第2章 源氏物語の推し活でも始めて、婚期を逃したらどうする?

 菅原孝標の妻が絶句していたのには理由がある。

 菅原孝標が上総介に任命される約80年前、関東地方では平将門の乱が勃発した。平将門は新皇を自称し、反乱軍として鎮圧されたが、平氏同士の領地争いが火種となって、関東一円を巻き込む大乱となったのである。

 しかし、真に都の人々に恐怖を与えたのは藤原純友の乱である。藤原純友は元伊予の国主でありながら出奔し、備前国の国司である藤原子高や播磨国の国司である嶋田惟幹を襲撃。淡路国、讃岐国などの国府を攻撃。大宰府を襲撃し財宝を奪うなどの海賊行為を行った。また、都に上っては放火事件を起こすなど、直接的な脅威であった。


 平将門の乱はもう80年も前の話である。しかも、上総国で直接、戦闘がおこったわけではなかった。もはや過去の話。菅原孝標は家族全員で着任する準備を進めていた。

 菅原孝標の妻は親類の伝手で源氏物語の全巻を入手していた。もともと、孝標は源氏物語を全巻持参することに合意していた。しかし、直前になって孝標は急に中身を読むと言い出し、読みだすと様々な苦言を述べ始めた。

 その日、菅原孝標と妻はその源氏物語について会話を行っていた。

「この源氏物語の光源氏というのは見境もなくいろんな女性に目をかけ、手も出す。これが結婚前の娘に読ませるような内容か?」

「まあまあ、そんなこといわずに。光源氏は天皇家の人間なんですよ」

 それを聞くと孝標は眉間にしわを寄せた。

「天皇の血筋なら、さらに不適切だろう。親王の立場になる人間が見境なく交わりを持てば、帝の外戚が次々とできるだろう。終まいには外戚同士の争いとなり、国家が乱れるだろう。このことを紫式部はわかっておったのか。いや、わかっていてこの作品なら大したものだ。そもそも、現実の源氏は武士だぞ。実際の源氏をみたことがあるか?光源氏からは想像もつかない屈強な男子だぞ」

 孝標は、十六年間にわたって思うように出世できなかった苛立ちから妻を相手にむきになっていた。最後は妻が食い下がり、上総国には一巻だけ持参することとなった。

 せっかく、全巻収集した源氏物語であったが、再び親類に預けられることとなった。一方、厳しいことを言ってしまった孝標であったが、都と上総の間で税の納付の使者が行き交う際に、一巻ずつ取り寄せてもよいのではと思っていた。


 しかし、今や上総国の国司である。その日の晩、妻の酌で酒が進み、孝標は少し饒舌になっていた。

「そもそも、時代は平氏。源氏物語だとかいうのなら、平氏物語でもよいではないか。なんならわしが書いてやろうか?平氏物語の主人公は光平氏だ。あと、今、思い出した。河内の源頼信はな、髪が薄くなってきてな、烏帽子が頭の上で滑るんだよ。これだと、まさに光の君だな。わっはっは」

 妻も一緒に笑いながら答えた。

「あなた、そんなくだらないことを口にしてますと、もっと遠くの国に行かされますよ」

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