小括(十枚目)

紫鳥コウ

小括(十枚目)

 藍色あいいろの空を横目でみつつ、明け方なのか夜なのかぼんやりと考えていたが、ともかくカーテンを閉めようと立ちあがると、ピキッと腰に稲妻が走った。ここ五年、桐縞きりしまを悩ませている腰痛に、「整体に行きなよ」とアドバイスをしてくれたのは、きさきだった。

 妃という名の彼女は、自分の名前と容姿と性格と境遇のバランスが取れていないのに、葛藤したことがあるという。

 それを知らなかったから、無邪気に、「クイーン」と声をかけたことが一度あった。もう別れると泣きだして、それから関係は氷結してしまった。

 それでも、なんだかんだ元の関係に戻ることができて、桐縞は彼女のことを「妃」としか言わなくなり、彼女は変わらず「たっくん」と呼んだ。ふたりの関係は良好で、周りはみな、じきに結婚するだろうと思っていた。

 こうした予想は、裏切られてもおかしくないはずだが、ふたりはめでたく結婚した。結婚式には、予想屋たちも招待された。

 みな、これほど早く結婚するとは思っていなかった。ケーキ入刀を見ながらも、大体の知り合いは、そういう驚きを払拭ふっしょくすることができずにいた。どちらも大学院生である。どのように生計を立てていくのだろうといぶかしみもした。

 しかし、ふたりの結婚を認めるくらい「寛大」な両親なのだから、お金はいくらでも、ふたりの「家庭」へ入ってくるのだった。


 着信音は、デフォルトのままだった。

「おはよう」

 妃の第一声を聞いて、この藍色は朝のものなのだと知った。

「また徹夜してたの?」

「そうみたい。こっちはもうすぐ、研究発表会があるから」

「大学で?」

「そそ」

「ムリしないでね」

「ちょっとはムリをしないとね。まだ若いし、これくらいはへっちゃらだよ」

「わたしね、たっくんのことが大好き」

「ぼくも好き」

「どれくらい?」

「どれくらい好きでいてほしい?」

 ふたりは言葉だけで愛し合いはじめた。


 耳学問なんて言うけれど、大学院生が集まれば研究の話ばかりするわけではない。くだらない他愛ない話題をころころ転がしていることなんて、ザラにある。会話というのは、大体は息抜きなのだ。

 結婚指輪をめたふたりも、ことより、さわり心地のいい話をするのを好んだ。それは、お互いのことを知るという営みのひとつでもあった。

 相手のことを知りたいという希求がある限り、「関係」というものは、直線のように永久に続くものだ。

「ここが、生殖腺せいしょくせんの反射区で、そこから近い、ここのところに坐骨神経ざこつしんけいがあってね」

「じゃあ、たっくんはここが痛いわけだ」

「あとここ、脊椎せきついもひいひい言ってしまう」

 桐縞は、ノートの後ろに左足を書いて、足つぼのことを説明しはじめた。

「ここらへんって、なんなの?」

 妃は、シャープペンシルで丸を描いた。

 キッチンでなにかを落としてしまったらしい。店員さんの「失礼いたしました」という唱和が遠くから聞こえてきた。

「ここは……子宮だね。僕だったら前立腺ぜんりつせん

「ふうん……」

「ちなみにここが、尿道でね」

「じゃあ、ここらへんは」

「ええと、なんだっけ。膀胱ぼうこうか胃だったと思うけど」

 マッサージ店を開業した友人のために、練習台として付き合ってあげていたことから、多少は詳しくなった桐縞だが、ふと、妃の裸の足を最後に見たのは、いつだっただろうと考えた。一方の妃は、漠然と、今日はホテルに行きたいと思っていた。

「友達っていうのは、同級生なの?」

「うん、小中高って一緒だった。中高のときは付き合ってた」

「そんなことだろうと思った」

「なんで?」

「なんでって……分からないけど、そう思ったの」

 ふたりはじゃんけんをした。桐縞は伝票を開いて、苦笑してしまった。

「モンブラン、美味しかった?」

「うん」

「ならいいや」

「一口あげたじゃん」

 カフェに入る前は、雨は降っていなかった。しかし出たときには、空気は湿っぽくなり、小さな水たまりが車道と歩道のあいだにできていた。桐縞はチラッと腕時計を見て、そでのなかに隠した。


 寝支度ねじたくを調えたら、ベッドの上で通話をすることになった。まるで恋人どうしだなと桐縞は思った。結婚をしたという事実は、書類でも儀式でも確認できるのに、こころはどこか、置いてきぼりにされている。

「わたしね、ツボ押しの棒を買ったの。ちょっとお疲れみたい」

「どこらへんが痛いの?」

「どこを押してもじゃりじゃり言うの」

「僕たちは、そこら中が弱ってるね」

「そうね。あっそうだ、今度貸してあげるよ」

「棒を?」

「そそ。それか……押しあいっこでもする?」

「いいね、それ」

 もしかしたら、ふたりは、恋人の延長線上にいるだけなのかもしれない。気持ちとしての、恋人と夫婦の境目は、無いに等しいのだろう。


 からりと晴れた日。ふたりは、いつもの喫茶店で待ち合わせをした。妃はワインレッドのワンピース姿で現れた。大人っぽく見えると同時に、どこか背伸びをしているようにも思われた。

 こうした待ち合わせの仕方もそうだが、会話や仕草のなかに、のようなものを感じさせるところが、いくつもあった。その一方で、ふたりの将来に関する話題になると、どこかをそなえ始めた。

 だけど、そのことを、良いか悪いかという悩みへと持っていけるほどの、強烈な不安を抱いているというわけではないらしい。むしろふたりは、そうした問題を宙吊ちゅうづりにすることによって、心地よさを感じているようだった。



 〈了〉

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