第4話 咆哮

登場人物:


三ちゃん

 多摩川河川敷に作られた浮浪者たちのバラック『河原サロン』のリーダー。健康的に日焼けした50代前半のホームレス。身長は165㎝だが、背筋がしゃんと伸びていてスタイルが良い。身体を動かすことを好み、よく笑う。赤色が好きで、着用しているキャップやネルシャツ、スニーカーは赤で揃えられている。本人がリーダーを買って出たわけではないが、持ち前の正義感と利他的な性格、赤が良く似合うこと、そして誰よりも空き缶集めの才能があることから、自然にサロンのリーダーとして認められるようになった。


本屋

 読書家のホームレス。白髪のモジャモジャ頭に、曇った牛乳瓶底メガネをかけている50代半ばの男。まっすぐ立てば身長は170㎝程度あるが、彼がまっすぐ立ち上がるのは小便の時くらいだ。拾った小銭でコツコツと古書を買い集め、彼のブルーシートハウスには数千冊の蔵書がある。好奇心に垣根がなく、純文学から女性ファッション誌、悪魔の辞典から快楽天に至るまで、彼の前に置かれた活字は見る間に、ダンゴムシの群れに貪られる落ち葉のように、彼の知識欲の胃袋の中に収められてしまう。本以外のことには無頓着で放っておくと餓死しかけたり凍死しかけるため、三ちゃんが食事や衣服を分け与えている。『河原サロン』は彼が名付けた。


ノムさん

 元々は銀座だか赤坂だかで、フレンチだかイタリアンだかのコックをやっていた男。なぜホームレスになったか本人は語りたがらないが、おそらくコロナ禍で店を潰したのだろうと言われている。サロンでは比較的新しいメンバー。180㎝の長身で、夏場でもニットキャップを被っている。口の周りに真っ黒な髭を生やしている。河原で獲れた草や魚やテナガエビ、三ちゃんが拾ってきた残飯をそれなりの料理に仕上げる特技があり、河原サロンの台所と呼ばれている。


ヨッチャン

 故人。河原サロンの元メンバー。三ちゃんの弟分で(実の弟とする説もある)、物を知らず、簡単な足し算もできなかったが、屈託のない性格と、ロマンチックな空想を好んで語ったことから、誰からも愛されていた。先日、悲しい事件によってその命を落とした。



 場所:川崎市幸区 多摩川河川敷

 状況:川べりのチョコレートのようなコンクリートの足場の手前に、背の高い草が生い茂っている。その草を切り拓いて、いくつかのブルーシートハウスが建っている。どのハウスも風雨に晒されて薄汚れてはいるが、確かにそこに人の暮らしの気配が伺える。それぞれのハウスの軒先の共有部分は円形に整地され中庭パティオのようになっている。良く言えば地中海沿岸の国々の洒落た集合住宅のようで、悪く言えば低級ゴブリンの巣のようだ。



 時刻は18時過ぎ、西の空は赤く燃え輝いているが、東の空は夜の濃紺に染まってきている。まだ初々しい夜空に、星々がかすかな産声を上げて瞬き始めていた。


 ホームレスの三ちゃんは丸石サイクルの黒い自転車 ――よく手入れされたそれを彼は『ロシナンテ』と呼んでいる―— をがに股で漕ぎながら、河川敷の住処に帰ってきた。


 自転車の後部に係留されたカート、これはスーパーマーケットの駐車場のはずれに放置されていたショッピングカートを拝借した物だが、それに騎士団長とマルコを積み込んでいる。河原の石っぽい地面の上を進むカートはガタガタと激しい音を立て、車輪は嵐の午後の風見鶏のようにぐるぐる暴れていた。


 中庭の椅子に腰かけて本を読んでいた瓶底メガネの男 ――通称『本屋』―― が、カートの立てるガタガタという音に気が付いて、がに股でやってくる三ちゃんに目を向けた。三ちゃんが伸びやかな声で呼びかける。


三ちゃん「よ~、やってるかい」

本屋「やあ三ちゃん、おかえりなさい」


 本屋は椅子に座ったまま優しい声で答えた。もう一人、逆さに置いた一斗缶に座っていた髭面の男は、調理用の紙パックのワインを欠けたマグカップに注いでいるところだったが、三ちゃんの引くカートに積まれたを見て、驚いた様子で立ち上がった。


ノムさん「ちょっとちょっと、なにを拾ってきたの」

三ちゃん「それがさ、いまどき行き倒れだよ」

ノムさん「行き倒れぇ?」

三ちゃん「病気とか熱って雰囲気でもないし、熱中症なんて季節でもないから、腹が減ってるんじゃないかなって思って、ね」

本屋「へえ、令和の時代に珍しいね」


 本屋は読んでいた文庫本を栞も挟まず閉じて立ち上がり、カートに積まれている騎士団長とマルコをしげしげと見つめた。


三ちゃん「見たところ外国人みたいだし、訳ありなんじゃねえかな」

ノムさん「でっけえ姉ちゃんだなー」

本屋「こっちの彼も、日本人の顔立ちじゃないね」

三ちゃん「なかなかきれいな顔してるよ、な」


 三ちゃんはニカッと歯を見せてそう言った。それが本屋に対して言ったのか、ノムさんに対して言ったのか、騎士団長の顔立ちについて言及したのか、はたまたマルコの顔について言及したのかは定かではないが、屈託のない笑顔だった。


ノムさん「それにしてもこの臭い……」

三ちゃん「くっせえよな~。俺も驚いたぜ」

本屋「外国の方は体臭がキツいなんてよく言うけれど、それにしても……」

三ちゃん「俺たちよりよっぽど臭いぜ」

ノムさん「血と汗と腐った卵をかき混ぜたような臭いだ」

三ちゃん「相当長いこと風呂に入ってねえと見える。ってことはよ、住むところがねえんじゃねえかな」

本屋「じゃあ、ぼくらと同じルンペンだ」


 ルンペン、という言葉の響きが懐かしくて、おかしくて、三ちゃんとノムさんはふふと笑った。それから二人の風体をしげしげと見て、ノムさんが口の周りの髭を指で撫でつけながらこう言った。


ノムさん「ずいぶんおかしな格好してるなあ」

本屋「まるで中世の騎士、みたいだね」

三ちゃん「パスポートだの在留カードだの、そういうのは持ってなさそうだ」

本屋「言葉は通じるのかい?」

三ちゃん「どうだか、俺が見つけた時にはもうノびてたから」

ノムさん「には届けなかったのかい」

三ちゃん「へっ、あいつらがなにをしてくれるってんだ」

ノムさん「まあな、俺らとしても極力関わり合いになりたくないしな」

三ちゃん「なんであれ、このままほっといたら死んじまう。そう思って拾ってきたわけよ」


 本屋はマルコの皮膚をつねってみたり、手指の爪をグッと押し込んで、なにかを確かめているようだ。


本屋「脱水症状を起こしてるかもしれない。水、持ってるかい」

ノムさん「ワインしかないなあ」

三ちゃん「飲みかけの『お~いお茶』で良かったら」

本屋「間接キッスになるけど、いいかい」

三ちゃん「俺は一向に構わんぜ」


 本屋はうん、と頷いてお茶のペットボトルの蓋を開けて、騎士団長とマルコの口にあてがい、少しずつ飲ませた。


本屋「うん。ちょっとずつだけど、飲んでるよ」


 騎士団長の乾いた唇に潤いが戻っていく。


団長「う……」

ノムさん「気付いたぞ」

本屋「急に体を起こしちゃだめだぞ。ゆっくり、ゆっくりだ」

補給兵「……団長?」

三ちゃん「彼氏の方も目を覚ましなすったぜ」

団長「……ここは」


 この国に飛ばされてから、いや、魔王軍と相対してから何度意識を失っただろう。我ながらよく生き延びているものだ。……依然、空腹で力が抜けたような状態だが、体にゆっくりと血が巡っていく感覚がある。視界も徐々に明瞭になっていく。


三ちゃん「気分はどうだい、外人の姉ちゃん」


 私たちを見下ろす三人の男。やはり異言語を話しているが、オークやゴブリンの類ではない。この国の民だろう。しかし身なりは一様に薄汚れていて、市街で見た市民たちとは明らかに様子が違う。この国の文化に疎い私にもわかる。彼らはどう見ても身分の低い者、移民もしくは市民権を持たぬ者たちだ。


 周囲に目をやると、青い天蓋に覆われた……おそらく彼らの家だろう。先ほど邂逅した男の住んでいた家屋に比べて、あまりにも小さく頼りない。アル=カザンサの市街地の外れにも、こういう仮設的な住居は増えている。魔物に故郷を追われた民たちが暮らす仮住まいだ。帝国より遥かに発展した文明を誇る都市だと思っていたが、かような貧しき者たちがここにもいたとは。


三ちゃん「やっぱり、言葉通じてねえのかな」

本屋「どこの人だろうね。英語がわかるなら簡単なコミュニケーションくらいは取れるかもしれない」

三ちゃん「さすが本屋だな」

本屋「アーアー……Where're yu from? D' Yu speak japanese? o,N'english?」

ノムさん「かっこいいなぁ」


 本屋が独学で身に着けた、独特な訛りのある英語で尋ねたが、当然、騎士団長とマルコにその意味は通じない。言葉が理解できない、という状況にもはや慣れ始めていた騎士団長とマルコは、その聴覚よりも視覚に神経を集中させ、少しでも多くの情報を得ようと頭を働かせていた。


補給兵「彼らが救護してくれた、ということでしょうか」

団長「そのようだ。見返りを要求するそぶりもない。暮らしぶりは貧しくとも、決して卑しい者たちではないようだ」


 彼らのや周囲を観察するに、(アル=カザンサの一般的な市民と比較しても)その生活水準は決して高くないが、彼らの身なりや振る舞いからは知性が感じられる。野盗や魔物たちが放つ野蛮さは一切感じられない。彼らは貧しいなりに、助け合い、工夫して生活を楽しんでいる。そんな印象だ。


団長「まさか最初に救いの手を差し伸べてくれたのが、このような者たちだとは」

補給兵「運がよかった、のかな」


本屋「聞いたことのない言葉だ。英語かスペイン語か、中国語のどれかしらは通じるかと思ったんだけど……」

ノムさん「本屋はそれを全部話せるの?」

本屋「日常会話くらいなら、たぶん」

ノムさん「すげえな」

本屋「簡単な英語さえ通じないんじゃ、今のところ会話は難しいな」

三ちゃん「まあなんでもいいじゃねえか。うちのだって、日本人だけどたまに何言ってっかわかんねえしな」

本屋「言えてる」

三ちゃん「言葉なんてなぁ所詮……言葉だ! 耳が聞こえなくったって口が聞けなくったって元気に生きてる奴もいる。なんとかなるだろ」


 ノムさんは感心した顔で頷いた。三ちゃんは楽天家で、物事を深く考える性質たちではないが、人を安心させる特別な力を持っている。かつて絶望の淵にいた自分を立ち直らせてくれたのも三ちゃんだった。そのことを思い出しながら、何度も何度も頷いた。


 本屋は真剣な顔つきで何かを考えているようだった。彼の膨大な知識にアクセスして、団長とマルコの身なりや顔立ち、話す言葉の響きから、彼らの素性とそれに通じる手がかりを探っているのだろう。


補給兵「団長、月が」

団長「ああ」


 団長とマルコは夜空に煌々と輝く満月を見上げた。


団長「月だ。輝いている」

補給兵「アル=カザンサで見上げる月と同じだ」


 遠き異国の地でも、月は輝いている。アル=カザンサで見上げる夜空と比べるといささか星が少ないようだが、月は等しく大地を照らしている。

 ここは遥か遠くではあるが、まったくの別世界、というわけでもなさそうだ。この空の続く果てのどこかに、我々の帰るべき帝国がある。そう思うだけで、胸につっかえていた不安が幾分軽くなるようだった。


団長「帰るぞ。アル=カザンサに」

補給兵「まあまあ、焦らず、ゆっくり。そのうち、ね」


 マルコからは帰りたくない気持ちがひしひしと伝わってきたが、今はこいつの言う通り、焦るべきではない。焦ったところで道は開けそうにない。第一、体調は万全とは程遠いし、進むべき道が南か北か、右か左か、それすら見当もつかないのだ。まずは情報を得て、態勢を整えねば。


 アル=カザンサに想いを馳せる。皇帝陛下に、騎士団の全滅の報せはもう届いているだろうか。いや、我々がここに来てからまだ一日も経っていないはずだ。になにかおかしなが生じていなければの話だが。


三ちゃん「これ、食いなよ」


 そう言って三ちゃんはコンビニのおにぎりを差し出した。プラスチックのフィルムに包まれたもので、パッケージの表には『昆布』、裏面には成分表の細々した文字と、昨日が賞味期限であったことを示す日付が印刷されている。


三ちゃん「昆布。鮭だのツナマヨだのは大概売り切れちまうらしいが、今どきの人は昆布を選ばないらしい」

ノムさん「俺はいちばん好きだけどね」


団長「……」

補給兵「これは……なんでしょうか」


 尋ねられても、黒い、三角形の、これは一体なんだろうか。市街地の人々が一様に持っていたあの石板の一種だろうか。


三ちゃん「意外かい? ホームレスから施しを受けるなんて」

ノムさん「俺もはじめは驚いたもんな。案外、食うに困るというほどのことはないんだから」

本屋「飽食の時代だからね、食べ物はそこらじゅうに、文字通り捨てるほど溢れている」

三ちゃん「ノムさんもいるし、そこいらの苦学生よりよほど恵まれた食生活を送っているぜ」


 団長はそのおにぎりを睨みつけていた。この物体の用途を探っているのだ。マルコは口をポカンと開けて、差し出された物体が何を意味するのか、考えることもせず、団長かホームレスたちがその答えを出してくれるのを待っていた。


ノムさん「おにぎりを見るのは初めてって顔してるぜ」

三ちゃん「あんたら、おにぎりも知らねえでどうやって日本にやってきたんだい。おそらくは飛行機か、今どき船ってこともないだろうが」

本屋「まるで中世ヨーロッパからタイムスリップでもしてきたみたいだ」

三ちゃん「これはな、こうやって開いてっと」


 三ちゃんは器用におにぎりのフィルムを解いた。海苔の形を崩さないよう、するりとフィルムを脱がせたそれを、マルコの顔の前に差し出した。


補給兵「だ、団長」

団長「もしかして食料、なのか……?」


 マルコが戸惑っているのを見て、三ちゃんはそのおにぎりを自分の口の前に持ってきて『あーむ』と言って食べる真似をした。


三ちゃん「ヤミー、ヤミー。デリシャス! イートイート! ほれ」


 やはり食料のようだ。しかし黒い。黒すぎる。黒パンや黒豆、黒い食物は帝国にもある。あるが、これは全くもって味の想像もつかない。一体なんという食べ物で、なにが入っているのだろうか。


補給兵「た、食べますよ」

団長「……ああ」


 死ぬことはないだろう。それにマルコも私も空腹の限界を迎えている。毒見、というわけではないが、まずはマルコに食べてもらった方がいいだろう。、それを確かめねばならない。


 マルコは黒いそれを手に取り、がぶ、と思い切りよく嚙みついた。パリパリと乾いた油紙のような音を立てて、黒くて薄い膜が破れると、断面からは白い粒が現れた。ここまでつぶさに観察してもなお、この黒い食物の正体がまったくわからない。文化が違い過ぎる。


補給兵「んぐ、ん……ん?」

団長「……どうだ」

補給兵「ほへぇ……?」

団長「食えるのか。食い物で合ってるのか」


 マルコの瞳が散大したように見えた。空腹と疲労で落ち窪んだ眼に光が差し込んでいくようだ。


補給兵「こ……これは」

団長「おい、大丈夫か。異常はないか」

補給兵「これは……」

団長「おい、答えろ。どうなんだ、マルコ!」

補給兵「……なんだ?」


 ダメだ。まったくわからない。食べた本人がこの様子では、私が口にできるものかどうか、判断のしようがない。


補給兵「黒いパリパリは……紙? でも食べれる紙です。ほんのり、香ばしいような風味があって……白い粒はたぶん、穀物です」


 そう言うと、また一口、また一口と頬張り、顎を大きく動かしながら、確かめるように咀嚼している。顔には見る見る生気が取り戻されていく。


補給兵「……たぶん、たぶん穀物をふかした、柔らかい……。虫や魚の卵を茹でたものかも、いやでも、たぶん穀物です。噛むほど優しい甘みが広がって、あっ、なにか、なんだろう、植物の茎? みたいな歯ごたえの……」

団長「なんだ、まったくわからんぞ、つまり食えるのか?」

補給兵「なんだ!?」


 マルコは混乱している。見ている私以上に混乱している。謎は深まるばかりだ。とにかく、私が食べられるものかそうでないか、それだけが問題だ。


団長「……ゴクッ」


 しかしなぜか唾が出る。生存本能のようなものだろうか。あまりの空腹に、今すぐにこれを食えと本能が言っているようだ。とても美味そうには見えないが……。


補給兵「あ、あ……なんだこれ、茎はたぶん、何かの茎の、これも黒い、塩漬け。甘さと塩辛さが口の中で混ざり合って、ああ、ああ、うわあ、美味い……」


 美味い……?


団長「美味い、だと?」

補給兵「ええ、美味いです。これ、初めて食べる味だけど、美味い。すごく美味いです団長。あ! ……美味い。ああ、ああ!」


 マルコは見開いた目から涙を零している。


団長「泣くほど美味いのか……」


 まるで生き別れた家族と数年ぶりに再会したような表情だ。、ということもあるかもしれないが、しかし、それほど美味いものだとすれば……残念だ。


団長「私には食べられそうにない」

補給兵「あ、ごめんなさい全部口に入れちゃいました……口が止まらなくて…」

団長「いや」

補給兵「団長の分も取っとかなきゃって、全部口に入れてから思い出しました。ごめんなさい、でも美味い」

団長「いいんだ。どのみち私の食べられるものではなかった」

補給兵「美味い……」


 マルコは依然涙を流している。どこからそれだけの水が湧いてくるのか不思議なくらい止めどなく涙を流している。


補給兵「ごめんなさい。ぼく下っ端なのに、団長の分まで……ああ」

団長「……良かったじゃないか」

三ちゃん「……ぷっ」


 それまでマルコの食事風景を黙って見ていた男たちが、堰を切ったように笑い出した。三ちゃんも、ノムさんも、本屋も声を出して笑った。


三ちゃん「おにぎり食って泣いてる奴は初めて見たなあ!」

ノムさん「なんだか俺まで、ヒグッ、涙が出てきちまった、イヒヒッ」

本屋「ノムさん器用だねえ、泣きながら笑ってるよ」

ノムさん「そうだよなあ、ヒック、美味いよなあ。久しぶりの飯だったんだもんなあ、ヒヒッ」

三ちゃん「ノムさんも苦労したもんな」

ノムさん「ヒヒッ」

団長「……」


 マルコの様子がおかしかったのだろうか。まあ、確かにおかしいかもしれない。泣きながら物を食べる人間なんて、そうだ、戦争帰りの兵士くらいのものだろうから。


三ちゃん「ほら、これもやるよ」


 そう言って三ちゃんは、中庭の片隅の、バスケットボールくらいの大きさの石の前に置かれていたチョコチップスティックパンの袋を差し出した。


三ちゃん「姉ちゃんも、ほら」


 と言ってビニールの封を破いて開き、袋の中身を団長に見せた。


ノムさん「いいのかい、三ちゃんそれ」

本屋「ヨッチャンのお供え物だろ」

三ちゃん「あんまり食いっぷりが良いもんでよ。つい食わせたくなっちまった」

ノムさん「まあ、たしかに良い食いっぷりだ」

三ちゃん「それによ、あいつが生きてたら、きっと分けてやっただろ」

本屋「そうだね。好きなものほど人に分けてあげていたもの」


 パン……か? 細長いパンのようだが、小さな黒豆のような、いや焦げか? わからない。先ほどの謎の食物に比べれば幾分我々の口にする物に近いようだが……。


補給兵「ハア……ハア……団長、食べないんですか?」


 マルコが飢えた獣のように、しつこいくらいに舌を出したり引っ込めたりしながら袋の中身と私の顔とを見比べている。理性がはち切れそうなまるで、獣人のようだ。


団長「まずはお前が食ってくれ」

補給兵「ありがとうございます!」


 マルコは赤い帽子の男からパンの袋をひったくると、袋の口に顔を突っ込んだ。


補給兵「はむ……ハァ! はむ……あっ、うわ、はあ。あっ、ああ……!」


 どことなく性的な声をあげながらを咀嚼して、目を閉じ、味覚に全神経を集中させているようだ。気持ち悪い男だ。


団長「……どんな味だ」

補給兵「甘い!」

団長「甘い、か……」

補給兵「うわあああーーっ、甘い! 甘い、甘くて柔らかい、美味しい! 生地がふわふわしてちっとも固くなくて、この黒い粒が、甘くてほんのり、ほんの……美味い!」


 まるでパンに取りつかれたようだ。味の講評をする余裕もないくらい、脳が味浸あじびたしになってしまっているようだ。そうか、これも美味いか。貧しき者たちが出す食い物など、美味いはずはあるまいと期待していたのだが……。


団長「それはパンなのか」

補給兵「パンです!」

団長「パンか」

補給兵「でも、帝国じゃ食べたことないくらい柔らかくて甘い、美味いパンです! まさかこんなに美味い物にありつけるなんて……」

団長「それは残念だ……」

補給兵「ウワァァーー帝国騎士団バンザーイ!」


 マルコは二本、三本とパンを吸い込んでいく。ほとんど理性を失ってしまっている。


三ちゃん「おいおい! 姉ちゃんにも食わしてやれよ」


 赤い帽子の男がマルコからパンの袋をひったくって、それを私の目の前に差し出してきた。私にもこれを食えと言っているのだろう。


補給兵「あっ……ごめんなさい。また全部食べちゃうところでした」

団長「いや、私はこれを食べることはできない」

補給兵「え?」

団長「食べられないんだ」


 マルコは疑問と期待の入り混じった複雑な顔をしている。それなら……と袋に伸ばしかけた両手が空中で所在なさげにふらふら揺れている。かすかに残った理性がこいつの手をなんとか空中に留めているようだ。赤い帽子の男は依然、私に袋を差し出したまま、不思議そうな顔をしている。


三ちゃん「食べないのかい」

ノムさん「ダイエット……てわけじゃねえよな」

本屋「宗教上の理由、とか」

ノムさん「あんちゃんはムシャムシャ食ってたじゃねえか」

本屋「あるいは警戒してるのかもしれない」

三ちゃん「毒が入ってねえかって? 開けたてホヤホヤだぜ。賞味期限は……あ、一週間過ぎてら」

本屋「酒や食べ物に睡眠薬なんかを盛る輩がいると聞くからね。あるいは過去にそういうことがあったのかも」

三ちゃん「俺たちがそんなことするように見えるかね」

ノムさん「割と」

三ちゃん「失敬だな。もうそんなギラついた歳でもねえし、こう見えて性欲は各々定期的に発散してるもんなあ」

ノムさん「本屋のライブラリーはだからな」


 男たちはハハと声を上げて笑った。本屋は顔を赤らめて小さくなっている。


三ちゃん「変な薬なんか入ってねえぞ。ほら」


 そう言って三ちゃんはパンを一口かじって見せた。二、三度咀嚼してからごくんと音を立てて飲み込み、空っぽになった口の中を見せて、かじりかけのパンを団長の顔の前に差し出した。


ノムさん「間接キッスだ」

補給兵「間接キッスだ」

団長「変なことを言うな……」

補給兵「毒が入ってないことを示してくれたんですよ。まあ、毒入りだったらぼくはもうお終いですけど」

団長「食べるわけにはいかないのだ」

補給兵「間接キッスだからですか? 悪魔も恐れる騎士団長がそんな生娘みたいな……」

団長「生娘で悪いか! 違う! 私はそれを食べるわけにはいかないのだ」

補給兵「意地っ張りだなあ」

団長「意地ではない、これは誓いなのだ」

補給兵「へ?」モグモグ


 三ちゃんの差し出したパンに食らいつきながら、マルコは間の抜けた声を出した。


団長「それを口にすれば、私は弱くなってしまう」

補給兵「それって、どういう」


 軍神に立てた『誓い』のことは、誰にも話したことがない。もっとも、帝国の民が自身の加護の『誓い』についてペラペラ話すことはあまりない。武人なら尚のことだ。よほど腕に自信があるか、よほど相手を信頼していないと、誓いについて話すことはまずない。命取りになるからだ。


団長「せっかくの施しを断るのは胸が痛むが……」

補給兵「でも、食べないとまた倒れちゃいますよ」

団長「マルコ、この際お前には話しておこう。私の持つ『軍神の加護』の力と、その『誓約』について」


 「えっ」とマルコが言うのと全く同時に、メガネの男もまた「えっ」と言った。遠くになにかを見つけたようだ。二人の男たちもそれを聞いて振り返った。離れた丘の上に、鉄の木馬のような物に跨った若い男が三人ほど、こちらを見ている。


本屋「そんな……嘘だ」

ノムさん「また来やがった……」


 メガネの男と、口髭の男の顔には驚きと不安の色が見て取れる。赤いつば付き帽子の男は、この男がこんな顔をするとは、口を横に大きく歪め、歯を食いしばり、眉間に深い皺を寄せて、遠くの彼らを睨みつけている。


三ちゃん「あいつら……」


 丘の上の男たちは木馬に乗って、草の生えた斜面を下ってこちらに向かって近づいてくる。鋼鉄獣バンキヤリスに似たあの鉄の箱のように、見えない動力で動いている。


 木馬はどれもけたたましい音を響かせている。土中に爆発性の卵を産み付け獲物を仕留める地雷蠅パォルルルプの羽音のような不快な音に、時折パンッパンッという破裂音が混じった音を立てて、こちらへ向かってくる。


少年たち「ヒャーハハハー!」


ノムさん「おい、あんたらも逃げろ、走れるか」

補給兵「え?」

本屋「急ぐんだ、奴ら話の通じる連中じゃない」

補給兵「え? え?」


 男たちが我々に肩を貸して、立ち上がらせる。彼らが何を言っているか、それはやはりわからない。しかし緊急の事態であることは雰囲気でわかる。彼らは近づいてくる男たちに怯え、逃げようとしている。


補給兵「逃げるぞって、言ってるんですよね……?」

団長「ああ、ひどく怯えている」

ノムさん「うっ、重てえ! 臭え! ごめん! 女の子に言うことじゃなかったな」

団長「我々を置いて逃げればいいものを、この者たちは……」

本屋「草の茂みに隠れるんだ。歩けるかい」

補給兵「え、ええ……わからないけど、たぶん」

三ちゃん「……」


 赤い帽子の男は依然、逃げるそぶりも見せず、やってくる木馬の男たちを睨みつけている。


ノムさん「おい三ちゃん、なにやってんだよ!」

本屋「三ちゃん、早く逃げないと!」

三ちゃん「逃げるかよ……」

団長「彼は戦うつもりだ」

補給兵「ええ、とても強そうには見えないけど……」

本屋「三ちゃん! お願いだ! 走ってくれ!」

三ちゃん「あいつらだ」

ノムさん「あんたまで死んだら、俺……!」

三ちゃん「あいつらがヨッチャンをやったんだ……!」



 ――咆哮。



 穏やかな印象の男だった。よく笑うし、二人の男からはとても慕われているようだし、なにより、我々を助けてくれた。しかし今、彼は叫んでいる。目を血走らせて、拳を握りしめて叫んでいる。言葉とは呼べない、ただ、自分を奮い立たせるための雄たけびだ。


団長「見えるかマルコ」

補給兵「……はい」

団長「覚悟を決めた男の顔だ」


 木馬の男たちはもう、眼前に迫っている。


少年「ゴミ掃除の時間だぜ!」



 次回、第5話 『河川敷の死闘 ①ヒーロー』




●tips『チョコチップスティックパン』

袋入りの棒状の菓子パン。同様の商品がさまざまなメーカーから発売されているが、概ね安価で買い求めやすく、それなりに量もあるため、多くの家庭で朝食やおやつに採用されている。『片親パン』などと侮蔑的な名で呼称されることもあるが、たとえ両親がいても美味い。

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