第17章 宇治の長谷寺を訪れる孝標娘
孝標娘の時代より二代先のことではあるが、院政なるものを初めて行ったのが白河上皇である。あらゆる権力が白河上皇に集中したが、それでも、どうにもならないものが3つあったとされる。鴨川の水、山法師と賽の目である。逆にいうと、この3つ以外は白河上皇の権力でどうにかなる状態だったのである。
しかし、もし、孝標の時代に白河上皇がいたならば、きっと、鴨川の水、山法師、賽の目に加え、4つ目に『源氏物語の推し活』が加わっていたことだろう。
今回、孝標女は姪の2人と自分の女子2人を連れて源資通の屋敷を訪れていた。源資通という貴族が和歌の指導をしていただけるとのことで、家族総出でやってきたのだった。
「ようこそおいでくださいました。では中へどうぞ」
源資通は孝標女一行を部屋に案内した。源資通が一行を引き連れて屋敷の廊下を進む中、源資通と孝標女は世間話をした。
「普段は何をなさっておいででしょうか?」
「普段は宮仕えをしております。あと、推し活を少々」
「推し活って何でしょうか?恵美押勝のことでしょうか? 比較的、古い時代の方を知っておられるのですね。恵美押勝は藤原家の方でございましたね・・・」
孝標女は口元を扇で隠していたが、ニヤニヤしていた。寝殿造りの屋敷と庭が見える。
庭を雀が飛んでいく。若紫が逃がした雀が飛んでいく光景もあのゆであっただろうか?その庭の向こうには何軒かの屋敷が見える。ここが二条院であったなら、花散里や紫の上が暮らしていたのはああいった屋敷であっただろうか?庭の地面を見る。今は夏であるが、冬に降雪があったなら、雪転ばせもできるだろう。もうしそうであったなら、紫の上と光源氏が会話していたのはどこの辺りだっただろうか? 孝標女の妄想は止まらない。
「菅原孝標様は常陸守。ご主人の橘利通様は下野守でございましたね?」
孝標女は常陸と聞いて、びくりとした。常陸といえば、浮舟の養父の任地。源資通の発した何気ない常陸との一言が孝標女に霊感のようなものを与えてしまった。孝標女はさらに思った。『この男は教養があって源氏物語の話ができそうだ』。孝標女は勝手に思い込んでしまった。そもそも姓が『源』である。これで源氏物語に詳しくなかったら、何だというのか?源氏だから源氏なのだ。源氏に詳しいに決まっているだろう。
「ええ、そうなんです。私、常陸守の娘なんです。ちょうど浮舟のように」
ちょうど、一行は、広間の手前までやってきた。源資通が膝をついて、中に案内しようとしたその時だった。
「浮舟の名前は、薫の庇護を受けていた女が匂宮に連れ出されて宇治川対岸の隠れ家へ向かう途中に詠んだ和歌『橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ』が由来になっていて、その和歌の橘と主人の橘はちょうど一緒なんです」
「え、え、え?」
孝標女のうんちくが止まらない。ほとんど息継ぎなしに、源氏物語のうんちくが続いた。その間も舌が高速回転し、気づけば浮舟の帖をそらんじはじめていた。あっけにとらえる源資通。
「ちょ・・・」
何とか割り込む隙を探るが、孝標娘のしゃべりは止まらない。奈良の東大寺、唐招提寺や比叡山延暦寺の僧侶達の念仏であってもここまで早くないだろう。
「母上・・・。せめて、広間に入りましょう」
娘や姪が心配そうにのぞき込んでも、孝標女は止まらない。最年長の姪は20歳前後であるがその表情は『また始まった』といった、半ばあきらめたような表情をしていた。
源資通は膝をつき、その状態で孝標女はうんちくをしゃべり続けているのである。おかしな構図である。
困り果てていた源資通であったが、ふとした瞬間に何かに気づき目をかっと開かせた。その背中には一筋の汗が通過した。
「ま、まさか、道真公の御霊が乗り移られたか!!!」
源資通の解釈は以下の通り。『推し活』とは、恵美押勝、つまり、藤原家のことを指している。道真公ならば恵美押勝の時代も詳しいかったことだろう。おそらく、道真公は孝標女を口を通じて、藤原氏に対する怒りを伝えようとしている。これが、推し活の真の意味だったのだ。
「おお、道真様、どうか、怒りを納め下さい」
源資通はひたすら平伏し続けた。
「おそろしや、おそろしや」
その日の日記の記述は以下の通り。
源資通という男はなかなかのイケメンで、源氏物語の話にも熱心であった。娘と姪たちの和歌の腕はまだまだなので、何度も通った方がよさそうだと思った。
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