第-3話 re:life

 阿部修アベ・シュウにとって、この地に於ける最初の記憶とは、「血」であった。

 見渡す限りの血、肉片、臓物。草原の上に撒き散らされた酸鼻極まる死の数々。

 眼前に現出、具現した屍山血河それそのもの。

 

 

 崩れ落ちそうな世界の中で、隣に感じる柔らかな温もりだけが彼を繋ぎ止めていた。

 

 ――原色で塗りつぶされた風景の中で、惨劇の巨狼が吠える。


     ◆


 状況は少々遡る。

 シュウは仰臥の体制で、見知らぬ森林の中にいた。


 (なんだここ……森?状況飛び過ぎだろ……確か、おやっさんの店からでて、最寄りの駅から電車に乗って……そん中でハルカと合流した途端に電車がメチャクチャ揺れて……)

 

 高い空を塞ぐ木々を見つめるシュウの視線が何かに阻まれた。


 「ん、シュウくん、おはよ」

 

 碇悠イカリ・ハルカ。恋人同士、というのがこの二人を表す言葉として最も相応しいだろう。

 木漏れ日を受けて温和な光を放つ瞳が、彼を静かに見つめる。

 短めに切りそろえた癖っ毛の黒髪が、風に吹かれて優しく揺れた。

 

 「もう、相変わらずねぼすけさんなんだから。あんなことがあった後だし、知らない場所にいるしで心配したんだよ?」


 「悪い悪い」


 一人で立てるんだけどな、と少々照れくさそうに苦笑しながら、差し出される柔らかな手を掴んで立ち上がる。


 「おわ~……すごい景色だね~」


 「あぁ……」


 樹林、であった。

 数限りなく生えた高木の類が視界を阻む。

 上から差し込む自然光が、景色に濃淡をもたらす。

 足元は柔らかな土と、びっしりと生えた草に包まれ、踏みしめる度に小気味のいい感触が足裏から伝わる。

 息を吸い込めば、木草と土が混然一体となった匂いが鼻腔を刺激した。

 マイナスイオンを感じるような景色とは、こういうものを指すのだろう。


 総じてその様は文明とは縁遠く、直前まで二人が存在した現代日本では、最早お目に掛かることが難しいレベルの見事な森林であった。


 「どこなんだろうね、ここ……」


 「さぁ、な。少し歩いてみて周囲を探索してみるか……」

 

 森の中を分け入って歩いていく。

 

 二人が少し進んだ先、巨大な石碑のようなナニカが立っていた。

 幅3m、縦5mほどの長方形の姿をしたそれは、地面に斜めに突き刺さるようにその身を固定している。


 「なにこれ……」


 「モノリス、ってか……?」


 正面に立ったシュウが訝しむように呟く。

 

 「ん、なんか刻んであるな……文字かこれ……?にしては見覚えがない形ばかりだけど……」


 石碑の表面に違和感を覚えたシュウが、石碑に一歩近づこうとしたとき、足元からカラン、と音が鳴った。

 咄嗟に首を動かせばそこにはフィクションでオーソドックスな木製盾と両刃の片手剣。

 どちらにも変色し、乾ききったた血が付着している。

 

 (目を覚ませば見覚えのない森、石碑に刻まれた見覚えのない文字、まず現実でお目にかかることはない剣と盾、状況証拠的には十分だが……こんなこと本当にあるのか……?)


 シュウの趣味は読書である。かなりの乱読家で、仕事で使うレシピ本を筆頭として、新書、経済書、歴史書、哲学書、古典、サスペンスにクライムものとジャンルを問わずになんでもかんでも読み漁る。

 その中には、当然、ライトノベルと呼ばれるジャンルに区分されるものもあり、そのジャンルをさらに細分化したものの中に、この状況を端的に、過不足なく、説明できるものがあった。


 「した……ってコトか?ンなバカな……」


 「異世界転生って最近アニメとかで出てくるアレ?」


 「そう、アレ」


 まさか自分が同じようなハメに合うとは……という感情と、もうちょいこう事前説明とか、チュートリアルウィンドウとか色々あるだろう!という不満などその他諸々が脳内をグルグルグルグルと駆け巡りながらも、その実、脳のリソースの半分は一つの事象に割かれていた。


 (異世界……というかファンタジー世界では魔物とか怪物とかは付き物……装備品についてた血を見るに、この世界にも当然存在するし、どうもそいつらは簡単に対抗できる雑魚ってわけでもないらしいな……キナ臭ぇ……)


 シュウの脳内で今おかれている状況に対する警戒度が一段階上がる。


 とりあえず町まで辿り着いて、拠点を確保、身を守る武具防具の調達までが第一優先か……と思案を纏め、それを物珍しそうに見物を続けるハルカにも共有しようとした、その時。


 梢が揺れ、木々の隙間から重武装の兵士数人が姿を表した。

 総身は鎖帷子と鉄板を組み合わせた重厚な鎧で覆われ、その手には両刃の剣やショートスピアなど、いかにもファンタジーと言った風体の武器が握られている。


 「すいませ〜ん!ちょっと道に迷ってですね、兵士さんここどこか、教えてくれませんか?」


 ハルカが兵士達の先頭に立つ男に近づきつつ口を開いた。 


 「……チッ、ク――『漂泊ワンダ——め、寄るんじゃ――」


 しかし、その兵士は何事か押し殺した声を漏らしながら後ろに後ずさりしていく。


 「ん、どうしたんですか?」


 男の異様な態度を訝しんだハルカが詰めより、フェイスアーマーの内側の顔をじっと覗き込んだ。


 兜のひさしのそのまた奥。切れ長の眼球に反射した感情の色彩は。

 

 ――紛れもなく、恐怖。


 「えっ……?」


 流れる困惑は一瞬。兵士の右手に握られた剣が握り直されガシャリと音を立てた刹那。


 「グォォオオオッ!」


 大音声が空間を切り裂いた。

 

 「危ねえ!」


 シュウがとっさに飛び込み、ハルカの体を強引に押し付けて屈ませる。

 頭上、20cm。風切り音と共に色付きの風が通り過ぎた。

 

 「クソ!」「とんでもないモン出しやがって、バケモンめ!」


 男たちが口々に罵りながら、襲撃者に各々打ちかかっていく。

 

 シュウとハルカの背後から姿を表した襲撃者。その全体像は、頭頂部の高さが3mほどにもなる巨大な狼だった。毛皮の色はくすんだ白。太く、たくましい足の先端には、藤色に艶めく鋭い爪。

 

 フェンリル。現実においてはその由来を北欧神話に持つ狼の怪物。巨大な爪と牙を武器とする。

 神代最大の厄介者トリックスター、悪神ロキが女巨人アングルボザとの間にもうけた三兄妹の長子で、彼の次にヨルムンガンド、ヘラが続く、なんて出自は、この世界の彼に通用するはずもない。


 そして巨狼は、次々に振るわれる得物を羽虫か何かのように煩わしげにその体で受け止めると、右前足を振り上げ―― 


    ◆


 ――そして、今である。


 まず最初に、重厚な剣斧を握る男が死んだ。

 握る武器の取り回しの悪さ故に防御が間に合わず、隙だらけの体を鎧ごと引き裂かれた。


 次に剣と盾を装備した男が死んだ。

 長柄武器の男を切り捨てた巨狼は、まるで慣性など知らぬと言うが如く、初撃の斬撃方向とは真逆に回転して攻撃を見舞った。

 物理を無視する超常の膂力の前では、剣も盾も紙切れ同然だった。ヘルムに包まれた首が高く舞い上がり、落ちた。


 そこからは早かった。

 その二名が前衛だったのだろうか。反撃は愚かまともな防御、更に言えば逃走すらままならず、牙に、爪に、純然たる野生の前に、血を流し、命を散らし、倒れ伏した。


 ――悪夢の46秒。

 それが、彼ら全18名を全滅させるまでに、フェンリルが消費した時間である。


 鏖殺を為した眼が、静かに二人を見つめる。

 血に飢えた獣。

 鋭利すぎる眼光の先は、次の獲物を示唆するようで。


 「……ぁ」


 体が動かない。

 突如として目の前に現出した関わりのない辺獄の景色。

 怯えが、氷のように全身に染み込む。

 動けない。

 

 「……ハッ」


 心臓の一鼓動すら死に直結するのではないかとすら思える極限の圧力の中、意識して息を吐きだす。


 瞬間、袖が、きゅっと絞られる感覚を覚えた。

 振り向いたシュウの視線の先、ハルカが袖を握っていた。

 目の前の冷たい血の川とは違う、生者の体温が流れ込んでくる。


 ――それで、ただそれだけで、十分に過ぎた。

 仄かな体温が、全身を縛り付ける氷塊めいた戒めを解く。


 「ウ、オオォォォォッ!」


 裂帛。

 自らを鼓舞する気合と共に一歩前へ。

 血河の最中、踏みしめられた赤が飛沫を散らす。

 降る死の爪を反射神経だけでどうにか躱し、飛び上がった狼の下に潜り込む。


 「ウ、ラァ!」


 無防備な腹にアッパーカットの要領で左手を叩き込む。

 だが、効果なし。

 交錯の一瞬、こちらを睨みつける眼光に沿うようにして横ざまの斬撃が振るわれた。


 「……ッ!?」

 

 飛びのいたもののジーンズとその下の皮がすっぱりと裂けた。傷跡から血が垂れる。これくらいで済んでるのが奇跡、というべきだろう。

 殴るなんて不慣れなことをしたせいで左腕が痺れる。おそらく満足には動かない。


 痛い。痛みが彼の記憶とリンクし、シナプスを発火させる。

 

 (痛ェ……包丁で手ェザックリ切った時もこんなんだったっけ……包丁、そうか、おやっさんの店からの帰りだから持ってるか……)


 腰に巻いたポーチを乱雑に開ける。

 電車内への持ち込み基準を満たすべく何重にも巻いた新聞紙を破るように取り払って、右手で静かに構えた。


 シュウは料理人である。最も、「見習い」の接頭語が付くが。

 今日もおやっさんと慕うある板前からの教えを請いに出向き、その帰り道で転生に巻き込まれたのだ。


 いつの日か一人前だとおやっさんに認められて、ハルカにプロポーズをする。それがシュウの目標だった。ハルカは、恐らくそんなことをしなくてもシュウを受け入れるだろう。だが、それは本人の矜持の問題だった。


 そんなチンケな目標すら果たせないまま、こんな森で、バケモノに殺されて、果てる、なんて、それは、それは……


 痛みで萎えた四肢に闘志が宿る。

 

 (死ぬわけにも殺させるわけにもいかねェ……!)


 (包丁の扱いはまだまだ未熟な上にこんな武器としての使い方なんざ一切の未経験。素人が刃物構えたところでナンボのモンだよって話もあるが、今はこいつに頼るしかねえ……!)

 

 これまでの人生、日常の中で、一度も直面したことのない危機危険。

 その面を蒼白にし、冷や汗を際限なく垂れ流しつつも、シュウは今、確かなある種の実感に包まれていた。


 (あぁ、俺は、本当に、異世界に転生したんだ――)

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