第-2話 巨狼

 来る。

 サイドステップを踏んで一撃を躱す。


 「ハアッ!」


 カウンター。力任せの斬撃を叩き込む。

 しかし、ギリ……と、ワイヤーに刃物を当てた時の様な感触。

 刃は通っていない。


 (今朝研いだばかりだぞ……!どんだけ硬いんだよこいつの毛……!)


 驚愕の思考が途切れる。

 慣性を無視しているとしか思えない軌道と速度の二撃目がシュウの痩躯を襲った。

 

 「ゴガッ!?」


 どうにか爪の直撃は避けたものの、丸太ほどもある前足を高速で叩きつけられた。

 受け身すら取れず、ゴロゴロと地面を転がっていく。


 「グ……クッソ……」


 脳が揺れたか。

 震える足に必死に鞭を打ち、立ち上がる。


 鉄の匂いを感じた。

 手の甲で拭えば、そこには真っ赤な極彩色。

 口の端に当たった不快な味に思わず顔を顰める。 

 

 「鼻血なんて、何年ぶりだったか……」


 思い知らされる。

 苛烈な野生を目の前にした時の、人間の無力さを。

 弱い者は強い者に蹂躙されるだけという、当たり前の摂理を。


 頼りになりそうもない刃物を握りしめる。

 だからと言って、諦めて殺されるわけにもいかないのだ。


 「……ッ、来い」

 

 この怪物相手に先に動くのは悪手。スピードと重量の暴力で一方的に潰される。

 後の先を取る、カウンター狙いで戦うしかない。


 (よし、ある!)


 足元を見ての場所を確認。


 それと同瞬。フェンリルが打ちかかってくる。

 フェンリルの攻撃の起こりを見ると同時に全力で右腕を振るった。

 

 響く金属質な音。

 

 人間の膂力ではフェンリルの膂力に勝てない。

 当然、包丁はシュウの手元から弾かれ、虚しく地面に突き刺さる。


 (だが、一旦これでいい!)


 フェンリルの目が一瞬包丁を追って逸れた。

 そのわずかな時間さえあれば、回収できる。


 刹那遅れて、滑り込む追撃。

 

 しかし、その一撃は血が付着した盾で受け止められていた。

 先ほど殺された兵士が装備していた物である。


 「死体漁りみたいで気に食わねえがな!」


 一手早く。

 そのまま防御しても先の兵士の二の舞になるだけ。

 相手の前脚が加速しきる前に盾で介入する。

 三発、四発と盾を動かし、振るわれる致死の一撃を弾いていく。

 ギリギリの所で、攻防が成立していた。

 

 「ラアッ!」


 弾く。

 前の一撃よりも、さらに強く。

 生じるディレイ。

 

 足元。半分以上勘で爪先を振るう。

 果たして、その先端が柄をとらえた包丁はクルクルと回転しながら飛翔し、フェンリルの眼球に突き刺さった。


 (……ビンゴ!毛で覆われてないそこは柔らかいと思ったんだよ!)


 さらにひび割れた盾を鼻先に叩きつけて怯ませる。


 (盾が完全にブッ壊れたが、もとよりこの一連の攻防ですべて決めるつもり、問題なし!)


 残骸を打ち捨てつつ、もう一本の遺物、剣を拾い上げて跳躍。

 フェンリルの背を利用した二段ジャンプで背後に回る。

 

 敵を捉えようと、フェンリルの首も背後を向いた。

 完全な無防備。

 

 (リーチも十分、このまま落下の威力載せて目玉から脳髄までブチ抜く!)


 堕ちる。

 重力のままに堕ちる逆しまの体を制御し、致命たる一点へと――




 ――パキン、と。

 嫌な音がした。


 振り下ろされた剣先は眼球ではなくその直下の瞼を突込み。得物は、中腹でへし折れていた。

 

 (マジか、狙い外しっ――!)

 

 空中に流れる無防備な肉体。目の前の野生がその致命的な刹那を見逃すはずもなく。


 質量と鋭敏を兼ね備えた一閃が、シュウの臓物を掻き混ぜた。


 「ぅ、あ――」


 斜め下に弾かれたシュウの体が、木の幹に叩きつけられて止まる。

 そこから前のめりに、うつぶせになるように、パタリと倒れた。 

 激しく叩き付けられた脳天からは血が流れ出し、脇腹は大きく抉られシャツに赤黒い滲みがじんわりと広がっていく。


 急速に冷えていく体温と、ぼやけるばかりの視界。 


 腹の底から湧き上がる恐怖の感情でマヒした思考がシュウの脳内をゆっくりと巡った。


 (あぁクソ、視界眩む、立てねぇ……死にたくねェな……というか、そもそも荒唐無稽過ぎたんだ。ここまで全部夢かなんかなんじゃ――)


 それはある種の逃避。或いは防衛機制と称してもいいだろう。

 シュウに向けて振りかざされる確かな死。それは夢と片付けるにはあまりに酷薄極まる現実性を帯びていた。


 「こっち!」


 響く。

 悲鳴のように高い声が泥のように鈍化した時間を破った。

 

 (あ……?ハルカ!?)

 

 声の主はハルカ。

 声量がフェンリルの気を引き、死滅の一撃はシュウの肉を引き裂く寸前で止まった。

 眼の前の獲物はいつでも殺れると判断したのか、シュウに背を向けたフェンリルが、猛然とハルカの背を追い始める。


 (……よしッ!釣れたッ!)


 ハルカのダッシュより、フェンリルの四足の疾走の方が何倍も早い。

 瞬く間に間合いは詰め切られ、一撃がハルカの背中に吸い込まれた。


 「あぐっ……!」


 服ごとハルカの背中が切り裂かれ、鮮血が散る。


 (痛っつ……!けどまだ走れる!今は一秒でも長く動いて時間稼ぎを……!)


 そこまで考えて歯を食いしばる。

 シュウがフェンリルとの交戦を開始した時、ハルカは動けなかった。

 恐怖に。我が身可愛さに。

 そうしてシュウは脇腹を抉られた。


 不甲斐なさといら立ちで心臓を握りつぶされるような錯覚に囚われる。

 

 足の動きが鈍った一瞬、再び一撃が背中を裂いた。


     ◆

 

 「フッ……グッ……ハッ……」

 

 浅い呼吸。

 シュウの口から呼気が漏れた。

 細い体に張った筋肉から徐々に力が失われていく。

 末端が冷え、もう既に右手の感覚はその身にない。


 (バカか俺は……!カッコ付けて立った癖にいざ自分が死ぬ段になったら夢だなんだと逃げて、自分の恋人一つ守れず、危険を押し付けてるなんて、情けないにも程がある……!)


 まだ感覚の残る左手で地面を必死に掻く。

 柔らかい地面が男の割にしなやかな指先で抉れ、数条の跡が残された。


 ただ、それだけ。

 片腕の腕力一つでは体を起こすことすらままならず、引き攣るように震える下半身は言う事を聞かない。


 (クソッ……が……!立て……!立たせてくれ……!今立てなかったら取り返しのつかないことになる……!)


 いつも春の日だまりのように微笑んでいたハルカ。

 幸せでいてほしいと、側にいてほしいいと、そう願って止まないただ一人の恋人。

 考えただけで吐き気がする。彼女のいない世界など。


 藻掻く。

 足掻く。

 虫のように。

 百足のように。

 「……?なんだ、コレ……」


 這いつくばる体勢的に必然、視線が左手に向く。

 地面に押し当てられた左の掌。

 そこからは赤と黒を混ぜた色の糸のようなモノが生え、有機的に、生命的に、蠢いていた。


    ◆


 低く唸る爪が、ハルカの足首を削いだ。


 「あぐッ!」


 そのままバランスを崩し、地面に転がる。

 それまでどうにか致命傷や走れなくなる手傷だけは紙一重で回避していたものの、事ここにきてとうとう機動力を奪われた。


 抜けるように白い素肌は傷が幾重にも刻まれ、薄青のシャツと黒のパンツには赤い血がべっとりとこびりついている。

 

 「美人も形無しだなぁ……これじゃ……」


 空気と諦観が入り混じった溜息がハルカの唇から漏れた。


 (これは、助からないか……動けないんじゃしょうがない……)


 あれだけ身を縛っていた恐怖は、今はもう無い。それどころか、満足とすら言えるような心持ちだった。

 しかし、それでなお胸に去来するは極小のわだかまり。


 (あぁ、けど最後に)


 「シュウくんの顔が、見たかったなぁ……」


 どこにも届くことなく、空に声は消えた。

 ——しかし、それを合図に。


 バキリィッ!


 耳障りな音を立てながら、頭上の枝葉をブチ抜いて、人影が降りてくる。

 一人と一体の間に介入した闖入者は、空中でその背から生えた太ましい三本の異形——触手を振りかぶり、全力で目の前の怪物に叩きつけた。


 どごん、と地を揺るがすような轟音が鳴り響き、正面からまともに受けた狼の体躯が大きく崩れる。


 舞う砂塵。

 蠢く触手を触手から生やしたそのシルエットは、ハルカの水晶体には片翼の天使のように映った。

 

 靡く風。

 砂塵が晴れる。

 

 その向こう側、佇んでいたのは、紛れもなくシュウ――ハルカの恋人だった。


 「シュウ、君……」


 思慕、驚愕、安堵、様々な感情がないまぜになった音が声帯から漏れる。


 シュウはそんなハルカを一瞬だけ見つめた。どこまでも真っ直ぐな光を称えた、黒い瞳。幾度となく見慣れた瞳。


 そして、目の前の敵に向き直り、告げた。右手が誘うように揺れる。

 

 「――喰ってやるよ、クソ狼」


 

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