第5話 河川敷の死闘 ①ヒーロー


 友田数彦ともだかずひこは本の虫だ。


 幼い頃から本の世界に耽り、親にも兄弟たちにも心を開かず、学校の勉強にも、労働にも、なに一つ熱心に取り組むことができず、ただひたすらに、川の水のように流れる好奇心のままに本を読み続けていた。


 読書だけが彼の生きがいで、読書のために彼は自身をホームレスの身にまで堕とした。親が死に、兄弟たちとは連絡もつかず、彼は住処を失った。本を積んだリヤカーを引き、腹が鳴り、寒さに歯が音を立てて震えても、小銭を拾えばまた本を買った。


 あの時とうに死んでいたはずの自分が今こうして生きながらえているのは、あの日、三ちゃんが手を差し伸べてくれたからに他ならない。ボロの外套と、一飯の礼をしたかったが、三ちゃんは「おめえが生きてるだけでいい」そう言って何も受け取らなかった。もっとも、彼が三ちゃんに渡せるものなど、古びた本以外になにもなかったのだが。


 だから知識を提供した。本で得た知識は、意外にもこの河川敷で生きる上で存分に役立った。食べられる草の種類や見分け方、植物の薬効や、虫への対処法を提供し、区報や区議会の議事録を読み、自分たちの住処が脅かされることのないよう、情報収集を怠らなかった。


 ノムさんがここへやって来てからは、食べられる魚の種類や、その釣り方や適した餌の作り方、即席の調理器具の製作方法などが大いに役立った。彼の知識とノムさんの調理技術を掛け合わせると、河川敷の生活は驚くほど豊かに、文化的なものに昇華された。


 ヨッチャンと呼ばれていた男は、中年でありながら、いつも目をキラキラさせて、夜ごと彼の元へやって来ては寝物語をせがんだ。ヨッチャンは児童向けのファンタジー小説を好んで聴きたがった。毎夜この河川敷で、彼らは無限の物語世界を旅した。甘く、幻想的な時間だった。


 友田数彦は本が好きだ。美味い物を食うことや、美しい女よりも本を愛した。だがそれ以上に、本で得た知識が仲間の役に立つことが好きだった。本ばかり読んで、その結果、河原乞食になり果てようとも、を肯定できるこの瞬間が、彼にとってなによりの生きがいだった。それは彼が死にかけて、ホームレスになって初めて気づいたことだった。


 「本屋はほんとうに物知りだな」


 三ちゃんはいつも笑ってそう言った。


 本屋はそれまで以上に実用的な書物、例えば水のろ過装置の作り方だとか、自転車の修理・メンテナンスの手引きだとか、聞いたこともない国の料理のレシピ本だとか、そういった物を読むようになった。


三ちゃん「もっと好きなもん読んだっていいんだぜ。俺たちに気を使わないでさ」

本屋「ぼくが君たちに恩返しできることって、これくらいのものだから」

三ちゃん「おめえが生きてるだけでいいんだから」


 太陽のような人だった。

 もし仮に本を読むことを禁じられたなら、自分は本当に死ぬような思いをするに違いない。だけど、三ちゃんを失うことに比べたらきっと、大したことじゃない。そう思うほどに、三ちゃんは本屋にとってかけがえのない人物になっていた。


 その三ちゃんが今、無謀にも、に対峙している。たった一人で。


本屋「頼むよ三ちゃん、走れ! 走ってくれ!」



 場所:川崎市幸区、多摩川河川敷。ホームレスの集落『河原サロン』

 状況:改造スクーターに乗った少年たち3人と三ちゃんが対峙している。



 いつの間にか空のほとんどが濃紺に染まっていた。無慈悲に広がり続ける夜が、太陽を追い立てていく。西の空の端に小さく、血のような色が残っている。まるで逃げ遅れた太陽が、悲鳴を上げているような、そんな色だ。


 星々がせわしなく瞬いている。まるでこれから行われる処刑の様子を見守る群衆が、ひそひそと噂話をするみたいに。


 少年の一人が口を開いた。


少年A「走れって言ってるぜ」


 安っぽい金髪頭に、口に大ぶりなピアスを着けた、猫のような目をした少年だ。まだ若い。きっと16、いや15歳か、中学校を卒業したばかり、それくらいの年に見える。彼はサイケデリックな配色のステッカーをベタベタ張り付けた、「JOG」と書かれたスクーターに腰かけて、ハンドルに体重をかけて気だるそうに言った。


少年A「いーのかよ、逃げなくて」


 三ちゃんは黙っている。


少年A「ま、逃げたところで同じだけどな」


 春先にしては冷たい風が吹いた。強い風だ。背の高い草が揺れてざわめいている。まるで彼らを見つめるぼくと、隣で小さくなって、両手を擦り合わせて何かに祈っているノムさんの心の表面を撫でるように、ザワザワと音を立てて。


三ちゃん「どうしてだ……?」

少年A「あ?」

三ちゃん「どうしててめえらみてえなクズ共に、あいつは殺されなきゃならなかったんだ……?」

少年A「は? あいつ? 誰?」


 金髪の少年は、すぐ隣でビッグ・スクーターに跨った大柄な少年に尋ねた。こちらは年の頃は16か17か、金髪の少年より少しだけ年上に見える。きっとその大柄な体格のせいだろう。黒いスタジアムジャンパーを着た、坊主頭の少年だ。彼らと一緒にいなければ、真面目な柔道少年に見えなくもないが……。


少年B「……」


 彼はなにも答えなかった。代わりに、彼ら二人の後ろにいる少年が口を開いた。


少年C「あいつじゃね、先週俺らがここでボコった」

少年A「あー、あの気持ち悪いオッサンかぁ!」


 金髪の少年は左手を皿に、右手で槌を打った。なるほどね、と軽妙な仕草だ。


少年A「なんだ、あいつ死んだのかぁ」

少年C「オメーがボカボカ殴り過ぎなんだよ」


 三ちゃんは依然、両足でしっかりと地面を踏みしめて、少年たちを睨みつけている。いや、先ほどよりもずっと歪んだ形相で、唇から血がにじむほどに歯を強く食いしばって。


 ぼくはと言えば、足が震えるばかりで、動くこともできない。助けを呼ぼうにも、恐怖で喉が焼かれたようだ。携帯電話など誰も持っていない。


 ノムさんが涙を零しながら、小さく小さく呟いている。かろうじて聞き取れるかどうかの声で、お願いだ三ちゃん、走れ、走ってくれ。あんたまでいなくなったら、俺たち、もう。……ぼくも心の底から同じ気持ちだった。

 


 ちくしょう、本の知識なんか、なんの役にも立たないじゃないか。



少年A「なんでって言ってたよな、オッサン」

三ちゃん「……」

少年A「なんであいつ殺したのーって。そうだなぁ、しーて言うならぁ」

三ちゃん「……」


 金髪の少年はスクーターから降りて、三ちゃんの前までやってきて、三ちゃんの顔の前で憎らしい顔を作ってこう言った。


少年A「……暇つぶし」

三ちゃん「うわああああああーーーーーッ!!」


 三ちゃんが吠えた。頭突きだ。トレードマークの赤い帽子のつばが少年の顔に当たったように見える。ダメだ三ちゃん、そんなこといいから、早く逃げてくれ!


少年A「いって……」

少年B「……」

少年C「ギャハハ! オメー、オッサンに一発貰ってんじゃねえよ!」


 金髪の少年は目を抑えている。坊主頭の少年は依然表情を変えない。もう一人の少年……側頭部を剃り上げた、黒い長髪の少年。年の頃は18くらいだろうか。カラスのような黒い毛羽だった上着に、黒い細身のズボン。眉にたくさんのピアスを着けて、耳には大きな……片刃のハサミが一本ずつぶら下がっている。仲間が傷つく姿でさえ面白いといった風に、舌を出して笑っている。


少年A「いってえなーコンタクトずれたじゃねえかよチクショー」


 三ちゃんは興奮か、恐怖か、わからない。肩で大きく息をしている。歯の隙間から勢いよく漏れ出る息がフシュウフシュウと、蒸気機関のような音を立てている。


少年A「しね」


 少年が勢いよく三ちゃんの頬を殴打した。ブッと唾を吐くような音がして、口から何か、たぶん歯だ。が飛んだように見えた。


ノムさん「ああ!」

少年A「しねよ」


 間髪入れずにもう一度、返す手で三ちゃんの頬を打った。三ちゃんがよろめいた。


三ちゃん「……許ざねえ」

少年A「あー?」

三ちゃん「てめえら死んでも許ざねえがらなっ!」

少年A「許してくれなきゃどうなんだ? あー?」


 少年の前蹴りが三ちゃんの腹にめり込んだ。三ちゃんは後ろに倒れて、そのまま二度、三度地面の上を転がった。ダメだ。ああ、ダメだ。もう見ていられない。頼む。三ちゃん。もう立ち上がらないでくれ。そのまま倒れていてくれたら、この無軌道な若者たちも満足して立ち去るかもしれない。だからどうか。


少年C「おいおい! 結構タフだぜ、このオッサン」


 ハサミの少年が嬉しそうに声を上げた。三ちゃんは立ち上がってしまったのだ。


少年C「それともオメーが弱ぇのか? なぁ、三下みしたァ」

少年A「うぜーなー……」


 そう言うと金髪の少年はスクーターから、金属バットを取り出してきた。ベコベコに凹み、ところどころ赤黒いシミの付いた、とてもスポーツでそうなったようには見えない禍々しいそれを肩に担いで、三ちゃんのところへ近づいていく。


ノムさん「神様……どうか」


 ああ、ぼくはたぶんもう、ぼくを呪っていた。本ばかり読んできたばっかりに、これっぽっちも役に立たないぼくを。生まれてきた意味など、どこにもなかったこのぼくを。今まさに、太陽を失おうとしているぼくを!


少年A「ぶちまけろ」


 少年が両手でバットを振り上げて、思い切り振り下ろした。きっと振り下ろした。その光景をもはや、ぼくは見ていなかったけれど。


 ガィーーーーーン…………と大きな音がした。冷たく無慈悲な梵鐘が、事の終わりを告げるみたいに。


ノムさん「あ……」


 もう、顔を上げることができなかった。一巻の終わりだ。今、三ちゃんと一緒に、ぼくの心も死んでしまった。


少年A「なんだてめえは!」


 ……なんだてめえは?


ノムさん「でっかい姉ちゃん……」


 でっかい姉ちゃん? なんだ、この期に及んで何を言っているんだ、ノムさん。


ノムさん「本屋、見ろ!」


 勘弁してほしいな。ぼくはもう、何も見たくないんだ。


ノムさん「いいから見ろって!」


 ノムさんに両手で顔を鷲掴みにされて、残酷な犯行現場に顔を向けられる。そこには倒れた三ちゃんと、血みどろの金属バットを担いで勝ち誇った顔をした少年がいるはずだった。しかしそこにいたのは、中世ファンタジーの世界から飛び出してきた、救いの騎士の姿だった。


少年A「てめえ、コスプレかぁ!?」

団長「弱いな。貴様の剣にはひとかけらの信念も感じられん」


 鎧を着た彼女が、信じがたいことに、いや、まったく信じがたいことに、で少年の金属バットを受け止めていた。三ちゃんは依然、彼女の後ろでふらつきながら立っている。一体何が起こっているんだ!


ノムさん「何が起きてるんだ! 本屋!」


 ぼくにだってわからないことはある。いや、この状況を説明できる人間なんて、世界に一人だっていないだろう。チョコチップスティックパンで、金属、バット、を? え?


団長「言葉も、文化も、ここが一体どこなのかも、お前たちの間にどんな確執があるのかも、なにもかもわからぬ。この国に来てから、わからないことしかないんだ」

少年A「ああ、なに言ってんだてめえ!」


団長「だが今ここで、誰を守るべきかはわかる!」


 彼女がなにかを言った。なにか、それは本当にわからないんだ。だけど起きたことは確かだ。彼女がチョコチップスティックパンで少年を殴打、いや、剣で斬り上げたように見えた、すると、少年は叫び声を上げながら天高く飛ばされ、そのまま多摩川に、落ちた……。


本屋「何が起こってるんだ……」


 そしてチョコチップスティックパンが音を立てて砕け散った。クリスタルが砕け散るような高い、神秘的な音を立てて。


本屋「本当に何が起こってるんだ……?」

ノムさん「奇跡だよ本屋……」

本屋「奇跡……?」

ノムさん「奇跡のヒーローが俺たちを救ってくれたんだ!」


 これまで、何千、いや何万と本を読んできたが、こんな物語は見たことがない。異世界からやってきた騎士がチョコチップスティックパンで敵を倒しホームレスを救う物語。なんてバカバカしい話だろう。だけどこれは現実だ。現実に起こっていることなんだ。


 震えが止まらなかった。


補給兵「落ちたのが川で良かった……。死んでないよな……?」


 鎧の青年は驚いた様子もなく、むしろ川に落ちた少年の方を案じているようだった。川面に浮かぶ少年の周囲にはバシャバシャと飛沫が立ち上がっている。


ノムさん「ピラニアの群れだ……」


 近年の多摩川の生態系は深刻なのだ。外来生物の放流は絶対にやめよう。


本屋「はは……あれじゃあ無事とはいかないな」


 ガシャッ、と大きな音がした。見ると彼女が地面の上で体勢を崩している。一難去ってまた一難。そうだ、まだ少年たちの一人を退けたに過ぎないのだ。


団長「投げられた……だと?」

少年B「……ふん」

少年C「なーんか祝勝ムード漂わせてるところ悪いんだけどさあ」


 大柄な少年が彼女を投げたのか、信じられない。彼女だって相当な大柄で、着ている鎧を含めれば100㎏くらいはありそうなものだが、それを投げたと言うのか。


少年C「面白いなーその女。オリンピック選手かなんかー?」

団長「……」

少年C「だけどこいつはつえーぞー」

少年B「……」

団長「マルコ、さっきの攻撃で武器がなくなった! もう一本寄こせ!」

補給兵「え……」食べてる

団長「なにをやっているんだ貴様ーーッ!」

補給兵「だって……」モグ……


 鎧の青年は空になったチョコチップスティックパンの袋を振って見せた。つまりその、彼女の武器をすべて平らげてしまった、という解釈で合っているのだろうか……。


少年C「第2ラウンドといこうや」



 次回、第6話 『河川敷の死闘 ②悪魔』




●tips『多摩川の生態系』

かつては生活排水や工業廃水によって汚染されていた多摩川だが、近年、水質改善が進み多様な生態系を回復した。上流ではウグイやカジカ、イワナ、ニジマス、オイカワなどが、中流ではアユやキンブナ、ナマズやライギョが、下流ではウナギも釣れる。しかし何者かの手によって、本来日本には生息していない外来魚が持ち込まれ、多摩川の生態系は狂い始めている。ピラニアやアリゲーターガー、カミツキガメに、アザラシまで確認された事例がある。このイカれた生態系を皮肉って『タマゾン川』などと呼称する向きもあるが、二子玉の手前にamazonの倉庫が建てられたことによって、周辺住民は黒幕の正体に気付き始めている。

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