第3話 覚醒する戦士

 ――空手の道場が嫌いだった。


 幼少の頃、父親から子育てらしいことをしてもらった記憶はほとんどない。夜、父は会社から帰ると黙って背広を脱ぎ、それを居間の椅子の背にかけ、自分もまた椅子に腰かける。母がなにか労いの言葉をかけながら、父の晩酌をテーブルに並べていく。父はなにも答えない。幼い私は寝室の襖の隙間からその様子を黙って眺めている。そのうち、ただの一つも会話を交わすことなく、いつの間に眠りに落ちてしまう。


 そんな父が私に空手を習わせると言い出したのは、小学校に上がった頃だったか。父も昔通ったという、家から歩いて15分ほどのところにある古めかしい空手の道場に、土日の夕方から18時ごろまで、毎週通うことになった。


 道場は非常に礼儀に厳しく、いつも背筋を伸ばして、所作の一つ一つに気を張っていなければならなかった。あくびでもしようものなら、白髪の師範に頭を小突かれた。


 稽古はいつも退屈だった。道場の行き帰り、同級の友達が楽しそうに遊びまわっているのを見かける度に、自分はなんて惨めなんだろうと落ち込んだ。


 平日は父と話す機会などないから、道場の行き帰り、父に手を引かれている間に『もう辞めたい』と言おうとするのだが、父との会話の仕方がわからなくて、結局いつもそれを切り出せずにいた。


 どうして父は、私をこんな辛い目に遭わせるのだろう。父に手を引かれて無言で歩く時間がなによりも苦しかった。私は父がわからなかった。あの頃の父は、決してではなかった。


 5年生に上がった頃、同じクラスに転校生の女の子がやって来た。かわいらしい子だったが、訛りがあり、耳慣れない語尾をつけて話すものだから、同級の男子たちからよくからかわれていた。


 きっと、なんてことのないきっかけだったと思う。休み時間、私が誰とも遊ばず一人、校庭の花壇でチューリップを観察していると、声を掛けられた。


「田中くん、チューリップ好きなん?」

「……」

「うちな、前の学校でお花の世話係やってん」


 たったそれだけのことで、その子のことが好きになってしまった。毎日あの子を想って眠りにつき、毎日あの子が話しかけてきてくれないかと、花壇の前で過ごしていた。


 ある日の下校中、公園であの子が男子数人に囲まれていた。きっとイジメだと思った。あの男子たちはいつも、あの子をからかっていたから。


 無我夢中だった。それが彼女を守りたいという正義感だったのか、良いところを見せたいというよこしまな想いだったのか、もうわからない。私は男子たちを殴った。道場で習った通りに、息を吸い込み、腰を落として、真っすぐに拳を打ち込んだ。彼らは大した抵抗はしなかった。いや、する間もなかったのだろう。


 鼻血を出して泣く者、腹を押さえてうずくまる者、なにか恨み言をブツブツ言いながら去っていく者……きっと、私は勝ち誇った顔をしていたに違いない。褒めてもらいたくて、好きになってもらいたくて、あの子に歩み寄ると、彼女は冷たい声でこう言った。


「自分、むちゃくちゃするやん」

「……」

「ただじゃれてただけやんか。田中くん、ちょっと怖いわ」


 その日からもう、花壇の前には行かなくなった。あの子に会うのが怖かったから。小学校を卒業して、別々の中学に進学するまで、結局あの子とは一度も話さないまま。今となってはもう、あの子の顔も、名前も思い出すことはできない。


「もう空手辞める」

「……」

「強くなっても、嫌われるだけだ」

「……」

「ぼくは人を傷つける空手が嫌いだ」

「……」


 道場へ向かう道すがら、勇気を振り絞って言った。父は黙っていた。私の顔を見ることもしなかった。私は気持ちが折れてしまって、黙って歩いた。そのまま道場に着いて、稽古をした。


 帰り道、私はもう、なにも切り出さなかった。

 不意に父が口を開いた。


「空手は人を傷つけるためのものじゃない」

「……」

「勝つために強くなるんじゃない」

「……」

「守るために強くなるんだ」


 父は前を向いたままそう言った。それから会話もなく家に帰った。結局、あれ以来『辞めたい』とは一度も切り出せないまま、高等学校を卒業するまで道場に通った。あの日から父が亡くなるまでの長い間、私たちはほとんど口をきかなかった。


 大学では植物の研究に没頭した。もう道場に通わなくていい解放感も手伝って、私はその頃、人生を謳歌していた。それまでの鬱屈とした日々の遅れを取り戻そうと、私は夢中で研究に打ち込んだ。


「チューリップ、お好きなんですか?」

「え?」


 研究棟の花壇の前で、女性に声を掛けられた。肩の長さの髪の毛が外にはねていて、快活な雰囲気のある、若草色のスカートが似合う人だ。彼女はにこと笑って続けた。


「ずいぶん熱心に見てらっしゃるから」

「こ、これは私が品種改良を目指して研究しているもので、日本の一般的な家庭の、小さな鉢植えでも、雨が多く湿度の高い環境でもきれいに咲かすことができるよう、いろいろと試行錯誤を繰り返しているのですが、これがなかなか難しくて……」

「え、ええ」

「私はいつか、みんなが気軽にチューリップを育てられるようにするのが夢なんです。日本の街並みのそこかしこが、チューリップの美しい赤や黄や橙に彩られていたら、どんなに素敵だろうって……」


 彼女の戸惑う顔を見て、ようやく熱弁を振るっていた自分に気づく。


「あ……すみません。花のこととなると、つい熱が入ってしまうのです」


 恥ずかしくなって顔を伏せていると、彼女がふふと笑った。


「……可笑しい人」


 その笑顔の可愛らしいことといったら。私はすぐに恋に落ちた。


 それが妻だ。その後、私は院を出て、20代で結婚し、30代で植物の研究でそこそこの地位を得て、それなりの収入が入るようになった。40代でこの家を建てた。息子が二人いる。不自由なく育てたつもりだ。妻を外へ働きに出させたことは一度もない。


 私には地位と、金でこの家を自負がある、それが今、そうか。ついにこの肉体で戦わねばならぬ時が来たということか。


 目の前には、中世の騎士のような鎧で武装した大女と、小柄な男がいる。突然の闖入者。土足で私たちの家に上がり込み、訳のわからないことを叫び捲し立てている……物盗りか、愉快犯か。妻はひどく怯えている。


 空手の構えを取る。何十年ぶりだろうか、体が覚えている。


―――ああ。ようやく理解わかったよ父さん。全てはこの時のためだったんだね。が今、試されている。



 場所:川崎市幸区 田中邸

 状況:異世界から現代日本へやってきた帝国騎士団長と補給兵マルコは空腹のあまり、民家に入り食料の提供を求めたが意図が伝わらず、この家の主・田中耕造と対峙している。


補給兵「彼、戦う気ですよ!」

団長「わかっている!」


 この構え、格闘術の類だろう。肉体はひ弱な老人のそれだが、彼には命を懸けたがある。それにどんな『加護』を受けているか、見当も付かない。自身を強化して戦うタイプか、あるいは速度特化か。未知の民族だ、未知の術を使う可能性もある。油断はできない。彼らを傷つける気は毛頭ないが、、受けて立つのが騎士の礼儀というものだ。暴風剣ヴェンダバルの柄に手を掛ける……。


補給兵「団長、戦うんですか」

団長「……ああ」

補給兵「民間人を武力で屈服させて食料を奪う……なんてことしないですよね」

団長「食料は諦める。だが、彼が立ち合いを望んでいる以上、このまま背を向けて立ち去ることはできない。それは彼に対する侮辱にあたる」

補給兵「……殺さないでくださいよ」

団長「お相手つかまつる!」


 勢いよくヴェンダバルを構える。


 鍔から先の剣身がない。


団長「ヴェンダバルーーーーーッ!」

補給兵「え、なんですかそれ……ふざけてるんですか」

団長「ふざけてなどいるものか! こ、これは、なん、なん、はへぇ」

補給兵「あっ」

団長「なぜだ、なぜ、け、決して折れることのないデューン鉱の魔剣だぞ……ッ」

補給兵「……魔王の魔法を食らった時、地面が抉り取られてたじゃないですか」

団長「まさか」

補給兵「鍔から先を、あっちに置いて来ちゃったんじゃ……」

団長「……そん、な……バカな……寝る時も、排泄の時も、肌身離さずにいた家族同然の剣だぞ……!」

補給兵「家族でも排泄の時は離れると思いますが」


 団長は心に深いダメージを負った。田中耕造はその隙を見逃さない。


田中「(なんだ、トラブル、武器の破損か……?)」

団長「クソッ、徒手空拳は不得手だが仕方ない!」

田中「(ここは一気に、決めさせてもらう!)」


 深く息を吸い込み! 両足を開き! 重心は低く! 深く腰を捻り! 真っすぐに突く!


 右……正拳突き!!


団長「(しまった! 動揺して防御が間に合わん……!)」

田中「ドリャーーーーーーッ!!」

団長「なにっ!?」


 けして大柄とは言えない田中(166㎝)が腰を落として正面に繰り出した正拳突きは、丁度、団長の股間の辺りに命中する。言うまでもなく鎧に覆われている部分だ。


 こつん、と音がした。地面に置いた鉄鍋に、大きめのどんぐりが落下したような音だ。なんて弱弱しい力だろう。一切の特別な力を感じられない、見た目通りのひ弱な老人の拳だ。いや、そんなことより、この男……!


団長「今、なんと……?」

補給兵「い、いま彼『ドリャーッ』って……」

団長「まさか、聞き間違いだろう……」

田中「ドリャーーーーーーッ!!」

団長「!!」


 左正拳突き。ぺちん、と音がした。板かまぼこを鍋底に投げつけたような音だ。


補給兵「やっぱり言った!」

団長「バカな、彼はスナムル語を話すのか!」

補給兵「でも、でも、それならぼくらの言葉が通じていたはず……」


 スナムル語はムダル大陸で最も広く話されている言語だ。大陸内にはいくつかの少数民族が話すそれぞれの言語がありはするが、スナムル語がアル=カザンサの公用語ということになっている。ちなみに『ドリャー』はスナムル語で『あなたが好きです』という意味だ。


団長「たまたまそう聞こえたに過ぎん。気を取り直して……」

田中「セィヤーーーーーーッ!!」

団長「なにっ!?」

補給兵「やっぱり! 彼はスナムル語を話しているんですよ!!」


 アル=カザンサの市街地には多種多様な民族・種族が暮らしている。魔王の侵攻によって故郷を追われた者たちが大勢流入していたためだ。全ての民族がスナムル語を流暢に話せるわけではない。しかし多くの場合、そう言った他言語話者もスナムル語の簡単な単語くらいはいくつか知っているものだ。挨拶とか、感謝の言葉、値段を尋ねる言葉、肯定と否定、そして……愛の言葉。


団長「まさかアル=カザンサへの手掛かりがこんなにも早く見つかるとは……」


 ちなみに『セィヤー』は『俺と結婚してくれ』という意味だ。


田中「好きだーッ!! 好きだーーーーッ!! 俺と結婚してくれぇーーーッ!!」


 団長にはそう聞こえている。


団長「……クッ!」

補給兵「なんて……情熱的なんだ」

団長「彼の目は嘘を言っているようには見えない。クソッ、なんだと言うのだ!」

補給兵「団長……顔真っ赤ですよ」

団長「バッ、バカを言うな!」

補給兵「いやほんとに」

団長「こんなに真っすぐ、想いをぶつけられたのは初めてだからっ、と、戸惑っているのだ!」

田中「好きだーーーーッ! 俺と結婚してくれーーーッ!!」


 この男……一体なんのつもりだ。後方にいる女は妻ではないのか。初対面の私になぜこれほどまで熱く、愛を叫ぶのだ。敵か味方かもわからぬ異邦人になぜこれほど強く、求婚できるのだ。この国の文化は理解に苦しむ。


団長「……ハッ」

補給兵「団長、どうしたんですか」

団長「そうか……合点がいったぞ」


 『敵を愛せよ』つまりそういうことだろう。……なんと寛大な民族だろうか。


 この都市の人々を見て感じた平和的な雰囲気。おそらく彼らはその成熟した文明文化を失わぬよう、戦いを避ける術に特化したのだ。その結果、武によって相手を制圧するのではなく、武によって愛す。……そういうことか。


 そう思って見れば、なんとも美しい拳じゃないか。『武』というより『舞』。破壊力のまったく欠落した、形だけの拳。だが気持ちは十二分に伝わってくる。


田中「ハァッ……セィヤッ……ハァ……なんて、頑丈な女だ……ハァ……」

田中夫人「あなた……!」

田中「負けて……なるものか……ドォォォォリャァアアーーーーーッ!」


 田中の渾身の右正拳突き。しかし、その拳が団長に届くことはなかった。


田中「うっ……」


 田中は右下腹部を押さえ、膝をついてしまう。ささやかに出血している。


田中夫人「あなた!!」

田中「古傷が……開いたようだ……」

田中夫人「きゅ、救急車を! それと警察も呼ばなくちゃ!」

田中「いや、もう必要ない……」


 田中は静かに団長を指さした。夫人が見ると、団長はすでに背を向けて、戦うことを辞めていた。


補給兵「いいんですか。アル=カザンサへの手掛かりが掴めるかもしれないのに」

団長「理由はわからんが負傷している。怪我人に鞭打つような真似はしたくない」

補給兵「……告白には応えなくていいんですか」

団長「あのな、歳が違いすぎるだろう」

補給兵「彼が若ければ考えましたか」

団長「応えることはできん。だが決して無下にはしなかっただろう。それほど情熱的だった。もっとも、この『加護』がある限り、私が誰かを愛すことも、愛されることも叶わぬのだが」

補給兵「団長の加護って」

団長「全く、難儀な加護だよ」

補給兵「……」

団長「名も知らぬこの家の主よ! 貴殿の魂、しかと受け取った! 拳を交えることなく去る非礼を許して欲しい」

補給兵「お邪魔しました」


 大女と小男が出て行った。私は……勝ったのか?


田中夫人「ああ、助かった……」


 妻の安堵した表情を見て、私もようやく安堵する。私はこの家を守ったのだ。地位でも金でもなく、父に手を引かれて習いに通った、大嫌いな空手で。


 視界が霞む。もう、腕の感覚がほとんどない。疲労のあまり、このまま体が妻の腕の中に埋まっていってしまうのではないかと思うほどだ。ああ、今の今まで夢を見ていたのかもしれない。下腹部の小さな痛みだけがここが現実であることを告げている。


田中「ありがとう」

田中夫人「えっ?」


 空で父が笑った気がした。


補給兵「団長、剣が……」

団長「……」

補給兵「団長?」


 田中邸を後にして間もなく、マルコは団長を案じて声を掛けた。暴風剣ヴェンダバルは伝説の剣で、団長の強さの証明で、帝国騎士団の象徴で、民の希望そのものだったから、さぞ落ち込んでいることだろう、と。しかし意外にも、団長は全く別のことを考えていた。


団長「……」


 彼は妻を、家を守ろうとしていた。その武によって、愛によって。彼の美しい武に比べれば、私の武など敵を殺し、傷つけるものでしかない。私の力はもしかしたら……この国においてはもはや野蛮で、唾棄すべき力なのではないか。


 『最強』などと誇っていた自分が恥ずかしい。


 我々がもっと強ければ、そう思っていた。しかしそれは間違いだったのかもしれない。我々にもっと愛がありさえすれば、魔王軍との戦いであれだけの死者を出すこともなかったのかもしれない。


 こんな社会が、有り得るのか……。


団長「彼のことはよく覚えておこう」

補給兵「……」


 マルコは何も応えない。彼はすでに倒れていた。虚ろな目をして、赤子のように革の手袋をしゃぶっていた。空腹の限界を迎えたのだろう。


補給兵「……オギャ」

団長「……いかん。どうやら私も、限界のようだ」


 ガシャッと音を立てて、団長もまた倒れた。それからどれくらい経っただろう。おそらく数分、しかし朦朧とした意識の中でそれは、永遠と区別のつかない数分だった。


 近づく音があった。金属部品が軋むキイ、キイという音と、そこに混じってチリンチリンという、鈴のような鐘のような、奇妙な音。音は次第に大きくなり、どうやらそれらの音が鳴らされているものだと理解する。その音は、頭の近くまでやってきて停止した。そして、足音と共にくっきりとした人間の気配が現れて、声を発した。


「おい、だいじょぶか?」


 目を開けてみると、視界がぼやけて判然としないが、赤いつば付きの帽子を被った男のようだ。浅黒い肌に、白髪交じりの無精髭。どことなく野性的な雰囲気を帯びた、中年の男だ。その男は私たちの様子を伺っている。そこに敵意は感じられない。おそらく、路上で倒れた私たちの身を案じてくれているのだろう。彼は屈みこむと、おそらく反射的にこう口にした。


男「クサッ!」

団長・補給兵「『クサッ』……?」


 男からは、酒と汗の混じった臭いがした。



 次回、第4話 『咆哮』





●tips 『スナムル語』

アル=カザンサの公用語。基本的に主語S動詞V目的語Oの順で語られるが、動詞が主語・時制・情熱によって複雑に活用するため、口語ではほとんどの場合、主語を省略する。ドリャーは動詞daolliqの一人称単数現在進行情熱形。セィヤーは動詞suyblliqの一人称単数現在未来約束命令形。この動詞活用の煩雑さが、スナムル語習得を目指す少数民族たちの大きな障害になっているらしい。が、スナムル語話者に言わせると『主語を省略しなければ活用が間違っていても大体伝わる』とのこと。

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