第12章 孝標娘の推し活 一条通の返歌は実は待ち伏せ?
菅原孝標が任地の常陸に旅立っても、孝標娘の推し活は止まらなかった。推し活とは源氏物語の推し活の事である。
初めは源氏物語の全巻を手に入れて耽読に専念していたが、ある時から寺社参りと称して、源氏物語ゆかり地巡りを行い、活動範囲を広げていた。
本人は、密かにそのことを「御幸」と呼んでいた。
貴族のある邸宅で、青年貴族と白髪の老人が会話をしていた。白髪の男は、青年の家庭教師で、和歌を教え込もうとしていたが、思っていたようにはうまく行っていなかった。
「じい、和歌は難しい。これで、おなごの気を引けると言うが、わしには無理じゃ」
「大丈夫です。若には才能があります。若様、今日は外で和歌を練習してみましょう」
「うむ、じいがそこまで言うなら」
青年貴族は家庭教師のじいに連れられて一条大路にやってきた。そこに、貴族の女性を乗せていると思われる牛車が通った。なぜ、牛車に女性が乗っているのがわかるのか?女性が乗っている場合、牛車には下簾という布を垂らしているからである。
「あの牛車にしましょう」
さっそく、従者が声をかけて相手に制止してもらった。
「何と書けばよいのか?」
「花見の事を書いたらいかがでしょうか?」
青年貴族は『花見にゆくと君を見るかな』と書いてじいに手渡した。しばらくすると返歌が返ってきた。
「返事はいかに?」
青年貴族が手にした返歌には『千ぐさなる心ならひに秋の野の』と書かれていた。和歌は『あなた、いろんな女性に声を掛ける浮気性でしょう』との意味を揶揄していた。
「こ、これは、うまくいきました。おなごの心をつかめましたぞ」
「そうは思えないが」
「いえ、この返歌は確かなものです」
「じい、そうはいっておるが、向こうの牛車は行ってしまったぞ」
「おそらく、急いでいたのでしょう。そもそもあれは菅原孝標の娘。学者の娘です。気にしなくてよいかと」
「なぜゆえに?」
「学者の娘は日記を書くのでやっかいです。それが後世に伝わる場合があります」
「そんなこというな。わざわざ返歌をくれた相手に悪いであろう。そもそも、他人の日記なぞ、読むやつがおるのかね?それに、いま、学者の娘と言ったな。菅原孝標は学者であったか?」
「それは、わかりません」
「もうよい。なあ、じいよ。わしは弓を引いている方が合っている気がするのだが」
「若様はもっと自信を持ってください。誇り高い源氏の君が、武士の真似事などしなくてもよいかと」
一方で、孝標女は満足げな表情であった。源氏ゆかりの人間が、自分の身分より低い女性に振られる。これぞリアル浮舟。牛車の中の孝標女は必死に笑いをこらえていたが、しだいに笑いがこらえきれなくなっていった。
「くっくっく」
孝標女は源氏物語に憧れていたが、光源氏に憧れていたのではない。憧れていたのは浮舟である。薫をそでにする浮舟。その姿を再現することができたのだ。孝標の娘はこれで満足であった。孝標女は帰ったら日記にどう書こうか考えながら、にやけ続けていた。
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