終章 更級の山辺の陰の月光り、誰知らず散る一輪の華

 橘俊通と菅原孝標の娘は結婚。二人の間には一男、二女が生まれた。

 二人の結婚から17年後、橘俊通が信濃国守となり、一人で下向したことであった。


 その頃、信濃国府には国境付近で盗賊が出現したとの情報も多数伝わっていた。しかし、その盗賊の正体は平忠常の残党であるとの噂が立ち、国府周辺は混乱し始めていた。

 都から派遣されていた検非違使は源頼貴。橘俊通と源頼貴は竹馬の中で、同じ師匠に和歌を習った仲であった。源頼貴の和歌の出来栄えはさっぱりであったが、橘俊通は「死ぬ直前まで和歌を詠んでもよい」と語るほどの実力であった。


 その日の晩、橘俊通は夜中に起床した。何か胸騒ぎがしたのだ。橘俊通はそのまま自分の屋敷を抜け出し、源頼貴の宅を訪問していた。残党に対する警戒を呼び掛けるためであった。

 源頼貴は国司の橘俊通の夜中の訪問に驚いた。翌日から街道沿いの巡回を強化することとし、二人はそのまま都の話を語り合って過ごしていた。

 二人が談笑していると、部屋の外でかすかに金属が擦れる音がした。それは、抜刀した時の音にも聞こえなくもなかった。さっきまで笑っていた頼貴は直ちに灯りを消して、得物を手繰り寄せた。灯りを消したのは、闇に眼をならすためである。

 頼貴がそっと、静かに戸を開けると、そこには猫が控えていた。その口に鼠をくわえられていた。

「なんだネコか。おい、中納言。賊の正体はネズミか?」

 頼貴が猫に手を伸ばし、警戒を緩めた瞬間だった。物陰から刺客たちが一斉に切りかかった。


「源頼貴、覚悟!!」


 頼貴は背後から来た一人を一刀の元に切り捨てた。さらに、右から来た一人の剣と頼貴の剣は激しい打撃音を上げた。頼貴は一歩下がって相手の振り下ろす太刀を交わし、顔面に一撃を加えた。

 襲撃者はもう一人いた。しかし、その襲撃者は腰を抜かして、地面に這いつくばっていた。

「お助け下さい。私は頼まれただけです」

 頼貴は、襟首をつかんでその上半身を持ち上げ、刃を突きつけた。

「誰に頼まれた。言え」

「出羽の清原氏でございます。」

 頼貴はより一層、のど元に刃を突きつけた。

「本当に首をはねるぞ!!」

「あ・・・く・・・安倍の配下の阿久利でございます」

「阿久利?なに、阿久利だな。確かだな」

 頼貴の脳裏に、片眼が真っ赤に染まった阿久利の姿が浮かび上がった。常陸国でたまたま出会った俘囚の集団。あいつらは重税を訴えるために南下していたのではない。周辺国の警備状況を探るための偵察だったのだ。

「あいつめ・・・」

 騒ぎを聞きつけ、従者が近くの部屋から飛び出してきた。

「何事です。あっ、こ、これは、国司様ではないですか」

 頼貴が振り返ると橘俊通が床に横たわっていた。口から血を吐き、すでに虫の息であった。この混乱の隙をついて刺客は闇夜の中へと逃走していった。

「頼貴よ。私が死んだら、京には病死だと伝えよ。ごふっ、ごふっ」

「わかった。なんだ。まだ何か言いたいのか」

「さらしなの・・・、ごふっ、ごふっ」

「何、どうした?」

「さらしなの・・・やまべのかげの・・・ごふっ、ごふっ」

 頼貴は驚いた。死の縁にいるにも関わらず、俊通は上の句を詠もうとしていたのである。

「和歌か?こんな時にいったいなにやってるんだ。おい。どうした。しっかりしろ。おい、返事をしろ。おい。おい」

 俊通は絶命した。


 橘俊通の葬儀。妻の日記の一部は一緒も燃やされた。その巻物たちには、橘俊通とのよき思い出の日々がつづられていた。日記の思い出は灰となり煙となって橘俊通の魂の元に届くであろう。それゆえに、孝標女の現存する日記に夫の思い出は残されていない。

 何年か経った頃、橘俊通の墓の周辺に草木が生えて鬱蒼としていた。ある夏の日、橘俊通の墓に一人の武者が訪れた。武者は墓前で和歌を詠み、その後、陸奥へと旅立った。かつての友の敵を追うため。


 さらしなの やまべのかげの つきひかり

       だれしらずちる いちりんのはな

                源頼貴



 陸奥国の鬼ケ原、それは多賀城の北の方にある台地で中央に川が流れている。その日の合戦で、国司軍は再び敗れた。国司軍は部隊を2つに分けたが、まず、川の西側を進軍する部隊が伏兵の攻撃にあった。それを救援しようと川の東側の部隊が渡河を始めたときであった。周辺に潜んでいた部隊が一斉に襲いかかり、部隊は壊滅した。ほとんどが溺死であった。

 合戦のあと、阿久利は首実検を行っていた。

「どうだ、この中に源氏はいたか?」

 部下は並べられた国司軍の首をひとつひとつ確認しながら答えた。

「いえ、今回討ち取った中に、源氏は含まれていないようです」

「そうか、それは残念であったな」

 阿久利が盃に酒を注ぎ、呑み始めた時だった。一人の兵士が陣内に入って報告をした。

「朝廷の武将を捕らえました。この脇差をみてください。おそらく、貴族です」

 差し出された脇差しには細かい細工が施され、まるで美術品のようである。引き連れられてきた若武将は、きらびやかな鎧をまとっており、歯にはお歯黒があり、整った顔をしていた。しかし、完全におびえ切っている。どうやら、この武将にとっては初陣だったようだ。

 阿久利は若武者の顎をつかむと、その顔を覗き込んだ。赤く染まっているその右目は、若武者の顔をぎょろぎょろと凝察した。阿久利の吐息が若武者の顔にかかっていた。

「いや、こいつは源氏じゃあないな・・・」

 そして、阿久利は掴んでいた手を離した。

 阿久利が背を向けた時であった。若武者は膝をついて礼を述べた。

「この御恩、一生忘れません」

「ああ、いま、なんていった???」

 阿久利は長刀を抜きながら振り返った。

「別に命を助けるだなんて言ってねえ!!!!」

 若武者は阿久利の殺気を呑み込まれ、身構えることも、逃げ出すことも何もできない。

「どうか、お許しを!あああああああああ!!!」

 次の瞬間には阿久利の目の前には、若武者が血まみれになって、横たわっていた。阿久利は長刀を鞘に収めながら再び椅子に座った

「くっくっく、源氏を根絶やしにしてやる。この世から一人残らずな・・・」

 そして、酒を呑み始めた。

「源頼貴よ。お前は俺の手で抹殺してやるからな。はっはっはっは」


 了(好評なら『前九年合戦編』に続きます)

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