、鎧を着ているし……」

補給兵「ぼくが戦えたら良かったのに……」


 それは奇しくも会話のようだった。しかし当然、本屋の言葉も、マルコの言葉も互いに伝わってはいなかった。状況を打破する糸口を見つけられないまま、為すすべなく、男たちの不甲斐なさが場にこんこんと降り積もっていった。


団長「体が重い。起き上がるだけのことがこれほどの重労働になろうとは……」


 ふと、生暖かい風が吹いた。先ほどまでの冷たい風とは打って変わって、人肌のような、優しい手つきで撫でるような風だった。

 風にそよがれて、倒れた団長の指先に、そっと触れるものがあった。


 つくし


団長「これは……」


 春の訪れを告げる、小さなつくしがそこに生えていた。


団長「これだ……!」


 団長はつくしを右手で握り、引き抜いた。剣と呼ぶにはあまりにも細く、短く、頼りないが、団長の手のひらを通じて、握りこまれたつくしに『軍神の加護』が流れ込んでいく。


団長「何の草だかわからんが、我が剣となれ!」


 せいぜいサインペン程度のサイズしかない弱弱しい存在に過ぎないが、つくしは今、確かに武器としての自覚を持ち、その身に戦意を滾らせた。


団長「やはり剣は良い。力が漲ってくる」


 春はもうすぐそこまで来ている。


ノムさん「立った!」

三ちゃん「なにか握ってるぜ、あれは……」

補給兵「……なんだ?」

本屋「……つくしだ」


 騎士団長はつくしを構えた。右手で握り、左手を皿にして柄を支え、まるでその穂の先に、見えない剣が伸びているかのように。


三ちゃん「つ、つ、つくしで戦おうってのか?」

ノムさん「無茶だ、やっぱり包丁を……」

本屋「いや、でも……」


 チョコチップスティックパンの先例がある。なにより、騎士団長の顔つきが変わった。先ほどまでの防戦一方の苦しそうな表情とは打って変わって、闘志に燃えた顔つきだ。その眼は迷いなく、真っすぐ少年を、そしてその先にある勝利を射抜いていた。


少年B「これだけ投げても壊れないやつは、お前が初めてだ」


 団長の様子を見て、少年もその変化を感じ取ったのだろう。3セット先取のスポーツで、2セット連続で負けていた相手が、なおも戦意を失わず、貪欲に勝ちを取りに来るような、そんな気迫を感じ取ったに違いない。少年は腰を落とし、重心を下げ、両手を大きく広げて構えた。第3ラウンド開始、と言ったところか。


少年B「お前なら、俺の全力をぶつけられそうだ」


 団長は黙ってつくしを構えている。両者一歩も動かず、相手の出方を伺っている。


 ……


 長い膠着だった。互いの集中力は極限まで高まり、やがて音が消えた。風にそよぐ草のさやさやという音、川の流れる水音、河川敷沿いを走る自動車の走行音。すべての現実の音が消えた時、少年の耳には、かすかに母の声が聞こえたような気がした。


 ……——


 岩本寛治いわもとかんじは母一人子一人の貧しい家に生まれ育った。出生体重6667グラム。異様に大きな子どもだった。母の母乳が枯れるまで飲み、離乳食の米を2合平らげ、その身長と体重は、常に成長曲線の平均帯から大きく外れていた。


 彼は幼い頃から力が強く、母から与えられた玩具をことごとく一週間と経たないうちに壊してきた。ビニールの人形の手足はもげ、太鼓の玩具は面が破れ、厚紙の絵本はちぎれてしまった。


 壊れた玩具を見て、母はいつも申し訳なさそうに、ごめんねと言って謝った。なぜ母が謝るのか、なぜ母がこんなに悲しそうな顔をするのかわからなかった。自分の力が強いばかりに、母を悲しませている。大きな体が憎かった。それでも鳴る腹が憎かった。


 小学三年生のころ、商店街のちびっこ相撲大会に出場した。気乗りはしなかったが、自分の大きな体格を見て、運営のおじさんが強く勧めてきたので、参加することにした。参加賞のチョコレートも参加を決心した理由の一つだった。あの頃の自分にとって、甘味はとても貴重だったから。


 決勝の相手は小学六年生だった。自分の方が大きかった。組み合って、相手の廻しを引き上げてそのまま土俵の外まで運んだ。簡単なことだった。相手は対峙したときにはほとんど戦意を喪失していたようで、悔しがるそぶりも見せなかった。


 観衆の中で、母が喜んでいた。恥ずかしくなるくらいに手を叩いて、何度も自分の名前を呼んだ。母が喜んでいることが嬉しかった。大きな体が初めて役に立ったことが嬉しかった。優勝賞品の10キロのコシヒカリを空にするのに、何日もかからなかったけれど。


 中学校では柔道部に入った。体の大きい自分を、顧問の先生も先輩たちも歓迎してくれた。ある日の練習中、三年生の先輩と乱取りをすることになった。先輩は中学最後の夏の大会で良い成績を残したくて、張り切っていた。その練習相手にということで、自分が指名された。そこで大怪我をさせた。特別変わったことをしたとか、技を失敗したとか、そういうことはなかった気がする。ただ打ち所が悪くて、脳がどうとか、後遺症が残るということだった。


 結局、先輩は夏の大会に出られなかったし。そのあとの高校受験も受けられなかった。


 母と連れ立って、先輩の家に謝りにいった。先輩の親は、怒ってなかったとは思わない。だけど部活中の事故だし、治療費とかそういうものは、学校が入っている保険から支払われるから、もう謝りに来なくていいと言った。


 だけど母は何度も謝りに行った。生活費を切り詰めて菓子折りを買って、先輩の具合はどうですかと、何度も、何度も。俺のせいでまた母さんが謝っている。俺のこの大きな体のせいで。


 部活は辞めた。辞めることはないと顧問の先生は言ってくれたけど。母にこれ以上、悲しい思いをさせたくなかった。


 勉強は不得意だったけど、自分なりに努力をして、公立の高校に入ることができた。偏差値の高い学校ではなかったけど、母は喜んでいた。母が喜んでくれたことが嬉しかった。


 部活には入らなかった。無性に体を動かしたくなった時は、道着を着て、公園の大きなケヤキの木に自転車のチューブを巻いて、一人打ち込みをした。


「おい、俺とタイマンしようぜ」


 番長を名乗る三年生にしつこく絡まれた。学校ではなるべく目立たないように過ごしていたつもりだったが、大きな体のせいで結局目を付けられてしまった。

 番長はこの学校にもう五年もいるらしく、『俺は酒もタバコも合法だから』などと大声で言いまわっている、時代錯誤のリーゼントのデブだった。本当にこんなやつが強いんだろうか。


「おい、逃げんのかよ」


 無視した。それでもしつこく絡まれた。帰り道に付きまとわれ、家を知られたくなかったので、走って遠回りをして帰った。取り巻きが原付に乗って追いかけてきたこともあった。それでも必死で逃げた。母に迷惑をかけることだけは避けたかった。


「あいつ、でかいだけで本当は弱いんじゃねーの」


 何を言われても気にしないように努めた。そのうち飽きて去っていくだろう。だけど、限界はある日、唐突に来た。


 昼休み、弁当を食おうと屋上に行くと、奴らが居た。番長と、取り巻きの何人かが、小柄でいかにも気弱そうな一年生の男子を取り囲んで、脅して金を巻き上げている最中だった。奴らは俺を見つけると「お」と言ってぞろぞろと近づいてきた。すぐに振り返って、教室に戻ろうと思った。だけどうっかり、手に持っていた弁当の入った巾着袋を取り巻きの一人に取られてしまった。


「こいつの弁当、ラジカセみてえにでっかいな」

「どれどれ、中身をはいけーん」

「おっ……」


 一瞬の沈黙があった。そのあとすぐに笑いが起きた。


「こいつ、マジかよ!」

「米と卵焼きしか入ってねえ!」

「米何合だよこれ、4合くらい入ってんのかァ?」


 母の弁当が笑われている。仕方ないだろ。うちは貧乏だし、俺はたくさん食うから、そんな肉だのリンゴだの、カラフルな弁当は用意できないんだ。これでも母ちゃんは毎朝早くに起きて、米を研いで、一度じゃ焼き切れないから何度も、何度もフライパンに油を引きなおして卵を焼いてくれるんだ。大変なんだよ。


 腹が立つ気持ちをグッと堪えて、弁当を取り返しに行こうと思った。そしたら番長が、あのカスが、ズボンを下ろして、俺の、母ちゃんが朝早くに起きて作った弁当に、小便を、ぶちまけた。


 頭の中がヒンヤリとして、空っぽになっていくのがわかった。あとはもう、よく覚えてない。壊すのは得意だ。取り巻きの雑魚どもは適当に投げて、多分脱臼程度で済んだと思うけど、カスは両肘を折って、そのあと全部の歯が折れるまで顔を床に叩きつけてやった。あまりにも脆くて、綿菓子でも相手にしてるみたいだった。


 その後、弁当の中身を捨てて、トイレで弁当箱を洗いながら俺は泣いた。


 警察のやっかいになるかもと思ったけど、ならなかった。カスと取り巻きの素行がそれだけ悪かったからか、誰も警察に訴えなかったらしい。高校は退学になった。


 母ちゃんはまた、色んな家を回って、菓子折りを持って謝りに行っているみたいだった。俺はもう、一緒には行かなかった。


 母ちゃんに会うのが辛くて、家に帰らなくなった。母ちゃんの目の届かないところへ行こうと思って、夜の街に出た。腹が減ったら、適当に悪そうな奴とか、イキったヤンキーをカツアゲした。この手の連中はもう、見るだけで殺してやりたくなった。どいつもこいつも、すぐに壊れる。鼻血をぼたぼた垂らしながら、泣いて謝ってくる。こんなに弱いのに、どうしてこんなに偉そうにできるんだろう。


「お前だろ。この辺でヤンキー狩ってるでかい奴って」


 京急川崎駅の近くで、両耳にハサミをぶら下げた長髪の男に声をかけられた。俺はすぐに構えを取った。だけど、この男はいつもの雑魚どもとは明らかに雰囲気が違った。うかつに手を出せば、なにをされるかわからない。ためらいなく腹に刃物を突き刺してきそうな、底の見えない残酷さを感じ取った俺はつい、一歩後ずさりした。


「そう怯えんなよ、寛ちゃん」


 男は俺を寛ちゃんと呼んだ。


「知ってるよ。扇高おぎこうの番長病院送りにしたってな。顎の骨が砕けちまって、流動食しか食えないってんであのデブ、ずいぶん痩せたらしいぜ。なんでそんなこと知ってるかって? 俺はここらへんの事情には多少、耳聡いもんでね」


 そう言って男は自分の両耳をトントンと指で叩いた。ハサミが揺れた。この男は俺のことをよく知っている。


 男は蛭川ひるかわと名乗った。


「強い奴がバカを見るなんて、おかしな世界だよな」


 きっと、俺が高校を退学になったことを言っているんだろう。いや、もしかしたら中学の柔道部のことも、この男は知っているかもしれない。なんなら、顧問の先生や、怪我をさせた先輩、母に通じていてもおかしくない、そう思わせる得体の知れない全能感、支配者の凄味のようなものがこの男からは感じられた。


「弱い奴らの方がずっと劣ってるのに。強いってことは優れてるってことなのに。世界は弱者にばっかり寄り添いやがる。俺たちみたいな強者を邪険にする。。そう思わねえか?」


 蛭川が何を言おうとしているのか、俺にはよくわからなかった。


「お勉強が苦手な寛ちゃんに分かるように言うなら、そうだなァ……」


 蛭川が何かを投げてきた。俺は反射的に、投げられたそれをキャッチした。それは何かの鍵だった。


「俺らはダチになれるってこと」


 その鍵と男を交互に見比べながら、黙って立ちすくんでいた俺に、蛭川は「着いてこい」と言った。俺は着いて行った。市役所通りの路肩に、紺色のビッグ・スクーターが停まっていた。


「やるよ。お近づきの印ってやつだ」


 その鍵はホンダフォルツァの鍵だった。紺色のホンダフォルツァ750。


「でかいお前にはちょうどいいだろ」


 多分、盗難車だろう。だけどどうでも良かった。もう家に帰るつもりはないし、行く宛てもない。夜の街で生きていくためには、蛭川のような男の傍にいた方が、都合のいいことも出てくるだろう。それにこの男は俺のでかさと強さをと感じたし、それになにより、フォルツァがカッコよかったから。


 それからは蛭川と、三下みした、こいつのことは最後まであまり好きになれなかったが、三人で色々やった。暴走族と乱闘したり、ヤクザに喧嘩売ってボコボコにしたり、スリルがあったし、楽しかった。ホームレスみたいな弱い奴をいたぶるのは気が進まなかったから、俺はなるべく見ないようにしていたけど。


 ――……


岩本「お前なら遠慮なく、俺の全力をぶつけられそうだ」

団長「ふん、なにを言ってるかわからん。来い!」


 先に動いたのは岩本だった。低い体勢からの凄まじい速度のタックルだ。常人であれば、一瞬で地面に押し倒されて背骨を砕かれてしまうだろう。


 雷鳴のような音が一瞬、短く響いた。そして衝撃が地面を伝って、固唾を飲んで勝負を見守るマルコやホームレスたちの足元を揺らした。


 岩本は団長の腰に腕を回し、がっちりと組み付いている。


本屋「マズイ、組み付かれた!」

三ちゃん「つくしで迎え撃たなかったのか! なんだつくしで迎え撃つって」

本屋「タックルが速すぎたんだ」

ノムさん「いや、でも、待てよ」


 岩本は団長に組み付いたまま動かない。団長は直立不動のまま、ふっと笑みをこぼした。


団長「剣の間合いに入ったな」


 岩本の額には汗が滲んでいる。全力で組み付いているはずなのに、倒すことも投げることも叶わない。まるで大岩に抱き着いているみたいだ。一体、この女のどこにそんな余力が……。


本屋「どうして倒されないんだ……?」

ノムさん「姉ちゃんの足を見ろ!」


 騎士団長の右足は、杭のように地面に深く打ち込まれていた。先ほどの地鳴りは団長が足を土中に打ち込んだ衝撃によるものだった。足を地面に打ち込み自分を固定することで、倒されることも投げられることも完全に防いで見せたのだ。団長は背中を大きく反らし、つくしを握った右手を天高く振り上げた。つくしはまばゆい輝きを放っている。


団長「必殺……」


「寛治!」


 どこからか女性の声が響いた。男の意識が一瞬その声に向く。誰かがこの男を呼んだ……ような気がするがすまん、もう止まらん。


団長「上翔輝竜アルターエンド!」


 無茶な姿勢から繰り出される変則アッパーカットが岩本の腹に深くめり込み、そのまま空高く打ち上げた。厳密にはアッパーカットではなく、つくしの先端部分で殴っているのだが。


ノムさん「き、決まったァーーーつくし剣!」

本屋「それはもう手で殴ってるんじゃないか……?」

補給兵「折れたヴェンダバルじゃダメなのかなあ……?」


 団長の体・腕・手首・つくしの回転によって巻き起こされた旋風が、岩本の体を、彼の衣服を引き裂きながら上昇していく。砂塵や小石や岩本のスタジャンの破片が旋風の中で激しく擦れ合って帯電し、閃光を放ちながら激しい音を立てて回転している。まるでそこに、突然小さな嵐が産み落とされたみたいだ。


三ちゃん「羽田まで飛んでいきそう」

本屋「もう何が何やらだ」


 夜空を飛行しながら、岩本は微かに残った意識の中で考えていた。あるいはそれは、を見ていたのかもしれない。


 どこまで飛ばされるかわからないが、そのあと地面に落下すれば、きっと自分は死ぬだろう。それは多分、たくさんの人を傷つけてきた報いだろう。母を悲しませた罰だろう。


 さっき一瞬、母の声が聞こえた気がする。あれは走馬灯のようなものだろうか。死ぬこと自体は怖くない。きっとそれは、受け入れるべき運命だから。だけど一人残してきた母が、これからどんな気持ちで生きていくのか。それを考えると少し怖い気がした。母は俺を呪うだろうか。いや、あの人は俺の葬式でも自分を責めるだろう。ごめんねと言って。また俺に謝るだろう。


 違うんだ母ちゃん。謝らなきゃいけないのは俺なんだ。


 本当は知っていたんだ。母ちゃんが俺にくれる玩具がどれも、はじめっから壊れかけの、誰かがもう遊ばなくなって寄越したお古の玩具だったってこと。


 だけど俺は、玩具が壊れるのを、母さんのせいにしたくなかったから、貧乏のせいにしたくなかったから、俺の力が強いからってことにしたんだ。俺の力が強いばっかりにって、いくつかはわざと壊したんだぜ。


 でも母ちゃん、そんな俺の浅知恵、きっと気付いてたよな。「新しい玩具を買ってあげられなくてごめんね」じゃなかったんだな。「そんな気を使わせてしまってごめんね」そんなごめんねだったんだな。


 俺はずっと自分に、俺は力が強いからって言い聞かせてたのかもしれない。そうやって何もかも、俺のせいにしてしまえば、母ちゃんが悲しい思いをせずに済むと思ってたのかもしれない。本当に、馬鹿げた浅知恵だ。


 ああ、あの時一度でも、『新しい玩具買ってくれ』って駄々の一つもこねてれば、もしかしたら俺も


 ドボンッ


 岩本の重い体は羽田まで届くはずもなく、大師橋の手前で多摩川に落下した。水は冷たかった。飢えたカミツキガメの群れが、肉付きの良い岩本を見つけて、財宝を積んだ商船に群がる海賊たちのように、我先にと嚙みついた。


岩本「いてぇ!! いってぇ!! 誰か、誰、か、か、母ちゃーん!」


 彼はきっと、家に帰るだろう。帰って一番初めに彼がすることは、その大きな体で、優しく母を抱きしめることに違いない。


 ホームレスたちは二人目の少年の撃退を喜び、商船からあらかた財宝を奪い尽くした海賊たちのように肩を組み、鼻歌を歌いながら、宴の準備に取り掛かろうとしていた。ノムさんが人数分(5個)のマグカップを家から持ち出してきて、紙パックの調理用ワインを注いで回った。


三ちゃん「上手い具合に川に落ちてりゃいいけどな」

ノムさん「それより三ちゃん、ほらほら」

三ちゃん「おっとっとおっとっと」

補給兵「わー赤いお酒だーなんだこれー」


 その光景を遠巻きに見て、団長は守るべき民を守りきった充足感を噛み締めていた。安堵の息を吐いたのと同時に、団長の右手の中でつくしが砕け散った。クリスタルのような音を響かせて、光の粒となって、風に乗って流れ消えていく。


本屋「騎士団長……彼女は本当に現実の人間なのか?」


 マグカップを手に持ったまま、本屋は騎士団長の姿を眺めて呟いた。

 再度、何かが砕け散るような音がした。


三ちゃん「ん? ノムさんコップ割った?」

ノムさん「いや?」


 団長の頭に、ガラス瓶の破片がいくつか付着している。団長の頭からはポタポタと何かの液体が滴り落ちていた。何かが団長の頭を直撃したようだ。


団長「……なんだ、この臭いは」


 団長は頭から滴り、手のひらまで降りてきたその液体の臭いを嗅いで言った。液体は団長の肩を濡らし、腰を濡らし、足元に小さな水溜まりを作っていた。


本屋「ガソリンだ」


 そうだ。一番体の大きな彼を退けたからか、それとも騎士団長の技があまりにも人間離れしていたからか、非現実的なことが起こりすぎていたからか、ぼくらはつい、忘れてしまっていた。一番忘れるべきではなかった、この現実を。


蛭川「やっぱあいつはダメだな。なんだかんだで、スポーツマンなんだよ」


 大柄の少年が乗っていたビッグ・スクーターに跨って、耳にハサミの少年が言った。ハンドルグリップを回し、ウォンウォンと大きな音を立ててエンジンを吹かしている。


蛭川「だけど俺は違うんだな」


 そう言って彼は、口に咥えたタバコにジッポーライターで火をつけた。


本屋「まさか……」


 最悪の予感がする。まさか、いくら無軌道な若者と言っても、人間がそこまでやるだろうか。この法治国家に生まれ育った人間が、そこまで危険で、常識に外れた行動を取ることができるだろうか。自分の予感を信じたくない気持ちでいっぱいだった。


蛭川「見ろよあの看板」


 少年は口から煙を吐き出して、少し離れたところに設置された看板をタバコの先で指した。古ぼけた、文字のかすれた看板だ。


蛭川「『バーベキュー禁止』だってさ。でもさ、禁止されるとついやってみたくなるよなァ」


 少年がタバコの灰を、ビッグ・スクーターの車体にトンと落とすと、激しい炎が上がった。ビッグ・スクーターにもまた、ガソリンがかけられていたのだろう。最悪の予感は的中した。炎上するスクーターに跨ったまま、少年は熱がる様子も見せず、不吉な笑みを浮かべてこう言った。


蛭川「思春期だからさ」

本屋「逃げろぉーーーーーッ!」


 燃え盛るスクーターのハンドルを思いっきり回して、少年はトップスピードで騎士団長に突っ込んでいった。衝突する寸前に、少年はスクーターから飛び降りたように見えた。スクーターの車体が、騎士団長に直撃して、大爆発が起きた。突風が吹いた。三ちゃんも、ノムさんも、鎧の彼も、一部始終を見ていたぼくもひっくり返った。騎士団長は、ああ……。


 火だるまだ。炎の中で黒い人影がもがいているのが見える。いくら騎士団長と言えど、あれではひとたまりもない。いや、ひとたまりもない、なんてもんじゃない。あれほどの業火に身を包まれた生物に、絶命の他に辿り着ける未来などありはしない。


 そこかしこで炎が上がっている。地面の草にもいくらか引火してしまったようだ。熱い。喉が焼けるようだ。少年はどうなった? あれじゃあまるで特攻だ。姿は見えないが、無事で済んでいるはずはない。どうする、ぼくは今なにをするべきだ、考えろ、考えるんだ、数彦!


蛭川「俺って昔から運が良くってさァ……」


 嘘だ……


蛭川「って言うのかな、普通の奴なら死んじまうようなことでも、なぜか毎回死なねえんだよなァ」


 炎の向こうから、悪魔の声がする。


蛭川「今回も、俺の勇気を神サマも買ってくれたらしい」


 炎を踏み越えて現れた少年の顔はやはり、およそ人間とは信じがたい、愉悦と残酷が入り混じった、歪な笑いに満ちていた。ああ、どうか、神よ、どうか。

 

蛭川「アディショナルタイム開始だぜ」


 この悪魔から、ぼくたちを救い給え……。



 次回、第7話 『河川敷の死闘③夜明け』




●第6話のtipsは空白になっている

物語が今より少し進んだ時にもう一度見に来てみよう

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